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目の前を覆うように、深い谷間がゆらゆらと滑らかに揺れていた。晃流は視線を背け、自分付きの老婆が入れてくれた茶をゆっくりと口に含む。
「疲れたか」
少し心配そうな顔で覗き込んでくるのは、イルデブランド国女王アレシア・クロエである。すでに中年といってもいい年齢であるが、独身であるせいか、または置かれている立場からくる自意識の高さのためか若々しく美しい。特に先ほどから遠慮なくさらされる形のよい豊満な胸の膨らみを見せつけられることは晃流にとってはある種拷問に近いものがある。
「女王様。ちょ、それ、いつももっと隠してって言ってるのに。絶対わざとでしょ」
「女王たる私は身近に年若い異性を置かないからな。見慣れぬ男の反応が愉快でついからかいたくなる」
ちらりと扉の前に控えるエリアスを見る。哀れなことに、女王の一番近くに身を置いているはずのこの男は、彼女にとっては異性の数に入っていない。それを察して晃流は頭を掻いた。
一週間ほど一緒にいるだけではあるが、大柄で朴念仁ともいえそうなこの男が女王に対して抱いている気持ちは意外と分かりやすかった。しかし随分と堅苦しいこの国の男女倫理感に於いて、それを直接伝えることは困難を極めるようだ。
婚前交渉が禁じられているというイルデブランドの女王は、生まれた時から必要以上の男性との接触を禁じられていたらしい。もちろん性教育など受けたことはない。それどころか恋愛に関する書物も読んだことはないという。
年の離れた兄がおりいずれ王家から籍を抜かれることが決まっていたアレシアを、子煩悩な王は手放したがらなかった。そこで当時国内の貴族の中でも有数の財力を誇り、かつ家長が名誉騎士団長の職にあったアドラー家に任せることにした。そうすれば嫁いだあとも好きな時に城に呼び寄せることが出来るからだ。
その名誉騎士団長の長子がエリアス・アドラーである。十一も年が離れているというのに、父王には関係がなかったらしい。アレシアが十五、エリアスが四つの年に正式に婚約がなされ、それからはずっとアレシアの側にエリアスがいた。
しかし婚姻を結ぶ予定であったアレシアが三十の年に父王が崩御し、兄がその座に即位した。式典法に則って二年の間喪に服し、再び婚姻式を行おうとしたその年に、今度は戦争により兄とその妻である王妃が暗殺された。兄王夫妻にはまだ子がなかったため、以後七年間アレシアは女王としてこの国を治めている。王となった以上、達さねばならぬ目的が出来たために婚姻を先延ばしにしていたという。
「おかげで女王だというのに行かず後家というものになってしまった」
アレシアは笑うがこの国が当時置かれていた状況は深刻だった。前王の崩御により戦争は終結し、対峙国であったフォルスブルグエンドからの温情によって支配下に置かれることは免れたものの、一旦崩れた国を立て直すことには並々ならぬ労力が必要となった。
エリアスの家を含めた貴族や商人たちは国の為に多大な寄付を納めたが焼け石に水のごとし。ただ、この国には豊富な鉱山資源があった。戦争以前はその価値を知らなかったイルデブランドであったが、フォルスブルグエンドの王子エルヴィラとの度重なる復興支援交渉の中でそれを利用した貿易外交を求められ、鉱石や燃料資源の発掘が進んでいく。市場価値の高いそれらにより国は徐々に復興の兆しを見せていった。
しかし一見他国よりも有利に見える資源産出国には別の大きな問題もあった。鉱山を開き、油田を管理するためには働き手が必要だ。割がいい鉱夫の仕事は戦後の職にあぶれた人々に受け入れられていくが、反面戦により焼かれた農地を手放す者が増え、元々西に広大な砂漠を有するこの土地の食物時給率は著しく下がっていった。
どれだけ外貨を稼いだところで、食料が手に入らなければ人は生きてはいけない。結局海産資源と肥沃な土地に恵まれているフォルスブルグエンドに有利な条件で貿易条約は締結せざるを得ず、実質的には支配下におかれているものと何ら変わらない状況となっていた。
「フォルスブルグエンドがバロックという人種を血眼になって探しているという噂を聞いてな。腹いせにちょっかいを出してやろうと思ったのだ」
腹いせで外交問題にされても困るんだけど、と巻き込まれ型の被害者となった晃流はため息を吐くが、女王の悪びれない態度は憎めなかった。
「ヒカル、勉強はここまでにしよう」
辞書や筆記具を簡単に片づけながら女王は席を立つ。それに呼応するようにエリアスも動き出す。置かれていた物の無くなったテーブルの上に代わりに大きな地図が広げられる。
「まずあの日のことを浚おう。ヒカルが倒れていたのがここ、フォルスブルグエンドの国境の森の西の外れだ。主要地が近い場所にはきちんと壁が作られているのだが、ここはそんな必要がないくらいに寂れた辺境だ。一応駐屯地となってはいるが、ほとんど飾りのようなものだな。町までも遠く、仕事といえばたまに出る場違いな賊に、獣の討伐、そんなものだ。しかしここでの任期を終えれば中央の隊への配属が約束されているので赴任希望者は多い。リオという娘とアオイという者がいたのが少し離れたここ。駐屯地側にはこちらの方が近い」
エリアスがゆっくりとこの国の言葉で話す。アレシアが対訳をしてくれるので主要な単語を頭にたたき込みながらヒカルは自身が拾われたときの状況を理解しようと努める。
「バロックが現れるのは大抵一人ずつだと聞いていたので私一人で向かった。陛下のお考えを易々と他言するわけにはいかないのでな。君は意識がなかったので連れ出すのはたやすかったが、娘子等は目覚めていた。言葉が通じないのが分かっていたし、弁明はこちらに連れてきてからでも良いだろうと思い少女には少し乱暴な扱いをしてしまった。とにかく早くあの場を立ち去る必要があったせいで私も少々気が急いていたからな。君の大切な女性と友人には無用な不安を与えてしまったことだろう。大変申し訳なく思っている」
この大柄で浅黒い男は、そんな大層な見かけによらず細やかな心遣いをする。
「あー、確かに莉央ちゃんは気が小さいから怖かったかもしれないですね。でもまあ言えばわかってくれるんで大丈夫ですよ」
言いながら未だ腕の中に残る気がする莉央の温度を思い出す。あのときすっぽりと胸に収まった一つ下の幼なじみに対しての気持ちは、会えない期間を経て少しずつ膨らみつつあった。もっとも恋心というものなのかは定かではない。大きくなるこの気持ちが、ただ見知らぬ土地で難儀しているであろう莉央を心配し、守ってやりたいと思う庇護欲のみで満たされている可能性も高い。
けれども手元に置きたいと思うことに代わりはない。日々悪評を耳にするフォルスブルグエンドの王子、エルヴィラの元にいると思えばなおのことだ。
葵は何とでもなるだろう。交渉ごとに対するそれなりの術は身につけている。少なくとも理不尽を黙って受け入れはしないはずだ。しかし莉央にそれが出来るとはどう贔屓目にみても思えない。せめて一人引き離されたのが自分で良かったと晃流は自身を慰める。そうでなければ気がかりが重すぎて胃がおかしくなりそうだった。
「リオは晃流の決まった女性だと言うことだったが、もう一人のアオイと言う者はどうなのだ。一緒に居て大丈夫なのか」
政治的な話を女王はそれほど好いてはいない。エリアス・アドラーはその唐突な話題の変換に小さく眉をひそめたが、アレシアは意に介さず、興味深そうな眼差しで晃流に問いかける。
「大丈夫って?」
「取られる心配はないのかということだ」
下世話な好奇心をぶつけられるのは慣れている。つき合った相手がそこそこいる晃流に対して、男女の区別なく聞く者は少なくなかった。そういえばアレシアと年の近い莉央の母親もこんな話が好きだったと思い至り笑みが浮かぶ。
「んー、どうかな。ヤバいかもしれない」
「ヤバいとは?」
「危ないとか、危険って意味ですかね」
莉央と葵が互いに意識しあっていることはすでに気づいていた。方向性はともかくとして、常にその思考の片隅にある互いの存在。それはなにがきっかけで変化するかわからないほどに危うい綱を渡っているのと同意であることを経験上晃流は知っている。
元々三人一緒にいた幼い頃でさえ、晃流は兄、葵は異性として莉央から扱われていることを自覚していた。もっともそれを本人たちは気づいてなどいなかっただろう。あの二人は互いに他人からの好意に疎い。莉央の場合は主に男子にからかわれていたせいで特に異性からの好意に気づきにくく、また葵の場合は男兄弟のがさつさから異性の感情の機微を読みとるのが苦手なせいだ。そのために高校に入ってから少なくとも二回、葵が彼女を作るチャンスをふいにしていることを晃流は知っていた。余計な口出しだと言われることがわかっているため、本人には言ってはいないのだが。
「なんだ晃流、君のパートナーはそんなふしだらな娘なのか」
思いがけなく真剣な顔をされて晃流は慌てた。端からみればそうとらえられるのかと自分の理解の甘さを悔やむ。
「そうじゃなくて」
弱ったな、と頭を掻く。面倒で莉央との関係をしっかりと説明していなかったのが悪い。どういう経緯でつき合っているのか、互いの感情がどんなものなのか。そこにここまで食いつかれるとは思っていなかった。
「実は俺と葵は勝負をしていたんです」
ええい、やけだ。吹っ切れた途端饒舌になる。
「俺も葵も彼女のことが好きで、でも莉央ちゃんは気を使って、どちらも選べなくって。だから彼女がいないのを良いことに俺の願望を交えてました。何となく流れでつき合ってはいるけど、ほぼ俺の片思いです。莉央ちゃんはふしだらとかじゃなくて、俺たちのこと、二人とも大事に思ってくれているんです」
なんだそれは、と自分でも突っ込みをいれたいお粗末な弁解に言い終わる頃には地味に落ち込んでいた。これでは晃流は単なる妄想過多の、いわゆるイタい男である。だがそんな言い訳でも、年かさなこの女性には効き目があったらしい。
「ふむ、なかなかの悲恋だな」
今の話のどこに悲を感じたのか、いささか謎ではあったが、莉央の名誉は守られたらしいことに安堵する。が、それは一瞬で終わることとなった。
女王の様子がおかしい。ねっとりと絡みつくような視線で晃流を舐め上げ、次いで先ほどから気になって仕方がない、しかし努めて意識をしないようにしていたたわたな膨らみを見せつけるように距離を縮めてくる。
「あの、これ、ヤバいんですけど」
「ん? 危険なことなどないだろう」
女王にとってはそうだろう。噎せかえりそうな女性特有の空気を纏っていても、屈強な騎士のいる横でそこに手を伸ばすような馬鹿はそうはいない。もちろん晃流にもそんなことは出来ない。だが男の生理は、そんな状況など関係ないかのように熱を集め、主張を始める。
「何か、問題でもあったのだろうか」
これが意図的なものでないはずがない。とぼけていかにも含みなどないように装う真意を図りかねる晃流に出来ることといえば、その横に立つ無表情の男に視線で助けを求めることくらいのものだ。
だがその視線の先にいるエリアスは口を開く前に部屋に響いたのはアレシアの豪快な笑い声だった。
「陛下、もう少しお声を落とされるべきかと」
「すまない。あまりにおもしろくてな」
咎めるエリアスなど気にも止めぬ様子でひとしきり笑った後、からかわれたことに憮然とする晃流の顎を一撫でし「そなたは素直だ」、その言葉を置き土産にアレシアは部屋を出ていった。
それを追うために慌てて片づけを始めたエリアスの手を制し「やっておきますから」と後を引き継ぐ。拗ねているのを隠しもしない晃流に目の前の大男は「陛下に悪意はないのだ」と女王を擁護する。
「しっかり掴まえておいてください。悪意がないなら危なっかしすぎるよ、あの人」
「すまない。善処する」
堅苦しい言葉と共にアレシアの後を追い部屋を出た無愛想な背中を見送った晃流は、嵐が過ぎて静まり返った部屋のベッドに身を投げ出し、深いため息をついた。
「莉央ちゃーん……、俺、マジでヤバいかも」
男を知らなくとも、女は女だ。年を重ねればそれなりに自分の見せ方を心得る。そのなかでもこの女王のものはたちが悪い。それこそ男慣れしているのならば晃流としてもそう割り切れるだろうが、そこかしこで少女のような反応を見せつけられればそのギャップに戸惑ってしまう。
莉央を葵に取られはしないのかと問うたときの真剣さや、エリアスの感情に全く気づかない鈍感振り。それは恋情というものが身近ではないために違いない。
「それにしたってあの人、色々反則なんだもんな」
目を閉じて浮かべるのは、アレシアとは真逆の、幼さゆえの清潔感を残す莉央の顔立ち。男としての卑しさを散々自覚させられた後では本人を直視できないであろうと思われた。それでもほんわりと温かい何かが胸を満たしていく。が、次いで頭に浮かんだのは、厚い冬服の下からでも十分に存在を主張していた二つの膨らみ。途端体が熱く疼き、晃流は驚いて跳ね起きた。
「これ、もしかしてギャップ萌えってやつ……?」
はは、と乾いた笑いを浮かべたあと、再びベッドに勢いよく身を投げ出すと晃流は頭を抱え、羞恥に身を震わせ小さく縮こまった。幼なじみの二人と再会したとき自分が何を思うのか。それを考えることがにわかに苦痛を帯びてくるのだった。
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