※※※



「詰まらぬ」


 窓からの採光は既にない。しかし室内を照らし出す蝋燭の明かりは他の部屋に比べ格段に多く、既に夜の帳が下りたというのに、その闇の色の進入を妨げている。そんな中、莉央の前でエルヴィラははっきりと失望を見せて呟いた。


 目線を遮る余分な隔たりは、ディノの言葉を借りていうところの「つつがなく行為が行われた」と周囲が認識した翌日から互いに外している。莉央が対外的に王子に仕える女性だと認められた以上、儀礼的に意味のないものとなったからだ


 至近距離からじっと見つめる藍色の瞳は相手を引き込む力強さを持っている。国民に慕われる王子のカリスマ性を十二分に感じさせるその眼力を、わざわざ隠さねばならないほどの引力というものを莉央はまだ計り切れていない。しかし王子に対して城内の女達が、地位以外の何をこの瞳に求めていたのかを推察することは容易だった。目隠しを外したエルヴィラの素顔は、それほどまでに整ったものだった。


 しばし逸らされることのなかった藍がようやく横に流れる。それを合図に莉央も視線をずらしていく。


「なぜ顔を背けぬか」


「これだけ毎日同じことを繰り返されれば、さすがにもうご期待には添えません」


 王子の私室の、まるで水の中に身を投じたのかと錯覚するほどに柔らかいソファの座面の上で片方はふてくされ、もう一方は困ったように微笑んでいた。それは三週間ほど前には考えられなかった光景である。


 莉央とエルヴィラの間は、ある一定の距離を残してそれ以上狭まることがない。連日の接見の度に繰り返されるソファの背もたれに埋もれながらの王子からの抱擁。そして頬に吐息が触れる距離での囁き。たとえば指が顔に触れることはある。いたずらに撫で回されることも。しかしそれ以上を意味する行為には繋がらないことをこの数週間で莉央は学んでいた。


「エルヴィラ様は、私が戸惑っているのをご覧になるのがお好きなだけでしょう?」


 以前よりは言葉も砕け、多少の軽口も許される。初めての面会のときを思えば関係は格段に良くなっていた。


「ふん」


 エルヴィラは鼻で笑い、元から僅かだった距離をさらに詰める。今日はまだ直に触れることの無かったなめらかな指先の感触を莉央は頬に感じる。力が加えられ、心持ち上にすくいあげるようにされたせいで顔が持ち上がった。先ほどまで拗ねたような子供っぽい表情を覗かせていたエルヴィラの意地悪く上げた口角に角度がつき、それがゆっくりと開かれていく。さすがにこれにはぎょっとした顔をした莉央が後ずさり、エルヴィラは満足げに微笑んだ。


「私をあしらえるなどと思うな」


「……」


「なんだ、不満だったか」


「……」


「仕方ない。そんな期待に満ちたまなざしで見つめられては、それに応えないわけにもいかぬか」


 無言を貫き通していた莉央がたまらず逃げようと立ち上がりかけるがたやすく手首を掴まれ再びエルヴィラの広げた腕の中にになだれ込む。


「君は重いな」


「……!」


「どうした、顔が赤い」


「……!!」


「何か言いたそうだが」


「……私の負けです」


「そうだろう。君程度が私に勝てるはずもない」


 薄く笑う、そんなエルヴィラの表情に対し今までとは違う感情が沸き上がる。きっと出会ったばかりの頃であればその笑みすらも莉央を脅かす材料となっていたはずだ。それほどにこの国の王子を取り巻く雰囲気は冷たいものであった。


 慣れた、というだけではない。エルヴィラに対する不快感が薄れたのは間違いなく、同じ風貌を持つこの王城の住人のおかげに違いない。


 ヤンナの背を追ったあの日、迷い込んだ先で会った、大きな月の光を背に受けて涼しげな目元を細めた男は、自身のことをマベルと名乗った。


「あなたのことは聞き及んでおります。リオ様、異なる世から参られた建国の徒よ」


 まるで音楽を紡ぐかのようにこぼれる言葉。その日つい数時間前に聞いていたのと同じ声のはずなのに、耳に残る響きはまるで違っていた。


「あなたは、王子様ではないのですか……?」


 半信半疑な莉央に目の前の男は再び「私はマベルです」と笑いかけた。


 マベルという名は記憶にも新しい。王子から聞かされたばかりだ。しかし人の名前ではなかった。建国神話に記された力の名称。


 男はふと視線を逸らす。月光の影がその表情を曇らせたように見えて、莉央は少しの不安を覚える。


「私とエルヴィラ様は似ていますか?」


 逸らされた視線の意図が分からないせいで不安が増した。そもそも莉央自身がその場にいて良いものかどうかも理解していなかった。相手の挙動の理由が見えなければ、一つの安心材料にもなりはしない。だからこそ下手な反応をするわけにはいかない。そう考え覚悟を決める。


「はい。見た目はとても」


 慎重に声を発した。


「見た目だけ?」


 マベルと名乗った男は淡々と問う。自ら聞いたにも関わらず、その答えにはさほどの興味もなさそうだった。


「表情や話し方はあまり似ていません」


 事実、力強く尊大で威圧的なエルヴィラに反して、目の前の男は吹けば飛ぶような弱々しい佇まいである。声も話し方も柔らかくゆっくりと丁寧で、リラックスした笑みに相手を圧倒するような力はない。


「それは、残念です」


 そのまま後ろを向き、月を見上げた背中が寂しげに見えて戸惑う。なんと答えるべきだったのかが分からない。けれども答えほど残念がっている様子もない。


「マベル様」


 莉央はそっと名を呼んだ。敬称があっているのかどうか分からない。だが王城内に部屋を構える相手だ。それなりの身分があるのだろうと推測する。


 外気は肌に冷たく澄んでいる。音を立てれば遮るものもなく、どこまでも駆け抜けていってしまいそうだ。そう思えば自ずと囁き声になった。けれどもそれが当たり前であるかのように、僅かな声に耳を傾け振り返るマベルの様子が莉央には妙にしっくりきた。正解だったのだとほっと息をつく。


「ここは冷えるでしょう。あちらでお茶をいかがですか?」


 突然の誘いに莉央は戸惑った。恐らく相手に敵意はない。莉央のことを知っている様子だし、どちらかといえばこちらを気遣う様子を見せる。少し迷ったが、素直に甘えることにした。確かに室内からそのまま出てきたので、着ている服だけでは冷気を遮ることができない。


 少し奥にいくと真っ白に塗られているガゼボがあった。中央にテーブルと、椅子が二脚置かれていてもまだ人の通るスペースがあるのだからそれなりの大きさだ。周囲を揺らめく火に囲まれており、明かりと、暖を取るにも十分だった。


 勧められるままに椅子を引き腰掛ける。テーブルの盤はモザイク画になっていた。もう何度も目にした建国神話の中でも見覚えのある画だ。モザイク画と言うよりは砂絵に近いのかもしれない。このサイズで城の入り口にあった絵をそれと分かるように再現しているのだから、作成者にとっては途方もない作業であっただろう。莉央が感嘆の息を漏らしたのをマベルは聞き逃さなかった。


「それを作ったのはバロックです」


「え?」


「バロックはそれぞれに不思議な力を持っています。これを作った者もそう。法則があるのかないのか、それは分からないことですが、それぞれの個性が強く反映されるようです。彼は、顔料を含んだ鉱石を瞬時に微細な粒に変え、思い通りに配する術を心得ていたそうです。貴女は、どんな力をお持ちなのでしょうね」


「わたしは……」


「インタージャー、建国の徒よ。願わくばこの国に平穏を。あなたのお力はそれを成し得る尊きものだと聞き及んでおります」


 言いながら跪き莉央の手を取る。その甲を額に当てる仕草は流れるように美しく優雅だ。莉央は慌てて椅子を下り、その前に両膝をついた。マベルはそれを不思議そうに見る。


「あの、私にはそんな大それたことは出来ません。まだ何の力も使えないし、本当にインタージャーっていう保証だってないです。だからそんな風になさらないでください」


「お辛いでしょうか」


「え?」


「目に見えないものを求められることは」


 莉央は曖昧に笑ってみせる。確かに自分でも分からない力を求められて、しかもそれに応えることの出来ない現状は辛くない訳がない。ただそれをうかつに認めるわけにはいかない。


「どうしていいか分からなかった私たちを保護してくださって、そのうえ色々なことを勉強させていただいています。とても感謝しています」


「エルヴィラ様は、貴女の力について何かおっしゃっていましたか」


「……はい、少し教えていただきました」


 一足先に立ち上がったマベルは莉央の手に両手を添えたまま軽く引いた。導かれるまま立ち上がり、脇にある椅子に腰掛ける。それを確認した後、マベルも反対側に置かれた椅子に座った。テーブル上に置かれた小さなベルを振るとくぐもったような丸い音が響く。


「それについてどう思われましたか。何か感ずるところはあったのでしょうか。求められることに応えられると思えましたか」


「……それは、まだ、私には……」


 この場で迂闊なことをいうわけにもいかず言葉を濁す。今一番の懸案材料に顔を曇らせる莉央にマベルは他愛ないことのように柔らかく笑いかけた。


「リオ様、絵を描くことはお好きですか」


「はい。好き、ですけど……」


「このテーブルの細工をしたバロックも生業は絵描きだったそうです。この色を見て、何か感じたことはありませんか」


 一つ、明らかな特徴を見つけていた莉央は少しの逡巡の後口を開いた。


「私が見た壁画と題材や構成はそっくり同じのようですけれど、色合いが違うようです」


 先ほどマベルの鳴らしたベルで呼ばれた従者らしき男性が二人の前に湯気の立ったティーカップを置いた。礼を言おうと何気なく見上げた莉央の瞳に動揺が走る。


「ヤンナ、さん?」


 追っていたはずの人物にも関わらず気安く声をかけられない。マベルと同じように、見知った顔と似た別人なのではという考えが脳裏をよぎったせいだ。男性が身に纏うものは莉央にとって見慣れているいつもの軍服のようなかっちりとした衣装ではなく、ディノやユーセイなど内務に属する人物と同じような、体の線を隠すゆったりとした作りのものだった。そんな相違がさらに莉央を戸惑わせる。


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