5 関係

※※※


「葵くんは莉央のお兄ちゃんなんだって」


 クレヨンで大きなスケッチブックに絵を描きながら何気ない様子で呟く。そんな少女の様子を横目で見ながら葵はおざなりに聞いた。


「じゃあ晃流は?」


「晃流くんも莉央のお兄ちゃんなんだよ」


「んなわけないじゃん。お前バカなの?」


「バカじゃないよ。だってね、パパがね、莉央にはお兄ちゃんが二人も出来たね、良かったねって言ってたもん」


「俺はとうの兄ちゃんなの」


「莉央のだもん。橙くんだけじゃずるい」


「ずるいとかそういう問題じゃないって」


「ずるいよぉ」


 パタパタと両手を膝の上に叩きつけてごねる様子はその少女にしては珍しいことだった。漫画本を読みながらでろくに相手をしない葵を見かねたのか葵の兄、紅太こうたが「葵で良けりゃいつでもやるよ」と笑った。


「ほんと?」


「ああ、兄ちゃん昨日も俺のハンバーグ取ったし。こんな兄ちゃんいらねぇっての」


 弟の橙基とうきも相づちを打つ。


 小学生になった葵の家に莉央はよく遊びに来ていた。紅太はすでに六年生、二つ下の橙基は年中。兄弟が三人とも男の曾根崎家には女の子向けのおもちゃなど無かったが、絵を描く道具さえあれば莉央はいつでも楽しそうだった。


 葵が莉央と会えなくなって数日が経つ。離れた途端、そんな懐かしい夢を見た単純さ。寝起きの顔に笑みが浮かぶ。元の世界にいたときには思い出しもしなかった他愛ないやりとり。


「アオイ、起きたの?」


 一見すれば年若い女性とでも勘違いしてしまいそうな線の細さ。幼さの残る表情はいたずらっぽく動く。ヤンナ率いる近衛第一師団に時を同じくして入団した十四歳のショウナ・ガレは丁寧に寝間着を畳んでいた。


「あれ、今何時?」


「大丈夫、まだ時間あるよ。珍しいよね、アオイが僕より後に起きるなんて」


「あー、夢見がな」


「良さそうだったけど。まさかいつもそんな生温い顔して起きてるわけじゃないでしょ?」


「生温いってどんな顔だよ」


 大きくあくびをして、伸びのついでにストレッチをする。テニスをしていたときとは違う筋肉を使うせいで今までとは別の箇所が少し張っているが、それほどきつくはない。


 午前中三時間ほどきっちり体を動かし、昼食休憩を挟んで二時間。その後机に向かい様々な講義を受ける。文法が日本語と似ており、使われる言葉の傾向も理解してきたので簡単な文章なら何とか解するがどうしても分からないときは聞き流し、後でショウナに頼み辞書と照らしあわせて確認する。もっとも辞書を読むのにまた苦心するのだが。


 莉央と離れネルとも会わず完全に日本語から隔離された状態にある今、葵自身も必死だった。だが分かる言葉が増えるほど充足感も生まれる。この世界での生活は葵にとって苦痛ばかりではなかった。葵自身、未知のものへの順応性が高いことを自覚している。好奇心もあるほうだし、知識を得ることを楽しいと思える。だが莉央の場合は違うだろう。まずそう感じられるようになるまでが長い。臆病すぎるのだ。


(あいつ、大丈夫なのかな)


 数日前、まだ不安そうな様子を残したまま別れた幼なじみの姿を思い返す。


「起きたんならご飯行こうよ。僕もうお腹空いた」


「ん」


 寝癖のついた髪を撫でつけながら葵は顔を洗うために固いベッドから立ち上がった。


 身支度を終え、食事を済ませる。そして三時間みっちりと体を動かせば午前中のカリキュラムは終わりを告げる。


 汗が滴るのを袖で雑に拭う。支給品であるタオルはすでにどっしりと重みを持ち、地面に投げ置けば湿った音を立てた。たかが数時間の訓練ではあるが、休憩もなくほぼ動きっぱなしでいるため疲労はなかなかのものだ。


「騎士団に所属してりゃ、女なんていくらだって寄ってくるんだよ。特に城仕えは将来の官僚候補だからね。城の中って基本的にお偉いさんばっかりでしょ。つまりおっさんだらけで若い男ってそんなにいないんだよ。よっぽど野心家の女じゃなきゃ、手近なところでってなるわけ。だから結構誘いも多いし。普通の仕事してたらこうはいかないんだからね。積極的な子達って楽だよー。こっちが何も言わなくても何でもしてくれるし、それに」


「……ショウナ、お前絶対将来ろくな大人にならない」


 会話を切り出したのは葵の方からだった。騎士団には通常十六にならないと入団の許可が下りない。それを知って、なぜ十四のショウナがいるのかを聞いた、はず、だったのだが、なかなか核心にたどり着かない。


 半分ほどしか理解できない騎士見習いの少年の話だったが、ようやくここにきて言わんとしていることを察しため息をもらした。真のマシンガントークというものを知った気がする。激しい運動の後でこれだけまくし立てることが出来るのは驚くべき持久力であるが、単純に脳に血液が回りすぎたのだとも言えそうだ。


 雲一つない青空の下、話している内容は不毛なものだ。ぞろぞろと捌けていくむさ苦しい男達の背中を見送りながら澄んだ空気を煮たぎらせるような暑苦しさに目を細める。もっとも、それは外気のせいではない。直前まで動き回っていた事で体内から発せられた熱によるものだ。


「何言ってんの。僕が何のために騎士団に入隊したと思ってるのさ。こんなお貴族様だらけのところ、本当なら来たくもない。でもさ、給金はいいし、実力だけでのし上がることもできる。何より城仕えの女どもはある程度身元が保証されてるから」


「つまり逆玉狙いってことだな」


 日本語で呟く。思い切り本人に突っ込んでやりたいところだったがまだそこまでこの世界の言葉に明るくはない。


「ん? 何?」


「何でもねえ、よっと」


 最後の言葉と同時に刃のない訓練刀を数本まとめて持ち上げる。ここではまだ見習いの葵とショウナは訓練後の片づけをしなければならない。それからもう一人、見習いがいる。


「おいチャル、さぼってんなよー」


 一人哀愁漂う背中を見せて遠くを見つめる青年にショウナが声をかける。すると「ああー」と間の抜けた返事。訓練中はきびきびと動き、目を見張るような太刀裁きに周りの関心を集めるくせにそれが終わったとたん電池が切れたように消沈している。何か落ち込むようなことでもあったのだろうかと思いながらも、アオイは自分から声を掛けようとはしない。この男に対しては少しのわだかまりがある。


「もしかして、お姫様のこと?」


「ショウナ黙れよ」


 言葉だけを取れば偉そうに聞こえるが実際には地を這うような低いぼそぼそとした覇気のなさ。鍛えられ筋肉のついた肩周りは大きいのにその後ろ姿はずいぶんこじんまりと収まっている。


「そんなにショックだったのー?」


「当たり前だろ! 彼女が王子狙いだったなんて未だに信じられない」


 今度は辺りもはばからず堂々と座り込み体全身で落ち込んでみせる。


「なあ、お姫様って何?」


「は? 何言ってんの?」


 冷めた目でショウナに睨まれる。


「あんたの幼なじみのことでしょうが」


「王子狙いって何の話だ」


「知らないの? 先週からこの噂で持ちきりなのに。あ、みんな気を使ってアオイの前で話題にするのは避けてるのかな。それはないか。みんなはアオイのこと、言葉も通じない辺境から来たただの田舎者だと思ってるんだもんね」


 葵自身はバロックでもなんでもないので、やっかい事を避けるために入隊の際にはそう紹介されていた。もちろん莉央との関係も秘密だ。近衛小隊の中で実情を知るのは同室のショウナと国境警備隊から一緒に来たチャル、そして隊長であるヤンナだけである。


「噂話なんか小耳に挟んでも全部は意味が分かんないんだよ。こうして顔の表情とか雰囲気を併せていかないと」


「あー、面倒だね」


 言葉が通じず苦慮している同僚に対して、この年下の男は全く遠慮がない。


「チャルは君の幼なじみのお嬢さんに一目惚れだったんだって。それで辺境の部隊からわざわざ城まで来たんだよ。護衛にちょうどよかったってのもある。あそこの部隊の中では中堅どころでしょ。軍の隊員としてある程度の実力があって、だけど役職がないから抜けても支障は少ない。そのあと近衛兵団に勧誘されたのは、まあ口封じに近いんだろうけど」


「口封じって?」


「王子がバロックを保護しているのって有名な話じゃん。だけどいまいち目的がはっきりしないわけ。その中にいるインタージャーを捜しているらしいけれど現実味はほとんどない神話上の話だもの。懐疑的な目を向けているくせに誰も止めないのは、王子が政治的に大きな成果を収めているからなんだ。つまりすごい結果を出したからご褒美に多少の酔狂は見逃してやるってとこ」


「ああ」


「今城の中にいる唯一のバロックであるルイトカ様は女性だけど、あの方は特別なんだよね。約三十年前にこの世界に落ちたバロックが自分を助けてくれた女性と結ばれて生まれたっていうのは世間では有名なんだ。当時バロックは人々に疎まれていたから、迫害も結構あったらしい。しかもそのバロック、いつの間にか自分の世界に帰っちゃってたらしくて。奥方はその後すぐ亡くなったらしい。ルイトカ様は王子に保護されるまで随分長い間一人で苦労されたみたいだよ」


 ネルに聞いた話を思い出す。王子が保護条例を制定するまでは、バロックに社会的地位などなかったという内容だったはずだ。


「ともかく、そもそも異世界から来た人物が女性であること自体がまれ、というか今までにほとんど前例がなかったんだ。だからその時点ですでにお姫様は特別な存在だったんだよね。そのうえ王子が彼女を側に置くって宣言をしたんでしょ。お姫様が本当にインタージャーかどうかも分かっていないのに。城のお偉いさん達はうろたえただろうね。年頃の王子の婚姻はそれだけで政治的に大きな意味を持つ訳だし、できるだけ有利に進めたいのに、正妻を迎える前に側室がいるなんて、相手国にごねられる材料にしかならないでしょ? だからせめて、彼女がインタージャーかそうでないかを証明できるまでは公にはしたくないじゃん。そのための口封じ」


「そういうことか」


 正直早口でまくし立てるようなショウナの話し方をすべて理解するのは、たとえ表情や口調、手振りを込みにしても葵には難しい。今の話も、なんとなくネルの出生と、莉央の存在を秘密にしたいということが分かった程度だ。


「で、噂ってのは?」


「お姫様が不確かな自分の地位を確固たるものにするために王子に色で迫ったって話さ」


「イロ?」


「ええと、色気っていうの? 体でってこと」


「言うな!」


 ショウナの説明を遮ってチャルが叫ぶ。頭を抱えて今にも泣き出さんばかりの勢いだ。


「そりゃねえな」


 取り乱すチャルを葵は鼻で笑った。あの莉央に限ってそんなことが出来るわけがない。数日を一緒に過ごし、晃流との間ですらそういった行為をしていないことは十分に分かった。万が一経験があったとしてもそんな強かさを持ち合わせているとは思えない。


「んー、でも目撃証言があるんだよね」


「誰だよ」


「誰かまでは分からないけれど多分魔法省の奴。そもそもお姫様の存在は知っていても顔まで分かっている奴って限られてるじゃん。国境警備団の奴らはいいとして、今城にいるのはルイトカ様とヤンナ隊長でしょ。王子とこの三人に教育係の候補だったおっさんら三人、お姫様付きのシイナ殿、あとは魔法省の人間。あいつら、バロックに対する教育と称してお姫様に会えるからさ。物見高い連中らしくて、お姫様が力を使えないのをいいことに日替わりで人をやっているらしいよ。力を使いこなせるようになったら、下っ端には教えられないじゃん、今のうちにみんな見ておけっつって」


「見せ物扱いじゃねぇか」


「まあ女性のバロックってだけで珍しいからね」


「あの子がそんな淫らな女だったなんて……、いや、そんなはずはない。だって俺が足に触れようとしただけで恥じらっていたんだぜ。くは、あれマジかわいかった。その後も俺のことじっと見つめちゃって、ムホ」


 苦悩から妄想の世界へ駆け足で渡り歩くチャロを見つめる二人の目はもちろん冷たい。


「変態だってバレて、虫けらでも見るような目で見られていたんじゃないの。妄想補正って怖いね」


「……なんでだ!」


 国境警備隊の宿舎での出来事があったからだろう。男に後ろから拘束されていた莉央の胸元にチャルが手を差し込もうとしていた瞬間を葵は目撃している。


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