7
(私って……)
酷い嫌悪感にめまいがした。
葵がこの世界で自分の居場所を作ることは大切だ。それがスムーズに進んでいるなら喜ばしいことに違いない。けれども莉央は素直にそう思えなかった。
行動を規制されている訳ではない。葵とは簡単には会えなくなってしまったが、完全に引き離されたのでもない。だがエルヴィラの私室近くに居を構えることになり、何をするにもシイナ経由。自身の考えで動くにはあまりにも窮屈だ。そんな日々にかまけて常に受け身だった自分を後悔する。葵の置かれている状況とは違うので一概に比べることは出来ないが、しかし。
もう少しディノと話をしてみよう。魔法の指南役とも、もう少しだけ打ち解けられたら。シイナとも、他愛のない話をして。
そうしているうちに互いの人となりが見えてくるはずだ。もしかしたら味方になってくれる人がいるかもしれない。エルヴィラとのことを口外できなかったとしても、悩み、迷うときに支えとなってくれる人がいるならばきっと今とは違ってくるはずだ。
変わりたいと切実に思う。莉央と同じような境遇にありながら莉央とは違うところを見て、莉央とは違うところを目指して、確実に前に進もうとしている葵に何もしないまま嫉妬にも似た感情を持ち、置いてけぼりにされたような疎外感に落ち込む、そんな自分から。
何気なく顔を上げると、食器の置き台に小さく折り畳まれた書面のようなものを見つけた。そこに立っていたのはヤンナだったので、おそらく彼の忘れ物だろう。
中を見ることに迷いながらも手に取った。明日シイナに言付けて渡してもらえばいいことだったが、今なら二人に追いつけるかもしれない。そう考えると扉に手をかけた。別に部屋の外に一人で出ることを禁止されている訳ではない。生来の臆病さのせいで、行動できなかっただけだ。まず、こんな少しのことからでもいい。変えていきたい。
思い切って、しかし先ほどのネルの言葉を思い出し、そっと扉の外に出た。走ったり、大きな声を出したりしてはいけないという言葉を心に留め、足音を忍ばせる。こんなすぐに与えられたアドアイスを実行することになるとは思わなかったと一人笑いがこぼれた。部屋を出ただけなのに、随分と解放されたような気分だ。
莉央の部屋から右に行くと王族の居とするエリアである。二人は反対側から来たのだろう。確か客間のある場所から城仕えの人間の居住地に続く通路があったはずだ。
見当をつけると足を進めた。すると先の曲がり角を一瞬人の影が通り過ぎた。どうやら男性のようだ。もしかしたらヤンナかもしれない。走り出しかけて、しかし先ほどの注意を思いだし早足に留めた。声をかけられれば楽なのだが、それも注意されていたので急いで追いつくしかない。
やや近づいてみればやはりヤンナだった。莉央は必死に追うのだが、ヤンナの足は速い。まるで謀ったかのように、つかず離れずの距離が続く。仕方なく莉央は後を追い続ける。これが余程早ければすぐに諦めもしたのだが、追いつけそうな中途半端な間隔が良くなかった。
息を切らしながらもその背を追って、いくつかの角を曲がり、階段を下る。ここまできたらヤンナの宿舎まで行っても追いつけないのではないかと不安に思い始めたとき、目の前に大きな扉が見えた。ヤンナはノックもせずそれを開くと体を滑り込ませようとする。
廊下を追うならともかく、閉ざされた中に入っていくほどの図々しさはあいにくと持ち合わせていない。ここでなら、呼んでも大丈夫だろう。衛兵が来ても、ヤンナがきっと説明してくれる。そう思い、莉央は思い切って声をかけた。
「ヤンナさん」
しかしタイミングが悪かったらしく、ちょうど扉の軋むような音と重なった声はヤンナに届かなかったらしかった。目の前で扉は閉まり、莉央はやや呆然とした面もちでその前に歩み寄った。
「やだもう、ヤンナさん早すぎ……」
乱れた息をごまかすように呟いたとき、いくつかの靴音が廊下に響いた。先ほどの呼びかけの声は莉央が思っていたよりも大きかったのかもしれない。
ーー衛兵にでも見つかったら何をされるかわからない。
ネルの声が頭を掠めた。
「誰かいるのか。ここは立ち入りを禁じられた場所であるぞ」
声の様子から間もなくこちらに来るだろうことがわかる。莉央はとっさに目の前の扉の中に体を押し込んだ。ヤンナにさえ会うことができればどうにかなる。そう考えてのことだった。
照明の落とされた室内はざっとみたところ誰もいないようだった。とりあえず扉に耳を当て、廊下の様子を確認する。しばらく話し声が聞こえていたが、諦めたのかやがてそれは遠ざかっていった。
緊張していた体の力を抜き肩を落とす。そして改めて見回してみるとそこは王子の私室にもあったウェイティングルームに近いものだった。当然その向こうにどこかにつながる扉がある。ヤンナはそこに入ったのだろうか。
どちらの扉を開くべきか少し悩んだが、莉央は奥への扉を選んだ。ここまでくるのに何度も曲がり、階段を下りた。自力で戻ろうにも自信がない。
さすがにいきなり開くことはできず、莉央は扉をノックした。
「ヤンナさん、莉央です。いらっしゃいますか」
こうして名乗っておけば、少なくとも自分のことを知らない誰かに何かをされることはないだろう。そう考えてのことだ。
返事はない。少し待って、それからため息をついて声をかけた扉に背中を預けた。自力で戻るしかないだろう。そう思うが、結構な距離を早足で来たので休憩が必要だった。
突然体重をかけていた扉が動く。バランスを崩した莉央はそのまま背中から後ろに倒れ込む。
「きゃ」
驚きにあげかけた悲鳴を背後から伸びた手に遮られた。斜めになった不安定な体もまた、その腕に支えられ途中で止まる。
「お静かに。大きな声を出すと衛兵が参ります」
涼やかな声には覚えがあった。ちらりと見えた口元にも。しかし、そこから上は初めて目にする目元と表情。助けを得て体制を整え、まともに対峙すると莉央の口からは疑問が漏れる。
「王子、様?」
いや、エルヴィラの話し方はもっと尊大だ。人相の全てを知っているのではないから確信もない。しかし緩く垂れ下がる髪、先ほどと同じ服装、それから隣に腰をかけたときにかいだ覚えのある香油の匂いが同一人物であると莉央に告げる。
扉は中庭へと続くものだった。月明かりに照らされた庭園らしき場所は手入れが行き届いているようだ。丸く刈り込まれた植木。それから日が落ちているというのに芳しい花の香りが漂っている。
そして空に浮かぶ満月は大きく、それを背にした人物の背後で神々しく輝いていた。
「今宵は、良い月ですね」
莉央の戸惑いを知ってか知らずか、目の前の年若い男性は柔らかな笑みを浮かべ、そう囁いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます