ホールを横切り、いくつかの扉を抜け、部屋の外に出る。そこからまた少し移動したところにある、さほど段数のない階段を降りて長い廊下を歩く。城内の端から端まで歩かされたのではないかと思うほどの距離を経てようやくたどり着いたのは一つの部屋だった。二人をそこに通した使用人は不機嫌を露わにした表情を隠そうともしないまま頭を下げて扉を閉めた。


 広い部屋に今後の説明もないまま取り残された二人だが、兵の宿舎でも途中の宿でも同じような状態だったため今更何を言うこともなかった。葵はさっそく室内の物色を始める。


「こっちが寝室で……、あ、続き部屋だ」


 開いた扉の中、身を乗り出すようにのぞき込んでいた葵の脇からひょっこりと顔を出す莉央は「わぁ」と一言感嘆の声を上げた。そのまま物珍しそうに室内を見回している。


 その位置に葵は口をつぐんだ。莉央の方が背が低いのだから、葵越しに室内を確認しようとすればどうしても下から見るしかない。しかし隣に並ぶよりも低い位置にある莉央の後頭部、そして制服の中に流れるうなじのラインが葵に普段は意識をしない妙な感覚を覚えさせる。


「わ、何?」


 莉央が発した驚きの声に返事をしないで回した腕に力を込める。


「痛い。葵くん、痛いよ」


 自分の腕を必死に外そうとしている莉央を眺めながらも葵は手を緩めなかった。困惑した様子で見上げようとする莉央の視線を逸らすために距離を近づける。


 うなじに唇が触れる直前で止まる。昨日は入浴をしていないはずなのに、莉央の髪からはほんのりと良い香りがしていた。


「葵くん、離して」


「ちっ」


 莉央の訴えに舌打ちで応えながら徐々に腕の力を緩める。しかし間を置かずその後頭部に手を乗せ、今度は乱暴に髪をかき混ぜる。


 揺れる頭を必死に庇いながら莉央は葵から距離を置いた。


「葵くん、高校生にもなってまだプロレスごっこ?」


「あの位置に頭が来たらヘッドロックしたくなるだろ」


「ならないよ」


「いや、なる」


 それ以上訴えても無駄だと思ったのか、莉央は手櫛で髪を直しながら葵を上目遣いで見てくる。睨んでいるのだろうがそれほど険を感じないのは少し垂れ気味の瞳のせいだろう。


「何その目。生意気なんだけど」


「もう高校生なんだから。いつまでも泣かされてばっかりじゃないもん」


(そういや小学生の頃、四の字食らわせて泣かせたことあったな)


 あの時は父親から教わったプロレス技を単純に披露してみたかっただけだった。今同じことは、いろんな意味で出来ない。


「普通女の子にこんなことしないよ」


「悪かったな」


 ふてくされたような謝罪に莉央は驚いて葵を見直す。


「葵くん、何かあった?」


「何でだよ」


「だって謝るなんて」


「お前俺のことなんだと思ってんだよ」


「葵くん、だけど」


 訝しげに見つめてくる莉央の視線に居たたまれなくなった葵は、目の前の寝室にあるベッドに身を投げ出し、腕を顔の上に乗せると「寝る」と言ったきり動くのをやめた。


 呆気に取られた莉央は、それでも葵に声をかけはせず一人室内の探検を始めた。寝室の先にまだ二つの扉がある。一つを開くとそこにはもう少し狭いがまたベッドが備え付けられていた。莉央が寝るとすればここだろう。


 再び葵のいる寝室に戻り、別の扉を開くと小さな浴室があった。大きな大理石の洗面台は磨き抜かれ、美しい模様を浮かび上がらせている。設置された鏡も同様に磨き込まれている様子だが、随分と小さい。手鏡より少し大きいくらいだろう。辛うじて顔の全体が入る程度だ。


「わぁ、酷い顔」


 独り言が漏れてしまうほど、お世辞にもきれいだとは言いがたい肌は、宿を出ての馬車生活の中、濡れたタオルで拭う程度しか出来なかった。手入れ不足な上、舞い上がる土煙が付着していたためにざらつきがある。


 周囲を見回すとふんわりと花の香りのついたタオルらしき布が少し高い位置にある棚の上に何枚も重ねてあった。その横には同じ材質のガウンも数枚畳んであった。


 室内奥側には小さな浴槽らしきものがあり、中には壁面から細く湯が流れ込んでいた。掬い取ってみた感じ、濁りはなく清潔そうだ。何より丁度良い温かさだった。さらにその脇には固形の石鹸らしきものも置いてある。


 莉央は寝室に目を戻す。本当に眠っているのか葵は動かない。


 指を通した髪は二晩も入浴出来なかったため埃っぽい気がする。


(入っても大丈夫かな)


 目の前の湯に浸かれば体の疲れは癒されるだろう。何よりかさつく肌や軋む髪の不快感から解放される。それは普段蛇口を一つひねればいつでも思う存分湯を浴び清潔にできる環境にいた人間にとってはあらがいがたい魅力である。


 しかし勝手に使えばあの無愛想な使用人の気を損ねるだろう。許可を得るに越したことはない。そう考え、莉央はその場での入浴を諦めた。


 浴室を出て眠る葵のベッドの側を通り、廊下からの出入り口のあった部屋に戻る。広めの部屋で、室内中央壁際には兵舎にあったものよりも豪華な装飾のついた暖炉が備え付けられている。入室前から火が入れてあり室内の温度は快適だった。


 中央には重厚な造りの正方形のテーブルが置かれ、辺毎に、合計四脚の椅子が配されている。一番暖炉から遠い席に腰掛け、莉央は室内を改めて見回した。


 疲れはあるが埃まみれの体で葵のようにベッドに寝るのは抵抗がある。仕方なくなるべく椅子を汚さないように浅く腰掛けたがくつろげはしない。


 時間を持て余して立ち上がり、壁の模様を眺める。部屋の中の装飾は、暖炉の周囲以外はごくシンプルなものだった。けれども足元に敷き詰められている絨毯は毛足が長く光沢がある。壁も浮き彫りになっており、一目でその豪華さがわかった。


(お城、かぁ)


 不思議な気分だった。縁遠いどころか、こんな場所に足を踏み入れるなどと考えたこともない。


 信じ難い思いと肌に感じる現実。葵が起きていたときには紛れていた不安が一人になった途端に沸き上がる。


 目の前の壁に手を突く。それだけでは支え切ることができない落胆に突っ張った肘の力を緩めると、額まで壁に当てた。横でパチパチと暖炉の薪が小さくはぜる音が聞こえ、その不規則さに意味も無く焦りが募る。


 目を閉じ、深呼吸を繰り返す。けれども落ち着きはしない。心臓が激しく鼓動を打ち、急かされているように感じる。その中で思い返す。


 あの日の晃流の意図は今もって分からなかった。元の世界で最後に起こった出来事。葵と会う直前、莉央を抱きしめた晃流の真意。


 思い出される温もり。髪を梳く指の動き。額に感じた吐息すら、まだ色褪せずに蘇る。


「晃流くん……」


 そう呟いた途端、先ほど背中に触れたものを思い出した。


 跳ねるように顔を上げる。目の前の壁を焦点も合わないまま見つめ、遅れて耳から顔全体に熱が広がっていくのを自覚した。


 先ほどの葵の行動に動揺していない風を装ったのは、葵が莉央に対して幼なじみという以外に何も他意がないことをわかっていたからだ。けれども今のように思い返せば全く意識しない訳ではない。


 元の世界では絶対にあり得ない距離。あの行動はきっと、この特異な状況だからこそのものだ。肩から首元に回された腕の太さ、首筋に感じた息づかい。小学生の頃以来何年ぶりに触れたのだろう。あの頃とはまるで違う。すっぽりと包み込まれるような大きさ。


「わぁあああっ」


 突然恥ずかしくなって思わず声を上げた。だがそれで気が紛れることもなく、照れくささが増すだけだ。


「……一人で何騒いでんだよ」


 特に、その一連の流れを当の本人に見られていたことを知ればなおのことである。


「な、何でも」


「熱でもあんの?」


 寝起きのボサボサ頭を隠そうともしないで大あくびをする葵は、寝ぼけ眼のまま莉央に近づいてきたが、慌てた莉央は寄りかかっていた壁を押し退けるように手に力を入れて葵から距離をとった。


「何その俊敏さ」


「何でもないの!」


 語尾がきつくなってしまったことにハッとしたが、葵が気にした様子はなかった。


 ただじっとこちらを見つめ、その視線にますます羞恥心を煽られた莉央は、おどおどと目を逸らす。


「なんだよ、まだビビってんの」


 ため息とともにこぼされた言葉に莉央は驚く。


(わかってたんだ……)


 本人は自分が思っているよりもあからさまな態度をとっていることに気づいてはいない。だから葵に気づかれているとも思っていなかった。


「悪かったな、ここにいるのが晃流じゃなくて」


 表情を変えないまま再び寝室に戻ろうとする葵に莉央は慌てて声をかける。


「ビビってないよ!」


 まだ顔の赤みが抜けきれない莉央の必死な様子を葵は鼻で笑う。


「嘘つくんじゃねぇよ」


「嘘じゃないもの」


「じゃあ、」


 葵は言葉を続けようとして、しかし一瞬の後飲み込んだ。


「じゃあ?」


「……何でもない」


 再び寝室に戻ろうとする葵の背中に莉央は思わず駆け寄った。今は羞恥に怖じ気づいている場合ではない。


「葵くんがいなかったら、私こんなに落ち着いていられなかったもの」


「全然落ち着いてねぇよ」


「そうだけど、そうじゃなくて」


 確かに先ほどから挙動不審気味なのは自覚している。けれども伝えたいのはそこではないのだ。


「一人だったら私、きっとここまでこれなかった。ネルさんとまともに話せなかったと思うし、どうしていいのか迷って、不安で、おかしくなっていたと思うの」


「でもそれって、一緒にいる相手が俺である必要はない」


「え?」


「知らない場所で一人なのが不安なだけだろ。一緒にいるのがたまたま俺だっただけだ。晃流が相手だったら、お前もっと楽だったんじゃねぇの」


「楽って?」


「例えば、さ」


 背中を見せていた葵は、不意に向きを変えると呆然と突っ立ったままの莉央の腕を引っ張った。前のめりになりバランスを失った体を支えようと一歩を踏み出した莉央を受け止めたのは葵の胸で、その瞬間莉央の脳裏に先ほど感じた葵の熱が蘇る。同時に、少しばかり冷めてきたはずの自身の頬の熱が上がる。


「俺じゃなくて、晃流相手だったらこうやって縋れてたんじゃないの?」


 背中に回された腕に拘束され身動きの取れなくなった莉央は、せめてと火照った顔を隠す。顔を胸に埋められる格好になった葵は既に後悔の中にいた。これでは先ほど飲み込んだ言葉の意味がない。


 ーーじゃあ何で俺から目を逸らすんだ。


 自分を見てほしい。その願望をあまりに直接的な言葉に乗せてしまいそうになって止めた。しかし今の行動は確実にそれを体現してしまっている。


 回した腕に力を込める。華奢な肩はぎゅうっと小さくなってしまうが、大した抵抗は見えなかった。


「……お前、何で俺に怯えんの?」


 理由に思い当たらないことはない。葵自身、莉央に対して理不尽な憤りをぶつけていたことを理解している。けれどもこの数日間でかなり打ち解けていたはずだ。それが再び先ほどのような反応に戻ってしまう、そのきっかけが分からない。


 一方問われた莉央の熱は一気に冷めていた。一瞬でも異性として意識した自身の愚かしさに涙までこぼれそうになった。たかが数日間一緒に過ごし昔を思い起こしただけでなぜ許してしまいそうになっていたのだろう。


 自分を打ちのめした当の本人には、この程度の認識しかなかったのに。


「葵くん、離して」


 込められた力にあらがいその腕から逃げ出すと、莉央は距離をとって葵を睨みつけた。


「私、葵くんに怯えてなんかない」


「だったらなんですぐにオドオドするんだよ」


 晃流相手だったらそんな反応しないくせに。そう言おうとして、しかし言えなかった。それを言えば惨めになるのは葵にも分かっていた。


「葵くんがすぐ怒るからだよ。私何にもしてないのに、葵くんはすぐに私を責めるもの」


「理由なく責めてるわけじゃない」


「じゃあどうして?」


 突然強気になってみせた莉央に戸惑いながらも葵は再び言葉を飲み込んだ。気づいたばかりの理由を、今はまだ言うときではない。


「別に、大した理由じゃない」


 濁した返答に、莉央は静かに言葉を紡ぐ。


「私はそのせいで、友達をなくしたのに?」


 ハッとして莉央を見た葵の姿は、莉央の目に映っていなかった。目を逸らしたままそれ以上の会話を拒絶するように莉央は葵の脇を通り、寝室の奥にあったもう一つの部屋に駆けていった。


(友達をなくした?)


 心当たりはまるでなかった。莉央自身に憤りをぶつけたことはあっても、その友人と関わったことはなかったはずだ。


 一度だけ。ただ一度だけ。数年前の出来事が脳裏に浮かぶ。


 夏の夜。マンションの入り口に立つ莉央と少女。少女が何かを話しかけ、困ったような表情を浮かべた莉央が手にした財布から金を出して少女に渡そうとしている。


 葵はそれを目にし、とっさに走り出していた。グループのリーダー格である少女と、言いなりの莉央。ずっと気になっていた。学年ごと違う廊下でたまに垣間見る光景。懸念していた状況。


 言いたいことを飲み込む莉央が、他の生徒から良いように扱われているのではないか。いじめを受けているのではないか。


 それを助けるのは誰だ。昔入学したての莉央を助けてやったのは誰だ。俺だ。俺しかいないじゃないか。


「何やってんだよ!」


 少女を突き飛ばし、莉央の前に立った。突き飛ばされた少女は倒された痛みよりも驚きの方が勝っていたらしくぽかんと葵を見上げていた。


「お前二度と莉央に近づくな!」


「はぁ? 何なのこいつ。訳わかんない!」


 少女は我に返ると悪態をつきながら立ち去っていった。背中に庇った莉央も突然現れた葵と、作られた状況に戸惑ったまま放心状態になっていた。


「莉央、お前マジ何やってんの? なめられてんじゃねぇよ」


「え……」


 惚けたような声をあげる緊迫感のなさに葵はいらだった。


「馬鹿じゃねぇの? お前みたいな奴ってイライラする。とっとと帰れよ。情けない顔見せてんな」


 言い捨ててさっさとマンションに入った葵はちらりと後ろを振り返ったが、同じ場所で微動だにしないまま少女の立ち去った方を見つめている莉央にまた苛立ちが増して、それ以来しばらくの間、莉央に会っても無視を決め込んだ。


 小学生同士、朝の通学班が同じなのに全く莉央と会話をしない葵を晃流がフォローしていたような気がする。莉央に話題を振り、葵と会話がなくても気にならないよう甘く時間を納めていた。


 だから葵が気づいたのは何ヶ月も経ってからだった。自分が無視をしなくても、莉央の方から接してくることがなくなったのに気がついたのは。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る