8

※※※




 朝の目覚めは悪くなかった。昨日の歩き疲れもさほどない。


 葵はまだ薄暗く肌寒い空気の中、少し早すぎる目覚めに身を任せ横たえていた体を持ち上げた。眠くはない。


 朝食を済ませ身支度をし終える頃、同行していた軍の二人と王城からの使者がこの宿まで迎えにくるということになっている。その前に莉央と二人で話すことができるだろうか。それを懸念していたためか眠りが浅かった。


 昨夜一人部屋でベッドに横たわり考えていたことを反芻する。


 ーーほら、あそこにいる。


 四月、新入生より一日早く迎えた学校生活。葵と晃流は隣のクラスだった。部活や何かですっかり疎遠になってはいたが、男同士の付き合いだ。元々淡泊なもので、だからこそ多少の距離に気構える必要がない。しばらく会わず、ろくに話もしなかった幼なじみが休み時間、笑顔で教室を訪問した。


「おばさんが言ってたんだけど、莉央ちゃんうちの学校に来るんだって。そろそろ入学式終わりでしょ。ここからならきっと教室に行くところが見えるよ」


 申し合わせたかのように窓際の席に座っていた葵は、目の前まできた晃流につられるように一緒に窓の外を見る。二階の窓からは体育館から校舎へ延びる連絡通路がよく見える。この一年、テレビや新聞で幾度か見かけただけの莉央が、高校の制服を着ている。それが葵の興味を引いた。目をやった理由はその程度のものだ。


「あ、一組だ。おばさん派手だからすぐ分かる」


 クスクスと笑いながら眼鏡の弦に触れ、ピントを合わせるように上下に動かす。目の悪い晃流には少々距離がありすぎたようだが、視力が良い葵にとっては苦もない。華やかなパステルイエローのスーツに黄色みの強い茶に染めたストレートの髪をきらびやかなバレッタで留めている莉央の母親は葵にもすぐ見つかった。そしてその横を歩く莉央の姿も。


 実年齢よりも若い格好を装い、しかし全く違和感を感じさせない莉央の母。他に並ぶ保護者の中でも際だって目を引く。その娘は未だ幼さを残す顔立ちに緊張の為か強張りを見せていたが、初々しい制服姿は清楚に見えて好印象を覚えた。


「あいつ、たかが入学式で緊張しすぎだろ」


 その姿に一瞬だが目を奪われて、しかしそれを誤魔化すように葵は笑った。


「んー、よく見えないなぁ。でも莉央ちゃん、前ほどおどおどしてないんじゃない? ほら」


 隣に立つ男子生徒と何か会話をしている様子が目に入る。母親は顔見知りらしい別の保護者と笑いながら話していて、それには気づいていない。莉央は相手の顔をきちんと見て何か言葉を返していた。それに対し、男子生徒が楽しそうに顔を綻ばせている。


「前は俺たち以外の男とはろくに話も出来なかったのに大人になったねぇ。彼氏とか出来たのかな。結構人気あるみたいだもんね」


 テレビへの露出のある莉央についての噂話は多々あった。同じ中学出身の葵たちの同級生の中では概ね好意的なものである。しかしそれは、本人に接しての話ではなく、あくま伝聞であった。なぜなら、当時の莉央は同世代の人間に対しての社交性に酷く欠けていたからだ。


 葵や晃流の友人とも莉央は話さなかった。話しかけられても二人の後ろに隠れてしまう。極度の人見知りは同性にも向けられていたが、それより随分と過剰な異性への緊張は幼い頃の嫌な思い出のせいであることを二人は知っている。だからこその晃流の言葉である。


「……まあ、どうでもいいけど」


 先ほどまで多少なりとも興味を持って見下ろしていた葵が突然話を打ち切るように窓から視線を外した。晃流はきょとんとして、それから真顔で問いかけた。


「寂しくなった?」


「はぁ!?」


 思っていたよりも大きな声になってしまい、葵は思わず周囲を見回した。休み時間の教室は皆思い思いの話題で盛り上がっていて気に留めた者はなかったらしい。それでも誤魔化すようにとってつけたような咳払いをして晃流を軽く睨む。


「意味わかんねぇし」


「いや、別にそんなムキになんなくても。ただ、親離れしたひよこかなんかを見送る感じなのかなって。他意はないよ、全然。だって俺は今ちょっと切ないもん」


 浮かんだ笑みを隠しもしない晃流に葵は舌打ちする。晃流は女兄弟がいるせいか、そんな言葉をあっさりと言う。葵とは決定的に違う。そんな女々しいことを軽く言えるものかという思いがため息となって漏れていく。


「何だよ。感じ悪いなー」


 さほど気にする様子もなく、晃流は自分の教室に戻っていった。


 その後ろ姿を見送りながら思ったことがある。臆面もなく感情を露わに出来る、それが晃流の強さなのだろうと。


(俺には無理だな)


 特に先ほどの晃流のようなものは絶対に。喜怒、そして楽はたやすい。しかし哀を表すこと、これには躊躇がある。きっと、感情の中で一番弱さが見える部分だからなのだろう。男兄弟の中でそれを見せれば馬鹿にされるのが目に見える。葵は幼い頃からそんな環境に育っている。


(あのとき、俺はどう感じていた?)


 部活の休憩時間、水道の蛇口を捻り流れ出る汗を流してふと見上げた方向、クラスメイトの平川大毅と莉央がいる美術室が目に入った。大毅は莉央の肩に手を乗せていて、葵からはその大柄な体のせいで莉央の表情までは見えなかったが多分俯いている。ただの先輩後輩にしては少々近すぎる二人の距離。


 ーー彼氏でも出来たのかな。


 四月の晃流の言葉が浮かぶ。


 大毅が相手? そんなはずはない。その開けっぴろげな性格からいって、彼女が出来たのならその時点で有頂天になってクラス中の生徒にのろけまくるに違いない。そういった豪快さがある。だったらこれからか。そう悟った瞬間、ほとんど無意識のうちに体が動き出していた。


 きっと莉央は困っている。垣間見える立ち姿だけなのにそう感じる。その直感に従った。


 中学の頃から会話はほとんどなかった。あのころと違い、もっとさばけているかもしれない。もう幼かった頃の幼なじみではないのだ。冷静に考えればそんな発想も出たかもしれない。しかしそのときは不思議と思い至らなかった。


 実際窓際までたどり着いたときに見えた莉央はガチガチに固まっていてどこか怯えた様子が見えたので直感は間違ってはいなかった。大毅を追い払い、莉央を責め立てる言葉を吐きながら葵は何もなかった様子に密かに安堵していた。自分が莉央を守ってやったのだと子供の頃のように得意気になっていた。


 しかしその直後の莉央の言葉に、頭の中は白くなった。


「私、ちゃんと付き合っている人いるもの」


 相手、晃流くん。そう言った莉央はどこか挑むような目つきに見えた。しかし次の瞬間には眉を下げ情けない顔を見せる。その理由に思い当たったとき、心にもない言葉が口をついた。


 そうかよ、良かったな。


 良いとか悪いとか。そんな判断をする間もなく、そうに言うしかない気がした。なぜなら莉央に同情の色が見えたからだ。驚き、絶句した葵に対し、勝ちほこるでもなくただ気遣うような眼差しを向けてくることに屈辱にも似た感情を呼び起こされた。


 その後莉央の顔を見ていられずに油の臭いが充満する美術室から逃げ出した。莉央のテリトリーにそれ以上いることは出来なかったのだ。


(きっと、そうなんだ)


 昨夜から何度かたどり着いた結論に再びたどり着く。今更認めたくない。酷く子供じみている自分を自覚し嫌悪する。


 言いたくはない。今更すぎる。だが言うべきなのだろう。そうでなければ莉央は混乱したまま葵を避け続けるに違いない。


「だけどやっぱり今更すぎるよなぁ……」


 莉央と会い話すべきなのか、それとも素知らぬ振りをするべきなのか。昨夜からの逡巡を再び繰り返していることに気がついて、葵は小さくため息をついた。

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