7
※※※
進む道のコンディションは相変わらず悪い。前日同様にぬかるみが残るのはどうやら雨のせいではないようだった。
「この辺は
簡潔すぎるネルの説明から全てを理解するのは難しいことだったが、もう少し北の方に川が流れているらしく、どういった具合かその水の量が定期的に増え、今歩いている道は支流のようになってしまうらしかった。
相変わらず莉央のローファーは滑り、葵はそのたびに手を伸ばし体を支えてやることを繰り返していた。
「わ!」
またかよ、と思いながらも声に反応してとっさに動く体。躊躇なくそこに捕まる細い指。それは、昨日までにはなかった変化である。
「大丈夫か」
「うん。ありがとう」
堅く緊張しているような表情ではあるが、ごめんなさいではなくありがとうという言葉が出るようになったのは莉央が徐々に気を許し始めている証拠だと葵も理解していた。だからこそ心中悪態をつきながらでも支えてしまう。そしてそれを悪くないと感じている。
反面莉央はといえば、葵の態度に戸惑いっぱなしであった。嫌われているはずなのに、今朝からの葵はまるで昔の仲が良かった頃に戻ったかのようだった。話しかければ普通に答えるし、今も莉央のドジを笑うでも呆れるでもなくただ助け、心配をしてくれる。だから調子が狂う。笑顔の一つも浮かべられない。
もっとも、笑顔が出ないのはそのせいだけではない。同行するメンバーにも多少の問題があった。
昨夜のトラブルの一端である男の存在。朝引き合わされたときには絶句するしかなかった。もちろん相手はヤンナの手前か恐縮するほど頭を下げたし、ばつの悪そうな表情から本気で悪かったと思ってくれているようだったが、だからといって素直に受け入れられるかと言えば難しい。出来ることといえば、感じている気まずさを悟られないために目を合わせずにいるくらいのことだった。
莉央の溜息が漏れる。まだ一時間ほどしか歩いていないがすでに足に痛みがある。ネルが靴を貸してくれようとしたが華奢に見えて葵よりも背の高い彼女の靴は莉央には大きすぎた。
ぬかるみさえなければまだどうにかなりそうなものだったが、定期的に水が流れるが故に進行の邪魔になる雑草や木々の繁殖が少ないこの場所は森を抜けるにしても道しるべのない道として重宝されているそうで、今日はまだましな状態だと言われてしまえば他の道を要求することは難しかった。
「リオ、どう? 少し休みましょうか」
列の先頭を昨日の男と並んで歩くネルが時折声を掛ける。線の細さの割に力強さを感じさせる歩調は早足程度のものだが莉央にとっては少々辛く、それはネルにも分かっているらしかった。しかし速度は緩まない。
「大丈夫です」
葵の物言いたげな視線を感じながらも莉央はそう答えるしかなかった。どう考えても足手まといなのは自分一人だ。早々に弱音を吐くわけにはいかない。
足の痛みから気を紛らわせるように他の皆に視線を送る。隣の葵はさすがに運動部だけあってそれなりの持久力を持ち合わせているらしい。動きにぎこちなさはみられない。それから前方を歩くネルとその脇を固める同行者二人。軍の駐屯地から同行している彼らはもちろん苦もなく足を進めているし、それはネルも同様だ。後方を任せているヤンナも足音を聞いているかぎり乱れはない。
息を切らし、よろけながら歩くのは莉央だけだった。それは仕方がないにしても、いたたまれないのは先頭を歩く昨日の男がやたらと莉央の様子を気にし振り返ることだった。足を滑らせて声を上げる。葵に助けられ転ばずに済んだとほっと一息を吐き前方を見やればそのたびに目が合い、向こうが慌てたように視線を逸らす。
「少し休みましょう。無理をすればかえって進めなくなるもの」
それから一時間程も進んだだろうか。莉央にしてみれば暗に責められているようにもとれる言葉で休憩を促したネルは、軍の男たちに何か指示を出し木々の茂る脇道へ姿を消した。それを待ちかまえていたように昨日の男が莉央に歩み寄ってくる。
思わず後ずさりかけ、しかしすでに謝られていることもあってあからさまな嫌悪感を示すわけにもいかず、結局莉央は迷いを見せながらもその場にとどまる。隣の葵はそれを察したのか、反対に一歩前に進み出た。
「※△◇▲○……」
少し離れた位置で足を止め、莉央に向かい何かを話しかけてきたが、ネルが居なければ当然理解は出来ない。葵と二人、目を合わせると相手も気づいたのか溜息混じりの声を漏らし、髪を軽くかきあげた。するとそこへヤンナが寄ってくる。
この北欧系の顔立ちをした男に対しては昨晩幾分かの不信感を覚えたが、ネルの説明を聞いたお陰で全てがとは言わないまでもそれはほぼ払拭されていた。当然昨日の男とは比べ物にならない安心感から目線は移動する。
微かな笑みを浮かべたヤンナは近くの茂みに腰から下げていた布を敷いた。そして葵に目をやる。意味の分からない葵は見返すしかない。男同士で見つめあうという不思議な
もちろん莉央の方も意味が分からない。きょとんとしたままその手を見ると、一度止まった動きが再開され、スカートの脇に垂らしていた腕に添えられた。柔らかく込められた力に誘導されていく。その頃には二人もヤンナの意図を察した。
布の上に腰を下ろし「ありがとうございます」と礼を言う。違う言語を持つ相手だと分かっていてもとっさに出る一言。言葉は通じなくても互いに意味は通じる。ヤンナはさほど表情を変えず頷くが、そのまま身を引くと入れ替わるようにあの男が莉央の前にひざまずいた。
予想外の展開に身じろぐと、男は申し訳なさそうな顔をしながら莉央の足を取った。強ばる体に気づかないのか大した躊躇もなく靴を脱がせると、指の付け根を優しく揉みあげる。それでマッサージをしてくれているのだとわかった。
だが突然のことに莉央は頬を赤らめた。肌寒く感じる外気の中で指先に余計な熱がこもることはなかったが、それでも少し恥ずかしい。言葉が通じないのに話しても仕方ないかとは思ったが「大丈夫ですから」と揉み続ける手を遮ったそのとき、明らかにとげのある声がした。
「なんだよ。こいつ媚びてんの?」
「葵くん……!」
通じないとはいえ辛辣な物言いに慌てて声を上げる。相手にも葵の不審気な様子が伝わったらしい。手を止めると軽く莉央に頭を下げて立ち上がり、そのまま元の位置に戻っていった。
「葵くん、あんな言い方ってない」
「なんでだよ、おかしいじゃねぇか。普通いきなりろくに知らない奴の足揉まないだろ」
「そうかもしれないけど……」
だんだんと声が小さくなり、途切れていく。申し訳なさそうな顔をして男の背中を見送る莉央に苛つき、葵はつま先で地面を蹴った。びくりとそんな行動に大げさに肩を竦める姿にまた苛立ちが募る。
「お前が気にしないなら俺にも関係ない。足でも何でも触られてろ」
言い残し莉央から距離を置く。すれ違いざま、ちらりと見えたヤンナは淡々とした目で見送っていた。こちらのことなど気にならないのか、それとも大人げない葵に呆れているのか。その表情からは読めなくてそこにまた苛立ちが生まれる。
(朝は別に普通だったじゃねぇか。何でこんなにイライラすんだよ)
自問しても答えは出ない。昨日のことを悪く思い、慣れない道を難儀して歩く莉央を手助けする。媚び、というほどのものではないのだろう。言った本人である葵にもそれはわかっていた。イライラの原因は別だった。どちらかといえば不快な思いをさせた相手をあっけなく許し体に触れることを簡単にさせる莉央の方に納得できない。空けた距離をわざわざ、再び近づけて嫌みを投げかける。
「お前さ、そんなガキ臭い顔の癖に意外と男慣れしてんのな」
完全なる八つ当たりである。単に自分の思った通りに莉央が動かないことに対する不満で、言ってみれば子供じみたわがままに過ぎないのだが、残念なことに、本人にも莉央にもそれがわかっていない。莉央はガキ臭いという言葉に顔はしかめたが
「男慣れって……?」
そこは通じなかった。義務教育が終わってまだ半年。晃流以外の男とのまともなつき合いはろくになく、そう言った意味ではほとんど異性を意識したこともない莉央は同年代の少女に比べて男女間の色恋沙汰については完全に出遅れていた。しかし葵にはその反応もしゃくに障る。
「とぼけんなよ。お前晃流と付き合ってんじゃねぇか。分かんないはずないだろ」
「……ごめんなさい」
機嫌の悪い葵と話しても更にそれを増長するだけだ。意味の分からないまま取りあえずの難を逃れようと口先だけで詫びる莉央に葵はしつこく嫌みを続ける。
「あいつ、いろんな女と付き合ってたし、結構手が早いんだろ? だからお前男に簡単に触られても平気なんだろ?」
その言葉に少し考え込むような表情を浮かべた莉央は、ようやく言われている意味に思い当たり一気に頬を染めた。何か言おうとして口を動かしたがすぐに諦めたように俯く。そして震える声で小さく言った。
「なんでいつもそんな嫌な言い方するの」
「!」
泣き虫で臆病な莉央がそんな風に言い返してしてくるとは全く考えもしなかった。絶句してしまったのは思わぬ返しのせいか言葉の持つ意味のせいか、あるいは両方か。とにかく反応が遅れた葵に言い逃げるように背を向け先頭の集団の方へ小走りに寄っていく莉央を呆然としたまま見送った。そしてはっと気づけば莉央は戻ってきたネルと言葉を交わし、ヤンナの隣に居場所を変えた。代わりに軍の男たちが葵の脇を通り最後尾に立つ。
(またか……)
自分の犯した失態に頭を掻く。莉央が、おそらく晃流とのつき合いの中でそういった行為をしてはいないことくらい予想がついていた。キス位はさすがにあり得るだろう。晃流は葵が知る限り女性関係においては手が早い方であったし、付き合いだしたと莉央自身に聞かされてからすでに三ヶ月が経っている。ここにくる直前にだって抱き合う姿を見ているのだしそれなりの親密さはあるはずだ。だが、今朝偶然にではあったが目にした莉央の下着は余りにも子供じみたものだった。一度でもそういう経験をしている女が、恋人と会う時にそんな物を身につけるだろうか。あり得ない話ではないだろうがありふれた話でもない。
(なんでいつもこうなるんだ)
莉央に対する苛立ち。それを自分でも持て余す。同じような性格でも、きっとクラスメイトの女子が相手ならばこんな感情は覚えない。今と同じ状況に置かれたとしてもそれなりに会話出来るはずだ。いちいち突っかかっていくことはないだろう。
(幼なじみってのはこんなに面倒なもんなのか)
そうではないことくらいわかっている。世の中の幼なじみの全てがこんな風にこじれている訳がない。現に晃流は莉央とうまくやっている。面倒なのは自分自身だということも重々承知している。もっと無感情に接することは出来るはずだ。普段話をすることのほとんどない幼なじみなど単なる知り合いと相違ない。
しかしわかっているのに出来ない矛盾。持て余す感情の正体がわからない。
(まあ、どうせ莉央だ。一人じゃ何にも出来ないしな)
すぐに自分を頼ってくるに違いない。その時には普通に接してやればいいのだ。莉央もこんなことを長く引きずりはしないだろう。そう無理矢理自分を納得させた。
しかし森を抜けきるまでの道のりは平穏すぎるほど平穏だった。従って莉央と葵の位置関係は変わりようがない。会話もほとんどしない。それどころか莉央は葵に近寄ろうともしない。
バランスを崩した腕を捕り、足場の悪いぬかるみを教えてやるのはヤンナの役目になった。葵は二人の背中を見つめながら黙々と足を進めるしかなかった。
翌日の夕刻、暗くなる前に急に目の前の木々が拓けた。森の終わりである。人が踏みしめることによって作られた草原の中の細い土の道が、進むにつれ石で舗装され幅広くなっていく。草原の草もだんだんと刈り込まれていき、薄暗くなる頃には大きな建物が見えてきた。
「この町で一泊します。明日の朝には王城から迎えが来るから今日はゆっくり休んでね」
町に入り二十分も経った頃、先頭を歩いていたネルが一軒の建物の前で足を止めた。大きな両開きの扉、壁面の煉瓦の焼け、それから所々を覆うように這う蔦の様子から、かなり年期が入っていることがわかる。
「明日の朝、そちらに行くわ。使者と共に待機していてください」
ネルの言葉に軍の男二人は心得たように一度頭を下げるとさらに先に向かって歩きだした。それを見送り、残りの四人は建物内へ入る。
天井が高く、吹き抜けになっている。ロビーのような広々とした空間を抜け、奥にあるカウンターに着くとネルは部屋を確認した。空きは三部屋。
「一緒に来たあの人たちはここにある軍の詰め所に泊まるのよ。同じ軍人でもヤンナは私たちの護衛なので一緒なの。ええと、貴方たちはまた同じ部屋でいいのかしら?」
一人話を進めようとするネルに、昨日同様それでいいだろうと深くも考えず頷きかけた葵を遮って莉央ははっきりと言った。
「私、葵君とは別がいいです」
予想外の言葉に驚き、小さく目を見開いた葵とは対照的に、莉央がそう言い出すのを分かっていたかのようにネルは静かに頷いた。
「ではリオはヤンナと一緒の部屋でいいかしら。私と一緒では何かあったとき対処出来ないから」
そして葵に向き直り、今度は薄く笑みを浮かべる。
「貴方はどうする? 自分の身くらい自分で守れるならば一部屋取るけれど。もし勝手の分からない場所で一人になるのが不安なら私と同室でも構わないわよ」
子供扱いしているのか、莉央の前でバカにするような言い方をされた葵は条件反射のように「一人でいいです」と少しふてくされた表情を浮かべ、三人から視線を逸らした。直前目に入った莉央は、葵の方を見ようともしない。それがまた、腹立たしい。
しかし一番の苛つきの原因はそこにはなかった。問題は、異郷の地で互いに頼る相手もいないというのに相手の信頼を失うような浅慮を侵す己の未熟さである。
(わかっているんだ。俺が悪い)
どうして他の異性に対するときと同じように接することができないんだろうと先ほどと同じことを自問しながらも、葵は意識もせず拳に力を込めていた。
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