6
※※※
遮るもののない窓枠から差す日の光に莉央はうっすらと目を開けた。少し上体を起こし光源を目に捉えると、そこに見える景色を覆うように薄い靄がかかっていた。まだ朝の早い時間帯なのだろう。
慣れない寝台の軋み、ごわつく麻のシーツの感触に何度と無く寝返りを打ったせいで、普段はさほど寝起きが悪くないのに今朝はすっきりとしない。上段に寝ている葵の寝息がかすかに聞こえる。規則正しく刻まれている様子から目覚めるのは当分先だろうと見当をつける。
冷気に身を縮こませながら静かに床に足を落とし靴を探る。素足でローファーを履くと不快な硬さを感じたが仕方がないと諦めた。昨夜は暖炉の熱で部屋の中は暑いほどだったので靴下を脱いでいた。枕元には置いていない。
古いオイルランプにはまだ火が残っている。それを種火にして寝る前に葵に教えてもらっていたやり方をなぞり暖炉に火をくべた。着火用の細い紙の束に火を移し、櫓のように組んだ炭の下に差し込む。不慣れなせいかスムーズにはいかなかったが何とか小さい赤が踊り出す。ほっとしたところでオイルが切れたのかランプの火が消えた。すると室内は思ったより暗くなった。まだ太陽は大分低いところにあるようだ。
すっかり冷えてしまった体を震わせながら再び寝台に潜り込む。自分の残した温もりだけでは冷たくなった足の温度が戻りきらない。しかしまだ部屋の中は冷え冷えとしていて、暖炉の前に座るのにも躊躇する。
ぶるりと身を震わせると思ったより大きな音を立てて寝台が鳴った。少し古ぼけているから、ねじか何かが緩んでいるのかもしれない。思わず息を潜め、葵の寝息が変わらないのを確認してから体の力を抜いた。
さほど時間を待たず、頬に当たる空気が熱を帯びつつあることを知る。これならもう寒くはないだろう。どうせ体を横たえていても眠りが訪れはしないだろうとわかっている莉央は、葵が眠っている間に服を替えることにした。
寝間着は軍の支給品の余りを借りた。もともと男性ばかり、しかも屈強な者達ばかりの場所である。本来なら首周りを暖かく覆う作りなのだが莉央が着れば片側の肩までずり落ちそうになる。それを裁縫道具を借りて仮止めして着ていた。当然袖は幾重にも折り畳まなければならなかったし、着丈に至っては三十センチ以上上げてもまだ引きずりそうになる。
机の上に置いてあった裁縫箱から小さなナイフを取り出し首元の糸を切る。着替えといってもさっと泥を落としただけの制服しかないが、この様子だと寝間着はともかく服を借りるのは、大は小を兼ねるとはいえさすがに無理だろう。
念のため葵の寝息をもう一度確認し再び寝台に戻る。腰掛けても頭がつかえてしまうので背中を丸めて寝間着の下にスカートを履く。そのまま上半身も寝間着の中で着てしまおうとしたが、だぼだぼのそれはかえって着衣の邪魔になって着替えにくい。
仕方なくもう一度葵の寝息を確かめ、変化が無いことを確認してからなるべく音を立てないように寝間着を脱いだ。キャミソール一姿になり、まず片手で裾をまくって痣の様子を見る。見た目は昨日とさほど変わらないが触らない限り痛みはなくて安心する。そして今度は両手で裾を伸ばしてみる。
思ったよりも疲れがあって横になったが最後起きあがることができなかった昨夜、浴室が兵士達と共同ということもあり入浴は遠慮した。汗をかくような陽気でもなかったし、また男達との遭遇の可能性があると思うと憂鬱で一日くらいいいかと思ったのだが、やはり気持ちが悪い。
普段油絵の具の臭いに囲まれている莉央は、その臭いを落とすため、よほど体調を崩している時以外は毎日欠かさず入浴をしている。制服にもスチームを当て、消臭材を撒いてできる限り臭いをリセットしようと試みる。それが当たり前なので、やっていない、しかも下着すら着替えていない自分に違和感があるのだ。
(昨日はバイトだったし、そんなに臭わない、よね?)
鼻に近づけてくんくんと嗅いでみるが、自分ではよくわからない。せめて体を拭くくらい、と思っても洗面はトイレについているものしかないので一人で行くのも躊躇われる。一番気になるのは臭いを含みやすい髪だったが、これを洗うとなると長さもあり体を拭くよりも時間がかかる。そもそも手元にあるのはスカートのポケットに入っていたハンカチだけなので色々考えたところで実行に移しようがない。
はぁ、と小さくため息をついて手を離し、制服を手に取り直す。もぞもぞと羽織り、前のファスナーを上げきったところで葵の声が聞こえた。
それは寝返りか何かの時に漏れる吐息程度で、声といっても言葉や何かとは違うずいぶん無防備なものだった。けれどもそれを耳にした莉央はくすりと笑ってしまった。
(ちっちゃい頃と一緒だ)
幼い頃はそれぞれの家で三人泊まりがけで遊んだものだ。その頃から気になっていた。寝入りばなや夜中、寝返り程度でも葵は眠りが浅くなると必ず「ふうぅん」と声を出す。
体を動かすことが好きな葵は寝つきも良く、すぐには眠りに落ちない晃流と二人で聞く度に笑った。本人には秘密の話だった。
莉央の中のいたずら心が顔を出す。寝ているから大丈夫だろうとの安心感からきたのだろう。普段会うときの葵は大抵顔をしかめ不快感を露わにしているが、睡眠中もそうなのだろうか。確認してみたくなる。
静かに寝台から降りる。部屋の中は既に暖かい。上段の葵には少し暑いくらいかもしれない。
ローファーを軽く足に引っかけると立ち上がり、そっと葵の寝顔を覗いた。しかし柵と上掛けのせいで向こうに向いている顔までは見えない。
(起きないよね)
梯子に手を掛け、一段登ってみる。そしてもう一段。高さが少し怖い。上段の手すりを掴み握りしめる。気持ち体を乗り出すようにすると葵がちょうどあの声を上げながら寝返りを打ったところで、莉央は思わず固まってしまった。
(あ、でも。やっぱり葵君、ちっちゃい頃と一緒)
微かに開く口から寝息が漏れている。いつもしかめられている眉頭は気持ちよさそうに延びきっていた。幼い頃と変わらない。その姿にまた笑みがこぼれた。
(昔は優しかったのになぁ)
晃流は未だに優しいが、葵だって子供の頃は負けずに優しかった。晃から与えられる優しさは年の離れた姉がいるせいか、母親や父親から感じるのにも似た家庭的な、守られていると感じられるものだったのだが、葵は男兄弟に囲まれていたせいか、同じ優しさでも男らしい優しさだった。粗野で、乱暴ではあるが、莉央を家族的なものではなく一人の女の子として扱ってくれていた気がする。
最近は目線を逸らすことが当たり前になっていた。まともに葵を見返せばひどい言葉に泣きそうになる。いつからなのか心当たりはあるが、理由は分からない。
(晃流くんに、彼女ができたとき)
ずっと優しかった葵が莉央を避けるようになった。話しかけてくることがなくなり、こちらから声をかけても二言三言で終わってしまう。そして段々と会うことがなくなり疎遠になった。幼心に嫌われてしまったと胸を痛めた。そのせいで近づくことができなくなった。葵の姿を見ても素っ気なくされることが辛くて声をかけなくなった。
それから、小六の夏休み。あのときのことは思い返すことも戸惑われる。葵がなにを思って行動したのか未だに真意を測りかねるが、結果莉央は心に大きな傷を受けたし、生じた友人との亀裂は埋められないまま時だけが経った。そして、葵の態度はますます硬化していった。
こんな風に近くで寝顔を見ていられたあの頃が懐かしい。今のような特異な状況にならなければ、再び葵の無防備な顔を目にすることなどなかったはずだ。けれどもそれに感謝することは当然なかった。
ただこのほんわりとした胸の奥の、久方ぶりに感じた温もりをすぐに手放すのは惜しい気がした。幼い頃を思い起こさせる懐かしさと、知ることのなかったはずのものを知る新鮮味。
今 葵が目を覚ましたらどう思うだろう。
(びっくりする? 怒る? 怒鳴られちゃうかな)
こちらを向いた葵と、それをのぞき込む莉央。互いの顔の間隔は三十センチもない。それは意図したものではなく、単純に足をかけた梯子の高さと、葵の寝ている位置のせいである。この距離は不可抗力と言えば言えなくもない。そんな言い訳を頭に浮かべた莉央は一人苦笑いを浮かべた。どう想像を巡らせても怒り顔以外の葵の姿が浮かばない。
浮かべた苦笑いに呼吸が混じる。葵の姿を見てもいつものような嫌悪感が無いのはきっと、無防備な寝顔のおかげだ。起きてくればまた意地の悪いことを言われるに違いないのだが、今は考えなくてもいい。
(なんか、思い出しちゃった)
幼稚園の頃、少し独特な色彩をまとう莉央の絵を先生たちはよく誉めてくれた。
「莉央ちゃんの描いたチューリップ、とっても素敵ね」
「先生もこんな綺麗な色の鳥さん飼ってみたいな」
その言葉に単純に喜び、暇さえあれば絵を描くようになった。引っ込み思案で思ったことを言葉に出すことが苦手だった莉央にとって、絵は言葉に等しかった。それを分かってもらえることが嬉しかった。
しかし小学生になって描いた絵は真逆な反応を受けそんな莉央を打ちのめした。担任だった五十代のベテラン教師は、個性的な色使いを見てこう言った。
「どうしてこんな色で塗ってしまったの?」
口下手だからといって、理解力が無いわけではない。口に出すまでに人の何倍もその意味を吟味する。その分与えられた言葉に含まれる字面以外のものを敏感に読みとってしまう。担任もさほど深い意味を持って言ったのではなかったのだろうが今までとは違う否定的な言葉に莉央は戸惑った。
言葉としての意味を解していなかったまだ幼いクラスメイトはそれでも莉央の反応は敏感に察したらしい。落ち込む様子を見せた莉央が先生に非難されたのだろうと考え、それをからかい出す。
その場だけで済めば大したことにはならなかっただろう。しかし特定の生徒が何日も何日も繰り返し莉央に構う。そのたびに莉央は泣き、担任が駆けつけからかっていた生徒を叱っていたのだが、一向に状況は変わらず、次第に担任も放置するようになっていった。
「その顔なんだよ」
学校帰りにまたからかわれ、泣きながら帰った日。たまたまマンションのエレベーターの前で葵に会った。言いたいことをうまく言えない莉央は、その場でまた泣いた。しゃくりあげながら話す莉央の言葉を辛抱強く聞きながら葵は頭を撫でてくれた。慰めの言葉は無かったが、莉央にはそれで十分だった。
翌日の休み時間、またからかわれた。いい加減に皆は飽きたのだろう。からかってくるのは特定の男子だけになっていた。けれども莉央にとっては誰が言ってくるかは関係なかった。自分の絵をけなされた、それが悲しい。
またべそべそと泣き出す。クラスのムードは一気に白けた。毎日同じことの繰り返しで、皆うんざりしていたのだろう。しかし止めてくれる者はなく、泣き声をさらにからかう声が教室に響くだけだ。
そんなとき、突然教室の扉が勢い良く開かれた。
「お前らなにやってんの」
鋭い声が室内を貫く。思わぬ上級生の登場にクラスはしんと静まり返った。声の主はそのまま黙って莉央のそばまで歩み寄り少し強引に腕をひく。
「職員室行くぞ。お前らもこいよ」
顎をしゃくり、有無を言わせず莉央の腕を掴んだまま数人の生徒を従え職員室へ向かった葵は、莉央の担任がいないにも関わらず入り口で大声で言った。
「先生、こいつら毎日莉央のこと泣かせてるのでどうにかしてください」
教頭が飛んできて、すぐさま隣の応接室に連れていかれた。穏やかに促され、莉央が事情を話す。泣かせた子供たちもばつが悪そうな顔をして非を認め、最後に担任がその場に呼ばれた。
担任はそんなつもりで言ったのではなかったと弁解し謝罪をした。莉央は先生に頭を下げられ大変なことになってしまったと狼狽えたが葵はけろっとした顔をして言い放った。
「先生もこいつらも、莉央の絵の良さがわかんないなんてたいしたことないよな」
その言葉に教頭は笑った。
「莉央さん、頼もしいお兄さんが幼なじみでいいわね」
そのときの嬉しいような誇らしいような気持ち。それはずっと莉央の胸の奥にあり続けた。避けられていた間も、それこそ小六のあの時までずっと。
目の前の寝顔にその頃の面影を見つけ、同時にその頃の思いを蘇らせる。
「葵くん」
ごく小さな声で名を口にした。起こしてしまったら怒るだろうと分かっていたので、本当に微かな声だった。呼びながら、こんな風に穏やかな気持ちでその名を放つのはどのくらいぶりだろうと考える。
目を覚ます気配のない葵に、もう一度だけ呼びかけてみる。こんな機会、そうはないだろうと思うと一度だけで終わらせてしまうのはもったいない気がした。
その瞬間葵の目が開いた。ぱちっと音が聞こえそうなくらいの勢いである。驚きすぎて動くこともできず、莉央はその姿勢のまま固まる。固まった肩に手が回る。声が出ない。力が込められる。上体が引き寄せられる。声が出ない。顔の距離が縮まる。声が出ない。唇が近づき、その距離で吐息が触れた。
「葵くん!」
ようやく出せた悲鳴にも似た莉央の声に葵の瞳が一度閉じ、再びゆっくりと開いて
「莉央?」
そう呼ばれると同時に加えられた力が弱まり、莉央は慌てて梯子を降りようとして足を踏みはずした。
「バカお前……!」
罵倒と同時に伸びてきた手が素早く制服の襟を掴み、バランスを崩しかけた莉央を支える。重みに引っ張られるように勢い良く葵が上体を起こし、代わりに莉央はゆっくりと床に足を着くことができた。
はぁ、と大きなため息が二人の口から同時に出た。寝起きの葵は状況がいまいち飲み込めないまま、とりあえずの文句を言おうと口を開く。
「お前何やって……」
「あ、葵くん離して!」
被さるように高い声が耳を突く。まだ寝ぼけたままの脳はなぜ莉央がそんなに焦っているのかを理解できない。けれども少しの不快を込めた目線を送って、そうして納得した。納得と同時に覚醒もした。
「っ、悪い」
素直に手を離し、莉央が乱れた制服を慌てて直すのを眺めていた。不可抗力だったが普段見ることのない部分がはっきりと見えてしまった。見えてしまったものは仕方ないし、自分のせいでもないと半ばふてくされたような気持ちで莉央の顔に目をやると、耳まで赤くしている。
「もう朝?」
何となく気まずい思いを誤魔化すように聞いた。莉央はこくんと一つ頷くと、上段を見上げた。眉間にしわが寄っている。なんだか必死な様子だ。
「ありがとう」
その一言になぜそんな顔をするのか分からない葵は「ああ」とだけ返し「大丈夫だったか?」と付け足した。
「うん。あの、起こしちゃってごめんなさい」
「いや、ちょうど目が覚めたところだったし」
体を大きく伸ばした葵に莉央はあからさまに表情を緩めた。そこで葵は先ほどの表情に合点がいった。寝ているところを起こしたから怒られると思って怯えていたのだろう。しかし合点がいったところですっきりはしても気分は悪い。
(どれだけビビってんだ)
そうは思ってもわざわざ言うほどでもない。葵は頭をがしがしと乱暴に掻くと、もう一度体を伸ばした。そしていたずら心から、ぽつりと言ってみる。
「なに、俺の寝顔にみとれてた?」
瞬間、先ほどの赤みがようやく引いたと思った莉央の頬に再び朱が走った。
「あ、あの、ごめんなさい!」
それきり後ろを向いてしまった莉央を葵はぽかんとして見送った。
「え、いや。別に……」
そのまま互いに無言になる。莉央はわざとらしく荷物を確認する振りをして、話を続けることを拒否してみせる。下手に口を開けば葵が怒り出すだろうとビクビクしている、それが手に取るようにわかる仕草だった。
葵はそんな背中を眺めながら今の出来事を反芻していた。服から覗いた形の良い膨らみ。昨日も目にしたが状況が違う。今は密室に二人きりだ。そのせいか、妙に生々しく感じる。
(思ってたより……)
冬物の制服は体のラインを緩やかに包み込んできたが、素肌の描く曲線はもっと動きがあった。オーソドックスな形のキャミソールの中、ほんの少し覗いていたさほど色気を感じさせないシンプルなレースの施されたブラジャー。
まるで胸が膨らみ始めたばかりの少女がつけるような下着だ。実際それを目にしたことはないが、少なくとも女を感じさせないという点において差違はないだろう。しかしその大きさに対してはアンバランスなように感じられた。
「……そっか」
葵は一人納得したような声を出し、まだ耳に赤みの残る莉央は怪訝そうな顔で視線をよこした。
「どうかした?」
まだ怒られるのではないかと不安がっている様子を残す莉央に、葵は無自覚なまま極上の笑顔を見せる。訳が分からずきょとんとした莉央に構わず葵は
「こっちのこと」
そう締めくくり再びベッドに勢い良く身を投げ出した。
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