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※※※




 ネルからの話というのは翌日からの大まかな行程についてだった。兵たちの起床時間に合わせて起きること、朝食は自室に運ばせること。準備に二時間ほどの時間をとり、ネル、ヤンナの他に数名の同行者と共に町を目指す。ここまでの道中でも聞いてはいたが森を抜けるまでは徒歩で約二日、町から王城までは馬車に乗り三日ほどかかるという。


 一人部屋に戻った葵は暇を持て余し、火をくべた暖炉の薪を何とはなしにつつきながら今日の出来事を思い返していた。莉央はネルの自室に連れていかれ、今は治療を受けているはずだ。


「あつ……」


 エアコンなどの暖房機とは違う直接肌を炙る熱に顔をしかめポケットの中を探る。学校帰りだったため制服の上に指定のコートを羽織っていたはずだが気がついたときは身につけていなかった。手にしていた荷物もどこへいったのか近くにはなかった。しかしそれは不幸なことではない。葵の荷物同様、莉央や晃流のものも見あたらなかったのだ。三人分があの路地にそのまま落ちていれば不自然すぎる。少なくとも家出などではないと家族も分かるだろう。事件性があるとなれば警察の捜索も逼迫したものになるのではないだろうか。


 おそらくここが日本のどこかである確証があれば葵もそんな考え方をしなかっただろう。交番を探して駆け込めば自分たちも晃流も何とかなる。その程度の楽観で済ませたかもしれない。だがあいにくとそんな悠長な事態ではないことは分かっていた。


 窓が暖気でくもり始める。見慣れているようなつるつるとした薄いガラスではなく厚みと歪みがあるものだが指で文字を書けるくらいには平らだった。葵はそこに指を這わせる。


「フォルスブルグエンド。バロックとバロック贔屓の王子、王政。スポット。国境警備隊。コーネリア・ルイトカ。近衛師団長のヤンナ。絡んでるのは隣の国の女王、腹心がエリアス。エリアス・アドラー、それと……」


 思い出せるだけ思い出し、口にしながら書き綴っていく。しかし言葉と同時に指が止まり口角が微かにあがる。


「晃流、政治的要人。……ってどんだけ大げさなんだよ」


 浮かべた笑いはすぐに消えた。さらわれた身にどれだけの安全が保障されているというのか。今出来ることはネルの言葉を信じることのみ。そもそも自分たちがどんな状況なのかすら把握できていない。そんな中、気になるのは莉央の反応だった。


 疎遠になっていた間、全く関心がなかったわけではない。自ら距離を置いたとはいえ、決定的な決別のきっかけとなったあの小六の時のコンビニでの出来事以来、逆に莉央に避けられるようになった葵は、互いの関わりの主導権が自分ではなく莉央に渡ったことを認めたくなくて必要以上に冷たく接した。あくまで避けているのは自分からでなくてはならない。それは単純に年上だからとか、男だからとか、そんなちっぽけなプライドを守りたいがためだけの理由である。


 莉央が同じ高校にいると知ったのは、晃流の口からだった。元々穏やかな晃流は葵ほどあからさまな、いわゆる反抗期というものがなかった。そのため子供同士には多少の距離があったとしてもそれほどの変化はなく、莉央や葵の両親とも緩やかな交流を続けていた。ゆえに情報源はほとんど会うことのなくなった莉央ではなく、その母親だ。だが晃流の口から莉央の進路を知った葵は何ともいえぬ悔しさを感じた。八つ当たりに近いものだ。それが尾を引いた。そんな理不尽にも近い感情のせいで未だに莉央に冷たく当たることをやめられなかったのだ。


「俺が攫われるべきだった」


 無意識に近い呟きに気づき、ふっと息をもらす。莉央と晃流は付き合っているのだから、もちろん一緒にいた方が心強いに違いない。ましてや莉央は葵に怯えている。


 森の中で目覚めてから今まで、そんな短い時間の中でもそれははっきりとわかった。少しきつい言い方をすれば、莉央は押し黙る。葵に莉央を傷つける意図などない。こんな状況でそんな必要もない。慣れない環境に対する苛立ちが出ているだけで、むしろ今は日常の感情など切り捨てている。


 しかし莉央は葵に対してほとんど言葉を発しなかった。もちろんネルに対してもだし、ヤンナに至っては言葉自体が通じないのだから話しかけすらしない。元々人見知りがあることを知っているのでそれには納得できた。ただ、特異な状況下に置かれているにも関わらず唯一同じ立場にある葵とすらろくに口をきかないのは不自然だ。


 少しだけ後悔の念が浮かぶ。自身も戸惑う心境の流れがあった。高校生になった莉央。絵が評価され本人にも注目が集まり始めたことで他人に慣れてきたのか、当たり障りなく人とつき合えるようになった。羨望と異性からの好意、逆にひねくれた生徒からの嫉妬。色々な感情を向けられた莉央が身につけたのは柔和にみえる愛想笑い。反して一人の美術室でキャンバスに向けられる真剣な、思い詰めたようにも見える横顔。


 昔はオドオドしていて自分の意見をろくに言えないことが気に入らなかったのだが今は違う。言葉を飲み込むのは変わらないが、感情を隠すことばかりが上手くなった、それが分かることに苛立つのだ。


「自分だけで手一杯なのにあいつの面倒までみられるかっての」


 梯子に手をかけ二段ベッドの上階に体を横たえ目を閉じた。わざわざ昇るのは手間ではあったが葵は莉央が高い場所を苦手に感じていることを知っている。思いやりというよりほとんど無意識に近い感覚で葵はそちらを選んでいた。










 同じ頃、莉央は治療を終えたところだった。


「単なる打ち身ね。良かったわ、酷い状態じゃなくて」


 ベッドに腰掛けているネルに見せている横顔が熱を持っていることに気づいている莉央は気まずく笑い返した。そして自身の向かいに置かれた椅子から立ち上がった相手に頭を下げる。


「ありがとうございました」


 処置を済ませ、使った湿布材を片づけながらヤンナが会釈を返す。相変わらずほとんど表情は変わらない。しかし莉央の方はそうはいかない。


 手当は医師か、もしくはネルにしてもらうつもりでいたのだ。しかし「私、怪我とかよくわからないもの」の一言でネルはあっさりと処置をヤンナに丸投げした。


「彼と、さっき揉めた相手のような下品な男とどっちに診せたい?」


 元々不便な森の奥の駐屯地の為、医療従事者は常駐していないというこの場所では、それぞれが入隊の際に簡単な治療などに関する知識を教え込まれている。だから誰もが素人に毛が生えた程度ではあるがそれなりの処置を行える。しかし莉央に与えられたのは選択しようのない選択肢のみである。


 診察の間中、莉央は脇をさするように行き来するその体温に羞恥を感じていた。中途半端な知り合いに体を触られるということに対する気まずさもある。もちろんそこに他意がないことくらい分かっているのだが感情は簡単にそうとは割り切れない。ヤンナが若く精悍でありながらまずまずの美形であるのも一因だ。




 診療が終わりようやく緊張で強ばっていた体の力を抜く。痣にはなっていたが数日ほどで薄くなるだろう。痛みも湿布の薬剤のおかげかだいぶ和らいでいる。体が見えるほどではないが少し捲りあげていたために皺が寄った制服の裾を延ばす。




「リオ、少し聞きたいことがあるのだけれど」




 服を直し終えた莉央が立ち上がろうとするのを制すると、ネルはヤンナの座っていた椅子に腰掛けた。同時にヤンナは別室に姿を消す。


「アオイとあなたはどんな関係?」


「幼なじみです」


 躊躇なく答える様にネルは納得して頷いた。


「ではヒカルは?」


「幼なじみ、です」


 僅かに言い淀んだ莉央に、ネルは首を傾げる。


「どんな関係?」


 一言一言を区切り、丁寧に再度畳みかけるように問いかけるが、莉央は当たり障りのない言葉を選んで返す。


「ただの幼なじみなんです。三人ともすぐ近くに住んでいて、小さい頃は結構仲良くしてもらっていて」


「今は? アオイはあなたに対して少し冷たく見えたわ」


「普段ほとんど会わないのでそのせいかもしれません」


 嫌われているんです、私も嫌いなんです。莉央としてはそう答えたいところだったが、わざわざ言うことではない。


「ヒカルとは?」


「……晃流くんとは、それなりに」


 付き合っていると出会って数時間の他人には言いづらく、莉央は言葉を切った。付き合うまでの過程を口にするつもりはなかったし、晃流がこの場にいない今、許可なしに彼氏だなどと紹介するのは躊躇われる。莉央の中ではどうしても付き合わせているという感覚が強く、堂々と宣言する気にはなれない。軽く嘘をつけるほどさばけてはいないのだ。


 ネルはふうんと相づちともつかないような息を吐き、ゆっくりと立ち上がった。同じタイミングでヤンナも部屋に戻ってくる。一人だけ座ったままなのもおかしい気がして莉央もそれにあわせて椅子の脇に立った。


「彼らのことはいいわ。あなたたちと一緒に入れば関係性も追々分かってくるでしょうし。それより私にはもっと気になることがあるの」


 目の前に真っ直ぐ歩み寄ってくるネルに少し後ずさる。プライベートスペースに侵入されそうになったための当然の反応である。しかし一、二歩下がっただけで背中に何かが当たった。壁ではない。二人は部屋の中央で話していたはずだ。


「っ、ごめんなさい」


 ヤンナの胸にぶつかってしまったことに気づき、慌てて謝る。しかし詫びながらも不自然さを感じる。部屋に入ってきたばかりにも関わらず彼がここまで素早く移動ができる理由。それは意図的な行為によるはずだ。そう思い当たったときには両肩を掴まれていた。


「ヤンナさん?」


 見上げた先に立つ男から与えられる力は決して強いものではないし、表情は相変わらず穏やかだ。しかし拘束には違いない。ネルはゆっくりと距離を詰め、静かに手を伸ばしてくる。


 莉央の胸に、真っ直ぐに。


「これ、どこで手に入れたの?」


 胸、正確にはその位置にある制服の胸ポケットだったのだが、手を差し入れ取り出されたジッパーの付いた袋に莉央は驚いた。


「貰いもの、なんですけど」


 蒔田が披露したマジックの小道具である青い花びらが数枚入っているだけでネルからみて価値があるものだとは到底思えない。しかしヤンナはやんわりとした力だとはいえ莉央が逃れないように肩を押さえており、ネルに至っては完全なる尋問口調だ。


「あの、これが何か……?」


 目の前に持ち上げ中身を袋越しにまじまじと眺めるネルが無言な為に莉央は戸惑い小さく消え入りそうな言葉を発することしかできなかった。下手に刺激をしてはいけないような気がする。根拠がなくとも確信に近い何かを感じていたのは、肩に触れるヤンナの手の感触が食堂のときよりも固いからだ。


「これ、大切なもの?」


 しばらく声も出さないままだったネルが囁きかけるように問い、莉央はそれに幾分か安心して頷いた。袋を持つ手がするりと目の前にくる。


「お守りみたいなものなんです」


 受け取ろうと手を差し出して、しかしその瞬間、それは目前でくしゃりと音を立てた。ネルの手の中で、静かに握りつぶされたのだ。


 言葉も出ないまま呆然と見つめる。確かに視界に捉えていたはずのその行為。しかしなにが行われたのかが全く理解ができない。


(今、わたし大事って言われて頷いたよね。え、でも、あれ?)


 軽いパニックに陥ったまま立ち尽くす莉央の肩に上から軽い力が掛かる。全く抵抗できないまま膝が落ちるが、尻餅をついた位置はずいぶん高くて、いつの間にか腰をかける位置に椅子が用意されていたことに気づく。


 だが、莉央はすぐに立ち上がった。すでに涙目になっているが自覚はない。ないまま食ってかかろうとしてしかし、絞り出した声に力はなかった。


「大切なんです。どうして……」


 蒔田の笑顔が浮かぶ。


 お守りがわりに、どうかな?


 声が蘇り、あの時感じた安心感が霧散していくのを感じた。動揺したままの莉央に対し、ネルの表情はずいぶんと冷たいものになっていた。


「出来損ないのバロックの力が残っている。これを渡した人間はあなたとどんな関係なの?」


 突き返された袋の中身は粉々になっていた。小西が触れたときと同じ、吹けば飛んでしまいそうな砂塵ほどの細かさである。にじむ視界の中、唐突にその不自然さに気づく。


「なんで……?」


 小西の時はスケッチブックが花びらの水分を吸い取り乾燥していたせいだと思って気にもとめなかった。しかしこれを蒔田から受け取ったときにはまだ瑞々しく摘んだばかりのようにしっとりとした感触を持っていたのだ。密封された袋の中、カビが生えることが無かったことも不思議ではあったが、それ以上にここまでさらさらとした粉末になるはずはないことは莉央にも分かる。


「これはバロックの力で作られた人工物だから、ある力を加えれば中和されて元の形に戻るの」


 された説明は分かったような分からないようなものだった。未だ呆然としたままの莉央にネルは困ったように微笑む。


「さっき、この辺の磁場に異常が見られたって言ったでしょう。バロックはこの世界の人間でないせいか空間に気配を残すの。それはだんだんと薄れて淡くなるのだけれど消えはしない。そして本人だけでなく作ったものにも気配を残す。今のものを作った人間をおそらく私は知っているわ。そして王子も。だから消さなければならない」


 だから、の意味が分からないまま莉央は頷いた。その拍子に目尻に溜まっていた涙が頬に落ち、その感触で我に返る。顔の横に後ろから白い布が差し出された。しかし受け取る気にはならない。ネルとヤンナ、二人に対して徐々に解けてきた警戒心が莉央の中で再び構築されつつある。


「リオ、私たちを疑うのは良くないわ」


 そんな心情の変化をネルは察したらしかった。伝わる涙を莉央が手の甲で拭う様を眺めながら薄く笑みを浮かべる。ヤンナが再び肩に力を込めたためにかくんと膝を落とした莉央は、もう立ち上がろうとはしなかった。


「でも疑われても仕方ないかしら」


 同意を求めるようにのぞき込んでくる青い瞳を見返すことも出来ず視線を足下に落とす。それを気にする様子もなくネルは言葉を続けた。


「じゃあ、少しだけ教えてあげる。この国がバロックを保護することになった経緯と、その目的を」


「目的……?」

 遠慮がちに目を上げた莉央に、ネルは柔らかい笑みを見せる。先ほどの愛想笑いのような感情のこもらないように感じさせたものとは少し違う、どこか安心したような表情に見えた。


「ええ、別に慈善事業ではないわ。こちらもある目的の為にバロックを保護している。けれども目的の遂行にはあなたたちの意志が必要になる。私たちが無理強いしては成り立たないことなのよ」


 話の先が見えず相づちを打てない。しかし興味はわいてくる。ただ守られるだけだと思っていたからこそ遠慮が先に立っていたが、相利共生ということであれば莉央としても気が楽だ。


 そんな莉央の心理を見透かしたようにネルはゆっくりと頷く。そして口を開いた。


「私たちはバロックの中にいるはずのある人物を捜しているの。インタージャーと呼ばれる存在。バロックの中の、完全体をね」

















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