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王城からの馬車はかなり大きめの造りで一台につき寝台が四つ備わっている。民間でも使われている長距離用の馬車だとネルに教わった。寝具は動物毛が入っているのか少しくせのある臭いをまとう。けれどもふわふわとたっぷりの空気を含んでいて暖かい。
莉央と昨夜同じ部屋で共に時間を過ごしたヤンナとの間に特別なことはなかった。言葉が通じないため話すこともないし、そもそもこの男は室内に居たといっても出入り口近くの椅子に陣取り、ずっと守り番でもするかのように動こうとしなかった。
莉央は少しの気まずさを感じながらも足の痛みや体の疲労に耐えきれず、夕食を終えるとすぐに眠ってしまった。同室の人間には失礼極まりない話だが、会話も出来ないまま時間を持て余すよりは互いにましだっただろう。
「馬車で三日だけれど、乗り心地は悪くないと思うわ。で、悪いけれどこちらはアオイと一緒になるわ。でも私とヤンナも一緒だから我慢してもらえるかしら」
朝一のネルの言葉に莉央は素直に頷いた。二日も言葉を交わさないでいるとだんだんと落ち着いてきて、あそこまで怒る必要はなかったと思えてくる。言い方は悪かったが、根底には莉央を心配する気持ちがあったのだろう。葵は元々それほど冷たくはなかった。
ただ、素直にそう思うには屈辱的な言葉だったのは確かだ。
身支度を整え、既に到着を知らせられていた馬車の元へヤンナと向かう。するとそこには既に皆が集まっており、どうやら莉央たちが最後のようだった。
「ああ、来たわね。じゃあ乗ってちょうだい」
ネルの影に立っていた葵は、莉央を見ると顔を背けた。莉央の気分は落ち着いたといっても、明らかに葵の方が強情だ。しばらくはこんな態度をされるのだろうと思うと朝から憂鬱な気分になる。
朝の挨拶すら交わさずに葵は馬車に乗り込み、莉央もヤンナに促されるまま後に続いた。
車内はさすがに広くはない。ちょうど寝台電車のような幅の狭いベッドが左右二段に配置されており、それぞれ厚手の布で仕切ってある。中央には長いすがあるが、基本的には自分のスペースに居ることを前提に作られているようだった。
「私たちは軍の人たちとの打ち合わせをしてくるからゆっくりしていて」
一緒だから安心してと先ほど言ったばかりの本人はあっさりと後ろに続く馬車に乗り込む。もちろんヤンナも一緒だ。
そして当然葵と二人きりにされた莉央は戸惑いを隠せない。
葵はちらりと莉央を見たものの先に乗り込み当然のように長いすに腰かけ、後に続いた莉央は自分をどこに置くかに迷う。
葵の座る長いすは小さなもので、二人で腰をかければかなり密着した状態になる。かといってベッドに入るには横たわるしかなくそれにも抵抗があった。この馬車は通常、就寝時のみに使われるものなのだろう。起きてくつろぐには不向きなように見える。
乗り込んだもののそこから中に踏み出せないで立ち尽くす莉央に葵は再び目をやると、一つ大きなため息をつき立ち上がった。
「座れば」
気だるそうな物言いに葵の怒りが収まっていないことを察した莉央は慌てて首を振った。
「葵くん座ってて」
けれども葵はその言葉が聞こえていないかのように床に腰を下ろす。莉央は黙って葵の正面に体育座りをした。もちろん膝の下に手を入れスカートが落ちないように気を使う。
「何で椅子に座んないの」
「一人だけ座ってても落ち着かないもの」
「確かにな」
ふっと笑い、長いすに肘をつく。その表情があまりにも柔らかかったので莉央はまた戸惑った。
「もう怒ってないの……?」
「はあ? 怒ってたのお前じゃないの?」
「うそ、葵くんが怒ってたもん」
「怒ってねぇよ」
「だって……」
「悪かった」
腑に落ちない思いで食い下がった莉央に葵が詫びた。思ってもみなかった言葉に思わず葵の顔を凝視すると
「睨むな」
ばつの悪そうな表情で目を逸らされる。
「に、睨んでないよ」
「いいや、睨んでる」
「睨んでないもん……」
消え入りそうな声で言った莉央にまだ葵は柔らかな表情を湛えている。調子が狂う。ここ最近こういったやりとりがなかったからだと思ったが、そもそも落ち着いて話す機会自体が皆無だったことに気づく。
「なんか、葵くんとこんな風にするの久しぶり」
「こんな風って?」
「ちゃんと顔見て話してる感じ」
「何それ」
不思議そうな顔の葵に微笑み、莉央も丁度肩の高さにある長いすに頭を凭れかけた。
葵からの屈辱的な言葉に対して無条件に許せる気はまだしない。そもそもそれは二日前の言葉だけでなく、今までにも何度かあったことだし、積み重ねがこの短い時間に払拭されるはずもない。
けれどもこの世界に来て最初に迎えた朝、眠る葵を見たことでそれ以前の懐かしい気持ちを思い起こしたことは莉央にとって大きな変化だった。
正義感の強かった幼い頃の葵の姿。泣かされる莉央を庇ってくれるのはいつだって葵だった。もっとも不器用さがたたって慰めるのは苦手だったため、その役は常に晃流のものだったのだが。
ーーすぐ泣くからからかわれんだよ。堂々としてろ。
いじめっ子を負かした後、よくそう叱咤された。怒られてしまったとまた泣き出す莉央を見かねた晃流が葵を止める。三人はいつでもそんな風だった。
「晃流のやつ、どうしてるかな」
遠い記憶に浸っていた莉央は、示し合わせたようなタイミングでもう一人の幼なじみの話題を切り出した葵に少しの驚きを感じた。繋がっている、そう思ったからだ。
「ネルって女の話だと、隣の国の奴らに連れていかれたんだろう? 政治的利用ってことは、この国と隣の国は何かしら対立してるってことで……。本当に無事でいられると思うか? もし何かしらの交渉材料として使われたとしてそれが失敗したとしたら」
「葵くん!」
最悪の言葉を続けようとする気配に莉央は黙っていられなかった。自分たちのいた世界から離れて四日。未だここが別世界だということを完全には受け入れきれないまま時間を過ごしている莉央にとって、頭の片隅には常にありつつも深く考えることを避けていたことでもあった。
「晃流くんはきっと大丈夫。お願いだから変なこと言わないで」
異世界への望まぬ跋渉。一方的に与えられる処遇。理解しがたい現状に、唯一同じ立場である葵の口から出ようとする非現実。それに緊張の糸が震え、一気に切れた。
「莉央」
泣いてもどうしようもない。そうは思っても堰を切った涙を止める術はなかった。膝に顔を埋め葵から泣き顔を隠すことが莉央にできる精一杯である。
ーーこのくらいで泣くな。
記憶の中にある葵の怒ったような声が蘇る。きっとあの頃みたいに怒られてしまう。そうは思ったが一度切れた糸を繋ぐことは容易ではない。涙は次から次へと溢れだし、スカートに染み込んですぐに不快に膝を濡らしていく。
その時、頭にふわりと何かが乗った。
「莉央、泣くな」
葵に慰められている。初めての経験に、顔を膝に埋めたまま目を見開いた。けれども葵の予想もしなかった行動は今の莉央にとっては逆効果だった。
「どうしよう。晃流くんに何かあったらどうしたらいいの? 葵くん、怖いよ」
かろうじて不安を押さえてくれていた堤防が思いがけない葵の行動で完全に崩壊してしまった。目の前にある葵のズボンの膝を掴み、力一杯握りしめる。
葵は莉央の行動を止めようともせず、頭を撫でていた手をそのままゆっくり涙で冷たくなった頬に滑らせた。
「慰めるのは晃流の役目だろ。俺はこういうの苦手なんだよ」
気まずそうに目を逸らし、けれども頬に触れた親指で何度も伝い落ちる滴を拭ってくれる。その指先の温かさに乱れた莉央の心もゆっくりと落ち着いてくる。
「まあ晃流のことだから、どこでもうまくやるだろ。案外隣の国の女王ってのをたらし込んでるかも知れないし」
場を和ませるつもりで言った言葉だったが、ふと気づき葵は顔をしかめた。
「まあ、お前とつき合ってんのにそんなことしないよな」
慰めるつもりが墓穴を掘ったとでも言いたげな葵の様子がおかしくて、莉央はまだ泣きやまないまま顔を緩めた。
「そっちの方がいいよ」
その言葉に葵は不思議そうに莉央をみる。
「女王様を誘惑して晃流くんが無事に帰ってこれるなら、メロメロにしちゃえばいいの。晃流くんなら出来そうだね」
「メロメロって、言い方婆臭いなお前」
「うそ」
両手で口を押さえて目を泳がせる莉央に葵も思わず笑ってしまう。
「でも、本当に晃流くんなら出来ちゃいそう。だって晃流くん学校でも人気あるもんね。私も沢山元カノさんに会ったし」
「沢山って、何人」
「ええと」
莉央は指折り数え「五人?」と呟く。
「あ、でももっと居るのかも。私が会ったのって、大体下校の時間帯だし。部活やってる人だときっと会わないよね」
「それ、そんなあっけらかんと話すことか?」
「え、どうして?」
わかっていない莉央に葵はため息をついた。
莉央が下校時に会うということは、同じ高校の生徒ばかりだということだ。高二の二学期の終わりで五人。最低に見繕っても一学期間に一人、いや、莉央が夏からからつき合っているはずだから、もっと多かったということだろう。取っ替え引っ替えということだ。そこまでくると、うらやましいを通り越して呆れるしかない。
「普通元カノとか会いたくないもんじゃないの」
「え、そう? 晃流くんの元カノさんってみんな明るくて優しいんだよ。この前ゴミ捨てに行くときに会った人なんか、重そうだねって一緒に持っていってくれたの」
葵が知っている晃流の元彼女は二人だけだったが、そう言われれば確かに二人ともタイプが似通っている。明るいというか、どちらもサッパリした性格だった。元彼氏に対してさほど執着がないから、今の彼女である莉央に対してそんな風に振る舞えるのかも知れない。
しかしそれを嬉しそうに報告する莉央の態度は少し違うだろうと男である葵でも思う。
「お前嫉妬とかしないわけ?」
まるで予想外のことを言われたように驚いた顔をした莉央は、それでもにっこり笑う。
「嫉妬する資格なんかないもの」
その言い回しに葵は疑問を感じたが、そこでネルの声が割り込んできたので二人の会話は終わってしまった。
莉央にも葵の言いたいことはわかっていた。好きなもの同士でつき合っていたのなら、当然相手の異性関係にはやきもちをやくのだろう。けれども莉央と晃流はそうではない。
元々葵への対抗心のようなものから始まったつき合いであることは莉央にも分かっていた。莉央が葵の態度に落ち込んでいるのをみて、慰めてやろうという意図で晃流が切り出したことも。
(だから私は晃流くんのことを好きになっちゃいけない)
晃流に他に好きな人が出来たらすっきりと別れに応じられるような関係でいなければならない。晃流がつき合おうと言ってくれたのは、落ち込んでいた莉央を支えようと思ってくれた晃流の優しさであって、異性への好感とはまた別のものだ。
正直に言ってしまえば、別れてもなお仲むつまじい様子の元彼女たちに複雑な思いはあった。けれどもそれは、晃流に初めての彼女が出来たと聞かされた日に感じた気持ちとさほどの相違はない気がする。幼い頃のように無条件に甘えることを許された相手を取り上げられてしまうのではないかという寂しさや不安感だ。
(私、勝手だな)
軽い自己嫌悪に陥りながら膝を抱えなおした莉央には、ネルとの会話を終えた葵が自分をどんな目で見下ろしていたかなど考える由もなかった。
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