3
「すいませんでした」
悔しさを感じながらも頭を下げる。力がないのは確かだ。
「いいえ、私も少し意地悪なことを言ったわ。ごめんなさいね。でも、信じてちょうだい。私は貴方たちを助ける為にここにいる。王城に行けば王子の庇護を受けられるのよ。右も左も分からないこの世界で何よりの力を得られる。貴方たちにとって、とても大きなメリットになるわ。お友達のことも、救い出すために尽力します」
「お願いします」
莉央が立ち上がり頭を下げた。葵は屈辱的な気持ちを隠し同じように頭を下げた。しかしそれは言いくるめられたという悔しさとは少し違っていた。本人にもよく分からない、少しの苛立ちと焦り。
「他のことは追々話していくとして、今日のところはこの辺でいいかしら。ここで一泊して、明日の朝王都に向かいましょう。森を抜けるまで二日ほどかかるけれどその間は軍の方が護衛をしてくださるそうなので安心してちょうだい。ここを抜ければ小さな町があるの。そこから交通機関を使って、三日ほどで王都よ」
「ちょっとした旅だな」
葵がため息混じりに呟く。晃流のさらわれた地点から離れるのは得策だとは思えなかった。だが、自分たちが無力なのは事実だ。受け入れるほかない。
そんな様子を少し眉尻を下げて女は眺め、そして口調を改める。
「改めまして、私の名はコーネリア・ルイトカ。ネルと呼んでもらって構わないわ。貴方たちは?」
「曾根崎葵と、沢良宜莉央です」
「ファーストネームはアオイとリオでいいの? あの子は?」
女、ネルが指すのが晃流のことなのはすぐに分かる。
「芝形晃流です」
「アオイに、リオ、ヒカルね。分かりました。今日は離れの建物に泊まります。部屋は別の方がいいかしらね」
そうですねと言おうとして何気なく莉央を見た葵は言葉を止めた。不安そうな表情。じっとこちらを見つめてくる。それで言いたいことはおおよそ分かった。
「一緒でお願いします」
「そうね、お嬢さんも不安でしょうしね。分かりました。ヤンナ、ご案内してもらえる? 私は隊長さんとも話があるから」
ヤンナと呼ばれたのは先ほどの北欧系の容姿の男だった。深く頭を下げ、ネルに何かを言うと莉央の背に手を添える。葵が思わずその手首を掴み取ると少し驚いたように目を開いた。
「彼に他意はないわ。女性をエスコートしようとしただけよ。でもボディータッチは遠慮させるわね。二人とも抵抗がありそうだから」
ネルは出口の付近で立ち止まった三人を見てクスクスと笑った。戸惑いキョロキョロと目を泳がせる莉央と明らかにいらついた表情の葵、ついでに言えば先ほどから大した表情を見せなかったヤンナの僅かな感情の変化のすべてが彼女にとっては新鮮で物珍しいものだったのだ。
今度は後ろに回らず先に立ったヤンナに導かれ建物を後にした。外の空気が爽やかな心地よさから身体に凍みてくるような温度になっているのに気がつく。太陽の恩恵はすでになく、ところどころに灯された松明の明かりを頼りに歩いていくのだが、その心許なさが嫌が応にも二人に日常から隔絶された世界であることを意識させる。
案内されたのはさほど距離のない場所にある、しかし随分大きな建物だった。どうやら宿舎らしい建物の中をヤンナはほとんど後ろの二人を見ることなく歩いていく。時折立ち止まり、壁に配されるドアを開け何かを言うが葵たちには分からないのでいちいちのぞき込み確認するほかない。トイレ、浴場、食堂などを一通り回り、一番奥まった部屋に通された。
ドアからのぞいて正面に見えるのはカーテンのない窓。その横には無骨に見える二段ベッドが置かれている他に簡素な机がある。飲食用と言うよりは書類仕事に使うのだろう。一台ずつ壁に向けて置かれていた。二人が足を踏み入れるとヤンナは扉の前で頭を下げ扉を閉めた。葵と莉央はただ顔を見合わせるしかない。
「ネルって人じゃなきゃ、案内されてもなぁ。分からないことも聞けないし」
ぼやきながら葵はベッドの下段にゆっくりと身体を横たえた。莉央は椅子を引きベッドの方へ向けると、静かに腰を下ろした。
「靴脱げば。道悪かったから疲れただろ」
「う、うん」
莉央は少し迷ったようだったが素直に従った。腰掛けたまま身体を屈め締め付けから解放された足先をさする。ローファーで歩くような道ではなかったのだから疲れていないはずはなかった。
二人は一時無言になる。落ち着いたところで意気込んで話し出すには状況が特異すぎた。ひとまず与えられた静けさの中で互いにこの短い時間で起こった出来事を反芻する。
「……お前、どこまで信じてる?」
「ん?」
「あの、ネルって女の話」
「……」
莉央は足下から視線を上げた。葵の顔はベットの上段が作り出す影のせいでよく見えない。
「私、あの人の言ってたこと殆ど分からなかった。理解は出来るんだけど実感が全然ないんだもの。こんなところにいるのにおかしいかな」
土を固めたような作りの壁。木枠の窓は風が吹く度にカタカタと音をたてる。机の天板には木の節目があり磨き込んではあるものの取りきれない凹凸が残っている。今時、樹脂や加工板を貼りつけた合板の天板は高くなく手に入るのにも関わらず。インテリアとしては質素すぎる机。実用物だろうがこれでは余りに実用的ではない。
「こんなの見てると、なんか普通じゃないとは思うんだけどね。でも異世界っていうのはやっぱり信じられないの」
「同感」
葵がため息混じりに言葉を吐き出しそのまま沈黙してしまったので、莉央は手持ちぶさたに立ち上がり靴を履き直すと室内を観察し始めた。もっとも観察するにも部屋は狭く物がないためさして時間はかからない。立て付けの悪い窓から吹き込む冷気に身を竦ませ、その脇にある壁とは別の素材、煉瓦で作られている出っ張りに目を向ける。
「これ、暖炉かな。初めて見た」
「暖炉?」
火ははいっておらず、燃えかすもない。真っ白でさらさらとした灰だけが中央に小さく盛り上げてある。煉瓦の囲いは煤がついておらず、元々の赤茶けた色を留めていた。要するに使用した形跡がないのだ。
「点けたら怒られるかな」
「それ以前にどうやって点けるんだよ」
薪も火種もない。莉央は納得いかない様子で頬を僅かに膨らませる。葵にもその気持ちは分かる。緊張が解けたせいか、先ほどまでさほど気にならなかった気温の低さが肌を冷やしていく。
「飯の支度できたら呼ばれるだろ。そのとき聞けばいい。ネルって人も来るだろうし」
「そうだね」
莉央は暖炉に向かい屈めていた上体を起こすとまっすぐ扉に向かった。キィと金具のきしむ音に気づいた葵が僅かに顔を動かす。
「どっか行くの?」
「……えっと、トイレに……」
「ついてったほうがいい?」
恥ずかしそうに顔を逸らした莉央に、葵もそれ以上は言わなかった。同性ならばともかく、異性からの提案だ。聞いた方にしても何とも言えない気まずさがある。こんな状況でなければ請われたとしても付き添いなどする気にはなれない。しかし莉央もそれは分かっているのだろう。
「ありがとう、でも近いし大丈夫だよ」
律儀に返事を返し、部屋を出ていく。葵は何とも言えないむずがゆさのようなものを感じて寝返りを打った。
廊下は壁に等間隔に据え付けられている松明のお陰で暗くはなかったが、ゆらゆらと揺れる灯りはその照度の割に見る者の不安さを煽る。
部屋を出た瞬間には葵の付き添いを断ったことを後悔した莉央だが何とかトイレに駆け込み、しかし中の様子に戸惑った。個室がない。壁に向かい細長い穴が三つ並んで掘ってあり、その脇に板が置いてある。様式としては和式のトイレと同じなのだろう。板があるのが足置きということだ。
(無理、絶対無理!)
だが今他に一人になれる場所があるかといえば思いつかない。
(どうしよう……)
莉央はきょろきょろと周囲を見回し、入り口の脇に僅かに身を隠せそうな場所を見つけるとそこに身体を預けた。そして、少しほこりっぽい制服の胸元のタイを外すと前開きのファスナーを下ろし、下に着込んでいた薄手の肌着の裾をそっと上げる。
「やっぱり……」
右肋の下方が青く変色している。緊張していたからか先ほどまでは少々の違和感で済んでいたものが、部屋に入って落ち着くと同時に痛みを訴え始めていた。おそらく骨に達するような怪我ではない。だが普段痣を作るような場所でもないので痛みの度合いで怪我の規模を知ることが莉央には難しい。
「本当に落ちてきたみたい」
ネルの言葉を思い出し一人ごちる。着地は右半身からだったのだろうか。目覚めて最初に感じた頭の痛みも右側だった。
外に人の気配はない。静けさの中薄暗い場所に一人立っているのは少し怖い。しかし葵と同室の室内でこんな風に服をたくしあげて身体を確認することは出来ない。
莉央はもう一度痣を見やり、その周囲を押したりさすってみたりして怪我の様子を確認した。だがそのうち気温の低さに鳥肌が立つ。
「本当にトイレに行きたくなったときどうしよう。ここじゃ無理だよ……」
ため息混じりに呟いてみる。当然のように答えはなかった。
寒さにいそいそと肌着を下ろしセーラーのファスナーを上げようと手をかけたが、かじかみ始めた手では上手く噛み合わせることが出来ない。莉央は少し慌てる。するとさらに難しい。暗さも手伝って、普段なら簡単な作業がはかどらない。
そのうち廊下の方からガヤガヤと声が聞こえてきた。一人や二人ではない。響く足音、その乱雑さから男性のものだろうと推測された。
莉央は思わず息を止めた。服の袷を手繰り、胸元にかき集める。トイレはおそらく男女共用だろう。中に入ってこられたら、入り口からは死角になるものの出るときには嫌でも目に入る位置だ。見つからないとは思えなかった。
服を直している暇はない。幸い与えられた部屋はさほど遠い場所ではない。そこまで行けば葵がいる。一人見ず知らずの他人の前でこんな姿を晒すよりは葵に事情を話して自室で落ち着いて服を直す方がいい。
そう決めた莉央は、思い切ってトイレから走り出た。
だが、運が悪かった。莉央は声の様子から団体が少し遠くから歩いてくると思っていたのだ。だとすれば自分たちが案内されたほう、トイレから出て左側から来るのだろうと。莉央たちの部屋はもう少し先、右に向かったところにある。走り出てしまえば、彼らに見せるのは後ろ姿だけのはずだった。
しかし実際には男たちは右側からきていた。と、いうより両側からだった。ちょうど右も左も数人の男たちに囲まれた状態になり、足を進めることも叶わず立ち止まってしまった莉央は、当然のように注目を浴びることとなった。
服がはだけていることは恐らく気づかれていないだろう。なるべく前かがみに身体を小さくし、意を決して部屋の方へ歩きだした莉央だったが、大して広くはない廊下一杯に歩いてきていた彼らが道を譲ることはなかった。不審そうな表情を浮かべ莉央の行く手を遮る。
「あの、通してください」
通じないだろうことは分かっていたがそれでも言わずには入られなかった。
(大丈夫、陸軍ってきっと警察みたいなものだし)
根拠のない理屈をつけて自分を落ち着かせる。
目の前にいた男の一人が何かを話しかけてくる。言葉は分からないが尋問口調であるのは伝わる。怪しまれているが答えようがない。
沈黙の返事にため息をついた男は、突然莉央が胸元に置いていた手を掴み勢いよく左右に広げた。
そこに何かを隠し持っているとでも思ったのだろうが、実際には何もない。ただはだけた制服の合間から薄手の肌着が露わになっただけだ。腹部はしっかり覆い隠している。ただ、アウターの襟刳りから見えるのを避けるために胸元だけは少し深めに開いており、そこにある二つの膨らみを強調するように谷間を露わにしていた。
卑しげな歓声が起こり、口笛が聞こえる。異世界と言われた場所でもこんな時の反応は変わらないらしい。
(私なんかそういう対象じゃない。からかわれてるだけ。大丈夫。すぐ離してくれる)
必死に自分を納得させようとするが、相手の反応がそうはさせてくれない。捕られた腕を軸に簡単に反転させられ背中で押さえ込まれてしまう。
後ろで両手を拘束され、背筋を伸ばされると肌着が露わになった。思わず体を前に屈めようとしたが、そうすれば開いた胸元から下着が見えそうになる。それよりはましだろうと仕方なく体を伸ばしたまま、与えられる力に従順になった。
年の頃は二十代前半だろうか、正面にいた若い男が顔をのぞき込んでくる。莉央は冷たい空気を感じる胸元にどうしても意識が向いてしまい相手の表情まで目にする余裕もなくただ顔を赤らめる。
相手の口からもれる言葉はやはり全く理解のしようもなかった。答えられず、羞恥に耐えながらその瞳を見返した。目は口ほどにものを言うということだし、もしかしたら何かを察してくれるかもしれない。そんな淡い期待からだ。
結果としては全く役に立たなかったらしく、男は嘲笑のような笑みを浮かべ躊躇無く莉央の胸元から服の中に手を突っ込んだ。
いや、突っ込もうとした。
直前、男の手の動きが止まる。誰かに手首を捕まえられていたのだ。莉央がそれに気づいたときには、周囲の男たちが皆廊下の脇に避けていた。ど真ん中に立つのは莉央と拘束する男、服の中に手を入れようとした男とヤンナだった。
ヤンナが男の手を目の高さにまで持ち上げ何か言葉を掛けると、先ほどまで浮かべていた笑みを瞬時に引っ込めた男は慌てたように後ろに下がり最敬礼をしてみせた。
しかしされた本人である莉央は予想していなかった展開に、拘束されていた手が解放されたことにも気づかずぽかんとしている。
我に返ったのはヤンナが上着を掛けてくれた瞬間だった。騒ぎが聞こえたのだろう。さほど遠くない、与えられた自室から葵が廊下に出てきたのもそのタイミングだった。
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