第2章

1 僻地

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 雨上がりの朝のように湿度が高く、それでいて澄んだ空気の中に植物の出す微かに甘い香りが混じる。少し肌寒さを感じるが、不快なものではない。高原や、あるいは森の中に身を置いたかのような心地良さに酔う。


 寝起きのようにぼんやりとした頭の中。右前頭部が少し痛むせいか考えるのが億劫だった。それでも徐々に意識が冴えてくるとまず体の重みを感じた。何かがのし掛かっているといった外的なものではなく、倦怠感から来ているようだ。そして自分が固い地面の上に横たわっていることに気づく。


 どんな状態なのか全く理解できないまま、莉央は薄く瞼を開いた。するとまず視界に入るのは生い茂る雑草と土肌。少し頭を持ち上げると、周りは木々に覆われ鬱蒼とした森のような場所であることが分かる。そして二メートル程離れたところに自分と同じように横たわる人間の姿。


「葵くん?」


 その姿を認めた途端、頭痛など消えた。意識のすべてがぐったりと体を投げ出す葵に向かったからか。慌てて起きあがると景色がぐるりと回る。急に体を動かしたためだ。しかし揺れる視界を無理に押さえ込むと、よろけながらも何とか葵の側にたどり着く。


 手でそっと土にまみれた頬に触れる。少し冷たいが、それは気温が低いせいだろう。ざっと見た限り怪我はないようだ。胸が規則的に上下するのを確認し、ひとまずは安堵のため息を漏らす。


「葵くん。ねぇ、起きて」


 そっと肩を揺すってみる。幸いにも浅い眠りだったらしく小さく呻いた後、葵は目を覚ました。だが、それと同時に走るのは緊張感。久しぶりに会った、自分を嫌っている幼馴染に対して無意識に構えてしまう。


「ここ、どこ……?」


 いかにも寝起きらしい片言の喋り方のせいか、いつもの葵とは違って見えて莉央は少し気が楽になるのを感じた。しかし問われれば、ようやく目に入る日常の中から外れた現実。


「わ、からない」


 改めて周りを見渡す。先程は視覚に認めたものを脳に伝達する余裕がなかった。特異な状況の中で優先したのは見知った人間の安否確認。それが当然だろう。


「莉央、晃流は?」


 言われて気づく、直前まで一緒だった幼なじみの存在。目に捉えられる範囲に姿はない。


「晃流くんも一緒なの? 私たちどうしてこんなところにいるの?」


 思い返してみるが、莉央が覚えているのは光に包まれたところまでだ。葵に腕を掴まれ、晃流も同じようにしようとして、しかし触れるに留まったあの瞬間から記憶がない。


 葵が口を小さく動かしたが、言葉は出なかった。周囲を落ち着きなく見回した後、考え込むように足下に視線を落とす。だが意を決したように顔を上げると莉央を見つめる。真剣な眼差しに、いつもだったら見つめ返す事などできない葵の瞳を真っ直ぐに見返した。その口が開くのを静かに待つ。


「学校帰りにお前と晃流を見かけた。往来のど真ん中で抱き合ってただろ」


 ややぶっきらぼうにも聞こえる葵の言葉には剣が混じっている。


「ちが……」


 暗い私道で晃流に抱きしめられたときの事だろう。実際にはそういった類のものではなかったが、否定するのもおかしいので言いかけた口をつぐむ。意図は違えど周囲からはそう見えるのだと改めて認識させられた莉央は羞恥に顔を赤く染めた。葵はそれを目にしながらも言葉を進める。


「声をかけたら邪魔だろうと思って黙って脇を通り過ぎようとしたんだ。そうしたら晃流が急に騒ぎだして、何かと思ったらお前が変な光の粒みたいなのに囲まれていて……」


 そこで言い淀み、口をつぐむ。慎重に言葉を選んでいるようだった。莉央はせかすことをせず「うん」とだけ相槌を打ち葵の言葉を待つ。


「目の錯覚かもしれないけれど、お前の輪郭が光の中で薄くなっていくみたいに見えて、慌てて腕を掴んだんだ。晃流もそうだと思う。俺たち二人が同じ行動をしたんだから、あいつが一緒に倒れていてもおかしくない」


 しかしそんな推測とは裏腹に晃流の姿はない。


「捜そう。ここがどこかは晃流が見つかってから調べればいい」


 言いながら携帯を取り出した葵は舌打ちした。


「電波来てないな。こんな森の中じゃ当たり前か」


 莉央も倣って携帯を取り出す。会社が違うのでもしかしたらと考えたのだが、莉央の携帯もアンテナは立っていない。


「私と葵くんがこれだけ近くにいたんだから晃流くんもそんなに遠くにはいないよね」


「一緒にここに来たんならな」


「手分けして捜す?」


「こんなところではぐれたら困るだろうが。一緒に行くぞ」


 そう言うと葵は歩き出す。莉央は慌てて後ろについた。だが、数歩歩いたところで足を止める。


「どうした?」


「何か、音が聞こえるよ」


 耳を澄ませるとぱきりと枝を踏む音と、落ち葉のこすれる音。どうやら足音のようである。


「誰かが来るのか」


「晃流くん?」


 警戒色を強めた葵とは反対に、莉央は顔を輝かせた。こんな鬱蒼とした森の中で、警戒すべき相手に出くわすよりは近くにいるであろう晃流が来る確率の方が高い。その直感に従い、莉央は足音に向かおうとして葵に止められた。


「馬鹿、熊とかだったらどうすんだよ」


「うそ、熊なんかいないよ」


「ここがどこか分からないのにいないなんて言い切れるか」


「でも……」


 がさりと一際大きな音がして目の前の草がかき分けられると同時に、男が現れた。


 褐色の肌に黒い髪、猫のようにつり上がった目は緑色に光っている。身長は葵より頭二つは大きい。その肩に担がれている人間の足には見覚えのあるブーツ。


「晃流くん!?」


 思わず叫んだ莉央に男はゆっくりと目を落とす。そして何かを話しかけてきたのだが、言葉が通じない。英語でも、フランス語でもない、全く聞き覚えのない言葉だ。


 そして戸惑う二人に構わず、その手を差し伸べてきた。


「葵くん、どうしよう。晃流くんのこと助けてくれたのかな」


 ついてこい、とでも言われたのかも知れない。男は手を差し出したまま動こうとしないし、莉央と葵も戸惑ったまま突っ立っている。


「……晃流を助けてくれたんだったら、俺たちにも悪いようにはしない、か?」


 葵の言葉を受けて莉央が手を伸ばそうとした瞬間、目の前を何かが走り男が素早く飛び退いた。


「莉央!」


 一瞬遅れて葵が飛び出し莉央の腕を引く。その勢いで、二人はバランスを崩し、地面に倒れ込んだ。間髪入れずに莉央の手を男が掴む。一人抱え込んでいるとは思えない俊敏な動きに、葵の動きは追いつかない。莉央に至っては何が起こっているかも分からない様子で為すすべもなく引き起こされる。


 そこに男の鋭い声が響いた。目の前の男とは別の声、それに続いて女性の声もしたが、こちらは二人にも理解できた。


「我々は国境警備隊です。こちらはフォルスブルグエンド領になります。不法に国境を越えた場合、我が国ににおける国境法により裁かれることになります。政治的事由に依っては斬首刑。個人的事由に依っても最大で無期限の禁固刑が課せられます。以上を踏まえた上でこちらの占有領土内での誘拐を強行するのであれば」


 続く言葉を無視し褐色の肌の男は莉央を無理矢理引きずろうとする。国境警備隊と名乗った男女の姿は確認できたがまだ距離が離れており、その動きを遮る事はできない。何とか葵が立ち上がると果敢に男に向かったが、あっけなく弾き飛ばされる。力の差は歴然だった。

 

「晃流くん起きて! ねぇ、晃流くん!!」


 必死に抵抗しながら莉央は晃流に声をかける。ちらりと見えた、金髪を後ろに纏めた弦の細い眼鏡をかけた女の言葉を信じるならば、褐色の男は不法入国を企てた上に誘拐まで働こうとしていることになる。今一番危ないのは晃流だ。だが全く動く様子がない。


「エリアス・アドラー! 警告はしたわ。まだバロックを狙うならばあなたを待つのは死よ」


 女の言葉と同時に、金髪の男が莉央とエリアス・アドラーと呼ばれた褐色の男の間に割って入った。強く掴まれていた腕を無理矢理引きはがされ、莉央は痛みに思わず声を上げる。


 金髪の男は地面に刺さる何かに手を伸ばす。先ほど莉央の目の前を走ったものだ。無意識に視線を移せばそれば細身の剣だった。


 エリアス・アドラーは何かを叫び、金髪の男もそれに応える。すでに解放されているにも関わらずそれを至近距離で呆然と眺めていた莉央の肩を葵が押す。


「突っ立ってるな、逃げるんだ!」


「でも晃流くんが」


「あいつよりお前が捕まる方がまずいだろ! 晃流の方が機転が利く。逃げられる確率が高いんだよ!」


 言いながら背中を押し男たちから距離を取る。金髪の男は攻め込んでいくが、エリアスも腰から、こちらはもっと重量のありそうな剣を抜いた。だが防戦に徹している。晃流を担いでいるためだろう。それでも人を担いでいるとは思えない身のこなしで攻撃をかわし、そのまま森に姿を消した。


 晃流が気になる莉央は何度もエリアスの方を確かめようとするが葵が振り返るのを許さない。仕方なくがむしゃらに足を進める。しかしすでにそこには女が回り込んでいた。手にした短剣の刃先をこちらに向けている。


「あなたたち、事情を聞かせてもらってもいいかしら」


 莉央が言葉を発する間もなく、後ろを歩く葵に腕を引かれた。当然女にも警戒しているのだ。導かれるまま方向を変えようとしてしかし、体を向けた先には先ほどエリアスと戦っていた金髪の男が立っていた。


 さすがに前後を武器を携えた人間に固められていては逃走のしようがない。葵は莉央の腕から手を離したが、不安に怯える莉央は無意識のうちに葵に身を寄せていた。


「別に手荒なことはしないわ。貴方たちを保護しにきたのよ。状況、全く分かっていないんでしょう? だったら言うことを聞いた方がいいと思うけれど」


 女は自信に満ちた顔で笑った。


「葵くん……」


 莉央は不安から小刻みに震えた手で葵の袖を掴む。嫌われているのが分かっているのに頼ってしまう自分の弱さを嫌悪しながらも、見知らぬ場所、誘拐された晃流、そして武器で脅される今の状況、そんな特異な場面を一人で乗り切る強さなど持ちえない。


 怯える莉央の手に葵は自分のそれを重ねた。こちらも指先まで冷えきっており緊張していることが伝わる。けれども莉央は自分を嫌っているはずの葵が応えてくれたのが心強かった。


 葵は莉央の手を一度力強く握りしめた。そして口を開く。女を睨みつけ挑むような視線をぶつける。屈する気はないとしらしめるために。


「確かに俺たちは状況が何一つ分かっていません。誰かに頼らないとどうにもならないことも分かります。だけど刃物を向ける相手を信用していいとは思えません」


「それはそうね」


 女は手にしていた短剣をあっさりと投げ捨てた。後ろの男もすでに刃を鞘に納めている。


「彼は職業柄手放すことは出来ないの。でも私はもう何も持っていないわ。何だったらそれ、貴方たちにあげても構わない」


 葵がいぶかしみながらも短剣に手を伸ばす。だが誰も止めはしない。拾い上げ、刃先を確認する。


「本物だ」


 ため息とともに吐き出される言葉。もちろん最初から分かっていたことなのだが、余りに非現実的なことが重なっていたせいで実感がなかったのだ。


「信用して頂けたかしら」


「俺たちを助けてください」


 深く頭を下げた葵に莉央も倣った。顔を上げた先に見えた女は満足そうに笑っていた。

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