7 始まり
全開口型の大きな窓は、夏は日差しを透かして室内を蒸し風呂状態にする。しかし今の時期には外の冷気を通して、フル稼働であらがうエアコンなどものともせず、容赦なく室温を下げていく。
建物の中にも関わらず完全防寒体制でイーゼルに向かう莉央は、寒さでぶるりと震え我に返った。
絵筆を手にしているものの、目の前にキャンバスはない。用意をしようにも、気がつくと手が止まっている。それは朝の晃流とのやりとりのせいに他ならない。
(何でつき合うって話になったんだろう)
もちろんその時は晃流の言葉に納得して承諾したのだが、よくよく考えてみれば互いに恋愛感情がないのだから仮のつき合いでも全く支障はない。
(女の子避け、とか?)
晃流がそれなりにもてることを莉央は知っている。なんだかんだとほぼ間隔無しに相手がいたらしい。そうなれば考えられることは恋愛がらみのいざこざか。
(でも困ってる感じじゃないよね)
一緒にいるときに「あれ元カノ」と教えてもらった相手も数人。しかし特にこじれた様子もなく普通に会話をしているところを見ると、毎回円満に別れているようである。とすれば特に好きでもない莉央をわざわざ彼女の座に据え置く必要などない。
(晃流くんは色々レベル高そうだもん。私みたいなのには分からないことがあるのかも)
無理矢理自分を納得させ考えることを放棄する。そして絵の具に手を伸ばすが、思考は再び同じ場所を回り、気づけばまた自分には理解できないとの結論に達する堂々巡りを、放課後蒔田の教室に来てから莉央は延々と繰り返していた。
そのうちコーヒーの香りが鼻を掠め、上の空だった意識が戻ってくる。芳香とともに流れ込んできたひんやりとした空気が頬を撫でていくお陰で悩み淀んだ周囲の空気の濃度が下がったような気になる。嬉しくなってカップを勧める蒔田に笑顔を見せた。
蒔田に対しては、幼い頃から培ってきた信頼感がある。しかしそんな相手にも関わらず、愚痴を漏らしたことはほとんどない。莉央の信頼の中には、恋にも似た感覚が含まれていた。嫌な自分を見せたくない。そんな見栄っ張りのような考え方はきっと珍しいものではない。
それにも関わらず、今日の莉央は我慢できなかった。朝の晃流とのやりとりに動揺しているのは分かっていた。
人前に出ることで今までに受けたのは好意だけではない。いわれのない悪意もぶつけられてきた。人というのは、良いことより悪いことの方が記憶に残るものだ。
他愛ない悪口だったとしても、耳にした本人にすれば簡単には流せない。莉央の自己評価の低さはそんなところからも来ている。そんな悪口を言われるような自分が異性に好かれるはずがないという、思いこみにも似た考え。それが晃流の言葉に、行動に疑問を抱かせる。
その日、蒔田は余計な慰めなどしなかった。珍しく愚痴をこぼした莉央に最初こそ慌てたようだったがそれだけだ。下手な慰めが欲しかったのではない。蒔田が作るその距離感が今の莉央には心地よかった。
最後に見せてくれた手品の花弁を数枚、蒔田は小さなサイズのジッパーのついた袋に入れて莉央に手渡した。
「役に立つとも思わないけどさ、お守り代わりに。どうかな」
鼻の頭を掻きながら照れたように手渡されたそれを制服の上着の内ポケットに納めた。心配させて申し訳ないと思いながらも、莉央は頬がゆるむのを押さえられなかった。蒔田は真剣に莉央のことを考えてくれている。それが伝わってくる。
「小西さんにも見せてみようかな」
「あいつなんか破れたこのきったないので充分だよ」
蒔田は床に落ちた花弁を拾って適当に莉央の手のひらに乗せる。それをそっと握り、手を胸元へ寄せる。手の下にあるのは内ポケットにある小さな袋。
(こっちは、誰にも秘密。私だけのお守り)
なぜだか、晃流への不信感は先ほどよりも薄れていた。
※※※
数日後の金曜日、莉央のバイトが終わり外に出ると店の前に晃流が立っていた。
学校帰りにそのまま店に入った莉央は今も制服だったが、晃流は分厚いダウンジャケットに足下もブーツで固めていかにも冬仕様だ。
店の入っているマンションは区画整理によって作られた建物なので、前の歩道は比較的広めにとってある。道を半分に分けるように大きな木が植えてあり、その周囲を囲むようにベンチが四脚、それが等間隔に三カ所配してあるのだが、それでも通行に支障がないほどに広い。
「どうしたの?」
がらがらのベンチに腰掛けるでもなく寒そうに体を縮こませながら店の真ん前に佇む晃流は不思議そうな顔で問いかける莉央の姿を認めると「迎えに来たんだ」と笑い、朝と同じように荷物を引き取った。
「どこか行くところだったの?」
「うん、コンビニ。一緒に行かない?」
「コンビニそこだよ」
マンションの一階には薬局、喫茶店、牛丼店、そしてコンビニエンスストアがある。一緒に連れ立って出かけるような場所ではないので莉央が首を傾げるのも当然だが、晃流の目当てはそこではないらしい。
「学校行く途中にあるでしょ。あそこのパフェ買いたくて」
別のチェーン店のイートインコーナーのメニューである。
「ちょうど莉央ちゃんバイト終わる頃かなって思ってさ」
「お店に入ってれば良かったのに」
「父さん、注文しないと追い出すから。金もしっかり取られるし」
苦い顔をする晃流が幼く見えて自然と笑みがこぼれる。そんな莉央を見て笑い返す晃流。寒さに固まっていた互いの顔の筋肉が自然と緩む。しかし、表情は緩んでも寒いものは寒い。晃流は縮こまる指を持ち上げ、ちょいちょいと小さく揺らし「近道しようよ」と提案した。
目当てのコンビニは通学路の途中、十分程歩いたところにあるのだが、通学時には通らない私道を抜けていけば数分短縮して行ける。私道とはいえ幅が二メートル弱あるのだが両脇が背の高い建物のせいで昼間でも暗いため莉央はほとんど歩いたことがない。
「晃流くん、よくここ通るの?」
「そうだね。葵もそうだよ。このくらいの時間に出るとちょうど部活終わりみたいで結構会うんだ」
「そうなんだ」
葵に会うかもしれない。そう考えると少し憂鬱になる。晃流と付き合ったと言ったときの表情。その時はさほど気にはしなかった。それどころか少しの優越感まで覚えてしまったのだが、思い返してみるとなんだか悪いことをしたような気がする。具体的にどうということもないのだが、あれ以来葵の顔を見られない。元々会うこと自体少ないのだが、美術室でも窓から遠い位置に座るようになった。テニスコートに目がいかないように。こちらの姿がなるべく見えないように。
「俺さぁ、ちょっと試してみたいことがあって」
「なに?」
「敵を騙すにはまず味方からっていうでしょ。莉央ちゃん、できるだけ驚かないで欲しいんだけど」
「敵って?」
「驚かないでね」
莉央の問いをはぐらかすように笑って念を押す晃流に、よく分からないまま頷く。晃流のことだ。敵とか驚くとか言っていてもきっと大したことではないのだろう。
「あ、来た」
何がと聞こうとしたが、晃流の方が先だった。
「莉央ちゃん、声出さないで」
言葉を耳にした瞬間、ふわりと抱きしめられた。前振りも何もない。驚かないでと言われたところで驚かずにいられるわけがない。この数年はほとんど触れたことのなかった相手からの抱擁に頭が白くなり、一瞬でパニックに陥る。同時に美術部での出来事、葵の同級生であるテニス部の平川大毅にされたことが頭を過ぎった。自分の意思で動くことを禁ずるかのように込められた力。それは小さな恐怖を呼び起こす。
「抵抗しないで」
思わず晃流の胸元を押しやろうとしたが、それを封じるように囁かれた。体が密着している。耳元に掛かる晃流の息が熱く感じるのは外気が低いせいに違いないのに急に与えられた温度のせいでぶるりと体が震えた。予想しなかった事態により興奮したせいか体中の血液が沸騰しているかのように感じる。顔から首、体中が茹だったように熱いのは冷気のせいなどではもちろんない。頭は言わずもがな、思考をする余裕もない。ただ冷静になるために
(晃流くんは怖いことなんてしない、晃流くんは怖いことなんてしない)
念仏でも唱えるようにそれだけを繰り返す。
考えてみれば幼馴染とはいえ晃流は異性だ。それを意識すれば今度は恥ずかしさで顔が上げられない。幼い頃にはこんな事もあった。しかしお互いに年を重ねてきて、その頃とはもう違う。だが、うっかり浮かんだ考えは照れ臭さと共にまた別の不安を運んでくる。
(晃流くん、友達夫婦みたいにって言った。手は出さないって言った。自惚れない。勘違いしない。そんな感情じゃない。大体私なんかにそんな事するはずがない)
長い抱擁でさすがに莉央の動揺も落ち着いてくる。しかしそうすれば持ち上がってくるのは劣等感。そういう対象に見られるはずがないという意識。
(動揺してバカみたい。晃流くんがする事に変な意味があるわけないのに)
そう考えると、先ほどまではのぼせそうな程にまとわりついていた相手の熱が徐々に心地よいものに変わってくる。他人の体温によってもたらされた焦燥は安心感となっていく。
(人の体って温かい。なんか気持ちいいな)
子供の頃を思い出す。晃流と葵と三人でいた頃を。足の遅い莉央は油断すれば二人に置いて行かれそうになる。泣きそうになると決まって手を繋いでくれた。その温もりに嬉しくなってぎゅっと握り返すと、晃流は優しく、葵は得意そうに笑ってくれた。
(あの頃はみんな仲良しだったのになぁ)
目を閉じ思い出に浸り、晃流の服をそっと握った。すると背中に回されていた手が髪を梳くように流れ出す。そっと見上げると、直ぐそこに見下ろす顔。
「子供の頃、思い出しちゃった」
声を出さないように言われていたので、音は作らなかった。唇を動かし、息だけで言葉を作ると晃流は少し驚いた顔をしてみせる。
「莉央ちゃんはもう、あの頃とは違うよ」
赤みを帯びた頬に浮かぶ笑顔、それでいて小さい頃のように屈託なく体を寄せる莉央に晃流は少し戸惑う。幼なじみの気安さから安易に恋人という立場に立ったものの、幼い頃との違いをそこかしこに認めてしまうのだ。
「莉央ちゃん、甘えてくれてるところ悪いんだけど、敵今あそこにいるんだよね」
莉央の意識を、というよりは自身の意識を逸らすために前方に目を移す。つられて莉央もそちらに目を向け体を強ばらせた。
「葵くん」
思わず晃流の腕をふりほどく。葵の方は見られなくて足下に目線を落とす。一瞬目にしたその表情には何も浮かんでいなかったが、莉央にはなぜだが怒っているように感じられた。
「なんか、予感当たったみたい」
隣で呟く晃流の言葉は全く理解できなかった。耳にはいるのはゆっくりとした足音。当然葵のものだろう。だんだん近づいてきて、そして莉央と晃流の横を通り過ぎようとしたとき。
「莉央ちゃん!?」
叫び声に近い晃流の声に莉央が、葵が顔を上げた。
「蛍?」
莉央の顔の横に小さな光が漂う。蛍のはずはない。今は十二月だ。しかも一つだった光の粒は分裂し、見る間に増殖しながら莉央の周りを囲み出す。
「何だこれ!」
いち早く異常な状況を把握したのは晃流だった。焦ったように光を手で払う。葵はその光景を凝視したまま動かない。莉央もただ呆然と光に見入るばかりだった。
片手ではどうにもならないと気づいた晃流は両手を振り回し光の粒を払い、倣うように葵も肩に掛けていたスポーツバックを投げ捨て異様な早さで動き回る光源を追う。しかし莉央は金縛りにあったように体を動かせないでいた。
そうこうしている間にも光は増え、視界が覆われる。同時に周囲と隔絶されたかのように無音に取り囲まれた。まるで衣服がはぎ取られていくかのように感覚がむき出しになっていき、光に包まれているというのに何故か身を切られるような寒さに包まれていく。ただ左胸の上だけがほんわりと温かかった。上着の内ポケットの位置である。
--お守り代わりに。どうかな?
「先生?」
無意識に呟いた瞬間、莉央はうつろになりかけた意識が引き戻されるのを感じた。まず音が蘇る。晃流と、葵の声。何かを叫んでいる。おぼつかない視界を鮮明にしたくて一度ぎゅっと瞼を閉じ、目を見開いてみる。
その瞬間、左腕をしっかりと掴まれた。まぶしく相変わらず不明瞭な視界の中だったが分かる。掴んだ主は葵だ。一瞬遅れて右手に晃流が触れた。
しかし、莉央に分かったのはそこまでだった。
強い光の中、体が、意識までがそこに溶けていくように思えた。感じたのは掴まれた腕の熱、それから胸を焼くような熱さ、それだけだった。
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