6 日常
朝、マンションのエントランスで待ち合わせる。たいていは莉央が先だ。二、三分ほど遅れて晃流が到着する。挨拶を交わして、キャンバスの入る大きなバックは晃流の手に。そのまま二人で登校する。
つき合い始めてそろそろ三ヶ月、葵に知られてから始めた一緒の登校は周囲にも二人のつき合いを知らしめるための重要な行動だった。
つき合うという行動に恋愛感情が伴っていればそれはごく自然に始まっていたことだろう。しかしお互いに気持ちは幼なじみを越えていない。ただつき合っているという言葉縛りがあるだけの曖昧な関係は、どちらかが意図的に行動を起こさなければ動き出さない。どちらかが、と言ってもこの場合晃流に限られる。莉央には異性との交際経験がないからだ。
「最近テニス部の人にからかられることなくなったの。きっと晃流くんのおかげだね」
莉央は機嫌良さそうにニコニコと笑う。朝からこれだけの笑顔を受けるのは気分がいいと晃流は自然と笑い返した。
「それは良かった」
莉央に対して異性としての感情はないが、こんな空気の中で登校するのは悪くないと思う。好意を押しつけられることの多かった晃流としては、お互いが自然体でいられる今の雰囲気が心地よい。莉央も同様だろう。莉央の場合は好意を好意として受け取っていなかったのだから尚更だ。
それに対して晃流はずっと不思議に思っていることがあった。
「莉央ちゃんってさぁ、今まで彼氏とかいなかったの? 結構もてそうな気がするんだけど」
素朴な疑問だ。見た目は申し分ないし、性格も積極的とは言わないが、大人しくてもつき合いにくいこともない。いかにも女の子といった雰囲気を持っている。こういうタイプが好きな男は多いだろう。実際、テニス部の男子からはアプローチも多かったようであるし。
「私みたいなの好きになってくれる人いないよぉ」
欠点らしい欠点といえばこれだ。自己評価の異常な低さ。それさえなければ相手は選び放題だろう。好きな相手がいないというなら話は別だが、それ以前に莉央は自分が他人から好意を持たれるに値しないと思いこんでいる節がある。極端に言ってしまえば対人恐怖症か何かの一種なのではないかと思うほどに、好意を否定し拒否している。だから異性からのアプローチを嫌がらせだと勘違いする。
「あのさ、前に話を聞いたときに思ったんだけど、その思いこみってもしかして葵のせい?」
莉央は黙って微笑んでいる。否定も肯定もしない。おそらく触れたくない話題なのだろう。しかしそれに気づきながらも晃流はなおも続ける。
「この前の話のせいなの?」
「ううん、関係ないよ」
それだけは答えたが「そういえば、昨日ね」と違う話題を持ち出される。晃流は仕方なく新しい話に相づちを打った。
この前というのは莉央と晃流がつき合うことになった日のことだ。その日、普段喫茶店などには縁遠いであろう高校生三人が来店した。
「莉央ちゃん、バイト中悪いんだけどちょっと時間ある?」
まだ部活は終わっていないはずなのに、ラケットバックを持った男子生徒たちはアイスコーヒーを飲みながらテーブルの近くを通る莉央に話しかける。
「何かご用でしょうか」
むげにも出来ず、小さな声で返すと「大事な話があってね」と真剣な顔をされる。どうしたものかと莉央が晃流の父親の方を見ると、なぜかにやにやしながら頭の上に両手で大きな丸を作っていた。
「マスターのOK出たじゃん。座ってよ」
向かい合わせに配される二人掛けのソファの空いている場所を示されたものの、さすがにそれは断りテーブルの横で膝を屈め姿勢を低くする。
「曾根崎先輩のことなんだけどさぁ。あ、知ってる? うちの部長」
「幼なじみなので……」
普段葵と関わることはほとんどない。話題に全く心当たりがなく目を泳がせ、三人を見回してみる。
三人とも一年で、そのうちの一人はクラスメイトだ。しかし話したことがない相手なので、特に注意を払うこともせず、自分を呼び止めた眼鏡の生徒に視線を戻した。
「そっか。やっぱり知り合いなんだ」
二人は納得したように頷き、もう一人クラスメイトだけは難しい顔をしている。莉央は困惑を隠せないまま黙って話の続きを待った。
「今日、朝練のとき莉央ちゃんが歩いてるのが見えたんだよね。だからいつも大荷物で大変だなって話してたんだよ。それがさ、普段そのくらいの立ち話なんかスルーのくせに今日に限って曾根崎先輩キレちゃってさ。何でだろうって考えたんだけど」
「はい」
話の主旨が掴めないまま返事を返す。と、突然クラスメイトが口を挟んできた。
「莉央ちゃんって先輩とつき合ってるの?」
「え?」
「バカ! テンパってんじゃねぇよ」
眼鏡が制し「つまりね」と話を続けた。
「普段無反応なのに莉央ちゃんに関しては過剰反応、その心はってこと」
「好かれてないんです、私」
自覚のあることだが自分の口から出すのは辛い。嫌われている、とはなけなしのプライドが邪魔して言えなかった。
「あー、なるほどねぇ。俺らが何言っても先輩否定的だもんね。そういうことかぁ」
「ばか! よけいなこと言うな」
具体的に何に対して否定的なのか、はっきり言われないまでも簡単に予想はついた。
(私の存在自体ってことだよね。何でそんなに嫌われちゃったのかな。別にいいけど。私だって葵くんなんか嫌いだし)
そう考えたところで大した慰めにはならなかった。隠そうと思っても表情を取り繕うのは難しい。喉元まで熱いものがこみ上げてきたが必死に飲み込んだ。
「納得していただけました?」
頬が小さくひきつっているのがわかる。だが最高の笑顔を作った。可愛そうだなどと思われたくない一心で、必死に気にしていない風を装った。
「あああの莉央ちゃん! 俺、莉央ちゃんのこと好きなんだ」
その笑顔に触発されたのだろうか。突然クラスメイトが立ち上がりそう口走った。友人たちは必死に止めていたが莉央にはどうでも良かった。目眩にも似た感覚を感じる。葵のことで落ち込んでいると思われているのだろう。きっとフォローしているつもりなのだ。けれどもそれはさらに惨めさが募る行為。
「ありがとうございます。お話は終わりですよね。失礼します」
かろうじて笑顔をなくすことはしなかった。彼らが店を出るまでは。クラスメイトはまだ何か言いたそうな顔をしていたがそれには気づかない振りをして笑って店外に送り出した。
その上辺だけの笑みは、気を許した幼なじみの言葉であっけなく剥がれ落ちてしまったのだが。
「晃流くん、荷物重いでしょ。ごめんね、私どうしてもこれがないと絵を描き出せなくて」
いつの間にか互いに口を噤んでいたことに気づき、莉央は晃流から荷物を引き寄せようとした。晃流は抵抗せず「気をつけて」とだけ言って素直に渡す。
何か不安があるとき、蒔田の張ったキャンバスを見ていると頑張ろうと思えてくる。晃流にだけは言ってあった莉央の秘密。偽りの関係を共有してくれる仲間である晃流に知られても構わないと思えるようになったのは、ひとえに彼の人格の賜物であるだろう。
「晃流くんみたいなお兄ちゃん欲しかったな」
かなり本気の願望を口に出してみる。
「一人っ子だと憧れるかも知れないけどね。身内になるといらなくなるんだよ、これが」
なにを想像したのか晃流は渋い顔で返してきた。
「そうなの?」
「そうだよ。お互い遠慮がないからさ、うちの姉ちゃんなんか酷いもんだよ。弟のこと蔑ろにして、小間使いくらいにしか思ってない。俺も身内だったら『莉央、今すぐアイス買ってこい、五分以内な』とか言ってるかもよ」
「え、晃流くんってそういう人?」
「うちの姉ちゃんがそういう人」
「お姉ちゃん、いつも私には優しいよ」
「外面だって。だからさ、俺、莉央ちゃんの兄貴じゃなくて良かったでしょ。これ、身内だったら女の子扱いすらしてないかもよ」
「想像できない」
「想像しないで」
どうやら晃流の頭の中では姉から受ける理不尽な行為の数々が走馬燈のように走り回っているらしい。渋い顔から苦い顔に変わるその様に莉央はクスクスと笑い、それを見て晃流もまた穏やかな表情に戻っていく。
(たまに見るこの顔、やばいかも)
晃流にとって莉央は妹のような存在だ。子供の頃からそれは変わらない。久しぶりにまともに話したあの日でさえそんな印象は変わらなかったのだが、毎日を一緒に過ごしていると多少の変化は生じるらしい。
(なんか、やっぱり女の子なんだよなぁ)
幼い頃の面影を残しつつも、仕草や表情は大人びてきている。体型などは目に見えて変わっているから尚更だ。子供の頃から体の小さかった莉央は、中学の時にはまるっきり子供の体型で肉付きもなくただ細いだけだったが、高校生にもなれば細い中にも女性らしい体つきになってきたのが部位の主張によって晃流にも見て取れる。
幼なじみという枠の中で出会ったのでなければきっと、晃流もテニス部の男子生徒たちと同じような気持ちを持っただろう。
だが晃流には分かっていることもある。幼なじみという枠の外にいれば、莉央はきっと自分に対してここまで気を許すことはない。そう考えれば今のポジションはさほど悪いものでもない。家族に対する安心感のようなものがあって、けれども異性に対する少しのときめきのようなものもあって。
そして重要なのは仮とはいえ特定のつき合いにも関わらず、今までの彼女たちに対するような煩わしさがないこと。莉央は彼女たちのように、彼氏と呼ばれる存在に対して依存しすぎることがない。つまり重くない。
頼られてばかりだと衝動的に突き放してしまいたくなるが、頼られなさすぎると頼られたくなる。そのバランスの良さがきっと相性と呼ばれるものなのだ。そう考えると今の莉央と晃流はすこぶる相性がいいことになる。
「ねえ、俺たち別に仮にじゃなくて普通につき合ってもいいんじゃない?」
言ったのは軽い気持ちからだった。莉央も幼なじみの延長上にある今の状態ならば断る理由もないだろう。仮でなくなったところですぐに手を出す気はないし、当分は今の互いに友達に毛が生えた程度のつき合いでも構わないと思っている。
しかしそんな意図は伝わらなかったようで莉央はとたんに顔をこわばらせた。
「仮にだったからお願いしたけど、私のことで晃流くんが犠牲になる必要ないよ」
晃流にはそもそもその考え方がよくわからない。
「仮にだったら晃流くんが嫌になったらすぐ止められるでしょ? でも普通につき合っちゃったら晃流くんって責任感強いから、別れるとか言えなくなっちゃいそうで怖いよ」
「怖いの? 莉央ちゃんが?」
「だって誰かの負担になるのは嫌なの。もちろん今も迷惑かけているのは分かっているんだけど、でも」
はぁ、と晃流は大げさにため息をついてみせる。
「負担なんかないって。三ヶ月の仮契約の後の昇格だよ。迷惑だなんて思ってたらする訳ない。むしろ好感度アップってことでしょ? 一応言っておくけど変なことしたいとかそういう目先の欲求で言ってるんじゃないよ。莉央ちゃんが良い子で一緒にいるのが楽しいって思うから」
「変なことって……」
ピンとこない様子で少し考えこんだ莉央だったが、突然思い当たったように真っ赤になった。そしてとっさに唇を隠す。すでにそれなりの経験をしている晃流は深く考えておらず、そんな甘酸っぱい行為より先をイメージして口にしていたので、その初々しい反応に思わず吹き出してしまう。
「莉央ちゃん、ファーストキスもまだかぁ」
「当たり前だよ」
「手は出さないよ。莉央ちゃんのことは好きだし、一緒にいると気心が知れてるからかな、安心っていうか、楽しいんだよね。良いじゃん、友達夫婦的な感じで」
男女交際の始まりとしてはどうかと思う口説き文句だが恋愛感情皆無な「好き」の言葉は莉央には効果的だった。顔の火照りが冷めないまま目を逸らしていた莉央が伺うように晃流を見上げて緊張したように口を開く。
「わ、私も……、晃流くん好きだし、信用してるから。えっと、じゃあ、改めて」
「よろしくね」
「うん」
幼なじみの枠を逸脱しないと宣言したに過ぎない交際の始まり。晃流は自身でもなぜ「仮」を取っ払いたいと思ったのか、そこに明確な理由を見いだすことが出来なかった。
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