5 莉央
校舎の裏側には銀杏の木が並んでいた。葉が黄色く色づく十月。正面の桜に代わるように秋には生徒が木の下を訪れるようになる。それを横目に見ながら莉央は教室を後にした。
脇に抱えた大きなバック。あまりに大きいので他の生徒が陰で笑っていることを知っている。けれども持ち歩くのはやめられない。これがなければ絵を描き始めることができないからだ。
清掃の終わった廊下を小走りに進む。バイトを始めてから莉央は少しでも絵を描く時間を確保するため、いつも美術室に一番に入るようにしていた。
独特の臭いの残る教室内は当然のように閑散としている。顧問もまだいない。教室の端にまとめて置かれているイーゼルを運び出し、そこにバックから取り出したキャンバスを乗せる。そしてその真っ白な画布を見つめる。
そろそろ公募展に出す作品の構想だけでも固めておかなくてはならない。絵の具の乾燥時間や何かで、書き上げるまで数ヶ月はかかる。
いくつかの候補の中から選んだそのコンテストは、学生向けなので規模としてはそれほど大きくない。画材メーカーの主催で出展料はかからない代わりに賞金も出ないが、大賞がとれれば副賞は豪華だ。かなり高価な絵の具の一式やイーゼルなど、買うのに躊躇してしまうような様々な画材が手に入る。
それ以外にも半年先の国際的な美術展への出展を決めている。夏の学生向けのものと併せて学校側から出展を勧められたので仕方なく出すが、正直出展料がかかるのに賞金の出ないものは控えたい。
一枚の絵に没頭したい莉央としては、同時進行で何枚も作成するのは極力避けたかった。一般の公募展においては出展料もばかにならない。それ以前にキャンバス代もかさむのだ。大きめのサイズにダイナミックに描きたいのでそれも頭痛の種である。コストパフォーマンスを考えて出展先を考えなければならない不純さは莉央にとって憂鬱な足かせだ。
目の前に立て掛けた二十号のキャンバスに筆を走らせることはない。失踪していた蒔田が戻ってきて最初に張ってくれたキャンバスだ。とても汚すことはできなかった。これを手にしていれば蒔田は絶対に居なくならないという思い込みにも似た確信がある。それと同時にインスピレーションを得るための大切なツールとなっていた。そこにはやはり、蒔田のいない三年間への感慨が詰め込まれているせいなのだろう。
向きを変えて、もう一台用意したイーゼルに準備室から運んできた描きかけの絵を乗せる。こちらはもっとずっと小さい八号サイズである。特に何かのために描いたものではない。思いつくままに筆を走らせた、コンセプトも何もないただの静物画。しかし息抜きにはしっくりくる。
エプロンを掛け、絵の具を用意する。今日はもっと青みを足したい。そう考えながら絵の具を並べパレットを置きペインティングオイルを出す。ナイフで絵の具を混ぜながら、出来上がりの全体図を想像する。この瞬間が一番楽しい。
作業に没頭している耳に何かを叩く音が入る。顔を上げると南側に面した窓の向こう側に白いポロシャツを着た男子生徒が立って手招きをしていた。
一瞬躊躇した。男子テニス部の部員だろう。なぜだか知らないが、彼らから話しかけられることが良くあった。美術室の位置が悪いのかもしれない。背の低いツツジの木に多少遮られているとはいえテニスコートの正面に位置しているため教室の中は丸見えだ。人見知りのある莉央としては出来れば知らない生徒とは関わりたくない。しかし気づかなかった振りをしても相手は引き下がらない。手のひらを広げてバンバンと窓を叩く。
仕方なく莉央は窓の鍵を開けた。待ちかまえていたようにそれを勢いよく開き「一人?」と聞く二年生らしき生徒に黙って頷いた。
「この部屋臭いすごいよな、窓開けとけばいいじゃん」
にこにこと満面の笑みを浮かべて話しかけてくる様子に、莉央は少しだけ表情を緩めた。知らない人間に対して苦手意識はあるが、だからといって完全に拒絶はしない。
「何か用ですか? まだ誰も来ていないんですけど」
「ラッキー」
男子生徒は軽い身のこなしで窓枠を乗り越え教室に入ってくる。驚いて見ているとそのまますぐ近くにいた莉央の目の前に立った。身長差があるせいで威圧間を覚える。莉央より頭二つ近く大きいので、おそらく百八十近くあるのだろう。
「あの、誰かに用があるなら呼んできましょうか」
「あ、ねぇ。これ莉央ちゃんの絵の具? 俺美術とってないから油絵とか詳しくないんだよね。色々教えて欲しいんだけど」
はぐらかされるように話題を振られる。知らない相手から名前を呼ばれることには慣れている。メディアへの露出があるため頻繁に経験しているのだ。さほど不審に思わず聞かれるまま画材の説明をする。こういうことも珍しくはない。
「これは?」
男子生徒がパレットナイフを手に取り、先についた絵の具をまじまじと観察する。そんなに珍しいとは思わないが興味があるなら説明としようと口を開きかけたとき、まだ溶き途中で緩くなっていた絵の具がぽたりと白いポロシャツに落ちた。
「あー、やっちゃったよー」
男子生徒はのんきに笑っているが、油絵の具はそう簡単に落ちるものではない。莉央は慌てて荷物の中からタオルと洗い油を取り出す。
「服の中にタオル入れてください。油で叩けば薄くなりますから」
予備のタオルがなかったのでスカートのポケットからハンカチを取り出しそれを油に浸す。そして男子生徒が服の中に入れたタオルを当て布にして上からポンポンと叩いた。
しかし完全に落とすのは難しい。何とか服についた青は薄くなったがポロシャツには油の臭いと染みがついてしまった。
「他に着るものがあるなら着替えて汚れたところを石鹸ですぐ洗った方がいいと思います。このままにしておくと輪染みも残っちゃうし。どっちにしても完全にきれいにするのは難しいと思うんですけど」
言いながら相手との距離が初対面の異性とのものにしては近すぎることに気づいた。さりげないふうを装って離れようとしたとき、肩に重みを感じ、思わず身を堅くした。知らない人間に簡単に触れられるのは苦手だ。
「俺の不注意なのにごめんね。助かったよ、ありがとう」
「いえ」
手にしている油の瓶を相手に見せつけるようにして片づけの姿勢を取る。肩に乗った相手の手を振りほどきたいのだが、いやな印象を与えたり変に誤解されるのは避けたい。なるべくさりげなく、嫌みに見えないように。
それは護身のために必要な気遣いだった。相手を不愉快にさせてしまったとき「テレビに出ているからって」だとか「賞をとっているからって」と理由にならない理由で普通の人よりも反感を持たれやすい立場にいる莉央が自然に身につけた方法。当たり障りなく、波風を立てず、それが一番無難なのだ。
けれども肩の手は動作を許さなかった。困惑した莉央が相手を見上げると、至極真面目な顔で見下ろされている。真面目、もしくは緊張にもとれる表情。莉央の困惑が増す。どうすればいいのか、どうしたいのか見当もつかない。
「服、洗いませんか? 本当に落ちなくなっちゃいますから」
離れる口実を探す。しかし聞こえているのかいないのか、相手は固まったように動かず莉央を見下ろすばかりだ。伴うように空気にも緊張が走る。
「あの……」
莉央が再び口実を口にしかけたとき、ようやく男子生徒は口を開いた。
「莉央ちゃん、突然で驚くかもしれないけど! お、俺、実は前から君のこと……」
「大毅! お前何やってんだよ!」
窓の外からの怒鳴り声。莉央は驚いたように首をすくめ、大毅と呼ばれた生徒は意気消沈したようにため息をついた。
「葵だ。やべー、絶対外周走らされる」
今までの緊張に満ちた空気が解けていく。莉央の肩から手を離すと相手は「またね」と笑って窓から飛び出していった。
しかしほっと安心したのも束の間のことだった。代わりに葵が窓を乗り越え室内に入ってきたからだ。
莉央にとっては見知らぬ男子生徒よりも緊張する相手。顔を見るだけで蛇に睨まれた蛙のように萎縮してしまうのは葵に対して拭いきれないわだかまりがあるからだ。
動けないままの莉央の横を通り、落ちたパレットナイフを拾い上げると台に乗せる。そして改めて莉央に向かう葵はどうやら怒っているようだった。
「今の奴、俺と同じクラスの平川大毅っての。テニス部」
「そうなの」
沈黙。会話が続かない。ほかの相手なら当たり障りのない程度にでも話せるのに葵相手には何も思いつかない。もう何年もこんな状態が続いている。
「お前何なの一体。あいつ告ってきたんだろ。あんなにくっついて思わせぶりなことしてんなよ。それとも、つき合うの? 告られて舞い上がっちゃった?」
莉央は答えなかった。今初めて名前を知った相手とつき合うわけがない。そもそも告白された覚えもない。葵の言い方はなぜだかとても不愉快だ。最近ではほとんど会うこともなかった。久しぶりに話したと言うのに悪意に満ちた言い方をするのはなぜだろう。
「告白されてないよ。もしされてもつき合わない。私、ちゃんとつき合っている人いるもの」
「は?」
驚いている葵を見て莉央は少しだけ嬉しくなる。乗り込んできた途端やりこめられそうになっていたけれど仕返しが出来た気分だ。そのくらい葵は分かりやすく表情を変えた。
(どうせ私に彼氏なんか出来るわけないと思っていたんでしょう)
小学生のあるときを境に葵は変わった。一人よそよそしくなり二人の幼なじみ、特に莉央を避けるようになった。そのときは葵に嫌われたのだと悲しくなった。小さな頃から仲の良かった幼なじみ、兄にも似た信頼感と好意を持っていた相手にどうして嫌われたのかがわからなくてずっと気になっていた。
けれども決定的な事件があってから、それは片側だけでなくお互いの感情に変わった。葵にとっては大したことなかったのかもしれない。けれども莉央には自尊心を踏みにじられる酷い出来事だった。葵は莉央を嫌っているらしい。けれども莉央も葵を嫌いになった。顔も見たくない。同じ空気を吸っている今もその感情が莉央を責め立てる。
「いい加減なこというなよ。お前みたいにおどおどした奴となんか誰が」
「相手、晃流くん」
それこそこぼれ落ちるのではないかと思うほどに目を見開いた葵に莉央は少し申し訳ない気持ちになる。嫌いには違いないが、だからといって攻撃的な気持ちをもっているのではない。どちらかと言えば関わりたくないといった類の感情である。
「……そうかよ、良かったな。お前子供の時から好きだったんだろ。晃流の初カノの話聞いたときがっくりきてたもんな。今更でも報われたじゃん」
え、と聞き返す前に葵はもう窓から外に走り出していた。
(私が晃流くんを好きだった?)
意味が分からなくて首を傾げる。晃流に彼女が出来たとき、どんな感情を抱いたのか。恋愛感情として思い当たる節がない。
晃流が家で食事をしているときに「彼女が出来た」と報告した。母は根ほり葉ほり楽しげに聞いていた。
(私は……)
確かに寂しさは感じていた。しかしそれは身内が遠くにいってしまうような気持ちに似ていた。もう宿題教えてもらえないなと思った気はする。暇なとき遊んでもらえないのかなとがっかりしたような気もする。けれどもそれだけだ。
しかも残念なことに晃流とつき合っている今でさえその感情に変化はない。もともと以前から変に絡んでくる男子テニス部への風避けに名乗り出てくれただけなのだ。変に、つまり今の平川大毅のように妙な雰囲気を醸しだし、反応に困る態度をとる輩に対して、つき合っている相手がいると知れば嫌がらせされなくなるよという晃流の言葉に甘えただけだ。
(葵くんって昔からよくわからない)
金網越しに練習を始めた男子テニス部員の中の葵の姿を目に留めてから、莉央は固まりかけた絵の具を溶かし直す作業を始めた。
その月の最終日曜日に行われたテニス大会、男子シングルの試合で上位に食い込むと思われていた曾根崎葵はなぜかあっさりと二回戦で敗退した。
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