3 晃流
夏の終わりは近くなったがまだ暑さは残っていて学校から帰ってくるとぐったりしてしまう。その日も帰宅後の疲れから自室のベッドで横になってまどろんでいると、玄関先がにわかに騒がしくなった。
「おーい、ピッカルーン」
そんな呼び声にうんざりしたように
枕元に置いてあった眼鏡をかけ時計を見るとベッドに入ってから二時間は過ぎている。中途半端にとってしまった睡眠のせいでまだ重い頭に辟易しながら立ち上がると、部屋を出てリビングに向かう。
そこには茶を用意している姉、麻理と、ケーキを並べる彼氏の姿があった。
「ミッチー、あの呼び方やめてくんない?」
「ミッチー? え、俺ミッチー? やった、俺王子じゃん! そこはかとなくにじみ出る俺の王子っぽさにとうとうピカルンも気づいちゃった?」
「全然にじみ出てないし」
姉の彼氏である山田光成に仕返しのように軽薄な呼び方をぶつけてみたが、年中軽いこの男は同じあだ名を持つ芸能人のまねをして投げキッスを返してくる。
「ミツ、フォーク出してよ」
笑うでもなく完全に無視して麻理が声をかける。光成もそれに特に反応もせず「はいよ」と軽く返事をしてキッチンに向かう。皆が皆、つきあいが長いためにこんなふざけたやり取りに慣れているのだ。
「晃流、あんた店に新しいバイト入ったの知ってる?」
二人分の湯呑みを運んできた麻理はテーブルに着くとさっさと座りケーキを引き寄せた。
「俺の分は?」
湯呑みだけでなくケーキも二つしかない。三人分ないことに薄々は気づいていたが、わざわざ呼ばれたのだから何もないということはないだろうと一応聞いてみる。
「下行って食べておいで。新しいバイトの子、とっても可愛かったわよ」
「面倒なんだけど」
麻理のケーキに手を出そうとするとフォークで威嚇された。戻ってきた光成はすでに自分のケーキにかぶりついている。
「まだフルーツタルトが二つ余ってたからバイトちゃんと食べてくればいいじゃない」
「なんで知らない人と食べなきゃなんないの」
「まあまあ、いいから店顔出してごらんって」
埒のあかない会話にため息をつく。言い出したら聞かない麻理の性格は知っている。言うことを聞く必要もないが、聞かなければしつこく食い下がることも知っているので早々に諦めるのが得策だ。それでも簡単に店に行く気にはなれない。
「父さん、俺相手でも金取るからなぁ」
「うるさい。小遣いくらいあげるわよ」
麻理が気前よく二千円を渡してきたので受け取ると晃流は途端に玄関に向かう。「チッ」と後ろで姉の舌打ちが聞こえてきたが知らんぷりを決め込んだ。可愛いバイトと言われれば多少なりとも気になるのは男の性で、金銭面に問題さえなければ、店に顔を出すのに抵抗はない。
玄関を出て、エレベーターのボタンを押す。家を出るとき時計は七時五十分を指していた。一緒にケーキでもというくらいなのだから、バイトの時間は八時までなのだろう。
到着したエレベーターに乗り込み一階のボタンを押すと、壁に背を預け目を閉じる。
――晃流ってさぁ、優しいけどそれだけだよね。
不意に先月別れた元彼女の言葉が脳裏に浮かんだ。じゃあ何をどうすればいいんだと思わないでもないが、そのときは特に反論しなかった。大抵いつもそうなのだ。今まで数人とつき合った。しかし長く続いた試しがない。
きっと自分から好きだと思ったことがないからだ。晃流はそう自己分析していた。消極的な訳ではないが、自己主張が激しい方でもない。特に異性関係で自分から動くことはない。それでも絶え間なく彼女がいるのは、ひとえにその優しさに惚れ込む異性が多いからなのだが、つき合う前は魅力的に見えたその優しさが、実際つき合ってみると適当に見えてしまうらしい。
残念なことに晃流の優しさは特定の彼女になることによって万人に向けられているものだということを知ってしまうからだ。勿論本人に自覚はない。
金属の軽い音が響きエレベーターの扉が開く。一度マンションのロビーから外に出て、大通り沿いに面する父親の経営する喫茶店の入り口に回る。重いガラスの扉を開くと「いらっしゃいませ」と高い、けれども少し小さな声が晃流を出迎えた。まだ姿は見えなかったがバイトの子だろう。声だけを聞けばなかなかだ。
「お席にご案内します」
まだ慣れないせいか小さな声は緊張したように固い。カウンターの裏からメニューを抱いて出てきた少女はすぐに座席の方に体を向けてしまったので顔まではわからなかったが、長く柔らかそうな髪を後ろに一つにまとめてポニーテールにしていた。動きに従い、店内に充満するコーヒーの香いとはまた別のいい香りがふんわりと漂う。
「席はいいよ。カウンターに座るから」
そう声をかけ、振り返った少女の顔を見て驚く。随分と久しぶりだったからだ。
「あれ、莉央ちゃん?」
「え、あ、やだ晃流くんだ。おじさん晃流くんお店にはこないって言ったのに」
見る間に顔を真っ赤にさせる幼なじみがおかしくて、一度はカウンターに向かった体を四人掛けの席に向け直す。そして納得した。姉が店に顔を出すことを強く勧めたのは莉央がいることを知っていたからだ。
「父さん、莉央ちゃんもう終わりでしょ?」
カウンターの中から頷く父親に晃流は指を二本立てる。
「莉央ちゃんと食べるからケーキ二人分くれる? あとなんか冷たい飲み物も。ほら、莉央ちゃん座りなよ」
「晃流くん、だめだよ。まだ時間じゃないもん」
両手を振って拒否する莉央に、晃流の父親は豪快に笑う。
「ああ、晃流のおごりか。いいよ、莉央ちゃん今日は終わって」
「ほら、雇い主もそう言ってるし」
残り時間はもう二分ほどしかなかったが、莉央は頑なに着席を拒否した。既に他の客はいなかったが、テーブルの上の片づけが残っている。結局諸々を片づけ終わって莉央が着席したのは八時を十五分ほどもまわった後だった。
「待たせてごめんね。でも久しぶりだね。晃流くんお店には滅多にこないって聞いてたからびっくりしちゃった」
自分で入れたミルクティーを一口飲み、莉央ははにかむように、それでもとても嬉しそうに笑う。中学を卒業してからは登下校の時間が重ならずほとんど会うことはなかったが、話し方や性格は記憶の中にある中二の頃の莉央と何ら変わっていないようだ。
「何でうちでバイトしてるの?」
晃流はアイスコーヒーに差されているストローを指で弄びながら莉央の顔をまじまじと見た。中身はさほど変わっていないようだが雰囲気は大分変わった気がする。
顔は相変わらす童顔だったし表情も控えめではあるが、緩くウェーブのあるくせっ毛は以前よりも伸びていたし、一つ一つの仕草に繊細さが加わっている。一言で表せば子供よりだった一年前より随分と女らしくなった。それに加えて一つ気になることがあった。それは昔よりも深い影を帯びる瞳。
「うちのお父さん、今入院してるって知ってる?」
大したことではないように微笑みながら話す莉央に首を振ってみせる。お互いの家を行き来していたのは小学生の頃までで、それ以降は家庭内でも莉央の話が出ることはほとんどなかった。
「会社は休職扱いになってるし今すぐどうこうってことはないんだけど、絵の具とかキャンバスって結構かかるからそのくらい自分で何とかしたいなって思って。それに蒔田先生がここのコーヒー好きなの。おじさんにお裾分けしてもらえるし一石二鳥でしょ?」
照れたような笑み。だが内容は深刻だ。莉央の言い方を聞いている限り、今すぐどうこうはなくても、いずれはどうこうなるということだろう。金銭面を気にしているのは一家の大黒柱を失う可能性があるからだ。そういった言外の意味に晃流はすぐ気づく。しかし絵をやめる気はないらしくて、そこに少し安心する。
莉央が蒔田を幼い頃から特別に思っていることは知っていた。絵画教室に通うようになったきっかけも以前聞いた。今でこそ莉央の絵は高い評価を得ているが、小さい頃はその独創的な色彩をよく友達に馬鹿にされていたそうだ。すっかりしょげて絵を描かなくなった愛娘のために父親はその絵を認め才能を伸ばしてくれる先生を捜し奔走した。そうして見つけた蒔田は父親の望むとおりに莉央を育て上げた。それは一度失われた自信を取り戻すきっかけになった。
莉央にとって父は自分の力になってくれる人物であり、蒔田は自分を救ってくれる人物なのだ。どちらも選べないくらい大切で、どちらも捨てられないかけがえのないもの。だからこそ莉央は蒔田が行方を眩ませていた三年間信じぬいて待っていた。これは幼なじみでなくても知っている有名なエピソードだ。
「蒔田先生のところは今どうしているの?」
「週三回で通ってるよ。月水金がここのバイトで、火木土に教室行くの」
「部活は?」
対外評価の高い莉央を学校が放っておくはずがない。美術部に所属し作品を作る必要があるはずだ。
「バイトの日に五時までやってるよ」
「忙しいね」
「好きだもん、大丈夫。晃流君は?」
「あー…。ほら莉央ちゃん、ケーキ減ってないよ。食べて食べて」
毎日昼寝三昧だとはとても言えず言葉を濁す。
「ふふ、おばさんのケーキ美味しいね」
以前は業者から仕入れていた店のケーキだが、今は晃流の母親が作っている。甘すぎず、しつこくないから男性にも人気があり、ケーキ目当ての客も少なくない。
「そう言えば莉央ちゃん、さっきナンパされてたな。あれ同じ学校の子達だろ?」
「ちが、やだもうおじさん! 何でそういうこと言うの?」
グラスを拭きながらにやにや笑い会話に入ろうとする晃流の父親に莉央は慌てる。晃流はその言葉に改めて莉央を観察した。そして感心したように言葉を落とす。
「莉央ちゃん前から可愛かったけど、一段と可愛くなったもんね」
「晃流くんも! 違うんだからそんなこと言わないで」
誉められたのに莉央は泣きそうな顔をした。からかいすぎたかと一瞬驚いたが、そういう次元の問題ではなさそうだ。
「なんかあったの?」
父親には聞こえないよう声を潜めて聞いてみる。莉央は少し迷うような素振りを見せたが、小さく「何でもないよ」と答えた。
「恥ずかしくて照れちゃっただけ。おじさんも晃流くんも変なこと言うから」
莉央にしては大げさに笑ってみせる。おそらく他の人間ならばそれで安心するのだろうが晃流には通じない。些細な機微を読みとる故に相手に優しいと評されるのだ。
「ほんとに?」
顔を近づけ内緒話でもするように囁くと、笑ってみせた莉央の表情は途端に歪んだ。涙までは見せないまでもかなり危うい。
「晃流くん変わらないね。私が言えないこともすぐわかっちゃう」
今度は落ち込んだ素振りを隠そうともしないで莉央は口を開いた。
「テニス部の人たちだったの。葵君が……」
最後は涙声だった。莉央の話を最後まで聞いた晃流は一つため息をつく。もう一人の幼なじみに内心はらわたが煮えくり返る思いだったが莉央の手前表情には出さなかった。
「聞いてもらえてちょっと楽になったみたい。晃流君、ありがとう」
すっかり涙の引いたらしい莉央はまたあのはにかむような控えめな笑みを浮かべた。久しぶりの再会ではあったが子供の頃から変わらないその笑みは仲の良かった小学生時代を思い出すには充分だった。あの頃に感じていた莉央を守りたいと思う気持ちも同時に蘇ってくる。
店の中を見回すと、長くなった話のせいか父の姿は既になかった。こんなこと、さすがに親の前では言いにくい。
「莉央ちゃん」
目の前にあるふわふわとした柔らかい前髪に手を伸ばす。莉央は幼なじみの気安さか触れられてもきょとんとしている。けれどもそれは晃流も同様だった。可愛いけれども異性と言うよりはやはり妹というほうがしっくりくる感覚。
「莉央ちゃん、俺たちつき合おうか」
それなのに、そのとき選択した言葉は間違いなく異性に対するものだった。
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