2 葵

 昨年の春創立三十周年を迎えた校舎は多少の年期を感じさせたが、公立の高校などよりはよっぽど洒落た造りをしていた。


 校門正面から右手に向かい、くの字を描く校舎。左側には大きな体育館が配されている。校門から体育館側に沿って茶系のラバーベースの緩衝材で道が描かれており、その両脇には桜の木とつつじが交互に等間隔に植え込まれていた。木の下にはベンチやちょっとしたスペースが設けてあり、春先には花見の場所取りをする生徒が出たりする人気の場所だ。植木の裏側、右手にはテニスのコートが二面とサッカーのコートが広がっている。


 授業以外の殆どをテニスコート内で過ごす部員たちが、ボール避けに設置されている金網の編み目からきつい練習の合間の息抜きに登下校中の生徒に目を移すのは必然であった。


「朝練ない奴らいいよなー」


「あー、この後授業とかダルいし」


 入学してすでに八ヶ月経つが、未だ幼さを残す一年にはまだ練習がきつく感じるのだろう。ボール拾いの合間、金網に体を預けてそんな愚痴をこぼしているのを玉出しをしながら視界の端に認め、曾根崎葵は練習内容の見直しを考えた方がいいのかもしれないとぼんやり考えていた。


 ここでまともに視線を送ればさぼっているのがばれたと一年は気まずい思いを抱くはずだ。組織としてそういった統制の仕方も必要には違いないが、課している自分ですらきついと感じる練習内容ではそのくらいの愚痴をこぼす余地くらい残しておいてやるべきだろう。上に立つものとしては押さえつけるばかりではなく、息をつける隙を残しておくことも大切だ。そんな理論を頭の中で反芻する。最近読んだ『リーダー論』という本の受け売りだが共感できる内容である。


 だが、そんな受け売り持論は一瞬にして覆った。


「あ、沢良宜莉央来たし」


 原因は聞こえてきた名前にある。真上にトスしたボールはラケットに当たらず、軽い音を立ててコートに落ちた。視線は金網の向こう、歩いている生徒に向けられている。しかしその異変に反応するのは練習中の部員のみで無駄話に興じる一年はまだ気づかない。


「相変わらず荷物でかいな」


「ちっこいから荷物が歩いてるみたいじゃね?」


 画材は学校に置いてあるのだろうが、かなりの確率で大きなキャンバスの入った肩掛けのバックを持ち歩いている莉央は遠目にもすぐ分かる。背が低いせいでバックのサイズとのアンバランスさが際だち、どこか危なっかしく見えるので余計に目を引くのだ。


「この前テレビ出てたよな」


「え、マジ? 何に?」


「夕方のローカルニュースだけどさ」


「それかなりビミョー」


 噂話に興じる数人の笑い声。そこに突き刺すように怒号が響いた。


「くだらない話をするな!」


 まずいと顔を見合わせた部員たちは声の主に向かい大声で詫びを入れると散り散りに走り出す。後に続く言葉を知っているのだ。


「おまえら今日は三周だぞ!」


 テニスコートとサッカーグラウンドの外周を覆う金網の外側をダッシュする、テニス部の反省コース。それは夏の大会の後、現役を引退した元部長から権限を委譲された葵のお決まりの処罰方法だった。


 ふうと呆れたようなため息が女子マネージャーの口から漏れる。毎度のことだが行き過ぎだと彼女は思っているのだ。それに気づいている葵は分かりやすく顔をしかめた。


「部長、この前言ってましたよねー。些細なことは気づいていても見逃すのが指導者の余裕だって」


「あいつ等浮ついててイライラすんだよ。私語は俺の屍を越えてからにしろ」


「無理ですよ」


 十二月だというのに夏の日焼けの名残がまだ色濃い葵の肌。毎日外でテニス三昧なのだから浴びる紫外線をリセットする暇もない。同じく日に焼けた前髪はパサつき赤みを帯びている。気温が低いとはいえ日が射すなかを走り回るせいか額に汗が滲んでいるが、不思議とそこに不潔感はない。


 十月に行われた県大会でダブルス四位の成績を残した葵はこの高校のテニス部の中では一番の実力者だ。本来ならばさらに個々の実力を発揮出来るシングルでの活躍も期待されていたのだが、当日は不調で二回戦敗退という不名誉な成績だった。


(どれもこれも、みんなお前のせいなんだよ)


 姿の見えなくなった幼なじみに心の中で毒づく。それが半分以上言いがかりなのを葵は自覚していない。


 莉央を知ったのは幼稚園の頃だ。莉央と葵は同じマンションに住んでいる。だがフロアが違えばそれほど会う機会もなかった。莉央が葵と同じ幼稚園に入園し、通園バスで一緒になって、そのとき初めて面識を持ったのだ。


 幼稚園の通園バスでは莉央と葵、それともう一人マンションの一階に店舗を構える喫茶店の子供、芝形晃流しばなりひかるが一緒だった。


 朝も帰りも顔を付き合わせている母親同士の仲が良かったために、必然的に子供たちの仲も良くなる。莉央のみ学年は違うものの、帰宅後はいつも誰かの家で一緒に遊ぶようになった。


 葵は男三人兄弟の真ん中で、晃流には七つ離れた姉が一人。莉央は一人っ子だ。女兄弟のいない葵はがさつではあったが、大人しい莉央を妹のように可愛がり、末っ子である晃流はここぞとばかりに自分が姉にされていることを真似て莉央の世話を焼いた。莉央も自身に兄弟がいないためか二人によく懐いた。


 その関係は小学校に入学しても変わらず続いていたが、成長につれ状況は変わっていく。特に一足先に年をとる葵と晃流にそれが訪れるのは莉央よりも早かった。


 まず最初に変わったのは晃流だった。小学六年生にして彼女が出来たのだ。姉の彼氏が家に出入りしているのが日常だった晃流にとってそれはさほど違和感のあることではなかったが、男兄弟ばかりの葵の家では全く状況が違った。ちらりとでも女子の話題が出れば、よってたかって、それこそ親まで加わってからかいはじめるので中学生の兄ですら色恋沙汰には慎重で、だから葵にしてみれば晃流の行動は理解しがたいものだったのだ。


「今日からユリと帰るから」


 しれっと五年間一緒に帰っていた葵に言ってのけた晃流に対して葵はなぜか裏切られたような気になった。高二の今となればその気持ちの理由も分かる。友達よりも女を取りやがってという、言いがかりにも似た憤りである。


 そして自身に対する対応より納得いかなかったのは、莉央に対しての晃流の態度だった。小学校に上がればお互い世界も広がったが、家に帰れば変わらず一緒だった三人。けれどもその関係にもほころびが生じ始める。

 

 晃流の母が店に出始め、葵の母もパート職に就いた。公園のチャイムが鳴る五時までは学校の友人と外で遊び、その後は莉央の家に集まってそれぞれの母が迎えに来る六時まで宿題をやる。たまには皆で夕食も食べていくこともあった。三人は概ねそういった日常を過ごしていた。


「おばさん、僕彼女出来たんだ」


 その告白は月に一、二度の沢良宜家での食事の席でされた。


「え、晃流君に? 嘘、六年生のくせにナマイキ! 相手はどんな子なの?」 


 まだ三十を越えたばかりの莉央の母の反応はさすがに若かった。楽しげに笑いながら晃流を質問責めにした。横で娘がどんな顔をしているかなど気づいていなかったに違いない。


 元々大人しい莉央は人の会話を遮ってまで言葉を発したりはしない。大抵は笑って相づちを打ち、話を振られたときに応える程度だ。けれど存在感がないわけではない。やたらと出しゃばる同じクラスの女子と比べれば、葵としてはずっといい。しかしこんな時には何か言えばいいのにと思った。そう思わずにいられないほどに、莉央は悲壮な顔をしてみせた。


 その頃から徐々に葵にも変化が訪れた。大人しい、言葉を換えれば消極的な莉央にいらだつようになったのだ。


 良くも悪くも、莉央の存在を特別に意識したことはない。兄弟のように仲が良かったがそれだけだ。学校に入れば自分の周囲が全てになり、いくら下校後に一緒にいようが校内で特に関心を払ってみることはない。


 しかし学年が違いあまり会わない学校でも莉央の姿を頻繁に見つけるようになった。大抵四、五人の女子と一緒にいる。楽しそうに笑っているが、さらに気にして見ていると、リーダー格の少女との関係に違和感があるように感じられた。


 見るからに積極的で仕切り屋らしい少女は何かある度に莉央に話しかける。莉央はそれに頷き動き出す。遠目に見ていると、まるで主人と従順な召使いのようだ。


(あいつ、いじめられてるんじゃないか)


 そんな疑問が湧くまでにさほど時間は要さなかった。


 晃流と彼女のつき合いはさほど長く続かなかった。せいぜい二ヶ月というところだろう。その間、莉央に対する晃流の態度は変わらなかったし、莉央も同じだった。悲しそうな顔を見たのは晃流の告白を聞いたとき、ただ一度だけ。しかしそれも葵には言いたいことをいえない莉央の弱さのように思われた。


(つまり、とろいんだよな。言いたいこと言わないから自分ばっか我慢しなきゃいけないんだろうが。何でそんなことがわからないんだよ)


 おかしな話だが、葵は徐々に莉央に話しかけなくなっていった。我慢しているだろう莉央を見ているのが気まずい。その顔を見ると自分が感じたイライラを莉央自身にぶつけてしまいそうになる。


 必然的に莉央の家から足が遠のいた。六年生にもなれば、母親の帰りが遅くても留守番ぐらい出来る。だから周囲も特に何も言わなかった。莉央の母親は顔を見る度に「たまにはおいで」と声をかけてくれたが「うん」と返事はしてもその玄関を叩くことはしなかった。


 おそらくそれで終わっていればよかったのだ。葵のいらだちも莉央と晃流が一緒にいるところを目にしなければ再燃することもなく鎮火したに違いない。だが、いらだちのもう一つの原因を運悪く目にしてしまった。


 小六の夏の夜のことだった。まだ蒸し暑さの残る午後七時。マンションの一階にあるコンビニにアイスを買いに行った葵がたまたま目にしたのは、困ったような表情をした莉央が、いつも一緒にいるリーダー格の少女に金を渡している現場だった。


 懸念が事実になったと悟った瞬間、葵は走り出し、怒鳴りながら少女を突き飛ばし、そして。














「部長、外周走りますか?」


 再び耳にした呆れたようなマネージャーの声に我に返る。いつの間にか自分の世界に没頭していたらしい。後悔の残る過去を振り返ると無意識のうちに周りの世界を隔絶してしまう。


「走らねぇよ」


 すでに先ほど走らせた一年生部員は戻ってきており練習に加わっている。葵は苦々しく思いながら時間を確かめ、舌打ちをすると集合の号令をかけた。


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