第1章
1 蒔田
コポコポと小気味良い音と同時に芳しい香りが鼻孔を抜ける。二階の僅かな住居スペースに備え付けられた小さなキッチンに立つ蒔田は、作り付けの食器棚の中からマグカップを二客取り出すと、コーヒーメーカーが乗っているカウンターの上に乱暴に置いた。
飲み物や食べ物に別段こだわりはない。コーヒーなんか缶のもので充分だと正直なところ思っている。それでもわざわざ手間をかけて淹れているのは、今日は莉央が来ているからだ。結婚式の引き出物か何かでもらったコーヒーメーカーはずっと箱に入ったままになっていたのだが、一度これで淹れてから彼女の手土産はいつも店で曳いてもらったばかりだというコーヒー豆になった。
(確かに香りはいいんだ)
堪能するように胸一杯に吸い込み、そしてゆっくりと吐き出す。アロマテラピーなどとんと興味はなかったが、普段油彩絵の具の鼻につく臭いばかり嗅いでいるせいか、豆の袋を開けた瞬間漂う芳香には癒されるような気がする。
抽出の終わった濃い色の液体をカップに注ぐとき、そしてそれを口に含んだとき。癒しを感じる瞬間は何度かある。そこまで考えて豆を持ってきてくれているのだとしたら、莉央にはセラピストの才があるのかも知れないなどと考え、
(莉央ちゃんの才能は、こっち)
キッチンからすぐの階段を、カップを乗せて手にしたトレーを揺らさないようにゆっくり降り、少し距離のある玄関まで行くと、広いたたきの脇にある玄関扉とは別のもう一つの片開きの扉を開ける。
途端に交わる油の独特な臭いに僅かに眉をしかめた。慣れているはずなのだが、別の、特にあんな芳香を嗅いだ後には少しきつい。近くにある小さなテーブルにトレーを置くと、脇の小窓を全開にした。十二月の外気は冷たかったが、新鮮な空気は必要だ。換気扇だけではとても足りない。
十二畳ほどの広さ、玄関と同じコンクリート打ちっ放しの床は寒々しい。火器を用いるわけにはいかないのでエアコンを動かしているが足下はどうしても冷える。
部屋の中でも道路に面した箇所にある全開口型の窓近くにイーゼルを置く少女も、寒いとみえてボア素材の分厚いスリッパにレッグウォーマー、フリースの膝掛けを掛け、その上に汚れ防止用のエプロンの裾を乗せていた。
蒔田の運営する絵画教室で現在ただ一人の生徒、
窓が開き、風の流れが変わったため入り口のコーヒーの香りに気がついたらしい。弾かれたように顔を上げ蒔田を見ると控えめな笑顔を浮かべた。
「驚かせちゃったかな。ちょっと寒いね」
立ち上がり歩み寄る莉央に肩を竦めてみせてから自分のカップを手に取り一足先に口に流す。まだ少し熱かった。
「良い香り」
傍に立ち深く香りを吸い込む莉央に先ほどまでの自分を見るような気がして笑いかけてみせると、答えるように莉央も笑い返してくる。これもまた蒔田にとっては癒しの一つだ。
「粉、毎回じゃ大変でしょ? 気なんか使わなくていいのに」
高校生の少ないだろう小遣いにたかるみたいで気が引ける。毎回四、五杯分の量ではあるが週に三度も来るのでは金額も嵩むだろう。
莉央は蒔田の気にしていることを察したようだった。
「近所の喫茶店で分けてもらっているから気にしないでください」
「あ、幼なじみの子の」
「そうです。
以前何度か聞いたことがある名前だった。
「久しぶりに聞いたね。その名前」
何の気なしに口にして思わず吹き出す。不思議そうに見上げる莉央に弁解しようとしたら笑いが止まらなくなった。
「聞くわけないか。僕いなかったもんね」
小学二年生の頃から教えている莉央とも空白の時間がある。彼女が六年生になった年から中学二年生の終わりまでの三年間、蒔田はここにいなかった。その予告もなく訪れた空白のせいで以前の教え子は皆教室を辞めてしまったのだ。
「あ、でもそれは関係ないです。私も晃流くんとはほとんど会ってなかったし。高校生になって、お店でバイトさせてもらうようになってからですよ。でも晃流くんはお店に来ないし、学校が一緒になったことの方が大きいかな。最近は顔合わせる機会が増えたから」
幼なじみは今年の四月に高校に進学した莉央の一つ上だったはずだ。通う学校が離れれば近所でもそれほど会わないものなのかも知れない。
と、そこまで考えて蒔田は莉央の表情がすぐれないことに気づいた。何か無意識に地雷でも踏んだのだろうかとさりげなく話題を変える。
「あ、そうだ。莉央ちゃんもう一人幼なじみの男の子いたでしょう。彼には会わないの? 学校違うのかな」
「いえ、
ふぅ、と大げさにも聞こえるため息が莉央の口から出る。どうやら地雷を避けたつもりが地雷源に飛び込んだらしい。
「コーヒー、ごちそうさまでした」
話を打ち切るように一気にぬるくなったコーヒーを飲み干した莉央はマグカップをトレーに戻すと、再びイーゼルの前に腰掛ける。つられるように莉央について自分の画材棚に歩いて行くと、蒔田は思いついたように引き出しから小さなケースを出した。
「莉央ちゃん、幼なじみ君たちと何かあったの?」
キャンバスのないイーゼルの前で頭を垂れた少女の様子がいつもと違うのは一目瞭然だ。今日来てからずっとそんな様子の莉央の空気を変えようとキッチンに立ったのだがコーヒーの一杯やそこらでは気分が晴れるとまではいかなかったらしい。
「今日は絵を描く気分ではない?」
「え、あ」
一応用意はしようとしたのだろう。開いたまま放置されている溶き油の蓋を締めてやる。パレットに新しい絵の具は出ていない。
莉央は助けを求めるように傍に立つ蒔田を見上げた。
(お、これは)
こくんと喉が鳴る。
幼い顔つきは子供の頃とそう変わらないが、髪は随分伸びた。癖がつくのを嫌がっていつも耳の下に緩く纏める髪の束が二つ背中側に垂れている。そんなルーズさのせいか、白い首筋の細さがかえって強調されていた。元々小さな顔に大きな目、バランスのとれた顔の作りだけでも目を引くのだ。迷うような瞳。守ってやりたいと思わせる頼りなさは男にとってある意味毒だ。
さすがに彼女の倍近く生きている蒔田にとって、訴えてくるのはささやかなものだが、きっと同年代の童貞少年たちには良い刺激だろうなどと考える自分のおやじ臭さに内心辟易する。
そんな蒔田の思考などもちろん気づきようもない莉央は、物憂げなため息をつくと相変わらず蒔田を見上げたまま言った。
「先生は、私のことどう思いますか」
「いや莉央ちゃん、おじさんからかわないで!」
多少なりとも思い浮かべたやましい感情を見透かされた気がして思わず後ずさってしまったものの、怪訝そうな莉央に我にかえると咳払いでごまかし、できうる限り真面目な表情を作ってみせる。
(危ない。これじゃただの妄想変態オヤジだ)
「ええっと、どうってどう?」
真意を確かめるべく質問を返す。
「要領悪いとか、気が利かないとか。空気が読めない、とか」
「ええー? 全然そんなことないよ。むしろ行儀はいいし、出しゃばらないし可愛いし。女の子の鏡じゃない」
「消極的だし、優柔不断だし、自分の意志なんか皆無だし」
「いやいや、周りをよく見ているし、思慮深いし、素直だし、素晴らしいよ」
「ちょっと絵が描けるからって生意気だし」
「……莉央ちゃん、何かあったの?」
自分を卑下する言葉をここまで言うことはまれだろう。おそらく他人に投げかけられたものに違いない。これだけの言葉を一気に浴びせられたのだとしたら莉央の様子がおかしいのも頷ける。
「何かっていうか……」
悪意にさらされ気丈でいるには強さより経験だということを蒔田は身を持って知っている。けれども経験で流せるようになるまでのフォローは必須だ。蒔田はそれをかつて莉央からもらった。
――私は先生を信じています。
空白の三年間。世間で蒔田は失踪したことになっていた。
失踪というよりは、蒔田からすれば不慮の事故に近いものだったのだが、なぜ姿を消したのかを一言も口にしなかったのは、その理由があまりにも突拍子がなさすぎて信じてもらえないと思ったからだ。口にして懐疑心あふれる第三者に馬鹿にされるのは耐えがたかった。だから白々しいながらも記憶を失った振りをした。それで周りの人間が離れてしまうとしても諦めるしかなかった。そう覚悟はしていても、簡単に割り切れはしなかった。
ようやく画壇に認められ始めた頃だったのだ。自分には絵がある、これさえあれば去った人間は必ず戻ると思っても、現実は甘いものではなかった。認めてくれたはずの巨匠から見放されれば新進の画家など誰も見向きもしなくなる。
そんな中、離れていかなかったのは莉央だけだった。
幼い頃から独特の感性で色彩を操る莉央の才能に最初に気づいたのは彼女の父親で、当時たまたまある百貨店の催事場で開かれていた若手画家の合同絵画展で蒔田の絵を見た彼は、そこに娘と共通する感性を見いだした。その場で絵の説明をしていた蒔田を捕まえ、莉央の師となることを頼み込んできたのだ。
まだ描いた絵で生活できるほどの収入がなかった蒔田はそれをきっかけに小さな絵画教室を始めた。莉央の他、数人の生徒が通ってくるようになり、そこそこの安定収入を得られるようになった頃、自身の絵がさる有名画家の目に留まり、それなりの評価を得始めた。同時期に教え子である莉央の絵も、様々な場所で高い評価を得るようになり、絵画教室は盛況と言えるだけの人数を集めるようになった。
だが、その時期に起こった突然の失踪騒ぎ。ブームに乗って集まった生徒たちはあっさり離れていったし、気むずかしい巨匠は無責任だと非難し突き放す。
蒔田が戻ったとき、彼の社会的地位はないに等しくなっていた。
――言えないことなんか誰にでもあります。先生にも、私にも。私は先生のこと信じています。だからまた絵を教えてください。
変わり果てた状況に弱音を吐くことすら思いつかなかった蒔田に莉央はそう言った。三年間無人だったはずの教室は蒔田の親と、最後まで生徒でいてくれた莉央が手入れをしてくれていたので荒れてはいなかった。
「莉央ちゃん、コーヒーもう一杯淹れようか」
口を閉ざしたままの莉央に言う台詞として、これ以上の言葉はないような気がした。蒔田を見上げた莉央の目に柔らかな光が灯る。
――コーヒー、美味しいね。
あの日、蒔田がここに帰ってきた日。
なにも言わない蒔田に黙って莉央が淹れてくれたコーヒーは温かく、胸中にくすぶったまま凝り固まった気持ちをゆっくりと溶かしていくように感じられた。
それまでコーヒーなんて缶の甘ったるいものしか口にしたことがなかった蒔田だったが、あれ以来、莉央の持ってくる曳き立てのコーヒー豆で淹れたコーヒーしか飲まなくなった。
「コーヒーの香り、好きです。でも実はブラックって苦手なのでお代わりしてまではちょっと」
「今更そんなカミングアウトしちゃう!? ……うーん、それじゃあねぇ」
とっておきのつもりだった手段を否定された蒔田は、少し考え、パッと顔を輝かせた。
「先生?」
「莉央ちゃん、僕の手見ててね」
先ほど手にした小物入れの蓋をそっと外す。
「絵の具ですか?」
のぞき込む莉央に笑って頷き、指先をぺろりとなめるとついた唾液で小物入れの中の藍色の固形絵の具の表面をなぞった。中指の腹に移る色。そこを勢い良く擦って指を鳴らす。
瞬間、藍色の花弁が二人の視界を覆うように宙を舞った。
「え、あ」
蒔田の手には絵の具以外なかったはずだ。突然のことに莉央は言葉も出ない様子で落ちる花びらを見つめている。蒔田は大きく息を吸うと、白々しいほどにハキハキと決めゼリフを放った。
「ビバマジック!」
両手を高く掲げ、万歳をしてみせる蒔田に莉央は弾かれたように笑い出す。
「先生すごい! ミスターバロックみたい!」
最近よくテレビで見かける若手のマジシャンの決めゼリフとポーズをそのまま真似たのは莉央に手品だと信じ込ませるため。思惑通りそう信じて疑う様子のない莉央は蒔田の手を掴み、裏返したり擦ったりして種を探そうとしている。
元気のなかった莉央に対する根本的な対処にはなっていない。しかし楽しそうに落ちた花びらを拾い上げる様子を見ていれば、少しは楽になったのではないかと思えてくる。
「先生がマジック出来るなんて知らなかったです」
「莉央ちゃんにだってきっと出来るよ」
「そんなに簡単なんですか?」
興味津々といった様子で詰め寄る莉央に笑いながら蒔田は言う。
「それは秘密です。でも莉央ちゃんならきっとね」
僕と同じ資質があるから。
蒔田はそう言いかけて、しかし言葉を飲み込んだ。
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