階段の子
葉野赤
僕の通う高校には、一風変わった風景の場所がある。という話から、始めさせてもらおうと思う。
学校に来て校門を入れば、駐輪場と駐車場にはさまれて、巨大なアーチ状の屋根を載せたホールのような建物がそびえ立つ。それは、厳密には校舎じゃない。各教室が入っている本当の校舎部分は、その建物とつながった奥にある。この手前の建物はそこへ行くためのエントランス・ホールなのだ。4つ並ぶ観音開きの大きな扉から中に入ると、各学年の靴箱が列をなして整然と並ぶ。天井はかなり高く取られていて、この奥にある階段のてっぺんまで吹き抜けをつくる構造になっている。高さだけでなく横幅と奥行きもとても広々としていて、まさしくエントランス「ホール」と呼ぶのにふさわしい空間。左右の壁は二メートルほどの幅のガラスとコンクリートがストライプ模様のように交互にはめられ、天井の高さと両壁から入る光が、開放感あふれる空間を作り出している。
わざわざこんな立派なエントランスホールがあること自体風変わりではあるけれど、しかし、真に一風変わっているのはその奥の景色だ。靴箱のエリアを抜けたその向こう側には、前述のとおり校舎二階へと続く階段があるわけだが、それが、エントランスホールの幅いっぱいにとられているのである。それだけでも壮観なのに、これが、なぜか単純な大階段ではなく、六つのしっかりとした手すり壁によって「七列」に分かれているのだ。一列の階段は少なくとも生徒三人は並んで歩けるくらいはゆうにある。「階段が七列に分かれている」というよりは「階段が七つある」という表現のほうがふさわしい。吹き抜けの空間の下、そこはまさしく七つの階段がそびえ立っているような光景になる。実際、校内ではこの階段は「七つ階段」という呼び名で通っている。
でも、この階段が変わっているのは、これだけに留まらない。
七列のうち中央列だけは、他の列とは少し様相がちがう。まず、この中央の階段は他の階段の一・五倍ほど、五、六人は並んで歩けるほどの幅があり、階段自体の材質も、他の列のリノリウムとは違い、ここだけ木目調の少し高級感のある材質になっている。そして実は、この中央の階段を昇っても、二階の教室がある部分にはたどり着くことができない。この階段を上がった部分の裏側は、そこを起点にした扇型に中庭が広がっていて、つまりは行き止まりになっているからだ。
この中央の階段を境目にして、両側の三列ずつの階段は中庭沿いに扇型に広がって奥へ伸びる廊下へと繋がり、その廊下沿い、中庭側ではないほうに沿って教室が並んでいる。階段下から見て右側が一年、左側が二年。そして左右の扇を直線で繋ぐように建つ、中庭に面したもう一棟があり、三年はそこに教室がある。各棟は三階建になっていて、教室群の上のもう一階には視聴覚室や理科室などの特別教室が入っている。
では、七つ階段の中央、行き止まりになっている階段は何なのか。
この階段を上りきったところには、小部屋のようなスペースがある。この小部屋は中庭に面した奥の壁がすべてガラス張りになっていて、エントランスホール左右のガラスとともに採光の役目を果たしている。スペースの中央には、小ぶりな台座があり、芸術や学問の神であるらしいアポロンを象った銅製のオブジェが置かれている。ただし、壁を隔てた二階廊下部分に行き来する隙間やドアはなく、階段側以外は完全に閉じた空間になっている。つまりこの中央列の階段は、このスペースと一階を繋ぐためだけのものなのだ。
ちなみにこのスペースと中央階段は、生徒の間ではもっぱら、なにやら神様っぽい人がいる部屋とそこへ向かう階段、ということから、「神様部屋」「神様階段」という、安易だけど妙に神秘的な響きの名前で呼ばれている。
この七つ階段の独特な風景に、最初はみな(もちろん僕も含め)驚かざるを得ないし、まじまじと見上げたり話題に上ったりもするが、数日過ぎるとほとんど気に留めなくなってゆく。それがいわゆる慣れというものなのだろうし、第一、高校生にとっては学校生活は校舎の構造などよりも気にしなくてはいけないことがいっぱいあるわけだから、それも当然だろう。
しかし、特殊なつくりになっているゆえの、普通の階段とは違う、生徒と階段との独特な付き合い方が見られる場面というのもある。
ひとつは、どこを上るか、ということだ。
当然、ほとんどの生徒は、階段手前に六列並んだ靴箱のうち、自分の靴箱に近いところから上る。理由を述べるまでもなく、それが一番自然な形だ。だけど、時々あえて靴箱から離れた方から上る生徒もいるらしいのだ。といっても各学年の教室へは神様階段によって三列ずつ左右に分断されているから、そのうちの一列ということになるので、遠回りというほどでもない。でも、「あえてそうする」ということが重要なようだ。最近ついてないからとか、または何かの願掛けとか、そういうおまじないのような意味があるらしい。と、クラスメイトが話しているのを聞いたことがある。実際にやってみたという人は周囲では聞かない。あるいは、やっていても人に言わないだけなのか。
そしてもうひとつは、中央列の「神様階段」の利用法である。
この行き止まりの階段は、昼休憩や放課後の時間において生徒達の格好のたまり場になっているのである。なにしろ並んで座れるほどに広いので、だべりが大好きな高校生にそういうふうに使われることも当然と言える。教師たちから、階段にあまり溜まらないように、といった指導が行われることもあるが、それほど厳しい取り締まりは行われていない。
面白いことに、階段の上に行けば行くほど、つまり神様部屋に近づいてゆけばゆくほど、生徒たちの中の、いわゆる「勢力の強い」グループが陣取るようになっているらしい。まさしく「高み」に近づいてゆくような生徒内の権力構造、ピラミッド構造を具現化したような光景というわけだ。
しかし「面白いこと」と言ったのは、この構造自体のことじゃない。神様階段を我が物顔で利用できる生徒達は、この構造の中では確かに文字通り神様のような高い位置にいることになるのだろうが、所詮僕たち生徒は、いわば支配される側だ。それはどんなに生徒の中で存在感を持とうとも。いわゆる荒れた学校では、暴力で教師を負かすというような話も聞くけれど、しかしそれも滑稽だ。結局、学校内という空間に囚われているという意味では無意味だから。いくら生徒の中で「神様」になろうとも、それは結局、三蔵法師の手のひらの上をいつまでも飛び続けていた孫悟空のようなもので、学校の用意した箱庭の中で遊んでいるに過ぎない
以前部活の時に、何かの話の流れで女子の先輩にそんな話をしたことがあった。たしかその時先輩には「高山君ってそういうとこおもしろいよね。なんというか、冷めてるっていえばそうだけど」と笑いながら言われた記憶がある。あれは褒められたんだろうか。その逆だろうか。
……話がそれてしまったけど、ともかく、僕の通う学校には、そういう風変わりな場所がある。
そしてあの日、そこで僕の身に起こったことは、その七つ階段という場所のもともと持つ奇妙さに、輪をかけて奇妙な出来事だった。
あの日、僕は所属する新聞部の活動が長引いてしまい、部室をあとにした時には、時刻はもう6時を回っていた。
一緒に作業していた部長はもう少しキリのいいところまでやりたい、とのことだったので、僕はひとり部室を出て、三階の廊下を歩く。遅めになることはこれまでも時々あったけれど、ここまで帰りが遅くなったことは、考えてみるとこの学校に入学してから初めてだった。
この学校は近隣の学校と比べると割と早めに部活時間が終わるほうで、冬季夏季問わず6時には運動部含め、ほぼ全員が下校することになっている。ただ、大会前など、特別な事情のある部はそれ以降も残ったりすることはあるようだった。うちの部もそれなりに編集作業は忙しいけれど、だいたい5時40分くらいまでには必ず解散していた。でも、今日はどうしても今日のうちにやっておきたい分の作業が終わらなかったのだ。
二階廊下に降りると、突然、強烈な光が視界に入って思わず僕は目を細めた。中庭に面した「神様部屋」の窓に夕日が反射して、ガラスがまるで燃えているように眩しい、赤い光が、廊下の窓越しに目を射したのだ。
二階にも、見たところ人の気配はない。中庭を挟んだほかの棟にも、廊下の窓から一見したところ、やはり人影は見えない。誰ひとりいないなんてことはないと思うのだが、あたりは妙にしんとしていた。た、た、と自分の上履きの足音が響く。通りがかる教室をちらり、ちらりと見やるが、やはり誰もいない。ただ、夕方ではあるがまだじゅうぶん明るいので、別に不気味な感じもしない。むしろ、何だか新鮮な心地よさのようなものすら感じていた。
取材などの関係で休日に登校するようなことも以前に一、二度あった。休日は当然先生たちもほとんどいないから、人気という意味では当然この時以上になかったはずだ。でも、こんなふうな感覚を覚えることはなかった。「その日は元々誰もいない」ということと「さっきまでたくさんの人たちがいたのに、今は誰もいない」ということでは、受ける印象が変わるらしい。生徒達の熱気が去ったあとの寂しさと開放感が入り交じった空気が、校舎内のそこかしこに、しずかに横たわっているような感じがした。ふだん、校舎内の空間に何かを感じたり思ったりすることなど特になかったけれど、ともかくその時はなんだか、自分の心がいつもと違うような感じがした。不思議だった。
「わ」
つぶやくほど小さくもなく、人に話しかけるほどにも大きくない声で、ひとこと声を出してみた。静寂の空間に、自分の声が一瞬響き、すぐに空中に消えてゆく。そんなことやってみるなんて、なんとも普段の自分らしくはなかった。ふわりとする感じがあった。まるで、この静けさと、夕暮れの光との組み合わせが、なにか自分の中に化学反応をもたらしているような。
そんな、どこか浮ついた気持ちのまま、七つ階段の降り口のところまで来た。見下ろすエントランスホールの空間は、神様部屋の窓と、左右のストライプの窓から差し込む、夕日のオレンジで染まっていた。やはり人はいない。その光景を目にした時、急にふと、ある考えが浮かんだ。二年の靴箱はこの階段の一番内側……靴箱側から見れば「神様階段」の右隣が最寄りだ。いつも、この列以外を昇り降りに利用することはない。でも、なんだか今日は別の列で降りてみようか、と思ったのだ。別に、噂のように何か厄落としをしたいとか思ったんじゃない。何となく、そう思ったとしか説明できない。
これだって、普段の自分ならそんなことは思いつきもしなかったはずだ。その時の校内の未知な雰囲気が、やはり何かおかしくさせていたんだと思う。
こちら側の三列のうち、いつもとは逆の端の列を、一段ずつ、たん、たんとゆっくりと降りる。やがて下に着き、妙な高揚感に体をつつまれていると、「神様階段」の真下のほうがひときわキラキラしているのが目に入った。
「神様部屋」の大きな窓からの夕暮れの光が階段下に降り注いで、そこにひときわ明るい地帯が作り出されているのだ。あそこから見上げたら、どんなふうだろうか、さぞかしきれいだろう。僕は高揚感に任せて、気持ちをいつもよりも自由にしていた。
ゆっくりと進み、やがて光の領域に足を踏み入れ、神様階段を見上げる。そこには、はたして期待通りの、夕陽に照らされた美しい空間があった……。あったけれど、でも、そこにあったのは、それだけでは、なかった。
誰かが、いた。
神様階段の三つある踊り場、その真ん中のところに、誰かが、ひとりで座っていたのだ。
少し身体が震えたと思う。もちろん、驚いたからだ。……でも、驚きだけじゃない。自分ひとりきりだと信じ込んでいた世界に、気付かないうちに他人がいたという時の気恥ずかしさというか、気まずさというか、つまりは、それだ。
先ほどからの何か浮ついた気持ち、妙なはしゃぐような気持ち、ふだんの自分には、似合わないような気持ち……。が、さあっと遠ざかってゆく、急速な引き潮のような力に、まずは耐えなければいけなかった。別に歌を口ずさんだりスキップをしていたわけじゃないんだから、必要以上に恥ずかしく感じることはなかったはずなのだが、羞恥心は強烈に反応していた。今まで自分がささやかながらも「はしゃいでいた」自覚があったからだ。実際の行動と、表に出ない心情、その両方が、一気に冷水を浴びせかけられたような気持ちだった。
そして、熱が引いてゆくのと、まぶしい逆光状態の風景に徐々に瞳が慣れてゆくのは同時に、ゆっくりと進行した。
徐々に視認できてくる夏服の白いブラウスと、紺色のスカート。女子生徒だった。こちらを完全に見下ろす高さで、階段に座っている。頭を深めに俯かせ、黒髪を重力のままに前に垂らして。しかし、うなだれているというわけでもない。何かを左の手のひらに乗せ、それを右手で押さえている……いや、ゆっくりと、撫でつけていた。背中をやや丸めた姿勢は、あたかもその撫でている何かを守っているかのようでもあった。
そして、その姿勢と動きは、僕というこの空間への侵入者がありながら、何一つまったく変化を見せなかった。位置からは僕を視界の隅に捉えていてもおかしくないにも関わらず、全くこちらには気付いていないようだった。こんな静かな中で、足音もしただろうに? ……あるいは気づかないほど、手のひらの中の何かに意識が集中しているのか。そう思わせるような空気が、その姿にはあった。
ぼうっと見つめているうち、やがて頭は冷静さをだんだん取り戻してくる。とりあえずはここを立ち去ろう……。そう考えたのとほぼ同時だった。不意にその女子は手を止め、俯けていた頭を、そっと上げた。
肩のあたりに少し掛かるくらいのセミロングの黒髪が、逆光に透けて輝きながら一瞬ふわりと揺れ、その下から現れた丸く見開かれた大きな瞳が僕を見据えた。逆光の中でもはっきりとわかるその視線の確かさに、思わず息をのむ。口元は驚いたように小さく開いている。どうやら本当に、その時、初めてこちらの存在に気づいたようだった。
見つめ返すうちに、ふと気づく。その顔にどこか見覚えがあることに。どこかで、会ったことがある。校内で見かけた?いや、見かけただけじゃないような。確か……。
「あれ……」
その女子が小さく声を漏らしたのは、僕が、頭の中でその答えにたどり着きかけたのとほぼ同時だった。
「高山?」
やわらかな声で僕の名を疑問形で呼んだのは、隣のクラスの女子生徒だった。顔を見ただけでは名前が思い出せなかったが、名前を呼ばれて、記憶が蘇ってきた。
「……古橋、か」
「うん」
彼女は、左手に乗せたものを再びゆっくりと撫で始めながら、微笑を浮かべた。
古橋。下の名前は……忘れた。半年くらい前、一年の三学期途中というイレギュラーな時期に同じクラスに転校してきた女子。
あっという間に過ぎる三学期、しかもその途中からなので接することも多くはなく、たぶんほとんど喋ったこともないと思う。二年になってからは別のクラスに分かれたので、顔を合わせること自体ほとんどなかった。そして僕は、彼女がこの、普段生徒内グループの占有物になっている階段に座っている姿を、初めて見た。
だんだんと思い出してくる。言葉を交わした記憶がないのも、僕もクラスでわいわいやる方ではない上、彼女はクラスの中でも明らかにおとなしい部類の存在だったからだ。だから当然、こんな目立つ場所で、ひとりきりで過ごすようなタイプの生徒じゃないと思っていた。最初になかなか気付けなかったのも、もしかしたらそういうイメージが無意識に影響していたのかもしれない。
「久しぶりだね。いま帰りなの?」
古橋は気安い感じで、会話を続けてきた。
「……ああ。ちょっと部活が長引いて」
「そうなんだ」
「古橋は………何してるんだ。こんなとこで」
そう尋ねると、ん?と古橋は少し首をひねり、階段上の採光窓を少しだけ見返った。壁一面にはめ込まれたガラスからの夕陽の光が、逆光に隠れていた顔を、半分だけ照らし出す。
「夕陽」
「え?」
僕は少し焦って、間の抜けた声を出した。
「ここ、きれいだなと思って。きれいでしょ?」
「……そう、だな」
無邪気に投げられる言葉に戸惑う。そもそもが、話し慣れていない相手だ。
古橋は向き直り、視線を手のひらの中の何かに戻す。僕の意識は、その「何か」に改めて向けられた。いったい何を撫で続けているのだろう。なにか小さい動物でも持ち込んでいるのか。
……おそらく、これも。普段の自分ならそんなことを特に追及したい気にはならなかったと思う。こちらに気づかれたなら気づかれたで、話したなら話したで、そそくさと適当に切り上げて帰宅の途についているのが普段の自分の性格のはずだった。やはり、あの時の自分はおかしかった。あとになってみれば、そう思う。
「気になる?」
思考を見透かしたように不意に聞かれる。
「……動物か?子猫とか?」
思わず、つられるように僕は尋ねた。
「………子猫かあ」
「違うのか」
「どうかな」
笑いまじりにはぐらかされる。いかにも、楽しそうだった。
……さっきから、ずっと意外な感じがしていた。確かにまったく無口という印象でもなかったけれど、それでも、こんなふうに言葉数の多い、いたずらっぽい話し方をする女子だという印象は全然なかった。もっともこうして雑談のような会話を交わすこと自体がほとんど初めてだったわけではあるけれど。正直、こういう口調や、声だということも、不思議なくらい覚えていなかった。
目はだいぶ慣れてきたとはいえ、夕暮れの強烈な逆光の中、隠れるように俯き加減の古橋の全身は相変わらずはっきりとは目に捉えられない。僕がその手元に目を凝らそうとすると、不意に、夏服の白い半袖のブラウスから伸びる細い左腕が、ゆっくりと彼女自身の影から抜け出て、夕暮れの作る光の世界に徐々にさしだされた。
「これ、だよ」
手のひらの上で、はじめて夕陽の光と僕の視線に晒されたそれ………は、やはり、動物だった。眠っているのか、とろんと半ばつぶれたように乗っかっている、小さな動物。小さな小さな……子猫だ。
なんだ、やっぱりそうじゃないか。思わせぶりな物言いで、からかわれたと思った。しかし、やっぱり子猫じゃないかという声が喉の先まで出掛かったところで、僕はその言葉ごと息をのんだ。
一度、子猫だと思ったそれは、しかし、確かに子猫のように見えつつも、決して子猫ではない、と気付いたからだ。少し変わった体の柄をしているなとは確かに一見してすぐに思った。でも、変わっているというより、その配色は猫のそれじゃないということに徐々に気がついてきた。全体的に明るい、金色のような体毛。そしてその上には、濃い色の細長い縞のような模様がびっしりと入っている。腹のあたりには白っぽい部分がうっすらとあることも、視認できてきた。
そして、何よりも、その動物の顔つきは、体つきは、明らかに猫とは、……自分の知っている猫という動物とは、あまつさえ子猫とは、まったく違う様相をしていた。眠っているおだやかな顔の左右に美しくたくわえられた、口ひげのような白い毛並み。歌舞伎の隈取りにも似た、体と同じく顔全体に走る黒のライン。自分のこれまで生きてきた中で蓄積されてきた情報や知識に照らせば、それを表す名前は、ひとつしか導き出せなかった。
それは……その姿は、小さな猫、なんかじゃない。
虎。
小さな………虎だった。
女子高生の小さな手のひらの上からはみ出すこともなく、すっぽり乗ってしまうような、小さな、小さな、しかしそれでいて子供ではないことはっきりわかる、虎らしい身体の形は立派に出来上がっている、一匹の「虎」だった。
ぬいぐるみ?という言葉のひとつ、冗談交じりに言うこともできなかった。「それ」が間違いなく生きている動物であることが、近づいて凝視するまでもなく、なぜか直感的にわかってしまったから。前に教科書で、絶滅したニホンオオカミの剥製の写真を見たことがある。その姿はどうみても一瞬で「生物」ではないとわかった。生きているものとそうでないものとの違いというのは、たとえ毛や身体の形がしっかりあったとしても、すぐにわかってしまうのだとその時思った。今は、その逆だ。あれは、生きている。作り物じゃなく。そう、わかった。
でも、感覚でそう認識しながらも、そんなはずはない、こういう種類の猫なのだろう……という異論のきざしが、ほとんど本能的に頭の中に生まれようとしてくる。受け入れないための防衛本能といってもいいかもしれない。しかし、そんな僕の内側の混乱をまるで嘲笑うかのように、その時、眠っていた「それ」がゆっくりと顔を上げた。影から急に夕陽に照らされる場所に突き出された眩しさからか、目を細めたまま、のっそりと顔を持ち上げて。それからぱっちりと開かれたその瞳の鋭さは、疑いようもなく、猫のものではない。射抜くような眼差し。猫の大きな瞳がどこか幼さを湛えた愛らしさを投げかけているものとすれば、いま僕が見つめ、そして僕を見つめている小さな動物の瞳は、かわいらしさの代わりに、威厳と畏怖を、小さく、しかし確かに振り撒いていた。
冗談のようだった。
東南アジアとか、サバンナにいるという、あれ。動物園にいるあれ。を、そのまま小さく圧縮したような動物。
生きている、動物。
……虎。
僕が心の中でひとつ呟いたのをわかったかのように、虎を乗せた左手がゆっくりと、彼女の影の中へ戻ってゆく。そっと手のひらが頭に被せられると、虎は覆われるままにまた頭を下げ、眠りの体勢に直る。それを確認すると、古橋はこちらを見つめた。
「見えた?」
「………うん」
「わかった?」
「……………」
「虎だよ」
改めて、どきりとした。さっきまでと古橋の声の調子はなにも変わってはいない。でもその一言は、宣告に聞こえた。その動物の存在が改めて、他に疑いなく「虎」に確定されたような。
「そう………みたいだな」
「うん」
「………本物なのか?」
ほとんど無意識に口からぽろりと出た、意味の薄い追及。古橋は小首を傾げ少し考えてから、苦笑をふくんだように言う。
「私、本物の虎ってまだ見たことないんだよね。だから、これが本物の虎って言っていいのかどうかっていうのは答えにくいかな」
「………ああ、……」
回答と質問とがすれ違っていたことはすぐに気づいたが、僕は曖昧に相づちを打った。「本物か」というのは、それが本当に生きている動物の虎なのか、という念押しの意味だった。返ってきた彼女の回答はどうも「自分は世間一般で言われている『本物』とされているような虎を実際に見たことがないから、これがそれらと同じかどうかは断言できない」というニュアンスに聞こえた。でも、その質問にこだわる気はなかった。
古橋は再び顔を俯け、「虎」に視線を落とす。僕の視線は、彼女の左の掌の上の細い指でゆっくりと撫でられ続けている「虎」と、それを俯きながら見つめる慈愛を含んだ古橋の表情との間を、交互にさまよう。見上げる夕焼けの光の世界の中で、「神様部屋」のもとで、その姿は、何だか……。言葉をあてはめるなら、神聖な雰囲気すら醸し出していた。
その時の僕は確かにそう思っていた。
「びっくりした?」
古橋は微笑を浮かべて少し俯いたまま、聞いてきた。
「そりゃ……びっくりするだろう」
「信じられない?」
「………いや。………それが虎だっていうのは、わかった」
観念したような僕の言葉を聞くと、彼女はどこか満足そうに、口元をさらに少し緩ませた。
「そう、虎なの」
その表情につられるように、自分の張りつめた気持ちもどこかゆるやかになってゆくのを僕は感じていた。とうとう自分で「虎」と言葉にしたことで、ようやくこの状況を引き受けられたような気持ちになったのかもしれない。……引き受けられたのと、そして、この女子とどこか気持ちが通じ合えたような感覚。他に誰もいない、夕暮れの階段で。それは、何だか、いやな気持ちじゃなかった。
「それ、飼ってるのか? そういう……ペット用のがあるのか」
ゆるやかになってきた気持ちに任せ、僕はなにげなく会話を継いだ。本当に、軽口という気分だった。
しかしなぜかその言葉を聞いた古橋は突然、ずっとたたえていた微笑みをしゅっと萎ませた。その時何かをつぶやいたように聞こえたが何を言ったのかはわからなかった。それとほとんど同時に、今まで「虎」を撫で続けていた手が、ぴたり、静かに止まった。古橋は、俯けた顔を心なしかさらに伏せて、まったく表情が窺えなくなった。そしてその姿勢のまま、階段の上で、じっとしてしまった。なんだか……怒っているようにも見えた。
僕ははっきりと動揺した。
僕の言葉は何かおかしかったか?何か今、怒らせるようなことを聞いたのか?いや、この状況では別におかしい質問じゃないだろう。
何より、さっきまでの古橋の雰囲気は、よけいなことを喋ってはいけないというようなものじゃなかっただろう。不自然なくらいに気安く、口を利いていたじゃないか。どうして急に気分を害したようになったのか?目の前の、顔を伏せてしまった姿を見つめながら、思考がぐるぐると回る。
どこか遠くで、バイクが走り抜ける音がした。その音がだんだん遠ざかって消えると、音が聞こえる前よりもこの空間の静けさはがっそう増したように感じた。
………静寂の中で動揺と疑問にさらされた僕は、心の動揺の隅に、今までは覚えなかった、不快でたまらない感情が生まれ始めるのを感じた。それは、言ってみれば、一度その中に入ってゆけたと感じた場所から、突然に追い出されたような気持ちに近かったかもしれない。あまりにもこの女子の振る舞いに、気持ちが振り回され続ける状況。しまいには、突然に機嫌を損ねたように黙り込んでしまった、いま。何か最初に出くわした時の気恥ずかしさまでもが、今さらのように蘇ってくる。それらのもろもろを種として生まれてきた……そう、戸惑いからの、苛立ちの感情は、芽吹いてから急速なスピードで大きく成長していく。……一体何だというのだろう。こんなところで、こんな時間に、ひとりきりで、わけのわからない生き物を愛でて。そっちからえらく気軽に話しかけてきたくせに、当たり前の疑問に急に様子を変えて……こいつは、何なんだ。何かおかしいんじゃないか?
不思議なもので、くすんだ心持ちで目の前の風景と向き合えば、さっきまではつい神々しささえ覚えていた彼女の姿が、だんだんひどく滑稽なものに変わって見えてきていた。一体どうして、さっきは半ばこの光景に見とれるような心持ちになってしまったのだろう。そのことに、また新たな恥ずかしささえも浮かんでくるのだった。
ここに来た時に比べると、夕陽の明るさも徐々に弱まってきている。まぶしく差し込む光はとうになく、日の入り後の残照がこの空間を包んでいる。
もう今度こそ適当に切り上げて、このまま立ち去ってしまったほうが良いのかもしれない。しょせん、何だかよくわからない妙なことをやって、妙なものを持っていたりしたとしても、単なる隣のクラスの生徒のやっていることだ。自分にはそもそも関係がないじゃないか………。そうだ、今はまた古橋の手の中に収まって見えなくなっているあの動物だって、思わせぶりな言葉と雰囲気に引っ掛けられた単なる僕の勘違いで、本当はやっぱり子猫とかなんじゃないのか……?なんで、素直に虎だってわかったなんて……。
その時、エントランスホール中に機械的な単音のメロディが大きく響き渡った。僕の巡る感情に覆いかぶさるように。
六時三十分のチャイム。学校がまもなく閉め切られることの知らせ。最後に……学校で、一日の一番最後に鳴らされるチャイム。自分は、この学校に来て初めて聞くチャイム。
この空間をすべて支配するように響き渡る、冷たく単調な電子音。その中で顔を伏せたまま動かない女子生徒の姿は、神々しさや滑稽さとはまた全く違う、ぞっとするような不気味さを感じた。
ゆっくりと、同じ旋律が重く二度繰り返されて、鳴り終わる。その余韻が空間から消えるか消えないかという頃合いで、古橋はゆっくりと深く俯けていた顔を上げた。最初に僕に気づいた時のように。でも、視線は僕ではなく、手の中の虎に注いだままだ。
そして、左手の「虎」を包むように伏せていた右の手のひらを、しずかに、自分の顔の前のあたりまで持ち上げた。その瞳には最初に見たときと同じような、どこか慈愛の色を含んでいるように見えた。
刹那。
あっ、と思うがはやいか、彼女は持ち上げた右手を、左手のひらの上で眠っている「虎」の上に、自分の上半身ごと押し付けるように、勢いよく、すばやく振り下ろした。
チャイムの余韻が消えて静謐さを取り戻したばかりの空間に、「ぎゅっ」という、嫌な音が鈍く響いた。
彼女の、上半身がすっかり前に倒された姿勢は、いかにその行為に全身の力を込めているかがありありと伝わってきた。両の手のひらは自分の腹と腿の間に隙間なく挟まり切って、見えない。完全に伏せられた古橋の顔も、どんな表情をしているのかまったくわからない。
やや暮れを深くした、夕陽の光に照らされて。つつまれて。
階段の真ん中で。僕はそれを見上げて。
今は、いつだ。
ここは、どこだ。
これは、なんだ?
さっきまで自分の中にあったいろいろな感情は、今や完全に消し飛んで跡形もない。
夕暮れの中、そのまま動かない彼女を、僕は呆然と見つめた。その間はどれくらいだったのかも、まったくわからなかった。
やがて古橋の上半身がのそりと起こされ、その下から、ぴったりと重ね合わされた手のひらが現れた。それから彼女は、右手を、ゆっくりと、持ち上げた。
小さな左の手のひらの上には、血だまりも、ひしゃげた無惨な生き物の死体も、その名残すら、なかった。そのかわりに、白濁色の、小さな、丸い飴玉のようなものがひとつあった。
彼女はそれを右手の親指と人差し指でひょいとつまみ上げ、自分の額のあたりの高さまで持っていき、見上げ、じっと見つめて、さっき虎を撫でていた時よりも、さらにやさしい微笑みを浮かべた。
「甘いんだよね」
僕に聞こえるようになのか、それともまったくの独り言なのか。判別できない言い方だった。そして、飴玉をつまんだ手をゆっくり、くるり、くるりと翻し、角度を何度も変えながらそれを眺めた。
「だから好きなの」
そう言うと、それを、そっと、小さな唇の間に収めた。
僕は何も言わなかった。
今や夕暮れは、はっきりと夜の色を帯びはじめていた。
階段の子 葉野赤 @hanoaka
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