第5話 憂鬱と好機

 スマホのデフォルトの目覚まし音が遠く聞こえる。俺は布団からもぞもぞと手だけ出して、横の勉強机に置いたスマホの画面のスヌーズボタンを押すと、もう一度布団に身をうずめた。


 一応目覚まし自体は午前六時にかけているが、六時に起きれば余裕を持って準備ができるというだけで、六時半に起きても充分間に合う。じゃあ、六時半に目覚ましかけろよという話だが、それが人間のさがというものだ。


 まだ薄暗い部屋で、意識を手放そうとしたその時。昨日の放課後の一部始終が、ふいに脳裏に蘇った。


 ——あんなの小説じゃねえよ。

 ——ああ、望むところだ!


 急速に意識が冴えていく。俺はたまらず顔を抑えた。——本当、なんであんなこと言ったんだ!

 布団の中でひとしきり悶えた後、俺は一人呟いた。

「……学校休みたい」


 しかし、親から金を出してもらっている以上、休むわけにはいかない。

 いくら、昨日初めて喋った同級生とひょんなことから喧嘩して、挙げ句勢いで思ってもない酷いことを言ってしまい、落ち着いた今、顔を合わせるのが死ぬほど気まずいとしても。……こうして昨日の状況を整理すると、なかなか酷いな。休むに足る理由になる気がしてきた。


 いや、そんな理由で休んだら、末代までの恥だ。

 俺はスマホの横に置いた眼鏡を掛けると、鈍る足でベッドの向かいに立つクローゼットに向かった。



 ****



 高校までは自転車で通っている。

 通学路は平地ばかりで、もともと体力もある方なので、普段はもっと軽やかにペダルを漕ぐことができていた。


 それに比べて今日はどうだ。

 さっきから全然進んでいない。というか、今からでもUターンして帰りたい。


 こんなに学校に行きたくないと思ったのは、小五の時以来だ。あの時は確か、日直と給食当番と美化委員の清掃点検の当番が全部同じ日に回って来たからだったが、今思い返してみれば随分可愛いものだ。……いかん、過去の自分にまで八つ当たりし始めてしまった。

 俺の気分は、どこまでも憂鬱だった。


 しかし、通学路のだいたい中間地点に位置する歩道橋の下を通った時、ふと考えた。——むしろ好機なのではないか、と。


 昨日、斉藤さつきと喧嘩するに至った経緯をよく思い返してみれば、謝罪というそもそもの目的に思い至った。そう、俺はノートの中を勝手に見たことの謝罪をしたかったのだ。しかし、昨日は謝罪どころか、むしろ関係を悪化させただけだった。


 本来はあれほどの喧嘩すれば、そのまま一生関わる機会はない。謝罪する機会は一生失われてしまったはずだった。

 それなのに、今の俺には、斉藤さつきと面と向かって会話する場が設けられている。これを好機と言わずして、何と言う。


 確かに、ちゃんと落ち着いた今でも、昨日の斉藤さつきの言い草には腹が立つものもいくつかある。でも、だからと言ってノートの中を勝手に見たことの謝罪をしなくて良いなどという道理はない。


 加えて、昨日の俺は斉藤さつきの小説を「小説じゃない」とまで言った。いくら腹が立っていたとは言え、言って良いことと悪いことがあることくらい分かっている。

 俺は斉藤さつき謝るべきなのだ。


 それに。

 ずっと関係が拗れたままというのは、いささか気持ちが悪い。どうせなら、ちゃんと謝って、ちゃんと喧嘩を終わらせるのが、得策だ。


 斉藤さつきの小説を読む機会。これは紛れもない好機だ。

 小説の話に持っていきやすく、かつ二人きりの状況が作れる。謝罪にはもってこいだ。


 そう考えると、俄然ペダルを漕ぐ足に力が入った。


 頭の中でシミュレーションしてみる。

 まず——多分、放課後になるだろう——斉藤さつきが持ってきた小説を読む。読み終えれば、斉藤さつきは聞くはずだ、「どうだったか」と。そこで、俺はこう答える。「面白かった。ちゃんと小説だった」と。そして、続ける。「昨日は『小説じゃない』などと言ったが、あれはかっとなってしまっただけで、口から出まかせだ。本当にすまなかった。あと、例のノートも中を見てすまなかった」と。


 よし、これで完璧だ。これ以上ないくらい自然だ。

 ……自然と言えば。昨日聞いた、ヒステリックにも聞こえる斉藤さつきの叫び声を思い出す。


『返してください!』


 昨日、斉藤さつきが急に「返してください!」と叫んだのは、不自然だったように感じる。確かに、直前俺が取った行動は意地の悪いものに映ったかもしれないが、もうワンアクションあっても良い気がする。それに、あまりに必死すぎた。


 ま、俺に分かるはずがないし、興味もない。

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