第6話 ギャント公爵領の紛争 後編
ギャント公爵の私室に呼ばれたナイジェルは目の前に出された物に不愉快な表情を隠しきれなかった。
銀製の杯にはなみなみと葡萄酒が注がれていたからだ。
ナイジェルは全く酒を受け付けない体質で一口飲んだだけでも酔ってしまい、この量を飲み干せば泥酔して倒れてしまうだろう。
そのことが無くても、敗戦で部下たちの大多数が怪我を負って、戦況も油断できない現状で呑気に酒を飲む気にはなれない。
「申し訳ありませんが、私は酒を飲めません」
「なにぃ? ナイジェル大隊長は儂の酒が飲めんのか!」
ギャント公爵はナイジェルが私室を訪ねた時にはすでに相当酔っていた。飲めない理由を説明しても、理解してもらえなさそうだ。
舌打ちを何とか堪えて、酒杯を手にする。
舐めるようにほんの少し口をつける。酒精が体を回っていくのが分かる。
「遠慮せず、さあもっと飲むといい」
戦場では告罪天使の異名通りの戦いぶりを見せたナイジェルが、酔いが回ってほんのりと白い頬を朱に染め、困ったように目を伏せる様子に余程嗜虐心をそそられるのか、近くに寄って来てやたらと酒を勧める。
あまりに無体な要求に見兼ねたのか、傍らに控えていたカールーンが割って入る。
「ナイジェル大隊長は本当に酒が飲めないのです。私が代わりに頂きます」
そう言って返事を待たずにナイジェルが手にしていた酒杯を奪って一気に飲み干した。
ギャント公爵はムッとした表情でカールーンを睨み付けたが、ナイジェルに視線を戻すと歪んだ笑顔を浮かべる。
「ナイジェル大隊長とは個人的に話がある。皆下がれ」
威厳を込めて言ったつもりなのだろうが、その声は好色の色を含んでいた。
二人きりになって何をするつもりなのか察しが付く。
「我々が傍らにいて問題があるのでしょうか?」
「貴様、ただの副官が王族の儂に直言するつもりか! ナイジェル大隊長は部下の躾けがなってないのう」
「カールーン、スライ下がっていろ」
ギャント公爵の意図が分かっていないのだろう。ナイジェルは二人を庇うようにそう言った。
カールーンもスライも眉間にしわを寄せて心配そうにナイジェルを見るが、強いて直言することも出来ず下がるしかなかった。
部屋の中に二人きりになった途端、ギャント公爵はナイジェルの傍らににじり寄ってくる。
酒臭い鼻息に眉を顰めると太腿のに手を置かれた。太い芋虫のような指は豪奢な指輪が嵌め込まれ、ナイジェルの太腿の感触を楽しむように撫でまわされている。
困惑したように自分の太腿を撫でまわす手をしばらく見つめていたが、視線を上げて間近に迫ったギャント公爵の顔を見る。
鼻息を荒げて、こちらを見るギャント公爵に発情した豚のようだなと酔いの回った頭に王族に対してはあまりにも不敬なことを考える。
薄らと口の端が笑みの形に上がる。
薄く形の良い唇に浮かぶ笑みに誘いかけられたと思いこんだギャント公爵は、その唇にむしゃぶりつこうとした瞬間鳩尾に激痛を感じた。
ぐぎゃあと醜い悲鳴が自分の口から上がるのを耳に聞えた途端、世界がゆっくりと暗転していった。
スィムナールはナイジェルの大隊では一番若い中隊長で最近その地位に抜擢されたばかりだった。
若い所為かやや功を焦り、先走ってしまうところがある。
本人も自覚があるのだが、性格もあるのでなかなか治らない。
やや小柄だが俊敏な身ごなしで長めの
明るい茶色の髪とよく表情の変わる鳶色の瞳の持ち主でそばかすの散った童顔はナイジェルより二つ年上だが、そう見られたことはない。
年下のナイジェルを上官として仰ぐことにあまり頓着しない。頭が良く明るい性格だが、軽率でお調子者の側面もある。
そんなスィムナールがフェルガナの偵察に行っていた部下の報告をナイジェルに伝える為、ギャント公爵の私室に向かう途中、廊下の角を曲がったところで世にも恐ろしいものを目にした。
目にした途端に体が勝手に反転してその場から離れようとする。
「スィムナール、貴様なぜ逃げる?」
地の底から轟いてくるような怒りを含んだカールーンの声に上がりかけた悲鳴をなんとか飲み込んだ。平静を装って振り返り、笑顔で応えようとするが口元が引き攣るのはやむを得ないだろう。
「いや、気のせいですよ、副官殿」
お調子者の彼でも魔神がいたのかと思いましたと本音は言えない。
「何の用だ」
スライも凄まじい形相で睨んでくる。
何か失態でもしてしまったのかと焦りながら来た理由を説明し始めた。
「あの、ナイジェル大隊長にフェルガナ軍の動向を報告したいのですが、取り込み中ですか? それなら、またあとで――」
「よし、来い!」
いきなりカールーンに話を遮られて腕を取られた。
「……あの豚野郎が大隊長に何かしやがったら、只じゃおかねえ」
温厚な中隊長がこれ以上ないほどの侮蔑を込めて呪詛のような言葉を吐き捨てながら、スィムナールのもう一方の腕を取る。
大男二人に腕を取られて罪人さながらに廊下を引き摺られながら、俺どんな悪事をしたのだろうかと思わず自身の人生を振り返ってみたが、意外と心当たりがあったので取り敢えず考えることを止めることにした。
公爵の私室の前で入らせまいとしたり顔で阻んでいた公爵の小姓をカールーンが隣で見ていたスィムナールでさえ、喉の奥で悲鳴が漏れるほどの眼光で睨み付ける。
か細い悲鳴を上げて、転がるように逃げて行く小姓の姿には目もくれずに中に入ると絨毯の上に少し顔を蒼褪めさせて、手の甲を額に当てたナイジェルが横たわっていた。
その傍に口から泡を吹き、蹲って失神しているギャント公爵がいた。
「ナイジェル大隊長! 大丈夫ですか」
罪人のように引き摺られていたスィムナールが真っ先に反応して駆け寄りナイジェルの腕を取る。
「……あまり大丈夫じゃないな。それよりギャント公爵はどんな状態だ?」
「腹の贅肉のおかげでしょう、骨は折れてないようですな」
心底嫌そうにギャント公爵を仰向けにひっくり返して、怪我を確認していたカールーンが答える。分厚い脂肪に覆われているので怪我をせずに済んだのだろう。鳩尾にこぶし大の赤黒い痣ができていたが。
「どういたしましょうか?」
表情は穏やかだが、非常に物騒な気配を漂わせたスライにナイジェルは笑いながら首を振る。公爵にされたことをさほど気にしていないのだろう。
そんなナイジェルに一様に不満そうな表情をする
傍らに膝をつき、心配そうな表情でこちらを見るスィムナールに視線を転じる。
「スィムナール、フェルガナの動きはどうだ?」
「向かわせた偵察によれば、川を越えて砦に入ったようです。向こうもかなりの損害ですから帝都に救援を要請したようですが、エルギンからの援軍が来る方が早いでしょうね」
「……閣下に迷惑をかけるな」
普段のナイジェルらしくも無く、消え入りそうな声で呟くのを三人は何とも言えない表情で見つめていた。
「スィムナール、手を貸してくれないか」
「はい。ナイジェル大隊長は本当に酒に弱いですね」
「……父親に似たのかもな」
痛みを堪えるように目を伏せて、自嘲気味の笑いを浮かべて呟いた。
スィムナールはしまったという顔で軽率な言葉を吐いたことを後悔する。スライとカールーンが咎める様な視線をスィムナールに向ける。
伯父であるバスターも母であるセリーナもかなり酒に強かったらしい。叔母で養母のマリアも自分で大甕に葡萄酒を作り、大瓶を開けてもけろりとしている。
弟のマーリクも同様なので、ナイジェルはそう思っている。
容貌さえ母に似ていないので、自分は相当父親に似ているのだろう。
顔も名前さえも知らない父親に。
「――というのが私の聞いた話です」
話を聞くうちに段々苦悩の色を濃くしていくバスターを気の毒そうにメルヴィンは見ていた。
ナイジェルはギャント公爵にされたことを一切バスターに報告していなかった。
ただ、援軍を感謝し、敗走した経緯を淡々と報告し謝罪したのみだった。
エルギンからの援軍もあって、フェルガナの方から休戦を申し込んできた。
ナイジェルの大隊によって、フェルガナの領主も壊滅的な状態だったからだ。
その過程でギャント公爵の偽証も判ったのだが、そこは触れずに双方痛み分けの休戦協定となった。
バスターは取り敢えずナイジェルに対して俸給を返還させる処罰を下し、王都に報告したが、王太子に詳しい説明をナイジェル本人にさせるように求められ、ナイジェルを王都に向かわせた結果今回のことになった。
「儂が聞いた話も大体同じだ。解せんのは王太子が何故ギャント公爵の提案を受けいれたかだが」
「エルギン辺境防備隊の武力を削りたいのでしょうね。今回の遺跡調査で何らかの責任を取らせて大隊長の地位を剥奪するおつもりなのではないかと」
「我らに対する牽制の為ですかな」
「恐らく。ナイジェルは剣士としての才能と指揮官としての才能両方兼ね備えている人物ですから。彼をエルギンから除くだけでも戦力としては大打撃になります。私が言うのは何ですが、辺境伯の発言力はその武力に依るところが大きいですからね。王太子殿下はそれを快くは思っていない。その上武力で対抗したくとも近衛大隊では話になりませんからね」
国王直属の近衛大隊は右翼と左翼に分かれ、部隊長を長としてそれぞれ千人の騎兵を束ねている。
国の動乱期には精鋭部隊だったのだが、国内の平安が保たれるようなると、争いが国境に移り国王が自身で近衛隊を率いることが無くなった。ただ式典などで玉座を飾るためだけに存在するようになった。
今では大半の兵士が貴族の子弟で占められていて箔をつけるために入隊し、地位を能力で決めず金で買うというのが常習化していて、戦力となると疑わしい状態だ。
辺境伯が国防のほとんどを担い、その武力を背景に発言力があるのに対して近衛大隊の部隊長は御前会議にも呼ばれなくなってしまっていた。
「エルギンはフェルガナとの国境を接している重要拠点ですぞ。そこの戦力を削ぐのは如何なものか」
「最近は小競合いばかりですから、王太子殿下もそれほど重要視していないのでしょう」
「やれやれですな」
オスウィンは肩を竦めて未だに押し黙ったままのバスターに目をやる。
「……ナイジェルは何故儂を頼らぬのか」
声を振り絞るように言うバスターにメルヴィンは優しく笑いかける。
「貴方に失望されたくないのですよ、ナイジェルは」
「お前にもセリーナ殿にも似ておらんから余計だろうな。なあ、バスターよ。本当にあれの父親はわからんのか?」
「セリーナを随分問い詰めたのだが、あれも頑固な女だ。一度喋らぬと心に決めたら貝のように黙り込んで喋らぬよ」
また三人の間に沈黙が落ちた。
メルヴィンは目の前に置かれた茶碗を手に取り、ふっと笑顔を浮かべる。
「私は、ナイジェルの父親がどんな人物であれ、感謝していますよ。彼をこの世に送り出してくれたのですから」
「メルヴィン王子のおっしゃる通りですな。アナイリンの夫としてあれほど相応しい男はおりません。バスターよ、お前が腫れ物に触るような態度だから、ナイジェルも甘えられんのだろう。偶には叱ってやったらどうだ? 間違いなくお前は伯父なのだから、自分を頼れとな」
「だから、勝手に決めるな」
バスターはオスウィンの言いように苦笑を漏らした。
「……そうだな、オスウィン感謝する。少し気が楽になった」
「うむ、大いに感謝しろ」
重々しく頷くオスウィンにメルヴィンとバスターは声を上げて笑った。
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