第3話 三人の辺境伯
カーマーゼン辺境伯メルヴィン・エジフリス・アジメールは溜息をついた。
目の前に置かれた陶製の茶器には温かい茶が注がれている。東方から伝わった白磁の茶器には繊細な筆遣いで草花の紋様が描かれている。
普段であれば、白磁の茶器の美しさを堪能するところだが、今はそんな気にはなれない。
「青の間」と呼ばれる広間には幾何学的な形の細かなタイルを組み合わせて作った花弁のような複雑の模様が壁一面に施されている。
天井にいくにしたがって濃紺から瑠璃色、浅黄色に変化していく。半球形の天井部分には太古の神龍アンティオケイアの伝承を描いた十六枚の細密画が嵌め込まれている。
大理石の床の上には十人の職人が五年がかりで作り上げたという豪奢な絨毯が敷かれている。
円座と金襴と刺繍を施された座蒲団が置かれ、アジメール王国の始祖を描いた巨大な肖像画の前は一段高くなっていて王が座るためのものだ。
その席には今は誰も座っていない。
メルヴィンはもう一度溜息をついた。
溜息をついた途端、腰まで届く長い金茶色の髪が一房揺れて頬にかかる。
眉を顰めた顔は秀麗そのものだった。瞳は春の若草を思わせる明るい緑色で頬にかかった髪を直す手は指も長く美しかった。
典雅な楽人を思わせる風情だが、王国でも有数の剣士の一人だ。現国王の妾腹の王子で、臣下に下りハーランド公爵の爵位を得ている。
茶器を取り上げて、温かいお茶を一口呑む。最高級の茶葉を使っているので味も香りも申し分のないものだが、苛立った心を鎮めるほどではない。
隣を見るとメルヴィン以上に苛立ちを抑えきれない様子の初老の男が座っている。
ライギット辺境伯オスウィン・ファッハード。
アジメール王国南方国境を防護するライギット辺境防備隊の長で侯爵の称号を有する名門貴族の出だ。
中肉中背で赤茶色の髪を丁寧になでつけている。整えられた口髭を蓄えた顔は貴族的で端正な顔立ちだが、強い意志の力を宿す茶色の瞳は鋭い。
苛々と膝の上に置いた武骨な指が小刻みに動いている。短気なことで知られている男なので、これでも我慢しているのだろう。
その奥を見ると腕を組み、目を半眼にしたまま彫像のようにピクリとも動かないオスウィンと同年代の男が座っている。
オスウィンが中肉中背なのに対して、肩幅も広く座っていても体格の良さが分かる。
エルギン辺境伯バスター・ガーランド。
東方のフェルガナ帝国と接する国境を防護するエルギン辺境防備隊の長だ。
ナイジェルの伯父であり、ガーランド家は代々武門の家柄である。
黒い頭髪は半ば白くなり、黒い瞳は思慮深い性質を映して穏やかだった。
三人ともに華やかな辺境伯の軍装に身を包んでいる。
金糸の縁取りをした白い頭布を金と黒瑪瑙で作られた額飾りで止めている。
一般兵の軍装より少し長めの長衣には刺繍が施され、外套には所属部隊の紋章を模した金と様々な貴石で作られた装身具が飾られている。
長衣の色は所属部隊によって違っていて、エルギンは青、カーマーゼンは緑、ライギットは赤、近衛大隊は白となっている。
ライギット辺境防備隊とエルギン辺境防備隊にメルヴィンが長を務めるカーマーゼン辺境防備隊を含めてこの三つの部隊がアジメール王国の主たる国防を担っている。
この三人が同時に王都に呼び出されることなど珍しい。
現在、どこの国とも紛争を抱えていないとはいえ、そうそう長が部隊を離れるのはあまり良いことではない。それなのに指定された時間からだいぶ経過している。
オスウィンが苛立つのも当然のことと言える。
キッとオスウィンはバスターを睨み付けると八つ当たりをし始めた。
「随分、涼しい顔だなバスターよ。お主は腹が立たないのか? 我らを呼び出しておいて待たせるなどと摂政殿下は既に国王になったおつもりか!」
「――ファッハード候は短気でいらっしゃる。まださほど時間は経ってはおりませぬよ。摂政殿下もお忙しいのでしょう」
「お前に敬語を使われると余計腹が立つわ。まあよい、それよりもナイジェルの件、お主は納得しているのか」
それまでは茫洋とした表情だったバスターの眉間にしわが寄った。
「王国最強の剣士を大して必要とも思えん遺跡調査の護衛隊の隊長にするなど、人材の無駄遣いとしか思えんがな。……まあ、別の意図があるようだが」
ギロリと目の前に座っている男たちを睨む。
ここには三人の辺境伯の他に司法を司る審刑院の長である
「王国最強とはファッハード候は買い被り過ぎですな」
「ほう? 甥だから遠慮しているのだろうがな、過ぎた謙遜は美徳ではないぞバスター。ならば、あれを上回る剣士の名を挙げてもらおうか」
「……メルヴィン王子も優れた剣士でいらっしゃる」
やや困ったような表情で、バスターはメルヴィンの名を挙げた。
二人のやり取りを黙って聞いていたメルヴィンはくすりと笑みを溢した。
「それこそ買い被りというものですよ、ガーランド卿。手加減されている時点で同等ですらありません」
いよいよ困った表情になったバスターにメルヴィンは声を上げて笑い出した。
「確かにもったいないですな。王国最強の剣士を王国の始祖に係わるとはいえ単なる遺跡調査に派遣するですから」
「何がもったいないのだ? メルヴィン」
そこに入ってきたのは王太子のロークだった。
黒檀のように艶のある黒髪を肩にかからない長さに切り揃え、黒水晶のような瞳が嵌め込まれた顔は端正だが生真面目な人柄を映してあまり笑顔を見せることはない。
後ろにはナイジェルを護衛隊長に推薦した王族が付き従っている。
「いえ、ちょっとした戯言ですよ、王太子殿下。殿下にお会いするのは久方ぶりですが、ご健勝のこととお見受けします、王国にとっても重畳。臣下としてこれ以上ない喜びにございます」
にこりと笑うと両拳を地に着け頭を下げる。絶対の服従を示す姿勢だ。オスウィンやバスターもそれに倣う。
ロークは恭順の姿勢を取る三人の辺境伯を不愉快そうに見詰める。
彼らの忠誠心はアジメールの玉座に対してであってロークにあるわけではないことを知っていた。
ロークは鷹揚に頷いただけで上座に座る。
「ギャント公爵もお元気そうですな」
皮肉をたっぷり含んだ口調でオスウィンが王太子の横に座ろうとしていた男に話しかける。
先々代国王の末子に当たる男で名をショアス・エズモンド・アジメール。臣下に下り、エルギンに近いギャントを領有している。
若い頃は金髪碧眼の品のある顔立ちだったのだろうが、食道楽で長年に渡る飽食で肥え太り、突き出た腹を重そうに揺すっている。どこか蛙を連想させる容貌だった。
「おお、オスウィン殿もな。儂に何か?」
オスウィンの口調が不快だったのか睨むように三人の辺境伯を見るが、オスウィンは嘲るような笑みを口の端に浮かべ、メルヴィンは穏やかな笑顔だが瞳だけが凍り付くように冷たい。バスターは表情を一切消して黙り込んでいた。
「ただ挨拶をしただけですが」
「ふん、何か言いたいのなら、はっきりと言ったらどうだ!」
「ならば、言わせていただくがなギャント公爵。我らは優れた将兵を育て上げる為に日々努力をしている。一朝一夕には優秀な兵士を育つものではないのでな。それを横から持っていくような真似は慎んで頂きたい」
「もしや、ナイジェル大隊長のことか? それならば、優秀と思うたからこそ、護衛隊長に推薦したのだ。本人も納得しておるのだろう。何か問題があるのか」
三人三様の威圧感に気圧されながら、威丈高に言い放つ。
黙って二人のやり取りを聞いていたロークは眉を顰めて口を挟む。
「ナイジェル大隊長のことは私も承認したことだ。フェルガナ帝国とは今特に争うてはいないからな。エルギン辺境伯、国境に問題でもあるのか」
「いいえ、問題はございません。ライギット辺境伯がおっしゃりたいのは統帥権を持たない者に人事を言いように動かされては我らも混乱致します。せめて統率する我らに計らってからお決め下さるよう願います」
王都に報告に来ていたナイジェルにいきなり護衛隊長になるように命令が下され、そのまま慌ただしく準備を整え旅立っていったのだ。
バスターが事態を知ったのは、すでに調査団が出発した後だった。
ナイジェルの副官を急遽、大隊長代理に据えたが、ナイジェルの大隊は曲者揃いの上にナイジェル個人に対する忠誠心が異様に強い部隊なので、この突然の決定に不満が爆発寸前だった。
それは他の部隊にも伝播して、エルギン辺境防備隊は不穏な空気に包まれている。
「適当な人間がいなかったからな。ナイジェルを護衛隊長に据えたのは、今回の件での罪を償わせるつもりだった。確かに配慮が足りなかったな、済まない」
「な、なにも王太子殿下が謝罪されるようなことではありますまい。王国の武人であれば殿下のご命令は絶対でございましょう」
「ギャント公爵」
卑屈な笑顔で、ロークにすり寄るように言い募ろうとしたギャント公爵をメルヴィンの冷たい声が遮った。
「ここは栄誉ある
ギャント公爵は顔を真っ赤にして砂地に投げ出された魚のように口を空しく動かしていたが反論できないのだろう、ロークに縋る様な目を向けた。
さほど年齢の変わらない叔父であるギャント公爵に縋られたロークは苦笑を浮かべた。
「確かにギャント公爵にここにいる資格はないな。下がって頂けますかな」
ロークにも丁寧な口調だが、メルヴィン同様の冷ややかな視線を浴びせられ、茫然としていたが、視線を他の元老たちに向けても、視線を逸らされ誰一人としてギャント公爵を弁護しようとする者はいない。
仕方なく頭を下げて出て行こうとした。
その後ろ姿に追い打ちをかけるようにメルヴィンが声を掛ける。
「ギャント公爵、一つだけご忠告申し上げたい」
「な、なにか?」
びくりと震えあがって振り返るとメルヴィンは人の悪い笑顔を浮かべていた。
「貴方のご趣味をとやかく言いたくはないのですが、自重されることをお勧めしたい」
赤黒くなっていた顔色が音が聞こえそうなほど血の気が引き、その容貌を蒼褪めさせる。
ギャント公爵のあまり公に出来ない趣味は公然の秘密と化していて、その場にいる者は誰もが知っていた。
バスターは目を見開くと凄まじい眼光でギャント公爵を睨み付けた。
声にならない悲鳴を上げて逃げ出すギャント公爵の後姿を睨みながらメルヴィンに詰問する。
「どういうことですかな、メルヴィン王子」
「聞かぬほうがいいぞ、バスター。耳が腐る」
吐き捨てるように言うオスウィンも事の次第を知っているのだろう、バスターに八つ当たりしていた時と違ってやや憚るような態度だ。
バスターはそれでも聞きたそうな顔をしていたが、御前会議の場であることを思い出してそれ以上問い質すようなことはしなかった。
ロークも不味いものを飲み込んだような顔だったが、会議を進めることにして王立学問院の導師長の方を見る。
「ジョアヒム、今回の遺跡調査のことを皆に説明しろ」
「はい」
ジョアヒムと呼ばれた男は頷くと説明を始めた。
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