「機兵」3
<3>
その一言が嬉しかった。
3日前、
酒に酔って、酔いに酔って、
初めてきちんと、詩葉と出会った場所。
そのすべてが遠い昔のように思える。
「何か飲むかい?」
詩葉の言葉が聞こえた。
「そうだな…。いや、酒は要らない。水を貰えるか?ここの水は、旨かったからな」
詩葉が無言で水を用意する。
一口含んだ。
「ああ…。旨いな」
杯を持つ手が震えた。
「旨いなぁ…」
震えるその手を、反対の手で押さえた。
杯を両手で持ったまま、左手を強く額に押し当てる。
しばらくしてから、晨鏡は大きく息を吐いた。
もう一口水を飲み、杯を置く。
半身になって視線を横に向けた。
その間、詩葉は何も言わなかった。
やがて、晨鏡が言った。
「なあ、詩葉。笑わないで聞いてくれるか?」
詩葉に視線を移し、自虐的に笑う。
「いや、笑ってもいいぜ」
そう言って晨鏡は、再び杯に手を伸ばす。
水はぬるくなっていた。
杯を置き、卓に両肘をつく。顔の前で手を組み、視線を少し下げて晨鏡が言った。
「おれさ、英雄になりたかったんだよな。物語に出てくるような。なれると思ってたんだ。本気でさ。子供の頃の夢じゃないぜ?つい最近まで、そう思ってたんだ」
詩葉と視線を合わせずに晨鏡が話す。
「だけど、世の中はそんなんじゃなくて、物語とは違って。ずっと夢ばかり、見ていられないよな。分かってる。分かってた。いや、分かってなかった。だから、仲間を傷付けて」
受け入れてくれた人。仲間に入れてくれた人を泣かせてしまった。
「だけど、それでも、夢を、夢を見続けていたかった。きっと今も、そんな夢を見てる。なのに…。なのに、何もできなかった。手を離してしまった。命綱だったのに。おれが、おれが力を緩めたから、だから…」
「だから人が、人が一人、死んでしまった。おれが…、おれが、殺した!」
「晨鏡…」
「何が英雄だよ。どうして自分は違うなんて、そんなことを思えたんだよ。助けられなかった。誰一人、助けられなかった。たくさん、たくさん死んでしまった」
いつの間にか詩葉が隣に来ていた。晨鏡の背中にそっと触れる。
「悔しいな、詩葉。おれ、誰も助けられなかった。何もできなかった」
握りしめた拳を強く口に押し付ける。涙を必死で堪えた。
細い腕が晨鏡を抱き寄せた。
***
どれくらい時間が立っただろう。
晨鏡が鼻をすすり、詩葉から離れる。
「変な話してごめんな」
そして誤魔化すように付け加えた。
「ああ、なんか、飲みたくなったな」
晨鏡が空の杯を差し出す。
だが、詩葉はその杯を受け取らなかった。
代わりに言った。
「変じゃないよ」
詩葉は言った。
「変じゃないよ、晨鏡。あたしの話も、笑わないで聞いてくれる?あたしね、物語を読むの、好きだったんだ」
驚く晨鏡に、詩葉が構わず続きを話す。
「白馬に乗った王子様には興味なかったけど、冒険の旅に出たいな、誰かが迎えに来てくれないかな、そう思ってた」
なんだよ、それ。思わず晨鏡が笑った。
「あ、ずるい。笑うなんて」
あ、すまん。謝る晨鏡に、詩葉も照れたように笑う。
「えへ。でもね、晨鏡。あたし、本を読むのも好きだったけど、もっと勉強したかったなって、そう思うの」
「勉強?」
「うん。勉強。ほら、この国の学校って、お役人になるための学校でしょ?
晨鏡は目を見張った。そういう考えを持ったことは無かった。今まで思いもつかなかったことを詩葉は口にしている。
「ねえ、晨鏡。あんた、偉くなれるんでしょ?州のお役人や、郷主、県伯にもなれるんでしょ?」
「あ、ああ…」
州試を合格したのだ。郷主も県伯も、本来ならば夢ではない。本来ならば、だ。
「だったら、なってよ。そして、作ってよ。楽しい学校。色んなことが、勉強できる学校」
晨鏡は想像した。知りたいことが学べる学校。自分の知りたいことが、勉強できる場所。
想像したら、楽しいと思った。作りたいと思った。
遠回りをしたかもしれない。出世の道は閉ざされたのかもしれない。だが、機会が完全に失われたわけではない。道はまだ、あるかもしれない。たとえどれだけ遠回りでも。
だから晨鏡は言った。
「分かった。なってやるよ。お前のために、作ってやるよ」
詩葉が嬉しそうに笑った。
「良かった。元気になったね。あんたはそうやって、威張ってるほうがかっこいいよ」
「なんだよそれ。褒めてるのかよ」
二人は顔を見合わせ、楽しそうに笑った。
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