「機兵」3

<3>


 その一言が嬉しかった。

 晨鏡しんきょうは調理場に向かい合う長卓の席に座った。

 3日前、詩葉しようが用意してくれた粥をすすったその席だ。


 酒に酔って、酔いに酔って、夏蘭からん瑤陽ようようを傷付けて、その翌朝に座っていた場所。

 初めてきちんと、詩葉と出会った場所。

 そのすべてが遠い昔のように思える。


「何か飲むかい?」


 詩葉の言葉が聞こえた。


「そうだな…。いや、酒は要らない。水を貰えるか?ここの水は、旨かったからな」


 詩葉が無言で水を用意する。玻璃はりの杯に注がれた、ただの水。

 一口含んだ。


「ああ…。旨いな」


 杯を持つ手が震えた。


「旨いなぁ…」


 震えるその手を、反対の手で押さえた。

 杯を両手で持ったまま、左手を強く額に押し当てる。

 しばらくしてから、晨鏡は大きく息を吐いた。


 もう一口水を飲み、杯を置く。

 半身になって視線を横に向けた。


 その間、詩葉は何も言わなかった。

 やがて、晨鏡が言った。


「なあ、詩葉。笑わないで聞いてくれるか?」


 詩葉に視線を移し、自虐的に笑う。


「いや、笑ってもいいぜ」


 そう言って晨鏡は、再び杯に手を伸ばす。

 水はぬるくなっていた。

 杯を置き、卓に両肘をつく。顔の前で手を組み、視線を少し下げて晨鏡が言った。


「おれさ、英雄になりたかったんだよな。物語に出てくるような。なれると思ってたんだ。本気でさ。子供の頃の夢じゃないぜ?つい最近まで、そう思ってたんだ」


 詩葉と視線を合わせずに晨鏡が話す。


「だけど、世の中はそんなんじゃなくて、物語とは違って。ずっと夢ばかり、見ていられないよな。分かってる。分かってた。いや、分かってなかった。だから、仲間を傷付けて」


 受け入れてくれた人。仲間に入れてくれた人を泣かせてしまった。


「だけど、それでも、夢を、夢を見続けていたかった。きっと今も、そんな夢を見てる。なのに…。なのに、何もできなかった。手を離してしまった。命綱だったのに。おれが、おれが力を緩めたから、だから…」


 嗚咽おえつが漏れた。


「だから人が、人が一人、死んでしまった。おれが…、おれが、殺した!」

「晨鏡…」

「何が英雄だよ。どうして自分は違うなんて、そんなことを思えたんだよ。助けられなかった。誰一人、助けられなかった。たくさん、たくさん死んでしまった」


 いつの間にか詩葉が隣に来ていた。晨鏡の背中にそっと触れる。


「悔しいな、詩葉。おれ、誰も助けられなかった。何もできなかった」


 握りしめた拳を強く口に押し付ける。涙を必死で堪えた。

 細い腕が晨鏡を抱き寄せた。


 ***


 どれくらい時間が立っただろう。

 晨鏡が鼻をすすり、詩葉から離れる。


「変な話してごめんな」


 そして誤魔化すように付け加えた。


「ああ、なんか、飲みたくなったな」


 晨鏡が空の杯を差し出す。

 だが、詩葉はその杯を受け取らなかった。

 代わりに言った。


「変じゃないよ」


 詩葉は言った。


「変じゃないよ、晨鏡。あたしの話も、笑わないで聞いてくれる?あたしね、物語を読むの、好きだったんだ」


 驚く晨鏡に、詩葉が構わず続きを話す。


「白馬に乗った王子様には興味なかったけど、冒険の旅に出たいな、誰かが迎えに来てくれないかな、そう思ってた」


 なんだよ、それ。思わず晨鏡が笑った。


「あ、ずるい。笑うなんて」


 あ、すまん。謝る晨鏡に、詩葉も照れたように笑う。


「えへ。でもね、晨鏡。あたし、本を読むのも好きだったけど、もっと勉強したかったなって、そう思うの」

「勉強?」


「うん。勉強。ほら、この国の学校って、お役人になるための学校でしょ?郷試ごうしに受からないと上の学校に行けないし。あたし、そういうことより、もっと色んなことが知りたいと思った。どうして夜は暗いんだろう。どうしてお日様は東から昇るんだろう。どうして火は暖かいんだろう。そんなことが知りたかった」


 晨鏡は目を見張った。そういう考えを持ったことは無かった。今まで思いもつかなかったことを詩葉は口にしている。


「ねえ、晨鏡。あんた、偉くなれるんでしょ?州のお役人や、郷主、県伯にもなれるんでしょ?」

「あ、ああ…」


 州試を合格したのだ。郷主も県伯も、本来ならば夢ではない。本来ならば、だ。


「だったら、なってよ。そして、作ってよ。楽しい学校。色んなことが、勉強できる学校」


 晨鏡は想像した。知りたいことが学べる学校。自分の知りたいことが、勉強できる場所。

 想像したら、楽しいと思った。作りたいと思った。


 遠回りをしたかもしれない。出世の道は閉ざされたのかもしれない。だが、機会が完全に失われたわけではない。道はまだ、あるかもしれない。たとえどれだけ遠回りでも。

 だから晨鏡は言った。


「分かった。なってやるよ。お前のために、作ってやるよ」


 詩葉が嬉しそうに笑った。


「良かった。元気になったね。あんたはそうやって、威張ってるほうがかっこいいよ」

「なんだよそれ。褒めてるのかよ」


 二人は顔を見合わせ、楽しそうに笑った。

 

 

 

 

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