「機兵」2

<2>


 こんなときでも出自しゅつじが大事か。


「構わない。話せ。こんな時だ。郷試も県試もない。役人も市民もない。知恵が必要だ。遠慮はいらない」


 晨鏡しんきょうが言うと、伊魁伊魁が信じられないという顔つきで睨み付けてくる。

 その視線を無視して、晨鏡は南信なんしんを促した。


「では、申し上げます。『空から行く』というのは無理でしょうか。その、つまり、城壁に登るだけなら鉄の怪物は出てこない。城内に降りなければ出てこないというのであれば、降りなければ良いのでは、と」

「どういうことだ?」


「はい。城内に降りずに、城内の建物に入ることはできないか、と。長い梯子はしごでも良いですし、つなでも良い。城壁から直接建物に移動できれば、文書や備品、郷主印などを回収することができるのではないか、と。一から揃えるより、ある程度回収できれば違いますよね」


 役人たちがざわつく。

 晨鏡は考えた。城壁から役所の建物まで、近いところであれば2町(約218メートル)ほど。

 梯子は無理にしても、据え置き式の弩砲どほうを用いれば、綱を結んだ槍を飛ばして足がかりを作ることはできなくなさそうだ。


 しかし。

 深泉しんせん郷南東支城に現れたような怪力型の怪物だとすれば、その手も有効かもしれない。だが、中央郷北西支城に現れたという疾風型の怪物だったとすればどうだろうか。


 孔鶴こうかくは鉄の怪物が20尺(6メートル)の高さの城壁に飛び乗ったと言っていた。

 それ以上の跳躍力があるとしたら。


 郷城の壁の高さは35尺(10メートル)あり、支城のそれよりも更に高いが、もし、そこに届くほどの跳躍力があるとしたら。

 あるいは、その二種類とは別の型の怪物がいて、その高さを攻撃できる能力を備えているとしたら。


 晨鏡は言った。


「悪くない考えだ。だが、危険すぎる。郷城内にどのような化け物がいるか分からない。南信の考えは早急に過ぎる」

「はい。申し訳ありません」

「謝る必要はない。これまでに無かった事態が生じているんだ。広く知識を、意見を集める必要がある。そうですよね、皆様」


 反論できる者はいない。晨鏡は続けた。


「いかかでしょう。高長こうちょう様。残念ながら、郷が所有している文書は、ほぼすべてが城の中にある。老若男女を問わず、市民からも知識を求めましょう。誰かが知っているかもしれない。何かを知っているかもしれない。今欲しいものは、何よりも情報です」


 役人の地位が高いこの国で、特権階級であるこの国で、「市民」から意見を聞くという晨鏡の言葉は、本来であれば郷の官僚たちには到底受け容れられるものではなかった。

 だが、このような場合に指導力を発揮すべき郷主ごうしゅ狼狽うろたえるばかりで何の役にも立っていない。


 県伯けんはくから郷主に全権は与えられなかった。

 頭を使え。そういうことならば、知恵を出し合わなければならない。考えて、結論を出すためには<まとめ役>が必要だ。


 この<まとめ役>に郷主が相応ふさわしくないのは明らかだった。そして役人たちにとって残念なことながら、今この場でその役割にもっとも相応しく見えるのが晨鏡であることもまた明らかだった。


「そ、そうだな。し、晨鏡殿に任す。そ、そうだ。き、貴殿は相談役なのだから、貴殿の言葉は、私の言葉だ。そうであろう」


 居並ぶ官僚たちは揃って呆れた。口には出さなかったが、何人かは表情に現れていた。


「ありがとうございます。では、お言葉に甘えて、もう一つ二つ、確認させていただいてよろしいでしょうか」

「な、何だ。何なりと申すが良い」

「恐れ入ります。では、申し上げます。資金の問題のほか、懸念される点が二つあります。一つは、明日以降の郷の業務をいかに執り行うか。もう一つは、治安の維持をどのように図るか」


 高長は晨鏡の質問に即答することができなかった。

 結局、その日の会議では何も決まらなかった。

 郷債ごうさいの発行も、明日からの業務内容も、治安の維持に関しても。


 総務課からの報告によれば、深泉しんせん郷では南東支城以外の3つの支城、すなわち北東支城、北西支城、南西支城では、北西支城で城壁を越えた守備隊が未帰還になった以外は大きな騒ぎになっていないとのことだった。


 守備隊に未帰還者が出た北西支城でも、南信なんしんが戻ってから司法課長の名で「現状維持」の通達がなされており、ここ数日のうちに治安が急速に悪化する心配は無いように思われた。


 だが、悪い知らせほど足は速いもの。北東支城の惨劇さんげきが知れ渡るのは時間の問題と思われた。

 事態が長引けば、流言飛語りゅうげんひごの類も駆け巡るだろう。


 それゆえ晨鏡しんきょうは、守備隊だけでは治安維持に不足が出ると考え、郷や支城、村における自警団の設立を提案した。

 自発的に成立した自警団は、ともすれば排他的になり得るが、組織立って統率されたものであればその心配は軽減されるはず。


 そう思っての提案だったが、高長こうちょうは決断できなかった。

 情報収集に関しても具体的な方策は決められず、明日に持ち越しとなった。


 時刻は夜の10時を過ぎていた。

 疲れは頂点に達している。


「これからどうなさいますか?」


 南信なんしんの問いかけに、陽河ようがは答えた。


「今日は帰ります。また明日、お会いしましょう」


 陽河には帰る家がある。帰りを待つ妻がおり、子がいる。


「晨鏡さんは、どうされますか?」


 南信は晨鏡と一杯やりたかったのかもしれない。

 その目がそう言っていると分かっていつつ、晨鏡は一人になりたいと思った。

 だから言った。


「今日はおれも帰るよ」


 南信にそう言っておきながら、晨鏡は一人になると、まっすぐ自宅に帰る気になれなかった。

 郷主相談役という、郷の中で郷城副官に匹敵する階級にある晨鏡には、家政婦が3人も付いた邸宅が丸ごと1つ与えられていた。


 そのうちの1人は家族と共に住み込みで働いている。

 そこに帰れば食事と風呂と寝床がいつでも用意されるだろう。

 それのどこに不満があるのか。


 不満など無いはずだった。

 なのに晨鏡は、その家に帰ろうとする気にならなかった。

 この郷に来て半年。その邸宅で食事をしたのはどれほどだろう。その邸宅に記憶を失わずに戻ったのはどれほどだろう。


 何が不満だったのだろう。何を求めていたのだろう。

 何を求めて、自分は毎晩のように、歓楽街でさを晴らしていたのだろう。


 今はそれが、どれだけ恵まれていたことなのか分かる。

 その日常が、どれほど有難いものだったのかが分かる。

 でもだからこそ、だからこそ、晨鏡はその恵まれた場所に戻ることができなかった。


 扉を開けると、客は一人もいなかった。

 待っていてくれたと、そう思うのは自惚れだろうか。

 詩葉しようの目がうるんでいるように見えるのは、自分の勘違いだろうか。


「少しだけ、良いか?」


 晨鏡は言った。


「勿論だよ」


 詩葉は答えた。そして言った。


「おかえり」

 

 

 

 

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