「惨劇」4

<4>


「お待たせしました。近くに取水口がなくて」


 息を切らせて南信なんしんが言う。

 深泉しんせん郷は都から遠く離れた辺境の郷だが、都と同じく上下水道が完備されている。


 郷の住民は街の至るところに設けられた取水口から自由に水を利用することができる。

 住宅内に井戸があれば、それを利用することも可能だ。


 手渡された竹筒の栓を開け、晨鏡しんきょうが水を口に含む。

 うまい。

 よく冷えた水が喉を伝う。


 この街に来て良かったことは水のうまさだ。

 こんなに透き通った水は、都では飲めない。


 今まではそれだけだった。

 それだけだと思っていた。


「すまん。全部飲んでしまった」


 お気になさらず。竹筒を受け取りながら南信が答える。


「…便所だ。ちょっと行ってくる」


 うまい水を飲んだら気力が戻った。

 街では取水口と同様に、各建物で共有の便所を基本的には誰でも利用することができる。

 一部の高級住宅街や夜間を除いて。


 10分ほどして晨鏡が戻ってきた。


「お待たせして申し訳ない。どうも腹の調子が…」

「大丈夫ですか?おれたちだけで行きましょうか?馬はキツイんじゃ…」


 晨鏡たちは郷主ごうしゅから郷の馬を使う許可を得ていた。


「最悪の場合、吐きながら行くことになるな」


 晨鏡が真顔で答える。


「まあ、なんとかなるだろう。それより、南信のほうこそ、馬はどうなんだ?」

「農家の生まれですからね。小さい頃から馴染んでますよ」


 北部州北西県では、農家といえば酪農を伴っている。広い平原を利用した放牧や遊牧も日常だ。

 晨鏡が夢中になっていた騎射術きしゃじゅつも、馬に馴染みの深い北の大地ならではの競技人口といえる。


「足を引っ張るとしたら私かもしれません。私は商家の出ですので」


 陽河ようがが言う。


「晨鏡様はどちらのご出身なんですか?」


 何気なく聞いたその答えは、南信にとって予想外だった。


「出身か。どこなんだろうな。おれは『王の種』だからな」

「え?『王の種』?あ、『王の民』ですか?そうだったんですか。道理どうりで…」


「道理で、なんだ?」

「え、あ、いや、その」


 南信が口ごもる。


「南信には言っていたかと思ったが、言ってなかったか」

「あ、はい。初めて聞きました」


 南信が頷く。


「そうか。まあ、改めて言うほどのものでもないしな。6歳まで都にいて、そこから北部州に来た。北部州は南東県だったので、中央州からは近かった。こことはだいぶ気候が違って、南東県は暖かかった。もちろん、南部州に比べたら寒かったけどな」

「南部州にも行ったことがあるのですか?」


「ある。南部州と南西州を旅したことがある。南部州は暖かかったな。冬でも雪は降らない。厚手の上着も必要ない。南西州はさらに温暖で、最南端はもう常夏」

「は~」


 南信は想像を巡らせる。しかし、想像もつかない。

 北の端と南の端。どこが、どれくらい違うのだろう。


「いつか行ってみたいですね」

「行けるさ。金さえあればな」


 晨鏡は笑った。笑いながら、ふと思った。

 そう、行けた。今までは。


 だが、これからはどうなのだろう。

 たかだか門が開かないだけで、そう思うのは考えすぎなのだろうか。


 県城に行くよりも、土木課と協力して城壁を越える方法を探り、城内の様子を確認すれば済むような気もする。

 何かの間違いで閉じただけの扉を、中から開ければ済むだけのような気もする。

 しかし、晨鏡はなぜか、それをしてはならないような気がした。


 失敗したときの負の評価をおそれるわけではない。

 頭か心か、どちらか分からないが警告を発していた。中に入ってはならない、と。


 急がなければ。

 陽は傾き始めている。

 二日酔いだの何だのと、いつまでも言ってはいられない。


 ほどなくうまやに着いた。

 郷主の許可書を見せて馬を借りる。

 手入れの行き届いた馬だ、と晨鏡は思った。ここにも、人がいる。


 それぞれ馬を選び、馬上の人となる。

 陽河も巧みに手綱をさばいている。

 その様子を確認し、晨鏡は言った。


「まずは支城に急ぎましょう」


 その目に力が満ちていた。

 

 

 

 

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