「閉門」3

<3>


 中庭から戻り、向かいの扉を開けると、そこは食堂になっていた。

 厨房から食器の触れる音が聞こえる。

 香りの出所もそこだった。


 近付いていくと、女が気配に気付いて振り向いた。

 後ろで一つに束ねた髪が揺れる。明るい茶色の髪。まだ若い。男はそう思った。


「目が覚めたようだね。気分はどうだい?」


 その声に聞き覚えがあるような気がした。夜中に聞いた声と似ている。そんな気がした。


「最悪だな」


 短く答え、調理場に向かい合う席に腰を下ろす。


「ここはどこだ?二階の部屋もあんたのところの部屋なのか?」


 そうだよ。

 女が答え、水の入った玻璃はりさかずきを調理場側から卓の上に置く。


「すまない」


 一口含むと、冷たい水が胸に沁みた。よく冷えた手拭いも置かれた。汗を拭き、首筋に当てる。

 頭のもやが少し晴れた気がした。


「迷惑をかけたようだ」


 女は肩をすくめただけで何も言わなかった。


「今、何時だ?」


 水を飲み干し、女に尋ねる。


「もうすぐ正午だよ」

 

 やはりそうか。男は思った。

 不思議と笑みがこぼれた。

 いくらなんでも限界だろう。


 最低だな。そう思った。

 そう思ったら、その言葉を口にした女の顔が浮かんだ。

 怒っていた。泣いていた。


 ああ…。傷つけちまったな…。

 何を言ったのか、はっきりとは思い出せない。ただ、その心をえぐったことは覚えている。

 言ってはならないことを、言った気がする。


「すまない」


 もう一度呟くように言った。誰に対してでもなく。その場にいない誰かにも。


「役所へ行かなければ。もう居場所は無いだろうけどな」


 その言葉に、女が不思議そうな表情を見せた。


「ん?」


 何だろう。男が首を傾げると、女が言った。


「あ、いや。あんた、『晨鏡しんきょう』さんだろ?」


 その名を呼ばれて驚く。


「どうして知ってるかって?そりゃあ、あんた、小さな街だからね。この店にも来たことあるんだけど、覚えてないか」


 覚えていなかった。この街に来てから、酒を飲んでは記憶を無くす。その繰り返しだった。


「すまない」


 その言葉しか出てこない。


「別に。謝るほどのことでもないよ」


 実際女は気にしていないように見えた。

 それならば、先ほどの仕草はなんだろう。

 いぶかしがる晨鏡に、女が意外なことを言った。


「帰るんなら上着を取ってきてやりたいけど、どうかな。まだ乾いてないかもよ」

「乾いてない?」


 間の抜けた発言だったのだろうか。女が初めて笑った。


「そっか。覚えてないのか。あんた、ずぶ濡れで転がってたんだよ。よく生きてたよね」


 ずぶ濡れ…。そういえば雨が降っていた。夜中はかなり寒かった気がする。

 そこで気付く。


「もしや、君が介抱してくれたのか?」


 即座に否定された。


「さすがに無理だね。面倒みたのは、あんたんとこの若いのだよ。助けを求められたから、手伝いはしたけどね。あんたんとこの若いのが、あんたを二階まで運んだんだ。店で寝られちゃ迷惑だからね。ずぶ濡れの服も着替えさせたんだよ。髪も拭いてさ。熱が下がったのは奇跡だね」


 晨鏡は少し落胆した。彼女ではなかったのか。そう思い、慌てて自分の考えを否定した。

 自分のところの若いの、と言えば、おそらく南信なんしんのことだろう。

 郷試ごうしを及第した郷の役人。


 どんなに酔っても、どんなに醜態しゅうたいさらしても、なぜか彼はいつも最後まで晨鏡とと共にいた。

 後で礼を言わなければならないな。晨鏡は思った。

 そしておそらく、それが最後だろうとも。

 

「半乾きでも仕方ないな。二階に干してくれているのか?」


 中庭にはそれらしきものが無かった。


「そうだよ。取ってきてやるから待ってなよ」

「すまない」


 そればかり言っている気がする。


「いいよ。手間賃はたっぷり貰ったからね。あんたんとこの若いのに。これくらいの面倒は見てやるよ」


 女が悪戯(いたずら)っぽく笑う。


「そうか」


 そこまで世話になったのか。

 お人好しの顔を思い浮かべる。


 その時、腹が鳴った。

 調理場を離れようとした女の目が丸く見開かれる。


「あんた、どういう胃袋してんだい?」


 普通、あれだけ酔えば次の日は食欲がないはず。


「知るか。胃袋に聞け」


 晨鏡(しんきょう)が即答すると、女が弾けるように笑った。


「あはは。切り取って調べてやろうか」

「死なない程度に頼むよ」

「それは難しいかもね。まあ、いいや。粥でも食べるかい?その間に服が乾くかもね」


 晨鏡は考えた。今更急いでも状況は変わらないだろう。

 結論はすぐに出た。


「ご馳走になろう」


 女が嬉しそうに笑い、調理場に戻る。


「そうだ。名前を聞いていなかったな。教えてもらえるだろうか」


 その横顔に晨鏡が尋ねる。

 女が答えた。


「詩葉(しよう)。詩は『うた』。葉は『木の葉』の葉」

「うた?ああ、『詩』か。うたの葉で詩葉。いい名前だな」


 調理を始めた顔を見つめていると、ほどなく詩葉が言った。


「そんなに見られたら照れるだろ。二階の片付けでもしてきなよ。乙女の寝台独占したんだからさ。良い香りがしただろ?」

「乙女?」

「なんだよ」

「あ、いや。そいつは済まなかったな。どれ、もう一度嗅いで来るか」


 晨鏡が真顔で答えると、詩葉が呆れたように言った。


「馬鹿。やめろよ、変態。あんたほんとに偉いお役人なのかよ」

「偉いかどうかは分からんが、役人だったな。少なくとも昨日まではな」

「なんだよ、それ」


「まあ、今日のことは誰にも分からん、というわけさ」

「何言ってんだか。さっさと行きな!」

「へいへい」


 面白い女だ。そう思い、立ち上がり、胸に痛みが走った。

 なんだ。この痛みは。

 晨鏡は胸をさすりながら二階の部屋に戻った。


 そうか、乙女の寝台だったか。

 寝台と机、箪笥が一つしかない部屋を見て思う。

 乙女と呼ぶには微妙だったが、まだ二十代の前半には見えた。晨鏡と同じくらいか。


「わたしの店」と言っていたが、自分で店を持つには若すぎる。

 ここにも来たことがあった、と詩葉は言った。


 思い出せないが、嘘は付くような相手には見えなかった。

 記憶のないその時間に、自分は一体どれだけの痴態ちたいさらしてきたのだろう。


 寝台を整え、ふと脇を見ると、寝台脇の小さな卓に厚手の手拭いと上着以外の服が畳んで置いてあった。

 水差しと杯も置かれていた。

 服を手に取ると太陽の匂いがした。


 そうか。

 晨鏡は思った。

 この痛みは、心の痛みか。


 人を傷付けて、笑っていられるはずがない。

 誰かを傷付けて、変わらぬ明日を迎えていいはずはない。


「すまない」


 晨鏡はもう一度呟き、深々と頭を下げた。

 そして、泣いた。

 

 


 

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