蛍舞う、月下の花園にて二人は誓う ~第三部~


*****



「蛍。もっと……ぎゅっと、強く……抱いてほしいな。痛いくらい」

「……はい」


 どれだけの間そうしていたか。

 互いの境界が分からなくなるまで。お互いの境目が融けてなくなってしまいそうになるまで、俺達はずっと長く唇をとろけ合わせていた。

 いつの間にか俺の背中には雲の上のようなベッドの柔らかく沈む感触があって、まるで露稀さんに組み敷かれるように、逃げ場を失っていた。

 彼女のナイトガウンの帯はほどけかけ、重力に従うその爆乳によって胸元は無防備に押し下げられ、深く、コスチュームの時よりもさらに深く、胸の谷間が覗き込めた。

 だがそれも数秒前の事までで、今は身を沈めてきた露稀さんに押し付けられるように、俺のシャツ越しの胸に、重たく柔らかいそれが形を変える。

 むにゅっ――――という、ほどよく詰まった胸の……それだけで意識が飛びそうになるほど柔らかく、暖かく、そして伝わってくる速すぎる心臓の高鳴りはまるで俺のものか露稀さんのものかも分かりはしない。

 彼女に求められるがまま、ただひたすら、ぎゅうっ、と力を込めて仰向けのまま露稀さんの体を抱き締めた。

 もう二度と、離すことのないように。


 露稀さんの温もりを、間近に寄せられた口から漏れる吐息を、もう二度と――――奪われる事のないように。


「……露稀さん、胸……苦しくないですか?」

「ああ、少しだけ。……でも、幸せだ。お前がこうして、私を抱き締めてくれているのだから。……お前こそ、重くはないか?」

「大丈夫です、全然」

「気を遣わなくてもいい。……そうだ、蛍。お前は覚えているかな」

「何がです?」

「実は、私とお前……会ってた、ようなんだ。たぶん」

「会ってた……? どこで?」

「お前と契約を交わした、あの夜の場所さ」


 確かその夜は忘れもしない。

 宵城市を見渡せる丘の展望公園だった。


「……どうして、そんな事を?」

「ふっ……忌々しい思い出ばかりでもない。私がレイスに囚われた時。毎日、毎日……私は心の中を覗き込まれ、私しか知らない――――否、私すら忘れていた記憶をこじ開けられ続けた。その時……思い出したんだよ」


 そう言われ、俺も引っかかりがあったのを思い出した。

 宵城ドリームパーク跡地での戦闘時、露稀さんが俺から魔力を引き出した時の事だ。

 体中を走り抜ける激痛の疾駆のさなか、遠のきかけた意識の中で確かに見たのは深い紺色のワンピースドレスを着こなした女の子の姿。

 激痛のあまりに大量放出された脳内麻薬が無理やり流し出してきた走馬燈の光景に、確かに、そこは――――あの展望公園の、そして今ではないそこは確かにあった。


「……青い、服の?」

「ああ。……多分、それだ。ふふっ……お互い、思い出すのが遅いな」


 同調しえない魔力を無理に引きずり出される激痛の中で意識に割り込んできたかつての展望公園の風景に映った彼女の、顔。

 息のかかるこの距離で儚い美貌に覗き込まれた今、結びついて――――鮮やかに思い出されてきた気がする。

 背格好も。抱いた感想も。

 そして、少しだけ交わしたやりとりまで。



*****


 魔女の夜の以前の事、とある夏の日のさしてオチもないような数分間の事だ。

 展望台の柵の向こうに見えるお山はまだぱっくりと穴を開けられてなどなく、きっと宵城ドリームパークもまだ稼働していたに違いない平和な時代の思い出。


 爽やかに晴れた夏、緑と土の匂いが鼻をくすぐった。

 半袖のTシャツから覗く腕に刺さる陽射し、その一筋一筋までも肌で、そして太陽の光の“匂い”まで感じ取れるような鮮烈な感覚があった。

 じりっ、じりっ、と日に焼けて肌が焦げていく音さえ聞こえてきそうな殺人的な暑さの日だ。

 五、六歳だったから何故そこにいたか……なんてのは、思い出せない。

 一人で来れる場所でもないし、わざわざ街を眺めるだけのために出向いてくるような場所でもない。

 きっと、小旅行の行きがけか帰りがけかにちょっと寄ったのだと思う。


 そして、男児ゆえに――――街を一望する光景に感動したのも、そう長くない。

 ずっと風景を眺める両親を尻目に、ただ眺めがいいだけの場所はだんだんとつまらなくなってきたのだ。

 まぁ、その頃は両親もまだ若かったからか……二人していちゃいちゃと、あの辺は我が家か、とか俺を生んだ病院はどこだ、とか。

 親のイチャつくさまを思い出すのも何だか、その――――ムカムカしてくるのでここはもういい。

 思い出させないでくれ。


 ともかく風景に飽きた俺は、展望公園の柵の内側を好き勝手に歩き回っていた。

 陽射しに蒸されて立ち上るアスファルトの匂い、少し離れた木立の緑と土のそれとに囲われて、さして広くも無いそこをぷらぷらと歩き回っていた時のことだ。


 両親を視界の端に捉える中、ふとひとりの女の子が目についた。


 背は、俺よりも少し……いや、頭ひとつ分は高いのだと分かる。

 子供にありがちな事で、男に比べて女の方が背が高い、というやつだろうか。

 紺色のワンピースを着たその子もまた、まるで俺みたいにどこかつまらなそうに木立の根ざす地面を枝でほじくり返していた。

 髪は肩につくかどうかという長さ、無防備にもほどがある、下着が見えてしまう事も気にせずしゃがみ込んだ姿は年相応に無頓着なのが窺い知れた。

 それでも膝も、すねも、擦り傷どころか打ち身の後ひとつなくすべすべと真っ白だ。

 その女の子はやがて、俺の視線に気付いたか顔を上げて――――ぴくり、と体を震わせた。


 顔立ちは覚えのある、切れ長でまなじりの深い目。

 鼻筋もすぅっと通り、薄い唇は震え、しかし眉毛は下がっており……どことなく自信なさげにさえ見える。

 クラスでもあまり浮かない位置にいそうな――――間違いなく可愛いのに、その佇まいのせいで可愛さに気付かれない、ひっそりと咲く花のような雰囲気の女の子だった。


「……何してんの、お前」

「あっ……え……っ!?」


 最初、自分に話しかけられていると思わなかったのか……はっと顔を上げ、あたふたと周りを見てからその女の子はこちらへあらためて顔を向けた。

 自信のなさそうな顔つき、あわあわと震える口もとのまま、喋れずにいるところへ俺がさらに一言。


「何してんの? アリ地獄か何かいた?」

「い、いや……えっと……だれ……ですか?」


 もっともな質問なのに、まるで答えもせずに“俺”はその子がほじくり返していた地面を覗き込み、まるでつまらなそうに頭を振る。

 見れば彼女は本当にただ土の上に何か刻み込んでいただけで、面白いものを発見した様子でもない。

 ただ、その図案は見覚えのあるものだ。

 ひどく大雑把に歪んだ筆致は、彼女の絵心のなさだろうか、それともこの年頃だとどう描いてもそうなるのか。

 人型の絵だが、バランスの崩れた絵のその手に握られているのは、杖か、剣か、とにかく何か長いものだ。

 覗き込まれている事に気付いたか、その子は恥ずかしそうに、しかし慌てて踏みにじり消すでもなく、ふい、と視線を逸らした。


「あの……」

「それ、何描いてた? なんかのキャラ? 女の子の?」

「あ、や……えっと……朝、の……まほう、じゃない……」

「あー……何だ、そっちかよ。ヘタクソだからぜんぜんわかんない」

「へ、へたじゃないから!」


 ……ダメだ、ぶん殴りたい。

 はたから見てるだけでもこう、ブン殴って謝らせたい。いや、謝りたい――――こんなクソガキだったのか、俺は。

 だいたい初対面の女の子に“お前”はないだろう。どうもこのころの俺はまだ、ヒーロー憧れが抜けない、良く言ってやれば“やんちゃ”なガキだったのかもしれない。

 ともかく“俺”と女の子は一方的な応酬にも関わらずにまだ会話を続けた。


「なんでつまらなそうにしてんの、お前」

「ん……。だって……ハル、ちゃんが……」

「ハル?」

「いっしょに、パパと、ママと、ハルちゃんと、ママと……おでかけ、だったの。なのに、ハルちゃん……カゼで……だから、私とパパ、ママだけで……」

「ふーん……トモダチといっしょじゃなかったのがイヤなのかよ」

「きみ、は?」

「おれ? ここ寄ったんだけど、父さんたちがイチャイチャしててムカつくから逃げてきた。ほら、あれ」

「あれ、って……だめだよ、パパとママのこと……」

「なんだよ、マジメ。ってかさ、お前……さっきからずっとパンツまる見え」

「えっ、あ、きゃっ!?」


 デリカシーの欠片も無い言いぐさをいきなり打ち込むと、その子は慌ててそのまま前に膝を倒し、スカート部分を下ろして――――ようやく、脚の付け根に見えていた無防備な三角地帯は隠された。

 その言いぶりに赤面し、腹を立てたか、じとっ、と睨み付けるようにその子は見上げてくるが当の俺はどこ吹く風で……笑いまでこらえている始末だ。


 数秒してか、遠くから父さんの呼ぶ声が聴こえてきた。

 そこでようやく“俺”はこの初対面の相手にとは思えないからかいの一幕を終えて、軽く手を振ってから振り向き、展望台にいる父母のもとへと駆けて行った。


 そして、ようやく何かが繋がる。


 下着が見えていると指摘され、恥ずかしそうに、そして誤魔化すように睨み付けてくるその子の目つきでようやくだ。

 冷たく刺すような目、引き結んだ口元、切れ長の眼に宿る迫力。それが、ようやく――――“彼女”のものと、重なり合ったのだ。


 彼女の、名前は、きっと――――



*****


「初めて会う子に向かって“お前”はないだろう? 乱暴なヤツだったな」

「……露稀さんには言われたくないですよ。あの時こそいきなり俺に向かって“お前”って……」

「ふむ、なるほど。開けてみれば意趣返しのようだ。毛頭そんなつもりはなかったのだが」


 そして時は戻り、今。

 大してオチもなかったあの日を思い出して、今、目の前にいるこの子との再会を遂げた。

 今もまだベッドの上、少しだけ背丈を追い越した彼女と息のかかる距離で見つめ合い、胸の上にかかる柔らかさと、絡め取られた脚に意識が集中していくのが分かった。


「あの子がどうして、こんな事に……」

「おい、蛍。こんな事とは何だ、こんな事とは」

「色々と変わりすぎだって言ってるんですよ……」

「お前こそな。あの時の態度はどこへ行った? ……いや、なりを潜めただけかもな。事実、レイスとの最後の戦いではお前の中に垣間見えた気がする」


 レイスに向かってずいぶんと饒舌に切った啖呵たんかだったけど……実を言うと、正直覚えてない部分が多かったのだ。

 病院中庭での時も、露稀さんを助けに乗り込んだ時も、うまく喋れていたかどうか今になって怪しいところもある。

 それでも結果を思うに成功ではあったのだろうが、思い出すのも、少しだけ、少しだけ……恥ずかしくも、ある。


「……露稀さんは、思い出した時。どうしてあれが俺だって思ったんですか?」

「ん。……実はただ、お前と会ったあの月の夜。ふとした既視感のようなものがあった……ような、気がする。私も今お前と話すまでは確証が持てなかった。……それとも私が、運命などというものを信じるとでも?」

「信じない……んですか?」

「ああ、信じない。そんなものは戯言だとも。……奇跡というのであれば、私に起こせるはずもない。……でも」


 そう、溜めを作ってから一秒、五秒、十秒ほどして。

 露稀さんは優しく睫毛をそよがせながら目を閉じると、ゆっくりと――――俺の耳元へ口を寄せ、囁く。

 吹き込まれる吐息、しっとりと濡れた呼吸が耳から溶け込んできて……背筋がぞわぞわする。

 今もまだ蛍舞う花園にあり続ける上弦の月の位置は変わらない。恐らくは、ずっと――――。 


「……私が、“魔法少女”なら。……そんな奇跡を期待するぐらいは……許して、くれるのかな?」


 答えの代わりに俺は、暖かい血の通った、ほのかに震える細い体を抱き締めた。

 とうとう摩擦に負けた露稀さんのナイトガウンの帯がほどけ、ぱさ、と力が抜けるようにはだけた事まで分かる。


けい、私を…………暖めてくれ。ずっと……この明けない夜の園で。私を……お前で、満たしてほしいな」



 その言葉が虚空へ融かされると同じくして、露稀さんと俺は何も妨げるもののないままに、この夜へと沈んでいく。

 もう、何も考えられない。

 お互いの言葉が、本当に言葉になっていたかさえ分からなくなるように。


 楽園の名は、“誓いの月夜つくよ”。

 水生屋蛍おれと、夜見原露稀かのじょの出会ったあの夜から続くもう一つの明けない月夜。



 今日起きた事。これから、ある事、これから、続いていく露稀さんとの誓いの日々。

 今、で明かせるのは――――これまでだ。











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