Erstens nacht
蛍舞う、月下の花園にて二人は誓う ~第一部~
*****
露稀さんの持っていた不完全な心象風景の具現化空間は、歪な
セサミはあれほど酷評していたが、甘いお菓子の匂いの広がる、跳ねまわるあめ玉の実を落とす木々が
それに対して露稀さんの持つ空間は、自らへの罰を永劫に科し続けるような凍てついた光景。
もし入れば魂までも凍てつき砕ける、体力気力を奪う氷の嵐がいつまで経っても止まない、終わる事無い冬の地獄だった。
もう一度入りたいか、と言われれば答えは言うまでもない。
ただ……露稀さんにしては静かな文面は気になるし、はっきりと言葉にされた、“会いたい”という気持ちには応えたいとも。
「とりあえず、何か……着替えよう」
常夜灯のまま手探りで着替えを探し、部屋着から、大げさではない程度に暖かめの服装に着替えて少しだけ覚悟を固めて……あの時と同じように念じる。
何も珍しいものなどない部屋の中心へ、ドアノブを掴むように虚空へ手をかざすと、存在しない何か――――ふわふわとした空気の塊を掴むような感覚があった。
「……楽園の鍵は我が手にあり。開け、楽園の扉」
リーナの口上を真似て唱えると、手の中の手触りは更に確かなものに変わる。
空気の塊を掴む手応えは、だんだんと硬く。
弾力あるゴム、硬く手に吸い付く木、やがて、暖かくもしっかりとした金属のノブを掴むような手応えへと、色を変えるように、変わっていく。
「開け、我が託されし癒しの園の扉。楽園の名は」
そう続けた時。
頭の中に、すっと浮かび上がってくるフレーズがあった。
露稀さんの扉を前に開けた時にはなかった感覚。あの無銘の凍獄に繋げた時には無かった、しかし、俺の思考によって浮かんできているものとは違うと断言できる――――ささやきのような感覚だった。
「楽園の名は――――」
浮かされるように呟いたと同時に、かちゃり、と手の中でノブが回るような音、そして感覚。
覚悟していたような、吹き流れてくる冷たい風の感覚はない。
未だその中に広がる光景は目視できていないが……あの時と何かが違う事だけは、分かる。
もはや、覚悟も何もいらないと分かった。
ただ、信じて――――歩を進めて、見えない扉をくぐり、その中に広がる世界へと身を投じるだけだ。
*****
まず聴こえたのは、吹き荒れる氷雪の嵐の唸りじゃなかった。
心地良く鼓膜を震わせるのは小さな細いせせらぎの音と、どこか遠くに聴こえる、秋の夜長を奏でるような鈴虫の高らかに澄んだ鳴き声。
ふわり、と香ってきた、しゃっきりと冷えた緑の香りは、その中に
冷えて鼻の奥に届く芳しい匂いがするのに、ちっとも――――寒くは、ない。
むしろ心地良い程度のほんのわずかな冷え、歩きたくなる夜のような快適な気温に目を開けば、そこは氷の地獄などとはかけ離れた、まさしく楽園の門をくぐって至るにふさわしい場へと様変わりしていた。
「ここっ、て……本当に……?」
見渡す限りの視界一面に広がる、満天の星々と綺麗に抜かれたような上弦の月の下に咲き乱れる花々の園。
どれもが鮮やかな色とりどりの花なのに、柔らかい夜の光の中では大人しいくらいに透き通る慎ましい表情を見せる。
静かに暗く沈んで見えるのに、どの花も美しく瑞々しく上を向いて咲き誇るその優美は、むしろ日の光の下で見るよりも美しいとさえ言えた。
花園を区切るように、いくつもの細い小川が流れている。
ちょうど俺の足元にも流れていたそれに目をやれば、星々の光をそのまま鏡のように映して、まるで天の川のようだ。
思わず両手で掬い取ってみれば、その水は驚くほどに澄んでいるのが分かる。
手で作った“お椀”の中で揺れる水はきらきらと輝き、まるで、そう――――
何よりも目を引くのは満天の星と静かな月光、見渡す限りの花と煌めく小川だけではなく、――――踊る“光”の群れだった。
「
舞い飛ぶ、柔らかな黄緑の燐光があった。
俺も、この目で見るのは初めての――――俺の名と同じ字を持つ、小さな虫たちの放つ光だ。
その他の全てを差し引いても……“蛍”が住める場所など、もう今、日本には数えられる程度にしかない。
初めて見るのに、誰でも、それでも分かる。
夜を照らすように空中を舞い飛ぶ、淡く光る虫の名前ならばそれしかまず思いつかない。
気ままに飛ぶ蛍たちの輝きの奥に、ひとつ、蛍舞う月下の花園に似つかわしくないものがある。
東屋、にも見えたが――――よく見れば、それは
大人が四人は寝られそうな、それこそ宮殿にでも置いてあっておかしくないような。
近づいてみれば、光を透かすように薄いカーテンが四隅の柱にくくり付けられているのが見えた。
柱にさえも紋様を刻むように美麗な細工が丹念に施されているのが分かる。
近づくほどに
そして俺は、遂に。
「…………露稀、さん」
この空間の主にして、この空間を心象風景とする“魔法少女”と――――対面した。
「……こんばんは、蛍。よく来てくれたな。……眠るところだったろう。呼んでしまって、済まなかった」
ベッドサイドに腰かける露稀さんはまるで――――陳腐に例えるのなら、月世界のお姫様、とでも呼ぼうか。
裸足のまま、きゅっとしまった足首をベッドのすぐ足元に流れる小川へ浸し、遊ばせ。
身体を包む膝丈の濃紺のナイトガウンに身体を包み、魔法装束と違い、楚々として仕舞いこんだ胸元からは谷間の始まりすらも見えずしかし豊満に膨らみ、包み隠されていた。
夜の帳のような腰までかかる長い黒髪は寝台の白いシーツに影を落として広がる。
今の露稀さんの姿は、あの夜に出会った“夜空を背負う魔女”とは似ても似つかない。
全てを粛々と裁き、夜の闇へと葬り去る月光煌めかす白刃の担い手ではない。
琥珀色の眼に柔らかく、それでいて穏やかな光を湛えて――――口元は引き結ぶ事も無く、緩やかに、そして奇妙に微笑みかけてもくる。
真っ白い肌は同時に血色良く紅潮しているのが分かる。
「何をしてるんだ。……来ないか。どうか、楽にしてくれ」
声は、かすかに震えていた。
俺は露稀さんに導かれ、指し示されるままに。
彼女の隣へ腰を落ち着けると……やはり見た目通りと言うべきなのか、すぷっ、と沈んでいく尻から伝わる上質な寝台の感触に、ぞわぞわと緊張感が漂う。
家で使ってる安い量販店のベッドとは――――いや、この空間の出自を考えるのならば、現実世界のどんなものと比べる事ができない可能性すらある。
「露稀さん……ここって……本当に、露稀さんの
「ああ、そうだろう。ここは随分と様変わりしたさ。恐らくは私が本当の力に目覚めた時。……そのきっかけをくれたのが、お前だったからな。その証が……これ、さ」
隣に座る露稀さんに目をやると、彼女の伸ばした指先をくるくると周るように、一匹の
露稀さんはその淡く光る、指先で潰せる大きさの虫を遊ばせながら眺め、やがて――――ゆっくりと、虚空へ再び放つ。
「……奇妙なものだ。お前など、この程度……淡く光る弱々しい虫ほどに思っていた、はずなのに。私は……今、とてつもなく愛しいんだ。
ベッドについた左手へ、重なり合うものを感じて少しだけ眼を動かす。
重ねられたそれは露稀さんの、しなやかな右の手。
大振りの大刀を軽々と振り回し、片手打ちの一閃で巨体を斬り伏せているとは思えないほどに柔らかく、頼りなくさえ感じてしまうほどの……もし握り締めれば、折れるのではなく、“割れて”しまいそうにさえも思う手だ。
「淡くとも。それは……導きの灯りだった。弱く光る導きのままに歩けば、私はいつの間にか、何もかも、叶えられてしまっていた。……お前は、私の、光だよ」
「露稀、さん……何を……?」
「お前に、きちんと伝えていなかったと思う。……近くにいって、いいかな」
きゅっ、と――――重ねられた手が、ゆっくりと。そして、力強く握られていくのが分かる。
顔を上げれば、すぐ間近に。
身体を寄せてきた露稀さんの、儚げな細面の美貌が――――息のかかる距離で、俺の顔をまっすぐに見ていた。
睫毛はさらさらと長く、琥珀色に輝く目は湖面のように潤み、揺れて。雪景色のような白い肌は赤みが差し、震えている唇は桃色に色づき、しかし何らかの緊張によるものかかさつきも見受けられた。
漂う、香水とも整髪料とも違う、甘くとろけるような匂い。
高級なチョコレート菓子にほのかな
表情は今まで露稀さんが見せた事も無いような惑い、躊躇い、何かを振り絞るようなもの。
どんなときにも物事をはっきりと刺々しいまでに紡いでいた唇が今、頼りなくふるふると震えている。
そして、どれだけの時が流れたか分からないまま待つと。
「あり、がとう。お前のおかげ、で……私は、また……治奈の、声を聴けた。私が。……私なんかが本当の力に目覚める事ができたのも、お前がいつも私を助けてくれた、おかげなんだ。こんな私、なのに。私なんかを……助けてくれて、ありがとう」
言い終えて後、露稀さんの唇はようやく震えが収まり――――言葉は、更に続く。
「なぁ。……
「どう、と……言うのは……」
無論、俺にも言葉の意味は、分かっている。
分かっているし、はっきりと答えはあるし、言い淀む事もないのに、……あらためて言葉にするには、少しだけ、まとめる時間が必要だったからそういう返事になってしまった。
それなのに、露稀さんはなおも言葉を続け。
「
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