第三話 ~夜空の魔女~
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その日もまた、特に何も起こらないまま一日が終わった。
四時にもならない秋晴れの空はまだ青く、だんだんと傾きかけた太陽はまだ
終点のバス亭で下りて、更に乗り継いで、更に下りて――――歩く事、さらに数十分。
そこには、子どもの頃などよく連れてこられた、この街を見下ろせる、ちょっとした展望台の丘がある。
車でならパッと来られるような場所だけど、バスを乗り継いでそこへ続く舗装道路の脇を二十分以上も登るとなれば、そのありがたさもようやく心に染み入るようだ。
山に近いからまだ蚊も多くて、日が沈むにしたがって右手の強化された斜面側からも虫の声が聴こえてきた。
街のある左手側に見えてくるはずの光景もまだ茂る木立に隠れて、見えてはこない。
涼しい風の中でそれでも汗ばみ始めてようやく見えてきた案内看板には、“展望の丘、この先五百メートル”と表記されているのを見て、まだ、半キロもある――――と心は折れかけた。
そして、陰っていく空を真上に臨んで。東の空がもう六割夜へ変わり、西の空が鮮やかなオレンジを四割ほど示した頃に、ようやくその場所へ到着した。
視界が左手に開けて、そちらへ進む舗装された道が見えた。
その中を疲労を騙し騙し歩いていくと、遠くに見える灯り始めた夜景の海の欠片と――――その手前に、丸太を切り出して作られたベンチとテーブルが四組ほどあるのも。
近づいていくと、その丸太のテーブルセットは経年で黒ずみ、丸みを帯び、子どもの頃にここへ来た時と同じものだと直感できる年月を感じさせる。
街を見下ろせる丘、そのぎりぎりに打ち立てられた木柵はそれらに比べれば真新しい。
恐らくは安全面によってこまめに打ち直されているのだろうけど――――その向こうの光景は、少しばかり様相は違う。
俺の生まれ、住む町の夜景は灯り始めたそれに飾られ、光の海へと変わりかける。
学校と、自分の家のある辺りを無意識に探すもどちらにも辿り着けない。
いや、それ以上に気を散らされるものがあるからだ。
街のさらに向こう。
遠くに見える隣県にある山の中腹はごっそりと
魔法少女セラフィム・ハルナが駆けつけた時には遅く、山の中腹を齧り取るほどの巨大な虫型の巡礼者はもうそれを果たしてしまっていた。
結果、絵葉書にさえ描かれるほどの美しい山はその姿を痛々しく変え、今、俺の目に映る食い千切られた姿を晒していた。
「……何なんだろうな、あいつら」
世界中の研究機関がこぞって探ろうとしても未だ見えない――――“星の巡礼者”の目的。
宇宙から飛来して大地を食い千切っていながら、その姿は大雑把ではあっても俺達“地球人類”の知る生物の姿を悪質なまでに真似ている。
言葉を交わす事もできず一方的な宣戦布告すら受けないまま、この星は彼らの気まぐれな災厄に苛まれている。
月面や火星面、太陽系の惑星を過去映した映像や写真に彼らの痕跡や出現があるか調査されても、全ては空振りで。
真っ直ぐにこの星へやってきては破壊の限りを尽くす、防ぐことも予め知る事もできない宇宙からの災厄だ。
目的を知る事さえ当然できず、どこへ落ちてくるかも分からない。
そして、なぜ――――そんなランダムな出来事に、間髪入れずに魔法少女が現れる事ができるのかも。
「……何なんだよ。マジで。あいつらも、”魔法少女”も」
街を見下ろす展望台の上、リュックを下ろして木柵にもたれて顎を重ねた前腕に乗せて呟いてみても何も変わらない。
ばっくりと食い千切られた山、それでも健在の街、どこに現れるか分からない災厄にもはや怯える事すらないまま“魔法少女”へ呑気な憧れを持つ世界の人々。
世界の何かが“変わる”事を罰当たりにも期待してしまい、結局何も変わらなかった世界へ罰当たりな失望をしてふて腐れる俺はきっと間違っているんだ。
何も起こらないのなら、それが一番に決まっているのに――――。
もしかすると、とんでもない片田舎から就職やら進学やらで都会に出てきたヤツも、こんな気分になるのかもしれない。
たくさんの刺激があり、たくさんの人がいて、毎日が新しい事を知るチャンスに満ち溢れていて。
しかし、結局それでも自分は単なる自分に過ぎなくて――――結果、そう大した変化は訪れる事がない。
特別な事が起きたのに、それでも自分には結局、何のかかわりも無い出来事に過ぎなかったのが、腹は立たないのにどこか虚しいのだ。
それはそうと、ただヒマを持て余して腐るためだけにここへ来た訳じゃない。
昼休み、厳密にいえば数日前に“サムライガール”こと漆黒の魔法少女が捉えられた動画を見てからというもの――――気にかかる事が、どうしても増えていた。
どこかで、彼女を見たことがあるような気がする。
もちろん素顔の見えない彼女に対してそれは、坂本に言われるまでもなくどう考えても気の迷いであるはずなのに。
ただ、何か紐づけられた記憶があるような気がしてならないのだ。
俺自身にも深い理由は分からないまま、気付けばここへ――――俺の住む街を見下ろす展望台へとやってきてしまったのだ。
「ん……?」
時は過ぎてとっくに暗く、目の前一面に広がっていた街の灯をただ見ていると――――ふと、空に妙に明るい星が浮かんでいる事に気付く。
場所はちょうど、“食い千切られた山”の真上あたり。
煌々と明るく……いや、あまりにもはっきりと鮮烈に赤い光は、間違いなくそこにこの時間あるはずがない光だった。
こんなにも灯った街の灯に掻き消される事もなく、この明るさと色……一等星としても、あり得ないものだ。
ふと胸に嫌な不快感が押し寄せる。
口の中にイヤな匂いが広がり、冷え切り静まった生徒指導室で嗅ぐそれにも似た不快感、本能の直感があるようなあの感覚だ。
――――直後。
その赤い星の輝きは閃光へと変わり……立っていられなくなるような衝撃が襲い、言い表す事もできないほど重い轟音が耳を貫いた。
咄嗟に後ろへ倒れ込むのがせいぜいで、尻餅をついたままでさえいられず崩れるようなグラグラという地面の揺れ。
キンキンと鳴る鼓膜は痺れたままで、まだ聴覚が残っているのか不安になるほどの、果たしてこれが収まる時が来るか疑わしい、音の消えた世界がしばし広がる。
耳を貫いた轟音は頭痛さえ引き起こし、やがて――――倒れたままの視界の端に映る空が、赤く染め上げられて見えた。
「っ――――ぐ……!」
呻いた――――けれど、耳が回復しないから本当にその声が出ていたのかもまだ分からない。
どうにか揺れから回復し、身をよじって起き上がるも崩れた腕立てみたいな姿勢からどうしても力が入れられない。
衝撃で身体がまだ痺れているのに加え、身体を動かすたびに吐き気が訪れて止まらない。
ぐわん、ぐわん、と頭の中に痛みが走り、割れた鐘の音にも似た反響が収まらないからだ。
それでも、どうにか――――頭を起こして周囲を見回す。
すると。
「うわっ……!?」
俺がこの展望公園へ入ってきた方角、入り口の舗装路を塞ぐように、それは瞬く間に現れていた。
燃え盛る林から上がる火の手に照らされ、バチバチと上がる火の粉がその身体に降りかかっても微動だにしないそれは始め、俺の目と鼻の先にあり、単に遠近の妙でそう見えるだけだと思った。
が、数秒で気付く。
それは間違いなく、展望公園の入り口を塞ぎ鎮座する、“巨体”の持ち主だと。
見えたそれは――――青白く光り輝き幽霊のように透き通る、大蜘蛛だった。
ただし酷く歪んだ風体をしており、膨らんだ尻、同じほど膨れた腹から突き出ている脚の太さと本数はどれもが左右でバラバラだ。
異様なほど太い脚の反対には、逆に恐ろしく細い脚が三本となって対を成し、四対八肢ですらない。
太さがまともに揃っている脚は奇跡のように一対しかなく、またその脚の節目からはぼわ、ぼわ、と青い炎が絶え間なく噴き出して陽炎が姿を揺らめかせ、歪んだ異形の体をさらに歪ませて見せた。
そして頭部には、“眼”に相当する器官がひとつも見当たらない。
つるん、とした頭部には逆に異様なほど発達した大きな鋏角が備わり、ゆっくり、ゆっくりと何かを確かめるように開閉を繰り返す。
初めて蜘蛛を見た子供が気まぐれに掴んだクレヨンで殴り描いたような歪んだ姿、それでもポイントだけは押さえてはいても――――結局のところ、歪んでしまっている。
そうした印象を持たざるを得ない……蒼炎を
「巡礼、者――――」
ようやく、俺は今何が起こっているのか――――理解した。
目の前にいるのは、五年前から世界へ現れ始めた災厄の
前触れも無く地球の衛星軌道上に現れ、しばしの間地球を眺めては気まぐれに降り立つ。その様を差して付けられた名称は、誰が最初にそう呼び始めたのか分からない。
彼らのどこかに、地球へ払う崇敬を見てとれたのか――――それさえも、分からない。
小高い山ほどもある、蒼炎をまとう歪んだ大蜘蛛の体から伝わる熱波が増した。
既に奴の傍にあった街灯は放たれる熱に耐えかねて破裂し、その脚にへし潰されて折れる音が聴こえた事で俺の聴覚が戻ってきたことに気付けた。
ひどい頭痛も、耳鳴りも失せたのに……体に圧し掛かるその“恐怖”は増すばかりで立ち上がれない。
俺へとそれは向かってくる。
いや、それとも俺の後ろにある光の海、街の灯に引き寄せられてかもしれないのに、立ち上がる力がどうしても湧いてこない。
立てたところで、俺にはどうする事もできないと分かっているから。
食い止めたいと思ったところで――――できる事なんて、何もない。
それでも、何故か。
“死にたくない”という気持ちだけはひとつも湧いてこないのが……不思議だ。
「……え?」
ふと、大蜘蛛の歩みは止まる。
視線はまっすぐ――――相変わらず眼という器官はないものの、眼があるべき頭部は俺と背後の眼下に広がるはずの街の灯へと向けられたまま。
ともすれば、その様子は――――たじろいでいるようにさえ。
「何……だ……?」
ほんの少しだけ自由を取り戻した身体を捻り、ぺたりと情けなく座り込みながら背後を振り向く。
すると――――そこには。
「あ……っ」
展望台の木柵の上に、立てるのが不思議なほどの鋭く尖ったヒールを突き刺すように。
長尺の大太刀を抜き放つ構えのままに凛と
蒼く燃える蜘蛛から放たれる光を吸い込む、黒曜の狐面から覗く艶めかしい唇は引き結ばれたまま。
しかし、次の瞬間――――その唇は苛立たし気に歪む。
「かはっ!」
どずんっ――――と腹に響く重い衝撃で肺が震え、残っていた空気を全て吐き出しながら声帯が震える。
こみ上げる胃液のおかしな酸っぱさを堪えながら、同時に訪れた強烈な衝撃と浮遊感とともにブレながら遠ざかる視界の端に青白い火柱――――いや、恐らくは蜘蛛の放った蒼炎の熱線が走る。
「こんな時間にここで何をしていた? 自殺志望ならば止めてはまずかったか?」
耳元で囁く、落ち着きを誘うハスキーな声に聞き惚れ、胃液の匂いを押し流すような、鮮烈に薫る仙境の花を思わせる芳香が鼻腔をくすぐる。
俺の腹に食い込み抱き込む細腕は、しかし意外なまでに力強く体幹にまでは俺を引き寄せないまま……前腕の力だけで俺を抱え、木立を駆けて蒼炎の蜘蛛から離れていく。
後ろ向きにかかるGのあまりに、首なんて動かせない。
いや、こうしているだけでもむち打ちになりそうな速度に首の骨まで悲鳴を上げかけていた。
「……巻き添えになっても怨んでくれるなよ。一度は助けてやったのだからな。そら、頭を守れ」
「え、ちょっと、待っ――――うああああぁぁぁっ!?」
速度を落とさないままで急にぱっ、と離されて――――当然、慣性のままに俺の体は木立の中へ投げ出され、もんどりうって身体を地面と木の根にあちこち叩きつけながら転げ回る。
咄嗟に頭と首を守りはしたものの、肩、太もも、背中、ともかくあちこちに鈍い痛みが叫ぶように連鎖して起こり、またしても肺の空気が残らず悲鳴として絞り出されていくのが分かる。
チカチカと明滅する視界、ぐらぐらと揺れる頭を起こしながら再び映った光景にはこの世界の今を映す紛れも無い縮図があった。
燃え盛る木々を嘲笑うように薙ぎ倒し、轟然と襲い来る異形の存在。
低く身を沈めて腰を切る抜刀の構えを取り、微動だにせず必殺の一撃を見舞う機を
燃える世界とともに迫る“敵”と、断固としてそれを拒み戦う――――“魔法少女”。
「――――“
ぽつり――――しぃっ、と細い息をつくとともに囁くように発せられた声は、不思議と、はっきり聞き取れた。
そしてまた、漆黒の魔法少女が解き放つ鯉口の澄んだ音も。
音、だけが、かろうじて、聴こえた。
風を切る音、踏み込みの音に合わせて落ち葉が立てる乾いた音。
ほんの一瞬、凪が訪れたように――――蒼炎の蜘蛛の放つ熱気も、燃え盛る木々の熱も、何もかもが無となり……漆黒の魔法少女の姿までが、消えてしまった。
とっさに前方、大蜘蛛の方を見れば先ほどまでの獰猛さがまるで嘘のように静止しており、体節から放たれていた蒼い火柱の噴出も止まっていた。
そして刹那、するんっ――――と、袈裟懸け、逆袈裟、バツ印を描くように交差する“線”がその巨体の正面から尾に至るまでに浮かび上がる。
彼女へ振り上げかけていた脚も、顎も、まるで写真をカッターナイフですっぱりと切り離したような冷徹な断面とともにゆっくりとずれていく。
動きを止めた巨体は悲鳴さえ上げず。ただ、自身が“斬られた”事を認識した瞬間に事切れているように見えた。
やがて一瞬の間に姿を消した漆黒の魔法少女は、またしても音も無く、もはや動かない蒼炎の蜘蛛の眼前に降り立ち、再び納刀した大太刀を持つ左手をまっすぐ体の横へ伸ばしたまま背を向け――――
「“
きんっ――――という僅かな鍔鳴りの音の刹那、未だ形を保っていた蒼炎の大蜘蛛へ刻まれた切断面より――――夥しい数の黒薔薇が一瞬にして咲き乱れた。
それと同時に噎せ返るような濃密な薔薇の香りが放出され、その香りの余波は風に乗り、炎上していた木立へ届いた端から、木々に燃え移った火が消え失せていく。
蜘蛛の体の断面から咲いた黒薔薇はよく見ると、花弁のみならず蔦も、茎も、その葉でさえも漆黒に染まり――――青白く輝く蜘蛛の体から生じたからこそ、その幽玄なまでの美しさが映えた。
恐らく、これは……実在する花じゃない。
彼女の、漆黒の魔法少女の“魔力”で編み出されたものだ。
「歳の数には及ぶまいが、手向けよう。せめて告死の薔薇を抱いて
無数の黒薔薇の幻影は、奇怪な
ぴし、ぴしっ――――ぴしぴしぴしっ、びきっ。
罅割れる音は重なり合い、そして、炸裂する。
ぱりぃぃぃぃんっ――――と、薄いガラスを割り砕くように澄んだ音が残響する。
大蜘蛛の体、その鮮やかな切断面に生じていた薔薇の幻影がガラスのように爆ぜて、連鎖的に炸裂してトドメの一撃を成す――――否、既に事切れていた蜘蛛には明らかなオーバーキル。
だというのに彼女は冷たい笑みさえも見せず。
サディスティックな快感も、憎悪さえも覚えてないかのように黒曜の仮面の口元は引き結んだままだ。
やがて、彼女の背後で大蜘蛛の断ち切られ、そして爆散した体は光の泡と化して虚空へ融けて消え失せる。
まるで、星へと還るように――――。
「何を見ている?」
「あ、のっ……!」
まだズキズキと痛む腰と背をさすりながらよろめいて立ち上がると、彼女はヒールの分を抜かせば恐らく、俺よりわずかに背は低い事に気付く。
いや、それより。やはり――――どこかで。
「どこか、で……会って、ませんか……?」
どうにか絞り出せたのは、そんな言葉だった。
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