1.えっ? 女神さま?


 俺は眠っていた。


 正確には、ぼんやりとだが意識はあるので、眠っているのではなく目を閉じているだけだ。

 ひどく穏やかな心地だった。今までこんな安らかな気分で目を閉じたことなんて、そうそうないかも知れない。


 ならこのまま眠ってしまおう。うん、それで問題ないよな。

 何か大切なことがあったような気もするが、今はとにかくこのまま――


「に~は~は~」


 ふと。

 聞いたことのない、作り物めいた笑い声が聞こえた。その声は、水面が波打つような一種の不快さを持って俺の鼓膜を揺らした。

 俺は片眉を顰めた程度で、顔を上げようとまでは思わなかった。

 しかし、


「にはは~~! には~、にゃっはっはぁ~~ウッごほっ……! に、にゃは……」


 す、すごくうるさい。しかもちょっと咳き込んでるし。

 しまいには「ガタガタッ」と激しく椅子を揺らすような音までしてきた。ああ、もう、せっかくゆっくり寝られると思ったのに……。


 一応、声の主の正体くらいは確認してみようと、恐る恐る目を開いてみる。


 まず目に入ったのは、制服をまとった太腿から膝。よく見馴れた俺の足だ。

 首を持ち上げると、見馴れない白い敷石が……いや、違うな。延々と、ただ白い空間が広がっている。


 床だけじゃない。左右見渡しても、天井も、すべてが真っ白い。

 驚いて靴底で叩いてみても不自然なほどに何の音も響かない。フローリングでもカーペットでも、ましてや畳でもない。何だろう、継ぎ目がないからタイルでもないし……。味わったことのない白さに囲まれているせいか、空間の大きささえうまく認識できない。


 だが、そんなことよりも重大なのは、俺の三メートル先に置かれた椅子。

 正しくは、その高級そうな造りの椅子に胡座を掻いて座る人物だった。


 目が合うと、つり目をにぃっとイタズラっぽく細める。

 肩のあたりまで伸ばされた金髪はぐちゃぐちゃで、おまけに着ている服はしわしわの黒ジャージ。

 偏見で申し訳ないが、無理に例えるならば渋谷で日中歩き回る若者の妹分? みたいな格好の――


「…………子ども?」

「バーカ、違えよ」


 子ども特有の高い声で言い放ち、その子は床に唾を吐き捨てた。

 そう、その人物はとてもちっこかった。サイズ感と顔立ちの幼さからして、小学一~二年生くらいじゃないだろうか。

 困惑する俺に向かって、すこぶる態度の悪いその子は尖りきった口調で言い放った。


「こんな、見た限りでもヘンテコな空間に一緒に居るって時点で、相手がただの子どもなワケ無いにゃあ。しかも死んだアンタをわざわざ拾ってやったんだぜ。それで大方の予想つくだろ?」

「死ん……死んだ?」


 ちょっと待て。


 俺は椅子から立ち上がった。慌てて振り返ると、俺はどうやら教室の椅子に座らされていたらしい。

 何でこんなモノがこんなところに。

 疑問に思うと同時、落書きだらけの座面を見た瞬間に、記憶が、認識が、急転直下の勢いで回り出す。


 ――鳴海周ナルミシュウ。それが俺の名前。

 歳は十五。誕生日は一月九日。

 木渡中学校の三年生。部活は帰宅部。

 家族構成は父・母・妹。住所は〇〇県△△市◇◇区の××―×―×××……


「そうだ、俺……確か修学旅行に行ってて」

「三年二組の乗ってたバスはガードレール突っ切って崖下まで真っ逆さまに墜落した。原因は運転手の居眠り運転」


 ハッ、として俺は振り向いた。

 振り向いた先には、足をぶらぶらさせた子どもの姿がある。何でもないような調子でその子は続けた。


「修学旅行先はとりあえず京都、みたいなの面白味に欠けるから何とかならんかねぇ。まぁ一周回って良いトコロではあるが? もう少し歳を重ねてからのが古都ってのは染みるもんだが」

「何でそんなことまで……」

「アタシは何でも知ってる。少なくとも、人間風情の事情くらいはな。なにせ――」


 そこで子どもは勿体ぶるように黙り込んだ。どうやら当ててみろということらしい。

 俺は少しの間考えた。俺は死んでいる、らしい。そしてこの子はそんな俺の事情をほぼ完璧に把握しているようだ。

 しかも学校の教室にあるはずの椅子までこの場にある。それにこの白い謎空間。

 「人間風情」という変わった言い回し。だとしたら考えられるのは……


「……えっ? 女神さまっ?」

「「えっ」じゃねえ。けどだいたい正解」


 ……マジか。この子が女神さま?


 女神といえば、ニューヨークにある女神像とか、美術の教科書とかのイメージで、おしとやかで、儚げで、慈愛の微笑みを浮かべて神々しい感じの……あと胸も強調されてたり……そういうものだと勝手に思ってたんだけど。

 少なくとも渋谷に女神はいないと思う。なので目の前のこの子はだいぶ思っていたのと違うな、と首を捻ると、


「女神も悪魔も天使も、人間が勝手に呼称しただけにゃ。都合の良い状況のときに都合の良い名前をつけられただけ。本質的には大きく変わらない」

「はあ……」


 そんなことをペラペラとつけ加えられる。でも「悪魔っ?」と呼んだらそれはそれで殴られていた気がするぞ、何となく。


「で、俺は死んだ、ってことは……ここって天国? それとも地獄とか?」

「どっちでもないわな。世界の片隅にひょっこり空いた、風穴みたいなものを間借りしてるだけだ」


 俺の頭があまり良くないせいか、女神さまの言っている意味はよく分からない。

 とりあえず気を取り直す意味でもと、俺は軽く自己紹介しておくことにした。神さま相手だし、一応敬語がいいのかな。


「あ、俺、鳴海周って言います」

「タメ口でいいにゃ。……にしてもアンタ妙に落ち着いてるな。死んだっていうのに」


 取ってつけた鳴き声って感じでもう一度「にゃあ」と女神さまが言った。名前を聞きたかったのだが、どうやら名乗ってくれるつもりはなさそうだ。

 俺はぽりぽりと頬を掻いて、もう一度椅子に座ってみる。画鋲を投げてくる人は居ないから、椅子に座るのは今は怖くない。


「いや混乱はしてま……してる、けど。でも痛いのとか全然覚えてなくて、実感ないっていうか」

「まぁ、アンタは頭打ってほぼ即死だったからな。妹を庇ってて」

「そうそう、妹……そうだ、雪姫乃ユキノは無事なのかっ!?」

「落ち着いてるかと思えばすぐ大声出したりで、忙しいな」


 再び立ち上がった俺をうざったそうに見て、女神さまは一切の躊躇いなく言い放つ。


「結論から言うとアンタの妹は無事ではない。アンタが両腕に必死に抱き留めて庇ったから、落下時点では生きてたが、そのあとガス漏れでバスが炎上してな。乗客は全員もれなく死んだんだ」

「そんな……」

「まあそう嘆くな。妹含め、今みーんな仲良く別の世界に魂が運搬されてるところだろうよ」

「別の世界? 魂が運搬……?」

「転生するってことだ。別の世界で、二度目の人生を始める」


 いやいや、漫画かゲームじゃあるまいし!


 と否定するのは簡単だったが、今この状況が、俺の理解の範疇を超えているのも事実で。

 それに女神さまに嘘を吐いている様子はなかった。その証拠と言うべきか、面白くもなさそうに女神さまは続ける。


「何色か不明瞭な隣の芝生に移り住むってだけだ。今時そう珍しくもないんだぜ。戻れるヤツが滅多にいないから、あんまり噂にゃならんけど」

「……ユキノも、一緒に?」

「ああ、そうだろうな。アンタたちは喚ばれたみたいだから、全員仲良く同じ世界に転生するだろう。……説明はこれくらいでいいか? 時間もないしそろそろ本題に入りたい」


 そう言うと、女神さまは唐突に俺を指差した。


「えっ……」

「大人しくしてろ。一瞬で済む」


 するとその小さな指の先端にまばゆい光が宿る。

 俺は反射的に目を瞑りかけたが、それより先に光は俺の胸に一直線に伸びると、パチッ、と軽く弾けて消えた。

 いや、実際に消えたわけじゃない――何となく俺にはそれが理解できた。消滅したわけじゃない、今の光は、瞬く間に俺の中に滑り込んだのだ。


 制服の上から胸元を抑えると、何となく、脈打つような気配がある。何だろうコレ。一つ分かるのは、あまり嫌な感じはしないということだけど……。

 俺は緊張でドキドキしつつ、肺に溜まった息を吐き出した。対する女神さまはご満悦そうだ。


「ハイ、終わり。そういうわけで、アタシはアンタにちょいと特殊な能力をプレゼントした。アンタの世界でいえば【才能】や【個性】、今から向かう世界の言葉なら【スキル】……ってトコか。使いこなせるかどうかはアンタ次第だが」


 その言葉は非常に意外だった。目の前の女神さまは、人間への同情心など欠片も持ち合わせてはいなさそうだからだ。

 それでも、その言葉が真実ならば、と俺はぺこりと女神さまに頭を下げた。


「えっと、ありがとう……って言っていいのかな」

「――にゃは。勘違いするなよ」


 空気の色が変わった。


 そんな風に錯覚する。俺はぎこちなく顔を上げた。その先で待ち構えていたのは、異様なまでに、至極淡々とした笑顔だった。

 俺を見ているようで俺のことなんか全く眼中に入っていない。それ・・にとって俺は虫ケラ程度の価値もない。

 向き合うと背筋がゾッと粟立つのは、きっと、その輝くような黄金色の瞳の前では、矮小な自分の存在が掻き消されそうになるからだ。


「このアタシが気に入ったというのは、つまり哀れんだと同等だ。シュウ……だっけ? アンタ、アタシの涙腺が若干緩む程度には可哀想で惨めで悲惨で生き地獄な人生を送ってきたな。実際の地獄と比較したって、そうそう見劣りしないくらいの毎日を」


 俺は沈黙した。女神さまの言葉に、特に否定する要素はなかったからだ。


「アンタはすごく可哀想。そして実にお粗末な命だ。アンタみたいなヤツは、違う世界に渡った所ですぐに死ぬか殺される。でもすぐに死んだら詰まらないから、少し手助けしてやる。もうちょっと笑か……泣かせてほしくなるだろ? にゃはは」

「……それなら、やっぱりありがとうかな」

「にゃ……は?」


 饒舌だった女神さまの口の動きが止まる。

 その隙にというわけでもないが、もう一度頭を下げた。それから小さな女神さまに伝える。


「俺があなたにとって可哀想だったおかげで、贔屓してもらえるなら有り難い」

「……は?」

「少なくとも、何にもわからないまま、その異世界ってところに放りだされることはなかったし。それだけでも感謝するには充分だと思う」


 しばらく女神さまはポカンと口を半開きにしていた。

 それから、思い出したように両脚の位置を戻して胡座を掻く。

 下半身は特に何も着ていないのか、ジャージの裾がめくれて一瞬、危ういところまで見えかけて俺は慌ててそっぽを向いた。何て格好してんだ、この神さま。


「……にゃっはー、やっぱ面白いな、ナルミシュウ」

「そ、そうかな? あんまり面白いって人に言われたことはないけど……」


 「素敵です」とか「流石です」なら、ごくごく一人に言われ慣れているけど。

 妹の顔が頭に浮かぶ。焦っても仕方ないのかもしれないが、できるだけ早く顔を見て安心したい……。


「……え?」


 まるで俺の意志に呼応するかのように、床面が急に輝き出した。

 幾何学的な模様が白い床に浮かび上がる。俺の足元を中心に、見たことのない文字らしいモノ、記号のようなモノを織り交ぜた複雑な紋章が広がっていき、やがて大きな円を形作った。


「う、うわっ?!」


 その円形状の光の中に、身体が結構な勢いで沈んでいく。手足を動かしてもお構いなしで、一向に勢いが止まってくれない。

 底なし沼に入ったような心地だ。いや、沼に入ったことは流石にないけど!?


 俺はずぶずぶと謎空間に呑み込まれていく下半身にビビリつつ、最後に女神さまを見た。

 これが先ほど女神さまが口にしていた「魂の運搬」らしいことは俺も分かっていた。この光に取り込まれたら最後、俺はもう、異世界とやらに転生しているのだろう。


 女神さまは砂地獄に引っ掛かったありんこを眺める顔をしていた。つまり既に興味を失った様子だったのだが、それでも鼻先まで埋まりかけた俺の縋るような目に気づいてか、ゆっくりと目を細めてつぶやいた。


「アタシはアンタを見守っていよう。金曜の夜にビール片手でドラマを見遣るような気持ちで。少しでも役者の演技が気に食わなければ、すぐにチャンネルを替えるし、何ならテレビごと壊しちゃうかもしれないけど。でも、それまでは……シュウ、アンタのことを、画面越しに見つめていようじゃあないか」


 そう、最後に見たその光景を。

 殴られるのを覚悟で形容するならば。



「――にゃはっ!」



 それは正真正銘、悪魔の微笑みだった。



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