プロローグ.やさしい人になりなさい
俺は走っていた。
「はぁ……っ、は、はッッ……!」
いつからか、どのくらいか、なんてもう定かじゃない。もう足の感覚はほとんど無い。息切れもひどくて、一歩進むごとに立ち止まりそうになる身体を叱咤して、無理やり動かしているだけだ。
何故、そんなに必死に走っているか?
それは、背後から巨大な獣が迫っているからだ。こうして風を裂く音や、自分のぜえぜえと耳障りな呼吸音に紛れていたって、後ろから忍び寄る飢えた獣の舌なめずりの音が聞こえてくるくらいだ。
如実に迫り来る気配に、俺はぶるりと身震いした。
「……っ!」
アイツに追いつかれたらもう後はない。アッサリと薙ぎ倒され、その場で肉をちぎられ、骨の髄までしゃぶられて食い尽くされてお陀仏。すなわち、死。
それだけは勘弁だった。こんなに、訳の分からないくらい世知辛い世の中なんだから、せめて死ぬときくらいは安らかでありたいというのが俺の数少ない願望の内のひとつなのだ。
――でもこんな、夜目がきかない暗闇の中じゃ!
それなのにもう、とにかく、状況がサイアク。
俺と獣が命がけの追いかけっこをしているのは森の中。しかも時間は日付が変わるすぐ前くらい。
外灯も何もあるわけはなく、俺は先ほどから薄ボンヤリとした月明かりだけを頼りに、獣道やら傾斜した地面やらを必死に駆けずり回っているのだ。
この場所がもし、俺が生まれながらに育ってきた森とかで、実は小さい頃、この森で朝から夜まで駆けずり回っていたとか、この森で狼に育てられた狼少年でしたとか、そういう裏設定でもあったなら、これくらいのピンチは軽く乗り越えられたのかもしれないけど。
森どころか、俺は、何も知らない。
俺は昨日、この世界に――召喚されたばかりなんだから。
「っっはあ、は……」
目蓋の上にまで垂れてきた汗を拭う暇もない。口から出る息が炎のように熱い。
それなのに振り上げる四肢の感覚が、水風呂に長時間浸けられたときのように麻痺している。もう限界なんてとうに超えているのだと俺だって分かっていた。未だどうにか走れているのが、不思議なくらいに。
そもそも疾走するのだって困難なほどのデコボコ道なんだし。むしろここまで逃げてきた自分を褒めてやりたい。いや、本当に、それどころではないんだけどさ……。
とにかく前を向いて、障害物にぶつからないように注意して――そんなスレスレの奇跡を積み重ねたような逃走が、しかし、そう長く続くわけもない。
「うわっ」
しまった!
木の根につまずいて危うく転びかける。転ぶ寸前、咄嗟に片手だけ地面について体勢を立て直す。
だが、そんな大きな隙を見逃してくれるほど、背後の敵は生易しい相手じゃない。
俺はその事実を、正しい意味で理解していなかったのだと、数秒後に悟ることになる。
「グルルゥ!」
「うっ!?」
再び走り出そうと転びながらも踏ん張った右足が、何かに掴まれる。
いや、その正体は察するまでもない。黒色の野獣だ。
ライオンの体躯の三倍くらいは優にあるだろう――そんな規格外の獣の巨大な腕が、俺の右足首をいよいよ捕らえたのだ。
「いぎッ……!」
しかしまともに思考する余裕はなかった。
太く固い毛に覆われた指。そして先端の鋭利な爪。その五本もの刃物が、俺の右足を突き刺していたからだ。
ぶちっ、と、嫌な音がする。
それから燃え広がるような熱さ。あとはもう、言葉にはできない、尋常でない激痛だけが広がっていく。
「い、ッッ……ぐ、うううッ……!」
痛い。痛いし熱い。何も考えたくない痛い! 痛い痛い痛い!
俺は地面にうつぶせの形で転がったまま、囚われた右足の自由を取り戻そうと足掻いた。
しかしそんな、ちっぽけな人間の反抗は無意味だと言わんばかりに、黒い獣の影はおもむろにもう片方の腕を伸ばしてくる。
「ぐうっ!」
防ぐ余裕はなかった。強い一撃を無防備な背中に浴びて、一秒後にはうなじから腰にかけてを、焼けつくような激痛が襲う。
無闇に鬼ごっこさせられたのにコイツも業腹だったのか、その後も、何回も何回も、全身を暴力の嵐が襲う。俺の身体は何度も地面の上を跳ね、不様にのたうち回った。
ふと、煮っ転がしみたいだな、と馬鹿なことを考えた。俺がイモで、調味料は血と汗と肉と脂、隠し味はケダモノのよだれ……。
――とうとう、自分自身の血が染み込んでぬかるんだ地面に力なく横たわった俺の腹部に、粘着質な涎にまみれた鋭い牙が噛みついた。
臓腑を掻き回されるような壮絶な感触。それだけで思いきり吐きそうだ。それなのにあまり痛みがないのは、もう、まともに感覚器官が働いていないからか。
「……し……ぬ…………、」
血を一度に大量に失ったせいか、目まで霞んでくる。
眼前の獣の獰猛な眼光さえももうよく見えない。それなのにそいつが背後に背負った朧な月だけが、妙に視界の中にチラついてうざったい。
その月影の中にだった。これが走馬灯だと言わんばかりに、俺の脳裏に浮かんだのはよく見知った面影だった。
――「シュウ、あなたはやさしい人になりなさい」。
数年前に死んだ母さんの顔。
それと、母が言い聞かせるようによく唱えていた言葉がどこからか聞こえてくる。
俺は母がそう言うたびに「うん」と頷いた。そうすると母さんが喜んで頭を撫でてくれるからだ。そうされるのが心地よかったから、俺は何度も「うん」と応じた。その言葉の意味は、その頃はまだよくわからなかった。
だから、母さんが死んだときに思った。
俺は母さんの願いを守ろう。
どんなに辛くたって、悲しくたって、悔しくたって、痛くたって、決してやり返さない。
我慢をする。耐える。堪える。何でもないって顔をする。苦しくないのだとアピールする。こんなの平気だって、やさしく笑うようにする。
やさしい人になる。母さんみたいにやさしい人。やさしい人になればいいのだ。誰よりもやさしい人だ、やさしい人に……
……ああ、でも。でもさ。
世界はいつだって俺にやさしくはないのに。
この世界は、いつも俺をつまはじきにして、殺そうとだってするのに……?
「――――兄さんッッッ!」
淀んだ闇を切り裂くような、少女の声。
今すぐに泣き出してしまいそうな、壊れてしまいそうな、ボロボロの悲鳴がきこえたのは、そのときだった。
そう、今振り返ってみれば、それが俺、
……そういうわけでとりあえず。
まずは最初に断っておくことにする。
俺は弱い人間だ。
惨めで、誰よりも劣っていて、でもそんなどん底から這い上がる勇気さえない……そんな弱い人間だった。
でも俺は変わりたかった。どうしても、強くなりたかった。
大切な誰かを、この両手で守れるくらいには。
――だからせめて、最初に伝えておきたいんだ。
これは奪われ続けた俺が、俺たちが、奪い返すための物語である――、と。
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