第7話 女性
白い廊下、白い壁、白い床。ここが病院だと分かるまで時間はかからなかった。お年寄りの方に設けられた手すり、各自設置されている消毒液、念入りに掃除された清潔感ある廊下があった。座っていたはずの私の姿勢は安定した状態で立っている。
呆けている私の横を誰かが通り過ぎた。あの少女だった予感がした。公園で話したあの少女の後ろ姿が目に捉えた気がした。
「あっ」
目で追うと少女は消えていた。最初からいなかったように、まるで幻影を見ていた気分だ。
なんだろう。胸がざわざわする。幻影だったのか確かめようと、歩き出してみる。
「なんだか、変な感じだ」
人の気配がしない。不気味さもあったが、とても心地よい。悪くないドキドキ感が内心にあったのは本当だ。
誰もすれ違うことなく、一室に目が奪われる。
吸い寄せられるようにある場所へと辿り着いてしまった。
1020号室、ハルミと書かれた病室だった。
ノックをする。
「はーい、空いてますよー」
返事があった。反射的にノックをしてしまったので、焦ってしまう。
ど、どうしよう。
けれど、その声質、声のトーンに懐かしさを覚えた。この人なら大丈夫かもしれない。理性より本能が勝ってしまった結果、病室に足を踏み入れる。
「あら? どちらさま?」
入ってみると、女性が一人腰をかけていた。個室なのでなにやら私物らしきものがごちゃごちゃとしている。紙とペンの散乱といってもいい。ほとんど視界の情報として飛び込んできたのは、ゴミ箱に山盛りに積まれた紙くずとベットの近くには豊富な種類の色鉛筆。
あとはお酒の缶。病人らしからぬ部屋である。
「あの、えっと」
なんて言おう。
女性の顔を見る。やけに顔だけに靄がかかっている。裸眼の人が度の入った眼鏡をかけて焦点が定まらない状態。レンズ以外からははっきりと見える。第一印象は長い髪の物腰が柔らかそうな女性だった。
「あの、ここに小さな女の子が来ませんでしたか?」
我ながらなんて苦しい言い訳。
しかし、意外にも女性には効果的だったようではっきりと嬉しそうに「まあ!」と表情に花を咲かせていた。
「もしかして、ウチの娘の友達ね! 嬉しいわ! 私はハルミと申します。いつも娘がお世話になっております」
「は、初めまして。娘さんとは良くしてもらっております」
「ささ、どうぞどうぞ。狭いところですが、座ってください」
そういうことにしておこう。ここで乗っからないと私的にうまい言い方が思いつかない。折り合いをみて、脱出しよう。
女性はパイプ椅子を取ろうとしたが、うまく身体を動かせないため代わりに私が手に取る。
「ごめんなさいね。なにぶん不自由な身体なもんですから」
「あまり気になさらないでください」
「お酒も散らばっていて、歩くスペースもないでしょう? 恥ずかしいわ」
「急に来たので仕方ありませんよ」
「さっきまであの子いたんだけどね……。全くどこに行ってしまったのやら」
「そのうち帰ってくると思いますよ」
「そうね。それまでゆっくりしてて。お茶入れたいけど……ごめんなさい」
「いえいえ」
鉢合わせしたらしたらでまずいんですけどね。
女性は元々作業中だったのか、自分の手元にある紙になにか書き込んでいた。
「気になる?」
私の視線が気になったのか女性から声をかけてきた。
「それなりに?」
「ふふ。絵本を書いているの。あの子、絵本大好きだから」
「絵本ってオリジナルのですか?」
「ええ、全部自作。ストーリーもキャラクターも私が考えてるの」
女性が見せた絵本にどことなく覚えがあった。特にキャラ絵のタッチや描きかたの特徴があるものと酷似していた。制服内を探す。手にちりんと鳴る硬い物が当たった。この場で見比べようと取り出す。
夢で常時身に着けていた鈴。可愛らしい犬ではなく、元の虎の絵に返り咲いていた。どの動物にしろ、キャラクターの特徴を押さえていた。
女性は目を丸くする。
「その虎さん……私の絵に似ているわね……。でも私、その鈴作ったことないんだけれど……」
「似ていますね」
「ちょっとよく見せてもらってもいい?」
「どうぞ」
鈴を渡す。女性は手に取るとじっくりと観察した。球体を全体を舐め回すように見たり、振ったりしている。手で持て余す度に鈴の独特な音が鳴っていた。堪能したのか、ありがとうと私に返してくれた。
「見れば見るほど私の絵にそっくりね。あなたが書いたの?」
「いえ、成り行きで持っているんです」
嘘は言っていない。嘘は。
「偶然ってあるものなのねー」
女性は上品に笑った。
「なぜこんなにも絵本を作っているんですか? 娘さんの為とはいえど、過多といいますか……なんというか」
見たところ最低限の衣類を除くと大半は絵本の材料だった。何をそんなに頑張る必要があるのかと完成させた絵本が女性のベットの上に置かれている。
それに女性の顔色は優れているといえない。けれど、女性は青白く細く枯れていきそうな指が絵本に触れる。
「そうね……」
少し考えてから、女性は、
「今の私にはそれしかできないから」
と告げた。
「はあ」
私は生返事してしまう。間抜けな顔をしていたんだろう。その姿を見て、女性は可笑しそうに声をこぼす。
「ごめんなさい。馬鹿にしたわけじゃないのよ。なんだか可笑しくって。私自身に笑えてきてしまったのよ」
「自分にですか?」
「ええ、自分に。そうね、あなたには話していいのかもしれないわね」
女性は私を見た。
「私はもう長くないの」
「え」
「もうすぐ死ぬの、私」
いきなりの発言に私はどういう言葉をかければいいのか分からなかった。ただそうなんだと事実を受け入れることしかできない。
「だから、私には時間がない。だから、描くの。命が尽きるその時までに」
「そう、なんですね」
「私は昔から重い病気を患っていてね、身体は強くないの。それでも一秒でも長くあの子の傍にいたくて生きてきた」
女性はベットの傍にある写真立てを手に取る。彼女にとってその写真というより娘といた記録のほうが大事なんだと思った。すぐに写真を置く。
「夫は随分と昔に事故で、ね。これで私が死んだらあの子が独りぼっちになっちゃう。大人になるまでは、ってそう思ってた」
しかし、待っていたのは地獄。
結局、思い通りに人生が進むことなんてない。女性は悔しそうに肩を震わせていた。
「数週間ももたないだろうって医師に言われました。ならせめて、あの子の為にいろんな世界をみせてあげようと思ったんです」
絵本をつくることで世界をみせる。
自分が見てきた世界はこんなふうなんだよって女性は伝えたいのだろう。年齢を重ねる度に教えていくことが増えていく。でも女性にはそれができないから。
ならば、形として。残していくことしかできないから。
「あの子と遊んであげたいけどこの身体では満足に動かせないし、体調が悪い日も多いから満足に話してあげられない。あの子には、本当に寂しく、辛い想いをさせてしまいました。これからも困難な人生が待ちうけているはずです……」
声を震わせて、女性は泣いていた。
「ごめんね……。ごめんね……! 大事なときに傍にいられなくて……!」
それは、まるで懺悔。
親になったことがないからよく分からない。それでも彼女には苦しくて、辛いことなんだと私は察した。
「大丈夫です」
私は言った。気休めにしかならないが、それが私のできることだった。
「大丈夫。強い子ですから」
なぜだろう。
娘のことなんて知らないはずなのに。
はっきりと言えた。
「ご、ごめんなさいね……。やだ、私ったら」
冷静さを取り戻した女性は自前のハンカチで涙を拭った。
「愛してるから言えるんだと思います。愛してるから泣けるんだって私はそう思います」
「ええ、ありがとう。あなたは不思議な人ね。初めて会った気がしないわ」
「私もです」
「ねえ、一つ頼んでもいいかしら?」
「なんでしょうか?」
女性は適当に紙を選び取り、ペンで字を書く。数分経つ。
やがて、書き終えると折り紙のように畳む。
翼のある紙。紙ひこうきの完成。
「これをあなたに」
「娘さんに渡せばいいんですか?」
「はい。私が万が一どうにかなった場合、渡してほしいんです」
「それはまた大層な役回りを」
「ふふ。そんな大したものではないわ。遺書は残してあるし、緊急ではないから会ったときでいいわよ」
「わかりました」
「これがほんとの『かみの見えざる手』、なんちゃって」
互いに軽く笑いあう。神と紙を掛けているらしい。
紙ひこうきをそっと渡される。女性の手はひんやりと冷たかった。
折れてしまわないように大事にしまう。
「なぜ紙ひこうきなんですか?」
そう私が聞くと、
「遊び心よ」
と女性のお茶目な部分が見えてしまい、つい頬が緩くなってしまう。
「あの」
「なにかしら?」
「一日でも長く生きてください」
「……ええ」
「あと」
「はい?」
「お酒は控えたほうが一日でも長生きすると思います」
私の言葉にきょとんとする女性。意外な方向から不意を突かれたと声を詰まらせてしまった。
心の中では地雷を踏んでしまったかと背筋が凍る気持ちだったが。
「……………………ふふふっ」
くすくすと心底可笑しそうに笑っていた。
「ええ。ええっ! わかりました。ご忠告有難く受け取っておきますね……ふふっ」
「図々しかったですか?」
「そんなことないですよ、嬉しいです」
「それは良かった」
女性は深呼吸して、一拍おく。
そして、落ち着いた様子で私に深々と腰を折り曲げた。
「あの子はああみえて繊細な子なんです。根は優しいのにぶっきら棒で自分を出すのが下手な娘なんです。どうか粘り強く付き合ってあげてください。末永くよろしくお願いいたします」
タイムリミットを告げるように風が吹く。誘われるように、シオンの花が私の膝に舞い降りた。
待って!
と私は叫ぼうとするが、何処にも届かない。
待って? なぜそんな言葉が出てきたんだろう?
私の疑問は解消されることなく、中空に投げ飛ばされた感覚に陥り、暗闇に呑まれていくばかりだった。
鈴が鳴り、虎の声。
私はまた飛ばされるんだろう。
意識を保てずに為すがままに身体を預けるのだった。
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