ザ・リバー

コヒナタ メイ

第1話

 路線バスは川沿いの道をゆっくりと走っていた。首藤徹雄はバスの窓際の席に座り川を眺めていた。初秋の空は穏やかに晴れ、大きな川はゆっくりと流れていた。水面に反射した太陽光がキラキラと点滅した。徹雄の脳裏に少年時代の思い出が蘇ってきた。


「僕なんていなくなった方がいいんだね!」

 徹雄は大きな声で父の達志にむかって叫ぶと、玄関の靴を急いではいた。リビングから母親の美江がでてきて、

「ちょっと待ちなさい、徹雄ちゃん。」

 と止めようとしたが、徹雄は母の静止を振り切って外にとびだした。玄関を出た徹雄に真夏の刺すような光が降り注いだ。徹雄は日の光の眩しさに目を細めながら、家の駐車場に止めてあった自分の自転車にまたがった。力いっぱいペダルを漕ぐと自転車はどんどん加速して行った。

 1999年、小学3年生だった徹雄は背が低く、クラスで身長順に整列すると前から3番目だった。運動は苦手で勉強が嫌い、少年漫画を読むのが大好きだった。徹雄には10歳年上の兄の茂がいた。茂は勉強が得意で大学の法学部に通い、将来は弁護士になることを目指していた。徹雄の父の達志は大手金融会社に勤めていた。達志は勉強ができる茂を誇りに思い、可愛がっていた。達志は何かにつけて茂と徹雄を比較し、徹雄を叱責するので、徹雄は(お父さんはお兄ちゃんが好きで、僕のことなんか嫌いなんだ。)といつしか思うようになっていた。徹雄の母、幸子は徹雄が四才の時に病気で他界した。しばらくは、達志の母が徹雄の面倒を見ていたが、徹雄が八才の時に達志は自分よりも10歳ほど若い美江と結婚した。美江は徹雄に受け入れてもらおうと懸命に努力したが、徹雄は美江を拒絶した。

 その日も、夏休みの宿題をサボって漫画を読んでいた徹雄を達志が叱責した。そして、ここぞとばかりに徹雄の普段の生活態度から、自分や母親に対する態度の悪さを責めたのだった。普段から達志に対して不満を募らせていた徹雄はついに我慢が出来なくなって家を飛び出した。


 どれくらい走っただろう、自転車をこぐ足は大分疲れてきた。徹雄は友達の勇と前に遊んだことのある川に来ていた。川の近くに自転車を止めると徹雄は平たい石を探した。いくつか平たい石をズボンのポケットに詰め込むと護岸ブロックを下って水面近くまで降りた。川の周りを見渡すと釣りをしている人はいない。徹雄は平たい石をつかみ回転させながら川に向かって投げた。1回、2回。石は水の上を2回跳ねただけだった。

(くそっ!勇君はこないだ5回も石を跳ねさせた。最高で8回跳ねさせたことがあるって言ってた。どうすればもっとたくさん跳ねるんだろう。)徹雄はポケットから石を取り出し何度も挑戦したが、最高で3回跳ねただけだった。ポケットに入っている最後の石を取り出すと、勇が言ったことを思い出した。(水面ぎりぎりの所から水平に思いっきり投げるんだよ。)徹雄は右手で石を握ると勇が言ったとおりに体をかがめ、左足を踏ん張って右手を大きく後ろにそらした。その瞬間、左足が滑り徹雄の体は大きくバランスを崩して川に転落した。前日に大雨が降ったせいで川は増水していて流れも速かった。川の中で徹雄は足をつこうとしたが、足は川底に届かなかった。徹雄の体は僅かずつ沈みながら下流へ流されていった。「ゴホッ、ゴホッ。」水が口の中に入ってくる。徹雄は泳ごうともがいたが、もともと泳ぎが得意ではないため泳ぐことはできなかった。頭が水中に沈むと周りの音は聞こえなくなった。突然、徹雄は胸のあたりに締め付けられるような痛みを感じた。次の瞬間、徹雄の頭は水面へと浮かび上がった。

「じっとしていろ。」

徹雄の耳元で声が聞こえた。徹雄は言われたとおりにした。徹雄は何者かに胸を抱えられたまま岸へと引っ張られ、護岸ブロックの上に上がった。徹雄は護岸ブロックの上で四つん這いになって咳きこんだ。

「大丈夫か?」

徹雄を助けた者が聞いてきた。徹雄は咳きこみながらうなずき、

「うん。」

と何とか声を出して助けた者を仰ぎ見た。助けた者は上半身裸でズボンだけをはいたおじさんだった。徹雄はしばらく咳きこんだが、やがて呼吸が整ってきた。

「もう大丈夫だな。」

おじさんが徹雄にむかって言った。真っ黒に日焼けしたおじさんの顔には髭が生えていた。

「はぁはぁ、大丈夫です。」

徹雄はおじさんにむかって言った。

「服がびしょびしょだ。全部脱ぎな。」

おじさんが徹雄に向かって言った。徹雄は服を全部脱いだ。おじさんは徹雄が脱いだ服を受け取り、先にパンツを両手でつかみ、水を絞りだした。パンツを徹雄に渡すと

「とりあえずそれだけはきな。」

と言った。徹雄は言われたとおりにパンツをはいた。パンツは濡れていて冷たかった。おじさんは他の服の水を絞り出し、

「服を乾かさなきゃいけねえな。おじさんところに行こう。」

 と言って徹雄の服を右手で持つと川の土手に向かって歩き出した。徹雄は黙っておじさんについて行った。土手の上までくるとおじさんは川上に向かって歩いて行った。二人はしばらく土手の上を川上に向かって歩き、橋の下まで来るとおじさんが川に向かって土手を下り始めた。おじさんの後に続き、徹雄も土手を下った。橋の下にトタンで囲われたあばら家があった。おじさんはあばら家の中に入って行った。徹雄は外でおじさんを待った。おじさんはあばら家の中からバスタオルを2枚持ってきた。一枚を徹雄に渡し、1枚を自分の体を拭くために使った。おじさんは全裸になって体を拭くと、パンツをはいて、その上から作業ズボンをはいた。上半身にランニングシャツを着ると、体にバスタオルを巻いた徹雄を見て

「パンツも乾かすから脱ぎな。」

 といった。徹雄はパンツを脱いでおじさんに渡した。おじさんはあばら家の周りに生えている2本の木の間に洗濯ロープを張り、徹雄のTシャツと半ズボンとパンツをひっかけて洗濯バサミで留めた。そして、あばら家の中から2つビールケースを持ってきて、1つを徹雄の前に置いて座るように促し、自分は一つに座った。

「服が乾いたら家に帰んな。」

おじさんは言った。

「はい。助けてくれてありがとうございました。」

徹雄はおじさんに向かって言った。

「お、しっかりしているな。坊や名前は?」

おじさんは笑顔で聞いた。

「首藤徹雄、9歳です。」

「そうか、おじさんは石井源三、45歳だ。」

と言って笑った。

「坊や、川で何してたんだ?」

源三は徹雄に訊ねた。

「水きり。なかなかうまく跳ねなくて、いっぱい跳ねさせようと思ったら足を滑らせて、川に落ちちゃった。」

徹雄はしかめ面をした。

「ハッハッハッ。何回跳ねたんだ。」

 源三は徹雄に訊いた。

「3回しか跳ねなかった。勇君はすごいんだよ。前に勇君と一緒に水きりやったとき、勇君の投げた石は5回も跳ねたんだ。最高で8回も跳ねたことがあるって言ってた。僕も勇君に言われたとおりに投げたんだけど駄目だった。」

徹雄はまたしかめ面をした。

「勇君は坊やの友達かい?」

笑顔で源三が訊いた。

「うん。クラスメイトなんだ。いつもいっしょに遊んでる。」

徹雄の顔は少し明るくなった。

「そりゃいいや。友達は大切だ。」

源三も笑顔になった。

「でも、お父さんは勇君と遊ぶなって言うんだ。勇君勉強しないから、あんな子といっしょにいるとお前も勉強しなくなって馬鹿になってしまうって。」

徹雄は源三の目を見た。源三は少し考えて、

「うーんそうだな、坊やのお父さんは坊やにたくさん勉強してもらいたいんだろうな。たくさん勉強して立派な大人になってもらいたいんだよ。」

 と言った。

「勉強してるよ!算数と国語と理科と社会も、毎日塾に行ってるんだよ。もー僕疲れちゃったよ。」

徹雄はため息をついた。そして、

「なんでこんなに勉強しなくちゃいけないの?勉強しないとダメな人間になるってお父さん言ってたけど本当なの?」

徹雄は叫んだ。源三は頭を傾げて考え込んだ。それでも、答えが出てこない。

「おじさんは子供のころ勉強したの?」

徹雄は考え込む源三に聞いた。

「俺か?俺は子供のころ勉強しなかったなぁ。勉強はできなかったし、嫌いだったから全然やらなかった。家が田舎の山奥だったから、毎日、近所の仲間たちと野っぱら駆け回ったり、川で魚捕ったりして遊んでた。」

源三は遠い目をして答えた。

「うわーいいな。楽しそうだね。おじさんはいいな。」

徹雄は目を輝かせて言った。

「そうでもねえよ。俺の家は貧しかったし、近くに働く所もねえから中学を卒業したらすぐに上京して働かなければならなかったんだ。東京に出てきて、工場に住み込みで働いていたんだけれども、働いていた工場が倒産しちまって、住んでたところも追い出されちまった。しばらくは旅館に住んでたんだが、貯金も無くなっちまって、こんなところに住んでるんだ。」

源三は眉間にしわを寄せて語った。

「倒産って何?」

徹雄が訊いた。

「倒産っていうのは、つぶれちまうってことだ。お金が無くなっちまうってことだ。」

源三が答えた。

「ふーん。」

徹雄は言った。徹雄は源三のあばら家を見ながら、

「おじさんの家、秘密基地みたいで格好いいよ。」

と言った。

「秘密基地か、そりゃいいや。」

源三はあばら家を見ながら笑った。

 それから徹雄は源三に学校のこと、好きな漫画のことなどを話した。徹雄は人見知りする性格だったが、源三には不思議と何でも話すことができた。源三はにこにこしながら徹雄の話を聞いていた。


 2時間後、源三はロープにかけて干していた徹雄の服を触ってみた。夏の強い日差しは、徹雄の服の水分を蒸発させた。源三は服をロープから外して徹雄に渡した。徹雄はバスタオルをビールケースの上に置いて服を着た。

「俺も子供のころは水きりやったなあ。」

 源三はそう言うと川岸まで行って石を探し始めた。徹雄も源三の後について行って、石を探した。源三は平たい石をいくつか手に持つと、川に投げ始めた。徹雄は源三のそばに行って源三の投げた石の軌道を見つめた。

「1、2、3、4、5・・・。6回だ、6回跳ねたよ。」

徹雄は目を輝かせて、源三を見た。源三は続けて石を投げた。

「1、2、3、4、5、6、7、8、9。9回だ。今度は9回跳ねたよ。すごいね、おじさん。」

徹雄は源三を尊敬した。

「うーん。子供のころはもっと跳ねたんだが…。」

源三は石が9回はねたことに満足したわけではなかったが、徹雄が隣で石を投げ始めたので、徹雄の投げた石の軌道を見つめた。

「1、2、3…。3回だー。くそー。」

徹雄は石が3回しか跳ねないので、いらだった。源三は徹雄に石の持ち方から投げ方まで丁寧に教えた。源三の指導のもと何度か投げるうちに徹雄は6回まで石を跳ねさせることができた。

「坊やすごいじゃないか。6回跳ねたぞ。」

 源三は徹雄をほめた。

「でも勇くんは8回も跳ねさせたんだ。まだまだだよ。」

 徹雄はため息交じりに言った。それから何度となく徹雄は水切りを続けたが、6回跳ねるのが最高だった。

 源三が空を見あげると太陽はだいぶ西に傾いていた。

「もうそろそろ暗くなるから家に帰んな。」

源三は徹雄に向かって言った。徹雄は渋々うなずくと、

「どうもありがとうございました。」

と言って気をつけをして頭を下げた。

「おぅ、いいってことよ。気をつけて帰んな。」

 源三は笑顔でそう言うと、踵を返してあばら家の方へ歩いて行った。徹雄は自転車を置いたところまで歩いて行った。

 徹雄の自転車は3分ほど歩いた所にあった。徹雄は自転車にまたがり家にむかってペダルをこぎはじめたが、少し走ったところでブレーキをかけて自転車を止めた。徹雄はハンドルを切って、くるりと自転車を方向転換すると、家に帰る方向と逆方向へ向かって走り出した。間もなく、源三の住むあばら家が見えてきた。徹雄は土手の上で自転車をおりて押しながら土手を下り、源三のあばら家の前に自転車を止め、あばら家の中に向かって声をかけた。

「おじさん、おじさん居ないの?」

源三があばら家から出てきた。

「どうした坊や、家に帰ったんじゃねえのか?」

源三が徹雄に訊ねた。徹雄はしっかりと源三を見つめ、半ベソをかきながら、

「僕、家に帰らない。ここで源三さんと一緒に暮らす。」

と叫んだ。

「何言ってるんだ。坊やは家に帰らなきゃだめだ。」

少し紅潮した顔で源三は言った。

「いやだ。僕は帰らない。だってお父さんは僕のことが嫌いなんだ。」

徹雄は泣きだした。

「何言ってんだ。自分の子が嫌いな親なんているわけないだろ。」

源三はさっきより大きな声で言った。

「だって、お父さんはいつもお兄ちゃんと僕を比べるんだよ。お兄ちゃんは勉強できたのにお前はだめだなって。お父さんはお兄ちゃんは好きだけど、僕のことは嫌いなんだ。僕なんていなくなってもいいんだ。」

 徹雄は心の中にたまった父への気持ちをはきだした。源三は徹雄が不憫に思った。泣き続ける徹雄が落ち着くのを待ってから聞いた。

「坊やが帰らなかったら、お母さん心配するぞ。」

「お母さん、僕の本当のお母さんじゃないんだ。本当のお母さん僕が小さい時に死んじゃって、新しいお母さんが来たんだ。お母さんは僕に優しくしてくれるけど、優しくしてくれるけど…。」

 徹雄はしゃくりあげながら言った。源三は徹雄をますます不憫に思った。何か言葉をかけようと思ったが、言葉が見つからなかった。源三は泣き続ける徹雄の肩にそっと手を乗せあばら家の中に招き入れた。

 あばら家の中は2畳ほどの広さで左側のビールケースの上に段ボールを敷いたベッドがあり、右側に鍋や食器などが置かれていた。壁もトタンで作られているため隙間から風が入り込み、さほど暑くなかった。照明は天井に懐中電灯が釣り下がっているだけだった。源三はベッドの奥に座り、徹雄を入口の方に座らせた。

 源三はガラスのコップを手に持つと中に入れた茶色い液体を一口飲んだ。

「おじさん、何飲んでるの?」

徹雄が訊いた。

「これか?これは酒だ。ウーロンハイって言って、ウーロン茶と焼酎を混ぜているんだ。うまいぞ。」

源三が答えた。

「ふーんそうなんだ。」

初めて酒を見た徹雄が言った。

「坊やのお父さんは酒は飲まないのか?」

源三が訊いた。

「うん、お父さんお酒飲めないって言ってた。」

徹雄が答えた。

「そうか、酒が飲めないなんて気の毒にな。そうだ、坊やウーロン茶しかないけど飲むか?」

ウーロン茶のペットボトルを持って源三が訊いた。

「うん、飲む。」

 徹雄が答えた。源三は別のガラスのコップを取り出し、ウーロン茶を注ぎ徹雄に渡した。

「いただきます。」

徹雄はウーロン茶を飲んだ。

「苦くないか?」

源三は徹雄に聞いた。

「大丈夫。おいしいよ。」

徹雄は答えた。

「そうか、それはよかった。これも食いな。」

源三は食器の横に置いてある袋から白いケバケバした細長い物を徹雄に渡した。

「なあにこれ?」

徹雄は訊いた。

「さきイカっていうんだ。うまいぞ。」

源三は言った。徹雄はさきイカをほうばった。

「固い。」

徹雄は言った。

「よく噛んでいると味が出てくるんだ。」

源三もさきイカをほおばった。

「おいしい。」

さきイカをかみ続けた徹雄は言った。

「そうか、うまいか。」

源三は満足そうに言って、微笑んだ。時刻は午後5時半を過ぎていた。源三は

「ちょっと、おじさん横になる。」

と言ってベッドに横たわった。徹雄は源三が寝ているベッドのわずかな隙間に横たわった。川に入って疲れていたのか、2人はそのまま眠ってしまった。

 午後8時を回ったころ、真暗なあばら家の中で徹雄は目を覚ました。徹雄は源三の身体を揺らしながら、

「おじさん、おしっこしたい。」

と言った。源三は薄目を開けて、

「そこらでしてきな。」

 と言った。徹雄は起き上がると、サンダルを履いて、あばら家から少し離れた場所で小便をした。小便をしながら、徹雄は腹が減っていることに気付いた。用を足し終わり、あばら家に戻ると、徹雄は空腹に耐えられなくなって、鼾をかいている源三の体をゆすった。

「おじさん、おじさん。」

「ん、どうした?」

源三は首だけを動かして徹雄に聞いた。

「僕、お腹が空いたよ。」

徹雄は言った。

「そうか、お腹空いたか。」

 源三は起き上がると天井に付けてある懐中電灯を持って、ねじまき式の時計を見た。午後8時10分だった。懐中電灯の明かりを食器の周りに向けて、何か食べ物がないか探したが、さきイカしか食べ物は見つからなかった。酒好きの源三は日雇いで稼いだ金の多くを酒とつまみに費やすため、食料の買い置きはしないのだった。

「何か買ってくる。坊や食べたいものあるか?」

源三が聞いた。

「うーん。僕、コロッケが食べたい。」

 徹雄は答えた。

「わかった。おじさん、買ってくる。すぐ戻るから坊やはここで待ってな。」

 そう言うと源三は外に出て行った。徹雄はあばら家の外に出て源三を送った後、源三の言う事を聞いて中で待つことにした。

 源三は川から歩いて5分ほどの場所にある「スーパーあけぼの」に向かった。スーパーあけぼのは小さなスーパーだが生活に必要な食料品は揃っていた。午後9時まで営業していて、午後8時を過ぎると売れ残りの商品を割引するので、源三はこの時間に来ることが多かった。スーパーに着いた源三は真っ先に総菜コーナーに向かった。総菜コーナーに並べられていたコロッケは80円で50円のコロッケは売り切れてしまっていたようだった。源三はポケットの小銭を確かめた。55円しか入っていない。80円のコロッケが半額になれば買うことができるが、その前に売れてしまうかもしれない。寝床には坊やが待っている。ここに長居はできない。源三はしばらく葛藤した。辺りを見回すと客も店員も見当たらない。源三はプラスチックのパックに80円のコロッケを2つ入れるとそのまま作業ズボンのポケットに入れた。総菜コーナーを後にし、菓子が置いてある棚に行くと30円のチョコレートを手にとり、レジに向かった。

 源三に言われたとおりあばら家の中で待っていた徹雄だったが、真っ暗な部屋にひとりでいると心細くなってきた。そして,ついに我慢できなくなった徹雄はあばら家を飛び出し、自転車を押して源三が歩いて行った後をたどって土手まで上がった。土手から川を見下ろすと川の水面に街灯や自動車のヘッドランプが反射してきらきら光っていた。川と反対側を見ると住宅街の中に明るくなっている場所が見えた。徹雄の心の中は不安でいっぱいになっていたが、源三に会いたい一心で、明るい場所を目指して自転車のペダルをこいだ。民家が立ち並ぶ道の歩道をしばらく走っているとスーパーあけぼのという看板を見つけた。徹雄がスーパーあけぼのの出入り口の前で自転車を止めたとき、出入り口から源三が出てきた。

「おじさん。」

源三を見つけてうれしくなった徹雄は叫ぶと、源三に向かって走った。

「坊や。」

源三が徹雄に気づき、徹雄の方を向いたときだった。源三の背後から

「ちょっとすいません。レジを通していない商品がありますよね。こちらでお話し聞かせていただけますか?」

と女性の声がした。源三は(しまった。)と思い、女性の方を向いた。徹雄は源三の足に抱きついた。

「この子はあなたのお子さんですか?」

女性が源三に聞いた。

「この子は関係ねえ。知らねえ子だ。」

源三は答えた。

「何言ってるのおじさん。僕だよ、徹雄だよ。」

徹雄はいぶかった。

「事務所の方まで来てください。」

女性は源三の肘のあたりを掴んで言った。源三は女性に従い、事務所に向かって歩いて行った。

「どうしたの、おじさん。この女の人知っている人?」

 源三の脇を歩きながら徹雄は訊いた。源三は軽く首を振って徹雄の問いに答えなかった。徹雄には源三の顔がひどく疲れているように見えた。三人はスーパーの脇にある従業員入口の前に来た。女性が従業員入口のドアを開け、源三と徹雄に中に入るよう促した。部屋の中はたばこの煙で淀んでいた。部屋は10畳ほどの広さで、店長室と休憩室を兼ねていた。右側の奥に茶色い長いテーブルが置いてあり、テーブルの両脇にパイプ椅子が4脚並べてあった。左側の壁には窓があり、店長用とシールが貼られた事務机が壁際に置いてあった。女が源三を奥の椅子に、徹雄を手前の椅子に座るように指示した。女性は店長の椅子に置いてあるマイクで何かを話した。それが終わると源三の向かい側の椅子に座った。女は写真入りの身分証を提示しながら、

「私は保安員の佐伯鈴子です。今からお話を伺いますので、質問にはすべて答えてください。」

と言った。佐伯は背が低く、小太りの中年の主婦だが、鋭い目つきをしていた。

「では、今持っているものをすべてテーブルの上に出してください。」

源三はレジ袋に入ったチョコレートとレシートをテーブルの上に置いた。

「他には?」

佐伯がいらいらした口調で訊いた。

「ない。」

源三が小さな声で答えた。

「嘘おっしゃい。ポケットの中は?私ポケットの中に入れるの見たんだがら。」

佐伯は強い口調で言った。源三はうつむいたままだった。

「早く出しなさい!」

佐伯は叫ぶように言った。徹雄は佐伯の声にびくっとした。源三は渋々ポケットの中からプラスチックのパックに入れたコロッケを出してテーブルの上に置いた。

「これはレジを通していないわよね。」

佐伯はコロッケを手に取り源三に詰め寄った。

「ああ、通してねえ。」

源三は答えた。

「これは立派な犯罪ですよ。」

佐伯は源三を睨んで言った。

「おじさんコロッケ盗んだの?」

徹雄が小さな声で源三に訊いた。

「あーそうだ。でも心配するな。おじさんだけが警察に捕まるから。坊やは家に帰るんだ。」

源三が答えた。入口から青いハッピを着た背の高い痩せた中年の男が入ってきた。

「はいはい、何、万引き。」

青いハッピの男は佐伯に向かって言った。店長の机の上の台帳を手に取るとそれを持って佐伯の横に座った。

「はい、この男がこのコロッケを持ってレジを通さず出口から出ました。」

佐伯が答えた。青いハッピの男は

「何、この子は?」

と徹雄を指さして佐伯に訊ねた。

「わかりません。子供は男をおじさんと呼んでいます。男は自分の子ではないと言っています。」

佐伯が答えた。

「あっそー。」

青いハッピの男はため息をついて、しかめ面をした。そして源三を見て、

「私は店長の小林と言います。このコロッケはお支払いいただいていないんですね?」

「ああ、さっきこの女に言った。」

源三は憮然として言った。

「うーん、よくないなぁ。店の商品を盗んでおいて、その態度はいただけないなぁ。警察呼んじゃいますよぉ。」

小林は笑っていたが、その目は笑っていなかった。源三はまたうつむいた。

「あなたの名前は?」

小林が源三に訊いた。

「石井源三。」

源三が答えた。小林は台帳を開いてボールペンで源三の名前を記入した。

「石井源三さんね。で、この子は石井さんの子?」

小林はボールペンで徹雄を指さして訊いた。

「この子は俺の子じゃねえ。この子は関係ねえ。」

源三は答えた。

「うーん、困るなぁ。質問に答えてもらわないと。僕、お名前は?」

小林は徹雄に訊いた。

「言わない。」

徹雄は答えた。小林は憤って、テーブルをボールペンでトントンとたたきながら、

「じゃあ、いいや石井さん。このコロッケの代金払ってよ。それで今日は勘弁してあげる。」

と言った。源三はポケットから25円を出してテーブルの上に置いた。

「これしかない。」

「これしかないって、135円足りないよ。じゃあ家族は?奥さんとかいないの?」

小林は訊いた。

「いねえ。俺は独り身だ。」

源三が答えた。

「じゃあしょうがないね。警察呼ぶよ。」

小林は立ち上がると店長用の机に行き、警察に電話した。用件が終わると、

「じゃ、俺、店の片付けしているから警察来たら呼んで。」

と佐伯に言った。

「わかりました。」

佐伯はうなずいた。小林が徹雄を見ると、徹雄が「イーッ」と言って顔をしかめたので、小林も「イーッ」を徹雄に返して事務所を出て行った。佐伯はテーブルの上の髪に何かをしきりに書いていた。

「おじさん、僕たちどうなっちゃうの、警察に捕まるの?」

徹雄は源三に訊いた。

「大丈夫だ。俺だけ捕まるから。坊やは家に帰んな。」

小声で源三は答えた。

「やだよ。ぼく、家に帰らないよ。じゃ、おじさんが警察から戻ってくるまで、僕独りであそこで暮らす。」

徹雄が言った。

「馬鹿なこと言うもんじゃねえ。お前は家に帰るんだ。」

源三が思わず大きな声で言った。

「ちょっと、静かにして。」

佐伯は言い、

「心配しなくて大丈夫よ。あなたたちの処遇は警察が決めるんだから。」

と続けた。徹雄は源三に向かって

「しょぐうって何?」

と小声で訊いた。

「わかんねえ。」

源三は答えた。二人は首を傾げた。佐伯は眉間にしわを寄せて源三を一瞥したが、すぐに机上の紙に視線を戻した。

 しばらくして、事務所のドアが開き、2人の警察官が入ってきた。

「こんばんわー。警察でーす。」

1人は中年で1人は若かった。2人ともがっしりとした体つきをしていた。2人の警察官は店長の机の前に立った。

「万引きですか?」

若い方の警察官が佐伯に訊ねた。

「はい。今、店長を呼びます。」

佐伯は店長の机に行って店内放送で小林を呼びだした。

小林が事務所に入ってきた。小林は

「どうもすみません。お呼び立てして。」

と言い、続けて

「えーっと、この男性は石井源三と名乗っています。店の商品を会計せずに外に出ました。詳しくは保安員の佐伯が説明します。」

小林は警察官に向かって姿勢を正して話した。

「保安員の佐伯です。石井は惣菜コーナーで80円のコロッケ2個をプラスチックのパックに入れ、ズボンのポケットに隠し、代金を支払わずに外に出ました。私は店内に立って石井がコロッケをポケットに入れて店を出るところを確認しました。」

佐伯はよそ行きの声で説明した。

「石井がうちの店で万引きした履歴がないので、代金160円を支払うように言ったのですが、25円しか所持しておらず、家族もいないと言うので警察に通報しました。」

小林もよそ行きの声で話した。

「はい、了解しました。」

若い警察官は事務的に言った。

「この子は何なの?」

中年の警察官は小林に訊いた。

「それがわからないんですよ。石井に訊いても、“子供は関係ねえ”の一点張りで。子供も名前を教えてくれなくて。」

小林が徹雄を見ると徹雄はまた「イーッ」といってしかめ面をした。小林もやり返した。

「僕お名前は?おまわりさんに名前教えて。」

若い警察官が徹雄に優しく聞いた。徹雄は下を向いた。

「いい子だから名前教えて。」

若い警察官がしつこく聞いた。

「首藤徹雄です。」

徹雄は言った。若い警察官は無線機で指令本部に名前を照会すると、すぐに応答があった。

「首藤徹雄、本日午後7時に父親から捜索願が出されています。」

若い警察官が中年の警察官に向かって言った。中年の警察官は若い警察官に目で合図した。若い警察官は少年を発見したことを無線機で伝えた。

「徹雄君のご両親は本署にいるそうです。連れて行きますか?」

若い警察官が中年の警察官に聞いた。中年の警察官はうなずいた。

「よし、じゃあ二人とも警察署に行くから立って。」

若い警察官は源三と徹雄に向かって言った。源三は立ち上がったが、徹雄は立ち上がらなかった。

「やだ。僕行かない。おじさん座って。」

徹雄は言った。

「でもよぉ。」

源三は口ごもった。

「いいから座って。警察に行ったら刑務所に入っちゃうんだよ。」

徹雄は源三に向かって言った。

「あのね、僕、警察に行ったからって石井さんが、すぐ刑務所に入るとは限らないんだ。いろいろ調べてから刑務所に入るかどうかを決めるんだ。」

若い警察官はやさしく徹雄に言った。

「警察に行っていろいろ調べてから刑務所に入れるか決めるんだよね。警察に行かなければいろいろ調べられないし、刑務所に入れることもできないんだよね。やっぱり僕行かない。」

徹雄は言った。

「うーん、そういうわけにはいかないんだなぁ。」

若い警察官は途方に暮れた。

「君のお父さんとお母さんは君がケガをしているんじゃないかって心配しながら警察署で待っているんだ。早く2人に会って元気な姿を見せてあげなきゃ。」

中年の警察官が言った。

「いやだ。僕、お父さんにもお母さんにも会わない。おじさんと一緒に暮らすんだ。」

徹雄は中年の警察官に向かって言った。中年の警察官はしかめ面をして、

「本署に状況説明して。」

と若い警察官に向かって言った。若い警察官は無線機を使って少年が警察署に行きたくないと言っていることを伝えた。

「お子さんのご両親がこちらに来るって言っています。」

若い警察官は中年の警察官に向かって言った。中年の警察官はうなずいて、

「10分くらいで来るかな?」

と訊いた。

「そうですね、パトカーでなくてご自分の車で来るそうなんで、もう少し時間がかかるかも知れないです。」

若い警察官は答えた。

「じゃ、ご両親の到着を待つとするか…。」

中年の警察官はそういうと、店長の机の椅子に座った。若い警察官は立ったままだった。

「あのお、私ちょっと店の片づけがあるもんで…。」

小林は中年の警察官の顔色を窺った。

「あっ、大丈夫ですよ、我々が二人を見てますから。」

中年の警察官は小林に向かって言った。

「じゃ、すいません。」

申し訳なさそうに言いながら小林は事務所を出て行った。

「私もちょっといいですか?」

佐伯が中年の警察官に訊いた。

「ええ大丈夫ですよ。」

警察官が答えると、佐伯も事務所から出て行った。

事務所の中は源三と徹雄と2人の警察官の4人だけとなった。若い警察官は中年の警察官に近寄りしゃがみ込むと、

「駅前の店は左端の奥の台が出るみたいですよ。」

と右手を回しながら言った。

「あっそう、じゃ今度行ってみるかな。」

中年の警察官も右手を回した。

「おじさん、僕お腹空いたよ。」

徹雄が小声で源三に言った。源三は

「もうすぐ、坊やのお父さんとお母さんが来るから、お父さんとお母さんに上手いもん食わしてもらえ。」

 と言った。徹雄はしょげたように頷いた。

 15分後、小林が事務所のドアを手前に引いて開けると、達志と美江が中に飛び込んできた。小林と佐伯が後から入ってきた。

「徹雄、何やってるんだ。お父さんも、お母さんも心配したんだぞ。」

達志は徹雄に向かって叫んだ。

「良かったぁ、徹雄ちゃん無事だったのね。」

美江はそう言うと徹雄の横にしゃがんで徹雄を抱きしめた。美江の香水が徹雄の鼻の中に入ってきた。

「どうしてこんなところにいるんだ?」

達志は徹雄に聞いた。徹雄は横を向いて答えなかった。

「徹雄さんはこちらの石井さんと一緒にいたようです。」

小林は達志に向かって言った。達志は源三を見て

「この人誰だ。こんな人俺知らないぞ。お前知ってるか?」

達志は源三を指差して美江に聞いた。

「知らないです、私。」

美江は首を振って答えた。

「ちょっとお巡りさん、この人誰なんですか?我々はこの人知らないんですけど。」

達志は興奮しながら、中年の警察官に聞いた。

「この人は石井源三と名乗っていて、今夜こちらのスーパーでコロッケを窃盗したということです。我々がこれから本署まで連行するところです。」

中年の警察官は事務的に説明した。

「よく調べてくださいよ、お巡りさん。徹雄は親に黙ってこんな夜遅くまで遊んでいる子じゃないんです。ひょっとしてこの人に誘拐されたんじゃないんですか?」

達志は源三を指差して言った。二人の警察官は動揺し、お互いの顔を見た。事務所の中に重い空気が流れた。

「おじさんは誘拐犯なんかじゃない!」

徹雄は立ち上がって叫んだ。事務所にいる者たちの視線が徹雄に集まった。

「おじさんは誘拐犯なんかじゃないよ。僕が川で水きりをしていたら、川に落ちて溺れちゃったんだ。おじさんは溺れた僕を助けてくれたんだ。僕がコロッケ食べたいって言ったから、おじさんお金持っていないのにスーパーに買いに行くって言って、それで、それで…。」

徹雄は達志を睨みながら号泣した。

「まぁ、川で溺れたなんて徹雄ちゃん、大変だったわね。」

美江は徹雄を抱きしめながら涙を流した。若い警察官が源三の傍に行き、徹雄を指差して

「この子の言ったことは本当か?」

と訊いた。

「ああ、本当だ。俺が川にいたら坊やが流されてきたんだ。俺は川に飛び込んで坊やを助けて、濡れた服を乾かしてから坊やに家に帰んなって言ったんだけども、坊やは“お父さんは僕のこと嫌っているんだ、だから家には帰らない”って言って帰らなかったんだ。」

 源三はゆっくりと話した。達志は源三の話を聞き、徹雄が川で溺れて危険な目にあったこと、徹雄を助けてくれた人を誘拐犯呼ばわりしたこと、自分が徹雄を嫌っていると徹雄が思い込んでいることなどを知り大きなショックを受けた。事務所の中は静まり返り、徹雄のすすり泣きが響いていた。美江がバッグの中から竹の皮に包まれた握り飯と魔法瓶を取り出しテーブルの上に置いた。徹雄の肩を優しく抱いて椅子に座らせると、竹の皮を開き、二個の握り飯を中から出した。

「徹雄ちゃんお腹すいたでしょ、お母さん、おむすび持ってきたの。徹雄ちゃんの好きなオカカのおむすびよ。食べなさい。」

 と言った。美江が魔法瓶の蓋を開け、中に入った麦茶をコップを兼ねた蓋に注ぎ、徹雄に渡した。徹雄は麦茶の入ったコップを受取り、麦茶を一口すすると源三の前にあるコロッケを指差して

「僕、あのコロッケが食べたい。」

と言った。次の瞬間、達志の目が僅かに開き、中年の警察官に向かって聞いた。

「コロッケの代金、私が払うことは可能でしょうか?」

中年の警察官は小林を見ながら、達志の問いに答えた。

「それはこちらの店長さんに聞いてもらって、我々は店長さんの通報でここに来たわけだから。」

小林は一瞬考えたが、中年の警察官が言ったことを理解して、達志に向かって言った。

「ああ、はいはい、大丈夫です。コロッケの代金をお支払いいただければ、そちら様が身元引受人といった形で処理します。」

小林が中年の警察官をちらりと見ると、中年の警察官が軽くうなずいた。

「それじゃ、これで。」

達志が財布から千円札を取り出して小林に渡した。

「では、ただいまお釣りをお持ちします。あ、コロッケはあっちの電子レンジでチンしてください。」

小林は店長の机の電子レンジを指差して言うと、事務所を出ようとした。達志が小林を引き留め、

「すいません、どんなものでもいいので封筒を1枚いただけますか?」

と聞いた。小林は

「封筒ですね、わかりました。」

と言って事務所を出て行った。佐伯が電子レンジでコロッケを温めると、二膳の箸とソースを一緒に徹雄の前に置いた。徹雄は握り飯の一つを左手で持ち、もう一つの握り飯を右手で持って源三の前に置き、

「おじさんも一緒に食べようよ。」

と言った。

「いや、俺はいい。」

源三は徹雄の勧めを断った。

「食べようよ。」

徹雄は拗ねたように言った。源三が達志と美江を見ると

「どうぞ。」

と言って両手を差し出した。美江はコップに麦茶を注ぎ源三の前に置いた。

「じゃ、遠慮なく。」

源三は握り飯をほおばった。徹雄も握り飯をほおばった。

「うめえ。」

「おいしい。」

2人の口から思わず声が漏れた。

「コロッケも食べようよ。」

徹雄がコロッケにソースをかけた。コロッケを食べて2人は笑顔でお互いを見つめた。

小林が事務所に戻ってきた。

「では、840円のお返しです。それと、これ封筒です。」

小林は釣銭と封筒を達志に渡した。達志は小林に、

「ありがとうございます。」

と深々と頭を下げて釣銭と封筒を受け取った。小林は右手を振りながら、

「全然、大丈夫ですよ。」

と言った。

「ごほん、ごほん。」

中年の警察官は軽く咳払いし、

「それでは、我々はこれで失礼します。」

と言って事務所の出口に向かった。若い警察官が中年の警察官に続いた。源三は驚いた顔で警察官たちを見た。2人の警察官は出口で敬礼すると事務所から出て行った。達志と美江は警察官に向かって深々と頭を下げた。小林は警察官に向かって敬礼を返した。源三と徹雄は握り飯とコロッケを食べ終え、麦茶を飲んだ。時計の針は午後9時30分を指していた。いつもなら徹雄は寝ている時間だ。

「ファー。」

 徹雄は大きな欠伸をした。

「徹雄ちゃん、今日は疲れたでしょ。おうちに帰ってお母さんと一緒に寝ましょ。」

 美江は徹雄の頭をやさしくなでながら言った。

「でも、ぼく…。」

 徹雄は源三を見た。

「徹雄、石井さんも疲れているんだ。お前がいるとゆっくり休めないだろ。お父さんたちと一緒に家へ帰ろう。」

 達志が徹雄を説得した。

「おじさん…。」

 徹雄は源三に問いかけた。

「坊や、お父さんの言うとおりだ。おじさん、疲れたから1人で寝る。」

 源三はうつむいたまま言った。徹雄はしばらく源三を見ていたが、

「わかった。僕、家に帰るね。」

 と言って立ち上がった。美江が竹の皮と魔法瓶を素早く片付け、バッグにしまうとコロッケの入っていた空パックを手に取った。

「いいですよ、こちらで捨てておきますから。」

 佐伯が言った。美江は

「すみません、お願いします。」

と言って、空パックを佐伯に渡した。達志は財布から1万円札を出して封筒に入れると、源三の横に行き、封筒を源三に差し出して、

「徹雄を助けていただいて本当にありがとうございました。また、石井様を誘拐犯呼ばわりして大変申し訳ありませんでした。こちらは私たちの気持ちです。どうかお受け取りください。」

と言い、深々と頭を下げた。美江も並んで頭を下げた。

「いや、いや、いや。」

と言い、源三は右手を顔の前に挙げて封筒を受け取らなかった。達志は源三の手を取って封筒を手渡すと、源三は封筒を受け取った。達志と美江は小林と佐伯に礼を言い、徹雄を連れて事務所から出て行った。

 達志が駐車場に止めてある首藤家の車のキーロックを解除すると後部座席に徹雄と美江が乗り込んだ。自転車を置いた場所を徹雄から聞いた達志は徹雄の自転車を持ってきて車のトランクを開け、自転車を載せた。トランクに自転車が入りきらないため、自転車の荷台ロープを使って、ドアが少し開いた状態で固定した。徹雄は後部座席の窓を開けて事務所の入り口を見ていた。達志が運転席に乗り込み車のエンジンをかけたとき、事務所の入り口から源三が出てきた。徹雄は源三に向かって、

「おじさーん。」

と叫んで手を振った。首藤家の車の駐車場所は事務所から20メートルほど離れており、源三は徹雄の声に気づかなかった。

 達志がアクセルを踏むと、ゆっくりと車が動き出した。徹雄は車の窓から源三を見ていた。車はスーパーあけぼのから離れていき、源三の姿はどんどん小さくなっていった。そして車が角を曲がると源三の姿は見えなくなった。徹雄は後部座席に座りなおすと、すぐに眠ってしまった。


 この一件の後、達志は徹雄への接し方を改めた。達志は自分の息子がいなくなる様な目に会いたくなかったのだ。

 1カ月後、徹雄は源三のあばら家に行ってみたが、あばら家のあった場所は護岸工事が始まっており、源三のあばら家はなくなっていた。

徹雄は自分から進んで勉強するようになり、成績も上がっていった。茂の後を追うように大学の法学部に進み、司法試験に合格して弁護士になった。



 拘置所の接見室に入り、徹雄は依頼人を待った。


 徹雄は東京都にある合同法律事務所に勤務し、国選弁護人に登録していた。今回の案件では徹雄は国選弁護人として依頼人の弁護にあたることになっていた。依頼人は若者に二か月の重傷を負わせた容疑で逮捕されたホームレスだった。事件は1カ月前の深夜に起きた。都内の路上で泥酔した若者がホームレスを襲い、暴行を受けているホームレスを助けようとした仲間のホームレスが若者に突進したが、勢い余って若者が頭部に外傷を負ったというものだった。若者に突進したホームレスは正当防衛を主張したが、若者の父親は社会的地位の高い人物で、ホームレスを厳罰に処するよう求めていた。

 接見室の被収容者用のドアが開き、1人の初老の男が刑務官に連れられて入ってきた。初老の男はうつむいたまま椅子に座った。

「石井源三さんですね、今回あなたの弁護を担当することになった首藤徹雄です。」

徹雄が名乗ると源三は驚いた顔で徹雄を見た。

「まさか?」

源三は驚いた顔のままで徹雄に聞いた。

「はい。ご無沙汰しております、石井さん。その節はお世話になりました。」

徹雄は笑顔で言った。

「はぁー、立派になりなさった。立派に!あのときの坊やが弁護士になったか。そうか、そうか。」

源三は感慨深げに何度もうなずいて言った。その眼はわずかに潤んでいた。

「今度は私があなたの力になります。」

徹雄が言った。源三はその言葉を聞いて感極まり、涙を流した。

「ありがとうございます。よろしくお願いします。」

源三は頭を下げて言った。頭を上げた源三は徹雄をしげしげと見て、

「それにしても、立派になった。いくつになりなさった。」

源三が徹雄に聞いた。

「首藤徹雄、二十九歳です。」

徹雄は両手を横につけ、気を付けの姿勢をして言った。

「石井源三、六十五歳です。」

続けて気を付けの姿勢をして源三が言った。二人は笑った。


 二十年前の夏と変わらない笑顔がそこにはあった。


                 了

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ザ・リバー コヒナタ メイ @lowvelocity

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