小雨降る 霧

 残り10メートルぐらいのところで、けっこう肺に来ていた。

 足より先に。

 でも、そこで見た光景が、ボクの加速装置のスイッチを押した。

 多分、そこは大崎川の橋、通称大橋の手前。

 霧の中で、その人影は、怜悧に向かって両手を上げて掴みかかろうとしていた。

 嘘だろ?

 いくら霧が濃いからって、夜中でもあるまいし、ましてや日本の都市のどこかでそんなことが?

 怜悧が、あの軽やかなステップで野獣を躱す怜悧が、掴みかかる影から後ずさって尻餅を着いた。

「怜悧!」

 久しぶりに名を呼んだ。

 振り向いた怜悧と目が合った。

 その目が、驚きで開く。 

 可愛い。

 めっちゃ可愛い。

 マジで可愛い。

 ちょっと憂いを帯びてるのと、額にかかる前髪が雨に濡れているのがヤバい。

 その後の行動には、いくつか理由がある。

 まず、マッチョでも何でもないが、ボクは身長170センチ引く、1.7センチであること。

 そして、久しぶりに怜悧の名前を呼んだこと。

 さらに、怜悧が振り返って、目線を合わせた事。

 ダメ押しは、近づくまでは良く分からなかったけど、相手の身長がボクより頭ひとつは小さかったこと。

 それらの理由が合わさって、ボクは果敢に突進した。

 例の行方不明者に関係する変質者だろうか。

 違うにしろ、どう考えても変質者だけに、川に落としてもいい。

 いや、それは可哀想か。

 まあ、橋に転がってもらっても。

 そう思って、人影に体当たりした。

 ガッ。

 えっ? 

 中学生の時、岩舘のチャリの後ろで立ち乗りしてて、滑り落ちた時の事がフラッシュバックで蘇った。

 あの日もそう言えば雨だった。

 正確には雨上がり。

 チャリの後ろ、通称「ニケツ棒」と言われる車軸の上が滑って、思わず地面に両足で着地した瞬間、前のめりにコケ、圧倒的な重量を誇る地球にぶつかったことを。

 ジャージの膝と肘には、穴が開いたし、血も出た。

 あの時と同じような衝撃。

 気づけば、相手を弾き飛ばすどころか、弾き飛ばされて怜悧の横に転がっていた。

 霧の中から、異常に手が長くて、その分、帳尻合わせのように足が短い寸胴の男がのそりのそりと歩み寄って来た。

 服を着ていない。

 白目が、ない。

 鼻も、ない。

 代わりに、くちばしとしか言いようのない口がある。

 人間じゃ、ない?

 クケケケケケ。

 そいつはそのくちばしの様な口から、妙な声を出しながら上を向いた。

 なんか、でも、知ってる動き。 

 ボクにスタンド能力があるなら、予測と先読みだ。

 しかも、悲観的な予測専門の。

「危ない!」

 怜悧のしっかり女の子だけど、芯のある、凛とした声が聞こえた。

 ボクは声がする前に横に転がっていた。

 ペッ!

 そいつが吐いた痰が、最近ボクが転がっていた場所に落ちた。

 シュウウウウウ。

 なぜか地面が窪んだ。

 何だこれ?

 こんなことある?

「才蔵!」「才蔵!」

 声がする。

 ほんと、いい奴らだと思う。

 ピンチの時に何も出来なくてもいい。

 逃げないでいてくれる友人は、最高の友人だ。

「岩舘!赤坂!あんま近寄るな!なんか、へんな、へんな…おっさんがいる!」

 後ろを振り返って叫ぶ。

 そいつは、岩舘と赤坂の声を聞いて、一瞬動きが止まったが、クケッ、と変な声を出すと、怜悧の方に向き直った。

 怜悧はもう尻餅を着いていなかった。

 いるはずがない。

 だって怜悧だから。

 ボクは怜悧の弱さを知っている、そしてそれよりも遥かに強力な強さも。

 負けじと立ち上がろうとするボクの腕を、細いが力強い温かい手が掴んだ。

「立って!」

 ボクは怜悧の腕に掴まって、起き上がると、腕を掴み合ったまま、元来た道を走った。

 ボクは時折振り返りながら、横を走る怜悧の胸元で揺れる、不思議な羽のアクセサリーを懐かしい気持ちで見続けた。

 

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