完璧なる戦XIII

 敗戦後、すぐに侵略を続けるオストベルグ軍に対抗するため、降格した若き将たちは皆、そちらの戦線に赴いていた。唯一、戦列に加わることを許されなかった男は、ウジェーヌの故郷である港町で休暇、と言うよりも謹慎生活を送る。

 この後すぐに後任が戦死し、元の地位に戻ることになるなど当然知らぬ彼は、しばらく、いや、下手をすると死ぬまで出番が回ってこないのだろうな、と考えていた。ラロの策により本国では撤退した軍に対し大バッシングが待っており、あの場に居合わせなかった武官からも期待が大きかった分、失望はすさまじいものであった。ランベールが泥を被ったとはいえ、その全てが彼だけに向けられるわけもなく、期待の新鋭が一変、谷間の世代扱いとなる。

「――まあ、その辺は時間が経てば、あいつらは実力でねじ伏せるとは思いますがね。だけど、少し、色々と遅れることにはなりそうです」

 今回の敗戦はダルタニアンらの世代、その躍進を大きく阻害することになった。彼がカミーユの下に着いたのは、ガイウスやサロモンからすると引継ぎのつもりだったはず。だが、彼が王の左腕となるのはしばらく先のことになるだろう。

 大敗であれば、逆に早まったかもしれないが――

「海軍を刷新する件も、残念ながらなくなりました。陛下が尽力くださったそうですが、今はその時ではないという判断です」

 海軍の刷新、つまり暗黒大陸を視野に入れた構造改革もまた現実論によって押しつぶされた。これで、ガイウスとウジェーヌの夢が一つ、消えたのだ。

 海はヴァイク、エスタードが一気に勢力を広げるだろう。一度後手を踏めば追いつくのは至難の業。結果としてこの先、暗黒大陸に対し圧倒的なリードを手にしたヴァイクであったが、暴虐の国守アスワン・ナセルの台頭により全て水泡に帰す。エスタードもアークランドの常軌を逸した体当たり攻撃によってピノと共に主力艦隊が沈み、港も焼き払われたことで先んじることはなかったのだが。

 どちらにせよ、ガイウスの生きている内にかの地への橋頭保を築くことは叶わず、夢が断たれたことには変わりない。

「俺も王の左右外されて、十も序列が下がって、おそらく復帰の目はないでしょう。あったとしても、俺はあの男に勝てる気がしません」

 撤退した後、ダルタニアンらと敗戦の整理をした。反省会のようなものであったが、すればするほどに明確な差が浮き彫りになってしまった。常軌を逸したルートからチェを送り込まれた時点で勝敗はほぼ確定。麒麟児の戦術で盛り返したものの、そもそも後背にああいう仕掛けがあった以上、突破されること自体は織り込み済みだったのだろう。一手後退、絶妙な力加減での詰み。

 しかもご丁寧に両翼の人材を偏らせ、展開を遅らせることでこちらの退路まで用意してくれていた。あれがなければ後退する、撤退と言う発想にすらならなかっただろう。こちらも全滅していただろうが、あちらも手傷は負ったはず。

 何から何まで上回られた。戦場しか見ていなかった自分たちと、敵国の政治にまで目を向けていたラロ、これ以上ない格付けであった。

 まだ、将の性質を根本から変えている最中のダルタニアンは伸びるし、場合によっては追いつける可能性もある。センスもあるし、曲がりなりにも麒麟児の戦術を言語化し、部隊規模で定着させた男である。

 だが、自分は違うのだ。自分はもう、完成してしまっている。

「凡人でもここまでやれるんだぞ、みたいな感じで胸張ってたんですけど、どうやらここまでみたいです。わかるもんですね、自分の底ってやつが」

 皮肉な話だが、己を高め、磨き上げたことで本物を理解できてしまった。どこまで行っても偽物でしかない自分を、理解できてしまった。

「たぶん、エスタードにも同じ気持ちの奴、いるんでしょうね。しばらくはきっと、誰もあいつを止められない。次の巨星は、きっとあの男でしょう」

 ああいうタイプの将相手にあそこまで違いを見せつけられたのだ。本来はガリアスこそが先頭に立つべき分野であり、それこそが誉れであったはずなのに。

「愚痴ばっかですいません。ちょっと、頭冷やしてきます」

 ここのところ毎日、ランベールはウジェーヌの墓の前で愚痴をこぼしていた。自分でも無様なのは理解している。彼が生きていれば叱責されていただろう。

 いや、もしかしたら、一緒に愚痴を言っていたかもしれないが――

 ランベールは死んだ眼で海辺の町を歩いていた。普段であれば心地よく響く潮騒も今は何も響かない。押しては返す波を見ても、何も浮かばない。

 明日はどうしようか、明後日はどう生きようか、役立たずの自分に生きる意味などあるのだろうか、そんなことばかり浮かんで、心にこびり付く。

 気づけば浜辺で腰を下ろしていた。もうここまで来るといっそ海に飛び込んでみようか、なんて考えてしまう。陸育ちのランベール、実は泳げない。足がつかないところまで行けば死ねるなぁ、なんて考えていた。

 すると――

「ぷはぁ!」

 少女が一人、波しぶきの間から現れた。片手には網を引きずり、もう片手には銛を握っている。さすが海辺の町、こんな小さな少女でも漁をするんだなぁ、とランベールが考えていると、

「……へんたい?」

 少女からぎろり、と睨まれた。まあ、確かに少し不躾な視線であったかもしれない。別にそんな凝視していたわけではないし、ランベールは幼子趣味などない。どちらかと言えば熟女趣味である。女は四十超えてから、と十代から言っていた男なのだが、当然相手はそんなことを知らないし、聞いたら聞いたで視線が強くなるだけだろう。まあ如何に消沈のランベールとてその程度の分別はある。

「いやぁ、驚かせてすまない。私はランベール・ド・リ――」

「聞いてない。ちかづくな」

 何も言わずとも強まる視線。ただ怪しい人ではない、と伝えたかっただけなのだが、どうやら逆に警戒させてしまったようである。

「お、大きな獲物だね。おじさん、驚いちゃったなぁ」

「……よこどりする気か?」

 場を和ませようとした発言がことごとく裏目に出る。それにしても、網の中にいる魚は本当に大きい。浜辺の近くで取れるような魚には見えないし、そもそもランベールは集中していたわけでなくとも海を眺めていたのだ。

 その視界に彼女はいなかった。相当遠くで漁をしていたのか、相当長く素潜り出来るのか、そのどちらか。まだ、七、八歳くらいの少女だとは思うが、少しばかりランベールの常識とは外れている気がした。

 だからだろうか、体が無意識に、前に出ていた。

「ちかづくなと、言った!」

 銛による少女の一突き。その伸びを見てランベールは目を見張る。努力でどうにかなるものではない。才能、それが彼の脳裏によぎる。

「はは」

「わらうな!」

 突いて良し、払って良し、烈火の如く闘争心剥き出しに攻め立てる少女を見て、ランベールは自然と笑みがこぼれてしまう。

 こんなにも粗い槍なのに、こんなにも輝いて見える。初めてボルトースやエウリュディケを見た時もこんな感じであったか。一芸に突き抜けた才能を持つ者。自分とは違うスペシャルな輝き。もちろん、彼らすら届かなかったのが巨星という壁、ラロという壁、彼女一人でそれが超えられるかどうかはわからない。

 だけど、この綺羅星の卵を見て思う。

「どうしたどうした、おじさんに全然当たっていないぞぉ」

「んぎぎぎぎ!」

 彼女のような才が、もっと増えれば届くのではないか、と。才能に心折られた男が、才能に心を癒してもらっていた。その皮肉に、男は笑うしかない。

「わらうなァ!」

 涙交じりで銛を振り回す少女を見て、

「く、はは」

 ランベールもまた、

「なんでおまえが泣く⁉」

 笑って、涙をこぼした。

 その後、ひとしきり暴れて落ち着いたのか、少女は網を漁り魚を取り出す。たぶん、少女が取った中では一番の小物であるそれを、

「これでテウチだ」

 と言って手渡してきた。

「ははぁ、ありがたく」

 攻防交わしたことで、ある程度少女を理解したランベールは慇懃無礼なほどへりくだる。だが、これが良かった。本日初めての好感触を得る。

「ほどこしは貴族のギムだからな!」

 嬉しそうな少女を見て、頭はあまりよくないな、とランベールは分析する。もちろん口には出さない。

(貴族、か。この町で貴族と言ったら、たぶん領主の――)

 少女の素性を理解し、貴族の令嬢がお供もつけずに海に出ていた事実にランベールは呆れ果てる。まあ、田舎だとこうなのかな、と飲み込むしかなかったが。

 領主自体は歴史ある名家であるし、この地も漁業やサンバルトなどとの交易で栄えているが、中央から外れているという意味では田舎、である。

「おい、おまえ」

「は! 何でしょうか?」

「大人はみんな、おまえみたいにつよいのか?」

 少女の問い。貴族の令嬢と言うことを鑑みるまでもなく、この歳の女の子相手に本気で向かい合う大人はそう多くない。男ならば尚更、万が一にも本気を出して少女に後れを取ったら立ち直れない。だから初めから線を引く。本気など見せない。

 ランベールは少しだけ考えこんだ。彼女の将来にとって、どういう答えが最もふさわしいだろうか、と。考えて、男は微笑む。

「俺よりも強い奴はいっぱいいる。だけど、俺は強いよ。この町にいる誰よりも。この町の英雄『銅将』ウジェーヌよりも、今の俺は強い」

 全力で応えることにした。萎えた心を奮い立たせ、少しでも少女から見て大きく見えるように、強い口調で雄々しく、越えるべき壁を見せつける。

「わは」

 ずっと見出すことのなかった壁を見つけ、少女は嬉しそうに笑った。無邪気で純粋な闘争心、これがある限り人は成長する。

「お嬢様ー! どちらにいらっしゃいますかー⁉」

「……ちっ」

 ぞろぞろと足音が聞こえてきた。さすがにご令嬢を一人で遊ばせておくほど能天気な家ではなかったらしい。家が窮屈で抜け出してきたのだろう。

 もう、顔からしてげんなりしている。

「じゃ、俺は行くとするかな。魚感謝いたします、お嬢様」

「……ふん」

 素性はわかった。これからやるべきことも見えた気がする。萎えている場合ではない。凡人でもやれることはある。

「おい、おまえ、名前はなんだ?」

「ランベール・ド・リリュー、ガリアス王国軍百将の一人だ。君は?」

「リュテス、リュテス・ド・キサルピナ」

「そうか、じゃあ……またな」

 これが後に王の左右として名を馳せる『疾風』のリュテスとの出会いであった。この日、この出会いがランベールと言う男の新たな門出と成った。恩師と同じ道をこの男も征く。才を育て、磨くことを己の責務と心得る。

 この地に滞在中、領主の許可を取り彼女を鍛え、呼び戻された後も必死で武功を稼ぎ序列を取り戻す。全ては次代に託す土壌を今一度育むために。そして『疾風』の背中を見せて、いつかの彼女に踏み台として越えてもらうために。

 男はもう一度、戦場に戻る。


     ○


 対オストベルグ戦線、隙を見せればすぐに突かれるのが乱世なれば、ダルタニアンらが駆けつけた頃には悲惨として言いようのない光景が広がっていた。本気のストラクレスによって蹂躙された戦場、指揮を執っていた王の右腕は負傷し後退、遺された軍はアクィタニアのガレリウス指揮の下、何とか食い下がっていた有り様。

「ガレリウス!」

「……おお、ダルタニアンにボルトース、久しぶりだな。見ての通り悲惨極まる状況。さっきボロ雑巾にされたガロンヌが本国送りになったところだ」

 おそらく今回の一件で最も割を食わされたのはアクィタニアであろう。ガリアスの傘下になった以上、上手く使われるのは仕方がないことであるが、それでもベルガーを欠いて以降、往年の凶暴さを取り戻した『黒金』相手は厳しい。

「すまんな、無理をさせたにも関わらず、こちらは何の戦果もあげられなかった」

 ボルトースが頭を下げる。それを見て、ガレリウスは苦笑する。

「戦果なしとは言わせんぞ。あのカミーユ殿を上回り、お前たちの秘策すら打ち破った相手だ。学ぶべきところは多々あったはず」

「それは、そうだが」

「目先のことなどどうでもいい。何のための超大国、何のための地力だ。これだけ負けても余力がある。そのせいで要らぬ勢力に活気づかれてしまっているが、ある意味でそれすらこの国の懐の深さが成せること。焦るなよ、二人とも」

 ガレリウスは諭すように言葉を紡ぐ。一番割を食った男が、一番冷静であるのだ。嫌でも落ち着くしかない。自虐的に、自罰的になっている場合では、ない。

「最後に笑えばいいんだ。それが勝負事だろう?」

 今のアクィタニアでなければ、この男はきっと大きなことを成していたはず。史に名を残すような――これもまた時流であり、人の宿命であろうか。

「その通りだ」

「ああ」

 自分たちは負けた。だが、ガリアスは負けていない。そう思えば文官や国民たちの楽観も少しは救いになる。そのままでは、いけないのは当然のことだが。

「ラロはどうだった?」

「深く、広い。知略で巨星に比肩し得る存在だった」

「なるほど……ならば、なおのことありがたいな。智は、そのまま血肉に出来る」

「ああ。その通りだ。巨星を打倒した戦術、それを得て盲目となっていたが、そこに本質はなかった。戦術とはじゃんけんであり、相性でしかない。ならば、多くのオプションを、手札を持たせた軍を作るのが第一。今回の用意では足りなかった。運良く肉薄しただけ。だが、次は間違えない。そういう群れを築いて見せる」

 あの場で全員が正しい判断を下していれば勝敗は覆った。もし、を望むことに意味はないが、もし、を考えて次に生かすことには意味がある。

 今回の戦を経て、ダルタニアンはサロモンらと共に軍における戦術の枚数を増やすとともに、新たなる価値観創出のため全国規模でストラチェスを流行らせようと画策した。戦術の探究に終わりはない。それに全てを賭すほど将は暇でもない。

 ならば、市井の力を借りよう、と言うのが趣旨である。玉石混交、ほとんどが石くれであろうが、その中に一粒でも玉が混じっていれば儲けもの。彼らの裏工作によってガリアスでは空前絶後の流行を生み、いくつかの有効な戦術と想像以上に多くの戦術家たちを生み出すことに繋がった。

 ダルタニアン自身もまた市井の発想などを柔軟に取り込み、実戦に転用するなど彼自身の成長にも大きく寄与することになる。

 だが、一つだけ彼は過ちを犯した。

 ガリアスの民の参考になればと彼は少し先の未来で本を作る。ダルタニアンの戦術論、ストラチェスのものであるが実戦にも応用が利く考え方をまとめた本であった。ガリアスでも写しが大量に出回り、ストラチェスを楽しむ紳士淑女からは必読の本とまで言われたのだが、それは少しだけ人気になり過ぎた。

 写しが国境を越え、ある輸入本屋の下に訳本の依頼がやってくる。そして、それを任された男が手に取り、ガリアスのための知識を喰らってしまうことになる。まだこれは、今より少しばかり先の話であるが――


     ○


「どうであったか?」

 サロモンの問いにアダン、アドンは異口同音に、

「「使えます」」

 と言い切った。この二人がここまで断言するのは珍しいことで、主であるサロモンは少し驚いていた。王が戯れで手にした駒、存外大きいかもしれない、と。

「あの男がガリアスの戦術を解し、僕らを使える時がくれば、前回よりももう少しはまともな戦いになるかと」

「勝てるとは言わぬか」

「それほど安い相手ではありません」

 普段、多少実力が上な程度では認めぬ彼らだが、新参者に対しても、ラロという敵に対しても、いつも見せぬ表情を見せていた。

「よほど堪えたか」

「「はい」」

 裏で誰よりも努力してきた。同世代になど負けはしない。表でだって自分たちはやれる。そんな自信を持って外に出た彼らが、たった一戦でここまでへし折られるとは。対峙した敵の大きさをこれ以上なく物語っている。

「だが、そのラロとやらの思惑、どうやら外れたようだぞ」

「「どういうことですか?」」

「さすがの怪物も、神ではないと言うことだ」

 サロモンの意味深な笑みは、北へ向けられていた。


     ○


 エスタード王国、王都エルリードでは破竹の勢いで躍進する超大国を打ち破ったとして、国を挙げての祭りが繰り広げられていた。連日連夜、飲めや歌えやの大騒ぎであり、都市全体が新たなる英雄ラロを称える雰囲気に満ち満ちていたのだ。

 だが、肝心の主役は部屋に一人、籠っていた。

「入るよ」

 腹違いの兄弟であり、親友であるピノが部屋に入る。この男がここまで消沈していたことなど記憶にない。これだけ深酒をすることもなかった。そもそもラロ自身あまり酒は得意でないのだ。味は好きだが、体質があっていない。

「……ピノか」

「市民が君を待っているよ」

「悪いが、そんな気分にはなれない」

「君らしくないな。私たちはまだ若い。今回は機を逸したが、次の機会は必ず巡ってくる。焦る必要などどこにもないだろう?」

「……そうかな?」

 世の中には運命にも似た流れがある。それに乗って舞い上がる者、それに乗れずに落ちる者、実力だけではないのだ。時代に選ばれねば、上り詰めることは出来ない。才人は世に腐るほどいる。努力を惜しまず、天を掴もうとする者も少なくない。

「俺の知る英傑たちは皆、ここぞ、と言う勝負所で勝ってきた者ばかりだ。ここぞ、で敗れた俺に、果たして次があるのかどうか」

「今のエスタードに隙などあるものか。大カンペアドールの時代も、あと少しで終わる。その後を任されるであろう君がそんなことでどうする? 前から言おうと思っていたが、君はヤン・フォン・ゼークトにこだわり過ぎだ」

「それだけの価値がある男だ」

「結局巨星に墜とされ、君の言うここぞで敗れ去った者だろうに! 落ち目のアルカディアにすら、切り捨てられる程度の器だ。君ほどじゃない!」

「……ふふ、その落ち目を読み違えた俺の器も知れるだろうに。すまない。少しだけそっとしておいてくれないか、ピノ。必ず立ち上がる。引きずりはしない。だが、少し、ほんの少しだけ、堪えた」

 完璧だと思っていた。今を時めくガリアスに完勝し、世界の流れを作った。積み木崩しのように戦火は広まって、大陸を焼くはずだったのだ。

 だが、現実はそう成らなかった。

「……ラロ。君は完璧だ。将として必要なものを全て不足なく備えている。私から見れば、過剰なほどにね。私は信じているよ、君が一番であることを」

「大カンペアドールより?」

「ああ、もちろん」

 ピノの返しに驚いて、去っていく友の背中を見つめるラロ。エスタードにとって絶対であり、彼らにとっても憧れの存在である偉大なる父。困らせてやろうと振ったのに、それをこうもあっさり返されたのでは堪らない。

「……明日、明日には立とう。色々溜まっているだろうし、しばらくは王宮に入り浸らねばな。チェ様にも、改めて挨拶に行かねばなるまい。ふふ、忙しいな」

 確信があった。今まで一度も踏み外したことがなかった。どれだけ薄い氷であっても自分ならば渡り切れると、そう信じていた。

 それが驕りであったことを知る。

「……時の運、か。いや、違う。俺がアルカディアを読み違えただけだ。そんなものに俺は左右されない。そんなものに、敗れてなるものかよ」

 ラロは腹に力を入れて立ち上がる。東の空を睨みつける。星々の煌めき、綺羅星の数々に隠れるような小さな光を見て、血が滲むほど拳を握る。

 もう二度と、読み違えてなるものか、と胸に誓いながら。


     ○


 アルカディア、ルーリャ川沿いの都市には今、三大将が詰めていた。対岸で睨みを利かせるネーデルクス軍は彼らの陣容を見て、何故だ、と思ったことだろう。ベルガー亡き今、ストラクレスがガリアス方面に出ずっぱりであれば、必然アルカディアもオストベルグに向かうはず。その目算があったからこその遠征であった。

 好機とばかりに各方面への軍勢を残しつつも、元超大国であるネーデルクスが今集められる最大戦力を用意したというのに、まさかアルカディア側もまた総力を結集して対ネーデルクスに備えていたのだ。

 これでは総力戦となってしまう。ゆえに二の足を踏む。ここまでの戦いになる予定はなかった。ルーリャをまたぎ、橋頭保を得る。そのための遠征であったはずが、総力戦になれば嫌でもチラついてしまう。

 いずれ自分たちの背後に戻ってくるであろう完璧なる男、超大国を若手主体で破った『烈鉄』が。万が一にもこんなところで損害を出すわけにはいかない。

 それほど今のアルカディアは、ネーデルクスにとって大きくないのだ。

「始めるなら始める。始めぬなら始めぬ。はっきりして欲しいものだ」

 そんなネーデルクス軍を見て、アルカディア王国第一軍大将ベルンハルトは顔をしかめていた。もう体は温まっているから攻めさせてくれとばかりに戦意に満ちている。部下たちも同様、血気盛んなのは主家譲りと言ったところ。

「あちらも戸惑っているのだ。許してやれ」

「そもそもこちらに固まり過ぎだ。誰か一人、軍を率いてオストベルグを削り取って来ても良かっただろうに。どうせ相手は若造のキモン辺り、我らならば負けん」

 憤慨するベルンハルトはどうにもこの状況に納得していない様子であった。それをいさめた第三軍大将カスパルもまた、立場上いさめてはいるものの、気持ちとしてはベルンハルト同様、もったいないという想いが強い。

 つまり、この布陣を王に進言し、通した男は――

「誰かが欠ければ、あのネーデルクス軍、おそらく止まりはしなかっただろう。キモンも若造とて侮れん。二兎追い、多くを失うは愚の骨頂」

 第二軍大将バルディアス。

「だからと言ってオストベルグ方面丸々空けることはないだろうに」

「よせ、ベルンハルト。陛下が採用された策だ」

 またの名を――

「今は動くべき時ではない。この国が綺羅星を取り戻すまでは、泥を啜ってでも、臆病と誹られても、国を守り抜いて見せる。火種は、起こさせん!」

 『不動』。

 アルカディアはオストベルグを攻めなかった。これだけの好機を前に動かずに、動く可能性のあるネーデルクス方面に全てを注ぎ、彼らに攻めてくれるなよ、と牽制する。臆病で弱腰、それでもバルディアスはそれが最善だと進言し、王もそれを受けた。今のアルカディアでは欲をかけば火傷では済まない。

 ヤンが、まだ見ぬ英傑が、生まれ出でるまでは――

「文官どもに叩かれるぞ」

「今更そんなもの、我には効かん。叩かれるのには慣れている」

「そうか。なに、叩かれるときは一緒だとも」

「俺は嫌だぞ」

「ベルンハルト、こういう時は合わせろよ、格好がつかん」

 彼らはラロの思惑など知る由もない。彼の仕掛けた戦に連動して世が動いたことは理解していても、まさかそれ自体が目的だとは考えてもいなかった。ただ、彼らは綺羅星不在の今、動くべきではないと消極極まる手を取っただけ。

 王もまた分をわきまえ、『不動』の道を選び取ったまで。

 ラロは視野に入れておくべきだったのだ。ウジェーヌを、ランベールを、警戒していたものと同じ眼で、敗れながらも『黒金』と渡り合ってきた凡庸なる将を、見るべきだった。もしかすると彼の中であったのかもしれない。ヤンという麒麟児を封じ込めた彼らへのわだかまりが、その侮りが、ただ一つの見逃しを生んだ。

 凡庸であることを理解し、飲み込んだ男たちの決断によって、この時点で最も秀でていた男の『ここぞ』が砕け散ったのである。

 史書にも残らぬ『不動』が一人の天才を潰し、時を稼ぐこととなる。

 それによって世界は、大きく様変わりすることとなるのだ。


     ○


 アルカディアの片隅にて――

 本屋の手伝いの傍ら、字を学び、数字を学び、力をつけている少年がいた。復讐心を原動力に、貪欲に、計算高く、必要なすべてを飲み込んでいく。

 その眼には怒りがあった。世界を燃やし尽くすほどの怒りが。

「アル、そうじゃない。こうだ、手首を、こう、ぎゅいんとする感じ」

「頭ゴリラかよ」

「この、教えてやってるのに、その言い草はなんだその言い草は」

「そもそも筋肉だけのゴリラに剣なんて教えられるのかよ」

「教えてんだろうが! それにこれはな、由緒正しい剣術なんだよ!」

「何でそんなのをカイルが知ってんだよ」

「……む、昔教えてもらったんだよ! いいから続きだ続き!」

 知識と剣、二つの力を貪り、白髪の復讐鬼は牙を研ぐ。姉を奪った世界そのものをぶち壊してやる、ただそれだけのために。


 エスタードの路上にて――

 デシデリオとセルフィモが二人並んで歩む。珍しい組み合わせであるが、彼らの目的地が同じなため仕方なく一緒に歩いていた。ちなみに目的は調子に乗って負傷したクラビレノの見舞いである。あれは早死する、とは皆の共通見解であった。

「なあ、ラロの奴なんかおかしかったよな? 戦で大勝したのによ。ガリアスも腐敗が進んだだろうし、全部思った通りになったはずだろ?」

「思った通りでないから、ああいう顔なんだろう。私はほっとしたがな。あれでも血の通った人間なのだとようやく知ることが出来た」

「ひでー言いぐさ。つーかあれか、やっぱピノ以外は伝えられてねえのかな?」

「おそらくは。もしかすると、ディノやテオには伝えているかもしれんが」

「ハァ? 何でだよ?」

「カンペアドールになり得る可能性を持つ者か、そうでないか、だ」

「……俺じゃあ不足だと?」

「さて、どうだろうな」

「つーかラロとピノはわかる。もうすでにカンペアドールだし、実績もある。だけど、ディノとテオは指導者向きじゃねえだろ。想像できねえぜ」

「この国ではな、力があればいいんだ。それで人は引っ張ることが出来る。ディノもテオも、人を引き付ける力がある。伸びしろ、可能性がな」

「理解できねえな。俺は、あの二人には負けるつもりなんてねえし、カンペアドールにだって成って見せる。そのために戦士になったんだ、俺は」

「まずは私に勝ってから、だ」

「……ちっ。セルフィモで成れねえなら、やっぱあの二人じゃ無理だろ」

「現時点での強さなど何の意味も――」

 セルフィモ、デシデリオが立ち止まる。エルリードの往来、この国では戦士たちは尊敬され、畏怖される存在であり、二つ名持ちともなれば人垣が割れるほどである。実際に今も、市民は彼らを避けて道を作り、笑顔で手を振る者すらいた。

 だが、そんな者二人の眼に映らない。

「……見下ろしてんじゃねえ!」

 見上げる者全てに敵意を振りまく小さな狼。まだ何の力も持たぬであろう弱々しい身体から、何故こんなにも凄まじいプレッシャーが放たれているのか。ラロのそれとは違う、暴力的な気配。それは彼らが敬愛するあの男に似ていた。

 戦場を焼き尽くす太陽のような、熱。

「待って、ヴォルフ。すいません、ごめんなさい!」

 すれ違っただけ。すぐに小さな彼らは人垣に飲まれ、二人の視界から消える。

「……ひゅー、あのガキすげえ眼してたぜ。この辺のガキかな? 今度見つけたら俺の部隊に誘ってみるかな。絶対鍛えたらものになるぜ、ああいうガキは」

「ああ、そうだな。私なら……殺しておくがな」

「何でだよ、可愛いもんじゃねえかあれぐらいの跳ねっ返りの方が」

 セルフィモは何も言わず、黒髪の少年が消え去った方を見つめていた。天に太陽は二つと存在しない。してはならない。

「いや、冗談だ。それよりも急ごう。クラビレノが待ちくたびれているだろう」

「待たせとけばいいんだよ。あの馬鹿、名誉の負傷だって喜んでいたらしいぜ。ありゃあ駄目だね。絶対戦場で死ぬぜ、賭けても良い」

「意外とああいうのが生き延びるものだ」

「じゃあ賭けるか?」

「遠慮しておこう」

 杞憂だ、とセルフィモは言い聞かせる。あんな小さな少年が、太陽を落とす日など来るはずがない。天に手を伸ばし、焼け落ちるが関の山。

 それでも予感はあった。嫌な、気配が、在ったのだ。


 極西の島ガルニアにて――

「……姫様」

 ベイリンは自身の主君が残していった少女を見つめ、肩を落とす。父を、母を、大勢の騎士たちを失い、ずっと彼女は心を閉ざしたままであった。

 太陽のようなあの笑みをもう一度、そう思っていた。

「ベイリン、いつまで卿はそうしているつもりだ?」

「トリストラムか。私は残るぞ、この国で殿下を守り続ける」

「……あの時、サー・ヴォーティガンの申し出を受けるべきだった。何の後ろ盾もない少女が生き延びられるほど、ガルニアは生易しい土地ではない」

「国も、殿下も、私が守ると言っている!」

「卿だけでは――」

 何度も繰り返した口論、その途中でトリストラムは信じられない光景を目にする。ずっとふさぎ込んでいた少女が、凄絶な笑みを浮かべていたのだ。

「潮目が変わったぞ。ベイリン、トリストラム。私はいずれ大陸に征く。そこに私の遊び相手がいるのだ! この予感は、きっと当たるぞ!」

 彼女の笑みを見て、二人の騎士はなぜ彼女がふさぎ込んでいたのか、その意味を知る。父が、母が、騎士たちがいなくなって、彼女は寂しかったのだ。遊び相手がいなくなったから。自分を受け止めてくれる相手が、いなくなったから。

 いや、もう彼女の眼に彼らへの憧憬はない。

「サー・トリストラム。卿もここを出て行くのだな」

「はっ。かつて陛下より賜った土地を守り、この国の盾と成ろうと思います」

「要らぬ。成るならば敵と成れ」

「は?」

「私は手始めにガルニアを征服する。卿はそうさな、最後の仕上げで喰ろうてやろう。大陸に着く頃に、私は私を完成させる。そのための敵だ」

「……私が姫様の敵になることなど」

「それぐらい出来ねば、私に先はない。卿ら全てを打ち倒し、屈服せしめよう。実に愉快だ。少し前から感じていた予感が、今日、絶対に変わった! 私たちの時代が来るぞ! 今この瞬間、最も強き者がこぼした、からなァ!」

 この少女には何が見えているのか、トリストラムは怖気が走る。大陸のことなど何の情報も入らぬ島である。普通ならば少女の妄言、荒唐無稽な発言だと切り捨てるだけだが、その眼があまりにも騎士王に似ていたのだ。

 幼き日、あの眼を得る前の可能性の獣であった男と、同じ眼をしている。

「このベイリン、生涯お仕えいたします!」

「むう、つまらんな。敵と成れ、敵と」

「出来ませぬ!」

 強い光である。引力があった。ただ其処に在るだけで、様々なものを惹きつける圧倒的なまでの魅力が。眼は騎士王に、髪と雰囲気は戦乙女に、そしてそのスケールは二人を遥かに超えている。夢破れ、堕ちた彼らであっても――

 いや、堕ちた彼らだからこそ、紅蓮の輝きに惹かれてしまうのかもしれない。

「なれば、敵と成りましょう。弓騎士の、全力を以て!」

「うむ、期待しておるぞ!」

 ガルニアにもう一度太陽が昇る。それは吉兆か、凶兆か。

 紅き雰囲気が、昇り立つ。


 そして、ネーデルクス王国星の離宮にて――

「……何故ですか?」

「厭いた」

 金髪碧眼の少年は槍を手放す。指南役を務めていたカリスは顔を歪め、失敗作を見る眼で彼を見つめていた。槍のネーデルクスなのだ。

 神の子として生まれた者が、槍を手放してどうする、と。

 そのために主が用意させた器なのに、まるで言うことを聞かない。何を考えているのかもわからない。それでもカリスは許せなかった。

 それを手放し、捨てたことを。

「カリスは?」

「指南役を、その、降りられました」

「そう。じゃあ、別にいいや」

 神の子は欠伸をする。何故彼があんな棒切れにこだわるのかがわからない。あんなものを振り回して何の意味があるのかが、わからない。

 彼らがこだわるそれはこの先、時代を左右することなどないと言うのに。

「嗚呼、つまらないなぁ。満ち満ちていて、死にたくなる」

 神の子、ルドルフ・レ・ハースブルクはまた欠伸を重ねた。


 そして時代は進み、彼らは立つ。

 白騎士、黒狼、騎士女王、そして、青貴子として。新たなる星、新星たちと巨星が衝突し、世界が揺らぐ。これが歴史の転換期、英雄の時代末期の輝き。

 青貴子以外は皆、新たなる巨星と成った。

 巨星になり損ねた男、期せず二つの時代で一歩足りなかった者同士が雌雄を決した一戦があった。エルマスデグランの攻防、常勝無敗の男と神に愛された男の常軌を逸した戦い。神の子はのちにこう述べる。

 勝った戦の中では、あれが一番ギリギリだった、と。

 次章、青貴子対烈鉄――勝負の綾は、運を超えたところにある。

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