完璧なる戦Ⅻ
屈辱の撤退戦、展開が遅れているエスタード左翼を突破し、そのまま東へ抜けていく目論見であった。当然、エスタード軍の追撃が来る。血みどろの行程となるだろう。誰もがそれを覚悟していた。実際に包囲を抜け出す前は厳しい追撃もあったのだ。陣形はぐちゃぐちゃ、もはや統率の欠片もない。
だからこそ、包囲を抜けてしばらくは気づかなかった。
「……何故だ?」
追撃が、来ないことを。包囲内ではあれだけ苛烈に追い立ててきた連中が包囲の外まで伸びてこない。抜け遅れた者も群れることのないようにバラしながら、あえて抜けさせてやっているようにすら見受けられた。
追撃は野戦を征した者にとってのボーナスステージのようなもの。ここまでの戦運びをした男が、あえてここで手を抜く理由がわからない。
気づいた者は皆、困惑していた。これだけ全体の足並みが乱れた以上、もはや立て直すこと、反転して反撃することもかなわないが――
「……ねえ、アダン、これ、どういうことなのかな?」
「……知らないよ」
戦場の反対側にいた彼らも無事に抜け出すことが出来た。包囲内ではそれなりに厳しい追撃も行われたが、彼らの位置で抜け出せた以上、ほとんどの部隊が抜け切れたと考えて良い。もちろん、この状況でそれを確認する余裕はないが。
「奴らにとっても撤退は意外だったのか? だから、反応が遅れた、か」
ボルトースはこの不自然な状況に何とも言えぬ気分であった。やはりあの場では考え過ぎ、攻め潰すことが出来たのではないかと思えるほど、相手の追撃は鈍い。
鈍過ぎる。
「……いや、初めから、そのつもりだったんだよ、ボルトース」
そんな不自然さを見て、ダルタニアンだけがラロの狙いに気付いていた。相手をあえて逃がす、戦場では考えられない悪手の意味を。
本当に、心の底から怖気が走る。
あれだけの戦術眼を持ちながら、視点は将のそれを遥かに超えているのだから。
○
「……ゼェ、ゼェ、ゼェ」
死屍累々、丹念に鍛えこんだ部下たちも死ぬときはあっさりと死ぬ。長い時間をかけて、同じ釜の飯を食べて、繋がりを深めた者たちの死。
それに心を痛める余裕すらなく、ただ時間を引き延ばし、怪物を押し留めることのみに注力する男、ランベールは布の切れ端で手と槍を固定していた。そうでもしなければとうに失せた握力によって、槍を落としてしまうから。
そんな満身創痍であっても眼だけは死なず、チェを睨み続ける。
「大した粘りよのぉ。意識の内側にある限り、どうにかして捌き切る、という意志が眼からも伝わってくるわい。あと一押し、この小僧共も幾度も思ったことであろう。このわしをして、幾度か勝機を見誤らされてしもうたわ」
豪快に笑うチェ。そして、哀しげな眼で部隊全員の足を止めた。
「時間切れじゃあ。総員、矛を収めよ」
その瞬間、全員が一切の迷いなく武器をしまい、戦闘態勢を解く。
「どういう、つもり、だ?」
肩で息、どころの騒ぎではなく消耗しているランベールであったが、それでも問いかける。ここで武器をしまう理由がわからなかったから。
「業腹ではあるが、此度の戦はラロとピノの仕掛けよ。つまり総大将はカンペアドールの格付けに関わらず、今音頭を取っておる者、と言うことじゃ」
「それと、武器をしまう、理由が、結びつかねえ、けどな」
「周りを見てみよ。誰も、追っておらぬ」
「……そんな、馬鹿な? なんでだ?」
「海戦と同じ、それだけ言えば、貴様ならば理解できよう」
チェは、問答は終わりとばかりに部下たちに撤退の指示を出す。
「……海戦と同じって、じゃあ、なんだ? 初めからウジェーヌ様の、将の名誉を傷つけるために戦いを仕掛けたってのかよ⁉ そんなバカげた話があるか? それであんたは納得できるのかよ! あの領域を抜けてきたんだ、あんたの部下だって大勢死んだはずだ。無傷で通り抜けられる道じゃない!」
「戦場で死ねたのであれば、本望じゃろうがよ」
「その戦場が茶番だって話だろうが!」
ランベールは飲み込むことが出来ない。恩師が、王の左腕が、大勢が死んだのだ。それなのに、こんな結末では誰も納得できはしないだろう。
そんなランベールを見て、
「……笑えるほど真っ直ぐじゃのお」
チェは微笑む。
「かつて、ネーデルクスという大国があった。文武に長け、わしらも幾度となく敗北を味わった。あの頃、虎につけられた傷が自慢であったわ。遠い、過去じゃがの。だが、ネーデルクスは凋落した。今は見るに堪えぬ醜態をさらしておる。その理由はのぉ、名誉や地位に拘泥し、本質を見失ったからじゃ」
「何の、話だ?」
「一つは才人の子が才人とは限らぬことよ。家を重んずるがあまり、才無き者に地位や力が与えられてしもうた。これはの、四半世紀もすれば代替わりしてしまう人の弱さにある。劣化せざるを得ん、人ののぉ」
「それを、くく、お前らカンペアドールが言うかよ」
「わしらはカンペアドールの血統の中で競争しておるからな。縁者だけで街が出来るほどよ。そうでなくとも『烈日』に権力が集中する軍事政権、力こそ正義のシンプルな構造じゃ。一族でなくとも強ければ上がる。まあ、腑抜け揃いのエスタードにカンペアドール以上の才は中々現れぬが……。そして、時にこの単純さは強さになる。あらゆる判断、選択、決断、その速度が跳ね上がるからのぉ」
ガリアスの、大国の弱さ。それをチェが指摘する。
そして――
「まだわからぬか? あの小僧の思考は単純明快、強きを削ぎ、弱きを膨らませる、じゃ。此度削いだのは誰ぞ? 此度膨らむのは誰ぞ? 大将首だけ取られ、振り返ってみれば大きな損害もない。それで削がれ膨らむは、なんぞ?」
ようやく、チェの言葉をランベールは理解する。今回の件で、武官は必ず叩かれる。退却した時点でそれは必定。だが、ここで満身創痍であれば非難も最小限で済むはずなのだ。ボロボロの国の盾に対してそれに守られる者が強く口出しは出来ない。されど、ほぼ無傷であれば話は別。彼らは強く自分たちを責めるだろう。
そして、勘違いする。ガリアスは勝てたのだと。
「これが、ラロ・シド・カンペアドール、か」
この見逃しで、間違いなくガリアスの腐敗は進む。優秀な者を取り除くよりも、おそらくは早く腐食の速度は跳ね上がるだろう。
「わしは貴様を生かす。このわしの剛力相手にここまで粘った者はそうおらん。その粘り強さに、あえて自分が泥を被る真っ直ぐさに免じ、手を引く。ラロの目算では、おそらく貴様を除いて音頭を取っていた小僧の名に傷をつける、が最上なのであろうが、すべてあやつの思い通りというのも癪であろうがよ」
愕然とするランベールに背を向け、
「最後に忠告であるがの、わし相手にここまで渡り合った貴様であっても、ラロのような手合いには気を付けるが良い。意識の内にあれば貴様は対応できるのであろうが、あれは意識の外を突く。戦術も、個の武も、同じじゃあ」
颯爽と部隊を率い去っていった。残されたランベールは、ただ敗北感に苛まれる。全てに置いて上回られた、おそらく自分では生涯届かない雲の上の男に。
才の無い自分でここまで来られた。だが、ここ止まりなのだ。ここから先に必要なのは才能。自らを凡夫と称する男は痛感する。
恩師がセヴランに夢を見た理由、今になってようやくランベールも理解した。彼もきっとどこかで知ったのだ。自分では届かぬ、この絶望的なまでの開きを。
「あああああああああああああああああああ!」
叫んでも叫んでも、拭えぬ敗北感を――
○
ガリアスに戻った彼らに待っていたのは凄まじいバッシングであった。何故、カミーユの敵を討たなかったのか。何故、こんな損耗で撤退したのか。若過ぎる彼らには荷が重かった、もっと百将には重鎮を入れるべき、など言われ放題。
世の中は結果がすべて。特に現場とそれ以外では見え方が違い過ぎる。ガイウス、サロモンは当然理解しているが、それでも結果に対して何もしないわけにはいかなかった。主要な将の降格及び、撤退の判断を下したランベールから王の左右を取り上げ、別の者につかせることにもなってしまった。まあ、その別の者はサロモンの差配によってオストベルグ方面を担当させられ、『黒金』の餌食となるのだが――
この一戦でガリアスは玉の世代に足踏みさせてしまうことになる。
全てはラロの掌の上。結果として見ると王の左腕が討たれたこと以外、大きな痛手もなく戦史としてもカミーユの死のみが描かれるだけの一戦であった。
だが、ガリアスに与えた影響からすると、後の白騎士による侵略に勝るとも劣らぬ大きさであったと、この戦を経験した者は語る。
○
ラロは皆が寝静まった頃、一人野営地を抜け出し夜空を眺めていた。
見つめる方角は北東である。先の戦いは少しだけあの麒麟児を彷彿とさせた。会ったこともない、戦ったこともない相手である。それでも彼は確信していた。きっと、彼ほど戦が噛み合う者もいないと。
「君なら俺にどう返した?」
幾度も夢想した。ストラクレスとベルガーを追い詰めた速攻を。ガリアスが見せたあの煌めきを。だが、所詮あれは手早く片付けてしまうためのハメ手でしかない。あれの致命的な欠陥は、まさに今回の戦が示した通りすぐさま勝負を決さねば、抜き去った相手によって包囲が成されてしまうところにある。
ディレイ、一歩下がり底を深めるだけで早仕掛けは死ぬ。もちろんただ下がるではなく、多少の備えは必要であるが。これはストラチェスでもそう、早仕掛けは一手備えるだけで大概効力を失うものなのだ。
それが道理。結局、真に強いのは王道の攻め。地力を埋める奇策頼りは理合いを解す者にとっては脆い。対策さえしてしまえば大体は潰せる。それが戦術というもの、必殺はないし、何かを得れば必ず何かを失うもの。
ゆえにラロは確信する。
彼が自分と戦う時、早い仕掛けは絶対にしてこない、と。どんな戦術を構築するか、過去から掘り起こすか、今の流行をブラッシュアップするか、それを考えるだけで胸が躍る。麒麟児の本領、それを引き出せるのは自分しかいないのだ。
「必ず出会うさ。この時代に、俺と君が生まれたのだ。これを運命と言わずして何と言う。すぐに君を引き出して見せよう。今回はその、序曲に過ぎない」
大陸を戦火に沈めた先、そこにこそ二人の邂逅はあるのだ。
○
ヤンは何となく西南の空を見つめていた。戦場を模した遊戯、途中で止めてしばらく放置していたのだが、何となく指し続ける気になったのだ。
まるで自分の戦いを模したかのような早い仕掛け、それを鋭く捌く姿は世の誰も知らない。何故ならヤンの戦術を解し、対応策を打ってくる相手が今までいなかったから。自分しか知り得ぬ、自分を相手にしたヤン・フォン・ゼークト。
当たり前のように王を一歩、下がらせる。これで早い仕掛けが効力を失う。しかし、自分ならばここからこう繋げる。攻める筋を切り替え、抜けるはずだった駒を切り捨て新たなる攻め口を切り開く。だが、守る自分はそれを許さずに咎める。
そこには、もはや男が失ったはずの熱が僅かに残っていた。鋭い攻めと同じような鋭い守り。自分相手でのみ出す意味を持つ本領が其処に在った。
だが、ふと、守る自分にノイズが入り込む。かつて一度だけ、他人に対して驚き興味を持ったことがあった。自分とは異なる感性で戦術を繰る男。自分の守りよりも、優れているのではないかと思った、同世代の傑物。
彼ならばきっと――
「……馬鹿らしい」
結局、ヤンは思いついた手を指すこともせず、それに対する攻め手を指すこともなく盤面を崩した。今更自分に何が出来る。
そもそも彼と自分が戦うことなどありえない。間に大国があり、自分はもう戦場になど戻れぬ身。そんなものに熱を持つなど、馬鹿げている。
そう、麒麟児であった男は思い、嗤う。
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