【龍女】

第1話 秋深い夜


 鈴虫が鳴く、秋深い夜。肌を撫でる清涼の風はとても冷たくて、玉鈴は布の上から腕を擦った。


「寒いですか?」


 前方を歩く義遜が目敏めざとく気付き、足を止める。


「ええ」

「昔から寒いのは苦手でしたね」


 義遜は昔を懐かしむように両目を細めた。


「覚えていますか? 王太后——いえ、木蘭様が真冬に宴を開いた時、貴方は震えてそれどころではなかった」

「僕を呼んだのは昔話をするためですか?」


 このまま昔話になりそうなので玉鈴は鋭い声で制した。

 義遜はわざとらしく肩を持ち上げる。


「友に会えて浮かれる気持ちはわかりませんか?」

「友ではありませんし、その気持ちも理解できません」


 早口で吐き捨てると玉鈴は薄暗い道を歩いて行く。

 手提げ灯籠とうろうを持つのは義遜だけなので途中、石の段差に気付かずつまずきそうになった。


「おや危ない」


 義遜はくすくすと笑うと前に進みでた。


「片目を隠しているから見えにくいんです」


 苛立ちを隠さず、玉鈴は右目を覆う包帯を摩った。


「見えていても転ぶくせに」

「そう思うのなら最初からきちんと道案内してください」


 二人そろって小道を歩いていくと朱塗りの殿舎が見えた。夜も深いのに軒下に下げられた灯籠には全て火が灯されて、皓々こうこうと輝いている。

 義遜は慣れた足取りで門を潜り抜けたので、玉鈴も後を追う。が、門を守る二人の兵士によって進行はさまたげられた。


鹿ろく丞相、申し訳ありませんが誰も通すなと亜王様から命じられております」


 向かって右側にいた兵士が申し訳なさそうに言った。

 玉鈴は現在、緑色の官服に身を纏っていた。宦官の中で最も低い身分が着る色だ。

 兵士達は丞相が連れてきても通せないと再度、警告する。


「彼は柳貴妃様の宦官です。亜王様の許可を得て、連れてきました」


 義遜の言葉に、二人は慌てて揖礼ゆうれいした。


「失礼します」


 軽く会釈えしゃくすると二人の間を通り抜け、義遜の後を追う。

 手入れの行き届いた回廊を歩き、行き止まりを右に曲がる。一番最初に見えた扉の前で義遜は足を止めた。


「ここ、ですか」

「ええ。中で明鳳様がお待ちです」


 扉を開き、中に入ると強烈な香の臭いが二人を包み込んだ。

 鼻が曲がってしまいそうな異臭に、玉鈴は「うっ」と呻き、袖で鼻を覆う。少しでも臭いを薄くしようとしての行動だったが窓が全て閉められた房室は空気が篭り、香が充満しているため効果は薄い。これが血や肉が腐る臭いならまだ耐性はあったが、香は得意ではない玉鈴は顔を顰めた。

 室内に充満する香は悪鬼除けのためにかれていた。古より、高貴な身分の者が亡くなると遺体を埋葬するまでの間、魂が抜けた身体を悪鬼とよばれる妖魔の一種に乗っ取られないために、悪鬼が嫌う香を焚きしめるのだ。

 香の臭いに慣れているのか、それとも鼻が機能していないのか義遜は平然とした面持ちで奥へと中に入っていく。

 その後を玉鈴も浅く呼吸をしながら後をついて行った。

 房室は薄暗かった。明かりは臥台の左右に設置された燭台と、義遜が持つ灯籠のみ。朧気な光景の中、一人の影が揺らめいた。


「遅いぞ」


 近づく足音と共に、明鳳が姿を表す。この臭いに耐えているのか普段より気難しそうな表情をしていた。


「お待たせしました」

「すぐ視てくれ」

「どちらにいらっしゃるのでしょうか?」

「こっちだ」


 明鳳は顎で「来い」と命じた。

 玉鈴が促されるままに臥台へと近づくと義遜が灯籠とうろうを掲げ、臥台を照らした。


「彼女は……」


 その姿を視界に入れた玉鈴の顔からは、さっと血の気が消えた。

 臥台の上で横になるのは一人の女人。歳の頃は二十になるかならないかほどの小柄な女性だ。

 とても穏やかな表情で、一見すると眠っているようにも見えるが、白を通り越して青くなった皮膚と土色の唇から彼女が死者であることを悟る。


明凛めいりん宝林ほうりんの位を与えられた妃です」


 ——ええ、知っています。


 玉鈴は心の中で答えた。


 ——だって、彼女は。


「そして、彼女が貴方に嫌がらせを行った首謀者でもあります」


 淡々と紡がれた義遜の言葉に、玉鈴はぐっと奥歯を噛み締める。


「貴方をお呼びしたのは聞きたいことがあるからです」


 玉鈴は無言で頷いた。

 その隣に立つ明鳳は何やら考え込んでいる。眉間に刻まれた皺は義遜が話せば話すほど深くなる。何やら納得がいかない様子だ。

 難しい表情の二人とは打って変わり、義遜はいつもの場違いな笑みを浮かべていた。



「華宝林付きの侍女が『主人を殺したのは柳貴妃様だ』と証言しています。殺しました?」



 義遜はこの状況を楽しんでいる。長年の付き合いから目の前の胡散臭い男の心情を察した玉鈴はふつふつと湧いてくる苛立ちと怒りを自覚した。

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