第2話 水中に揺蕩う
その場を支配するのは耳が痛くなるほどの静寂だった。あんなに煩かった虫の声も、風の
その中で玉鈴と義遜はただ無言で見つめ合っていた。
否、玉鈴は睨みつけていた。普段は穏和な眼差しも、今は相手を射殺してしまいそうなほど冷淡な目をしている。
「やめろ」
二人が睨み合いを続ける中、明鳳がうんざりだと声を上げた。
「心にないことを口に出すな」
「ただの冗談ですよ。彼ではないことは知っています」
「言っていい冗談ではないぞ」
明鳳に窘められ、義遜は心外そうな表情を浮かべる。
「それは申し訳ございません。では、冗談はここまでにして本題に入りましょうか」
義遜は臥台で眠る佳人へ視線を向けた。
「三日前の夜半、夜警を担当していた宦官と宮女が池に浮かぶ華宝林妃を発見しました。しかし、助けた時にはもうお亡くなりになっていたため、ご遺体はすぐさま太医署へ送られ、検死官によって検死が行われました」
太医署は医を扱う部署だ。医療を
「死因はなんでしょうか」
「毒です。呼吸困難を引き起こしたようで喉や胸には複数の掻き傷があります」
ふやけた面で気づかなかったが確かに襟から覗く肌には爪で引っ掻いたような痕があった。
「夕餉に出された
「……そうですか」
よくある話だ、と玉鈴は思った。閉鎖的な後宮で毒殺はよくある手段だ。特にこだわりがなければ毒の入手は比較的簡単で、事件が発覚しても足がつきにくいことからよく好まれている。現に自分が後宮入りして十数年が経つがその間に毒殺された妃嬪は両手の指では足りないぐらいだろう。
「それで彼女の侍女が僕を犯人だと言っているのですね」
事実無根な言いがかりだ。顔は知っているが華宝林とは直接言葉を交わしたこともない。自分に彼女を殺す道理もない。
「お前は毒殺なんかしない」
強い声で明鳳は言った。
玉鈴は驚いて明鳳を見た。夜空の瞳は真っ直ぐと自分を見つめている。嘘偽りなく、自分が犯人ではない、と信じている目だ。
信じてくれる人がいることに、玉鈴は喜びを噛み締めた。
しかし、その喜びは次の明鳳の言葉に粉々に砕け散る。
「呪殺ならともかく、毒なんて手がこむようなことお前はしないだろう」
目は先ほどと同様、輝いている。その言葉も本心からだというのは一年未満の付き合いでも玉鈴には分かった。
「……信用してくださり、ありがとうございます」
引き攣る笑顔で玉鈴は感謝の言葉を述べた。本心を言えば嫌味の一つでも言ってやりたい気持ちだが純真無垢な眼差しには毒気も抜かれる。
「……義遜様」
「はい」
「笑っているでしょう?」
「ふっ、……そんなこと、ありませんよ」
震える声で否定するが義遜は明らかに嘘をついていた。玉鈴が睨みつけると慌ててそっぽを向く。
二人のやり取りを不思議に見つめながら明鳳は「こいつを呼び出せ」と命じた。
「彼女を、ですか」
つまり、幽鬼となった華宝林と対話をするため玉鈴を呼んだらしい。玉鈴は金眼を隠す包帯を解くと周囲を見渡し「それは無理です」と首を左右に振った。
「なぜだ」
「この場にいない方を呼び出すことはできません」
「いないだと?」
「はい。彼女がここにいないからです」
幽鬼には種類がある。大まかに分けると自身が亡くなったことを理解しておらず、生前と変わらない生活を送る者と土地や人物への未練から縛られた者の二つに分けられる。
見たところ室内に華宝林の幽鬼はいない。毒によって苦しみ亡くなったのならばよほどの図太い神経の持ち主以外は死んだことに気づくはず。
「彼女が亡くなった場所へ案内をお願いします」
***
発見現場を荒らされないように
「華宝林妃が発見された場所はあそこです」
義遜が池の中心を指差した。紅葉が浮かぶ水面は風が吹けば幾重にも波紋を作り、消えていくのが見える。その中で、華宝林は溺死したらしい。
「華宝林はいるのか?」
明鳳の言葉に、玉鈴は頷くと迷いなく池の中へ入っていった。
「お、おい! なにをしている!!」
「なにって池に入っています」
思ったより池は深かった。少し足を進めるだけで胸元まで浸かってしまう。背後で明鳳が「溺れ死ぬぞ!」と喚いているのを聞きながら玉鈴が中央を目指した。
底を覆う沼に足を取られながらも中央にたどり着いた玉鈴は池の底を見下ろした。
「ここにいたんですね」
池の奥底を覆うのは黒髪。水が波打つたびに水中で揺めく。その中から覗くのは一対の目。虚空だけを写す瞳は玉鈴の姿を捉えるがそこに正気はない。
「ここは寒いですよ」
玉鈴は華宝林に優しく話しかけた。腕を掴もうとしても幽鬼に触れることができないため、指先は水を掻くだけだ。
「一緒に行きませんか?」
それにも華宝林は答えない。
「……また、来ますね」
これ以上、話しかけても無駄だと悟り、玉鈴は池のへりで待つ二人の元へ向かった。
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