第4話 懐かしい味


 杯を満たす液体は薄紅色に色付いている。一口、口に含めば舌の上に甘酸っぱく、爽やかな香りが広がった。苺より酸味が強く、味に癖があるこれはどこかで味わったことがあるような。

 杯に残った酒を見つめながら玉鈴は過去の記憶と照らし合わせた。後宮にあがってからではなく、もっと昔、かつて住んでいた村で家族と一緒に。確か薄紅色の液体ではなく、もっと色鮮やかな赤だった気がする。

 玉鈴は目を伏せて真剣に考え込む。その様子を向かいに座る木蘭は目尻を緩めて見守った。玉鈴の答えを待っているらしく、決して自分から答えることはない。


「……木苺ですか」


 ややあって玉鈴はぱっと顔を持ち上げた。


「正解よ。よく分かったわね」

「小さい頃、よく食べてました。でも木苺のお酒なんて売っているんですね」


 嬉しそうに頬を綻ばせる。大酒飲みが多い亜国では酒は米や芋を発酵させたものが主流でこのような度数の低い果物酒は「邪道だ」と好まれない。そのため果実酒はあまり市場に出回らないので存在は知っていたが口にすることが初めてな玉鈴はまじまじと液体を見つめた。

 懐かしい味をもう一度味わいたくて杯をあおる。


「前にね、西域から訪れた商人から買い取ったのよ。お前が好きな味だと思ってね。美味しい?」


 西域の商人という言葉に玉鈴は動きを止めた。亜国を中継地として入国する商人は多い。彼らは大量の伝統品や酒、食べ物を運び、亜国国内や別の国で売買をする。

 そこまではいい。問題はその金額だ。

 彼らは大量の商品を運ぶため砂漠を越え、時には山を、海を越えてくる。それゆえ、商品の金額は笑えないぐらい高価でやり取りされた。ほとんどが亜国市場の三から五倍程度の金額だが酒類は種類によって十倍を越えた。

 買い取ったというこの酒の金額を考えていると木蘭はむすっと頬を膨らませる。


「お前はお金なんて気にしなくていいのよ。亜国に貢献した実践があるもの。湯水のように使っても誰も文句は言わないわ」

「さすがにこれ以上、国庫から出して貰うわけにはいきません」


 地方の豪族や貴族の出である妃嬪と違い、玉鈴に生家はない。田舎出身であり身一つで国に献上されたため、後宮入りの際にかかるはずだった嫁入り道具や衣装は全て先王の好意で国庫から賄われた。

 そのため生活を維持するために必要な額以上、国から出して貰うのは良心が痛む。


「お前がそう言うから襦裙や装飾品は全て私のお下がりになるのよ。新しい物を買っても誰も文句なんて言わないのに」

「着れればなんでもいいです」

「本当に洒落っけがないわ。——で、味は?」

「……とても美味しいです。これなら呑めます」

「たくさん呑みなさい。いっぱい買ったから」

「いっぱいですか」


 木蘭の言うとは予想した量よりはるかに多い事は経験している。恐らくだが件の商人から全ての在庫を購入したのだろう。

 浪費家ではないが自分に対して財布の紐が緩い木蘭をじっと見つめた。

 木蘭は杯に酒を注ぎ、ぐいっと喉奥へと流し込んだ。度数の高い亜国の酒も彼女にかかれば水と同様だ。


「それが無くなるまで付き合ってね」

「呑むのは僕だけですか。呑みきれますかね」

「なにも一日で呑むわけではないのよ。聞けば亜国の気候なら半年は持つらしいから一週間後、一カ月後でもいいわ。また呑みましょう」


 木蘭は杯を掲げた。


「貴方と呑むのはとても楽しいわ。次は丞相も誘いましょうね」


 玉鈴も同様に杯を掲げる。


「付き合いますよ。貴女の気が済むまで」


 カツンと杯をかつける音が雨音に紛れ、客房に響いた。




 ***




 度数が低い果実酒といえど酔うものは酔う。特に下戸代表の玉鈴は三杯で程よく酔いが回り始めたらしく卓に突っ伏した。意識はきちんとあるようで心配そうな水蝶の問いかけには「大丈夫です」とやや呂律が回らない口調で答えている。


「疲れているの? 酔うのが早いわよ」


 つんつんと頭を突くが玉鈴は反応を示さない。いつもなら「やめてください」と嫌がるのに。


「ねえ、水蝶。お水を持ってきて頂戴」

「はい、すぐに」


 水蝶は急いで厨房に向かった。


「大丈夫?」

「……ええ」

「疲れてた?」

「少し」


 それが明鳳が原因であると知っている木蘭は気まずそうに両目を伏せた。


「ごめんなさいね。厄介ごとを押し付けてしまって」


 静かに謝罪すると玉鈴は体を揺らし、ゆっくりした動作で上半身を持ち上げた。乱れた髪を手櫛で簡単に整えながら、ふっと小さく微笑む。


「僕に言いたいことはそれだけですか?」


 金眼が細められる。心の内を見透かされ、木蘭はもごもごと口を動かした。


「……明鳳あの子に名を告げてはいないのね」


 どうしても聴きたかったことだった。玉鈴が息子のために力を貸すと決めたことは丞相から聞いている。本名を告げてはいないことも聞いた。それが木蘭の中で引っかかっていた。玉鈴は本当は明鳳に力を貸したくないのではないか、と。


「告げていますよ」


 にっこり笑って玉鈴は答えた。


「本当の名のことよ」

「僕の名は柳玉鈴です。貴妃として後宮にいる間は、あの方から賜ったこの名が本当の名前です」

「それじゃあ、貴妃ではなくなったら本当の名を告げるの?」


 その問いに玉鈴は悩む仕草を見せる。


「『柳玉鈴』でなくなった時、僕は不要の存在でしょう。そうなれば亜王様は僕なんかに見向きもしなくなります」


 至って冷静に述べられた言葉に木蘭は手に持つ杯を落とした。運よく割れなかったようで杯は卓の上を転がる。


「なんか、ではないわ。お前が不要だというのなら明鳳の時代は終わるって事だもの」

「僕は紛い物です。彼の龍は僕ではありません。どんなに願おうとも紛い物は本物にはなれません」

「もうっ、お前は本当に昔っからそればっかりね。お前はれっきとした龍の子よ。胸を張りなさい」

「力も不十分。術の覚えも悪い龍は今まで存在しませんでした」


 でも、と続ける。


「きちんと仕事はします。木蘭様が心配していることって、僕が力を貸すかどうかですよね」


 酔いのせいか普段より饒舌じょうぜつな玉鈴はころころと笑った。


「ああ、おかしい。木蘭様が深刻な顔をするから何かと思えば、そんな心配するなんて」

「親友と息子のことですもの。心配するわ」

「心配しなくても大丈夫ですよ。高舜様と約束しましたから」

「……もし、もしもよ。本物が見付かったらどうするの?」


 木蘭は玉鈴が本物であると思っている。けれど、当の本人は自分は違う偽物だと言う。まるで本物が見つかるまでの代理品のような言い方をする。

 木蘭が危惧きぐしているのはいつか玉鈴がいなくなってしまうのではないかという未来だった。もし、本物が現れれば猫のように彼は音もなく身を引くだろう。

 違うと言って欲しいが玉鈴の口から出たのは木蘭が望んでいない言葉だった。


「旅に出るのもいいですね」


 ふう、と木蘭は息を吐き出す。分かっていたはずだ。彼の考えなんて。だから高舜と共に逃げないように明鳳を押しつけた。負担になっていると知っても無言でいなくなって欲しくなかった。


「あら素敵ね。私は西域に行きたいわ」


 心のうちで彼が信じている本物に毒付きながら木蘭はいつものように笑う。


「さすがに木蘭様を連れていくのはできませんよ」

「堅苦しいのよ。ここは。水蝶なんて昔は『木蘭様』って呼んでくれたのに王太后になった途端、娘子って言うのよ」

「立場というものがありますからね」

「私は彼に愛されたかっただけで王太后の座なんて求めてなかったのに」


 暗くなった気持ちを一変するため、パンっと頬を叩く。


「この話は終わり!」

「木蘭様から振ったんでしょう」

「こんなに暗くなるなんて思わなかったの」


 転がった杯を手に取り、酒を注ぎ、またあおぐ。落ち込むなんて自分らしくないと酒とともに陰鬱な気持ちを喉奥へと流し込んだ。

 空気を変えるため「豹嘉と新人さんはいつくるのかしら」と無理矢理、話を変える。

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