第3話 鬼木蘭


「それでここに連れてきたのね」


 なにが面白いのか鬼木蘭は華やかな笑声をあげた。端に控える王太后付きの侍女がいさめるように視線を鋭くさせるが気にも留めない。

 あまりにも笑われるものだから玉鈴は不思議そうに小首を傾げた。


「こいつは楽観的だからな」


 明鳳は呆れた風に肩を持ち上げた。


「とりあえず、三日程でいいから匿ってくれ」


 愛息子の言葉に木蘭はすぐさま頷く。


「全然いいわよ。それにしても、ねえ、玉鈴。お前が私の宮に泊まるなんて初めてではなくて?」

「そうですね。いつもは木蘭様が蒼鳴宮にお越しなりますから」

「嬉しいわ。お前はとても素っ気ないもの」


 悲しげに眉根を寄せ、頬に手を当てると木蘭は「悲しいわ」と呟いた。


「もっと遊びにきてくれてもいいのに」

「貴女も今は多忙の身。僕も忙しい日々が続くので昔のようにはいきません」

「そうなのよ」


 木蘭はちらり、と明鳳を見た。


「誰かさんが仕事を丞相に押し付けず、きちんと真面目に取り組んでくれればねぇ。もっとお話ししたりできるのに」

「お、俺だって最近は亜王としてきちんと仕事しているぞ!」


 思いもしない母からの口撃に明鳳は慌てふためいた。

 口では「きちんと仕事をしている」と言っているがそれでも三日に一度はサボっているのを知っている二人は顔を見合わせる。


「高舜様は一度もサボったりはしませんでしたよ」

「あの人は真面目だからねぇ。お前と違って」

「お前達は俺を揶揄からかって楽しいのか?!」

「お、ま、え?」


 しまった。口が滑ってしまった。明鳳は両手で口を抑えるが出てしまった言葉を撤回することはできない。激しく視線を左右に彷徨わせる。


「ねえ、誰に向かってと言ったの?」


 木蘭はにっこりと微笑んだ。しかし、それは嬉しい事があったからではない。怒りからの行動であると理解している明鳳は冷や汗をかく。

 隣に座る玉鈴の袖を引っ張って助けを求めるが、玉鈴は「頑張って下さい」と小声で囁やくだけで気にもかける仕草すら微塵も見せない。

 目の前で椅子に座る木蘭は笑顔のまま立ち上がる。侍女達の制止を無視して明鳳の前にくると勢いよく息子の左耳を引っ張った。


「いだだだだ!!」


 キリキリとした痛みが走る。耳がちぎれるのではないかという激痛の中、明鳳は柳貴妃へと手を伸ばす。


「おい、柳貴妃、止めてくれ!」


 この怒りっぽくてすぐ手が出る母を止められるのは旧知である玉鈴しかいない。そう思っての行動だったが玉鈴はふるふると首を振った。


「僕では力不足です」

「薄情者!」


 王太后の宮に明鳳の悲痛な叫びが響いた。




 ***




 ——しとしとと、雨が降っている。


 今朝は快晴だったのに天気というものはとても変わりやすい。空を灰色の雲が覆ったと思ったら次の瞬間には大粒の雨粒が地上を叩きつけていた。

 雨粒は激しく降ったと思ったら、急に弱くなる。このまま止むのではと思った時にはまたザーザーと勢いを増す。その様子が面白くて木蘭から与えられた客房きゃくしつで榻に座りながら玉鈴は格子窓の外を眺めていた。外に広がるのは木蘭自慢の薔薇の庭園である。


「早く、帰りたいなぁ」


 雨雫が花弁を濡らすのを見ながら無意識のうちに玉鈴は呟いた。

 木蘭のことは嫌いではないが、いかんせん、気楽にできないのが辛い。男だが立場上、上級妃の地位を与えられている身。他人——それも王太后——の宮ではいつものように昼寝をしたり、ぼうっとすることができない。

 それに、「木蘭様にお会いするのにその格好で行くんですか!」と豹嘉によって着せられたころももキツい。相手は気心知れる木蘭のためいつもの軽めの装いで十分だと言ったが主人をめかし込むのが大好きな侍女は聞く耳を持たなかった。新しく侍女になった翠嵐を巻き込んで「この色がいいです」だの「この帯を合わせましょう」だの楽しそうに話し込んでいた。可愛い侍女達の嬉しそうな様子に玉鈴は強く言えず、結局、二人に押し切られ水色の襦裙に身を包んだ。

 玉鈴はふう、と息を吐き出した。いつもよりキツく締められた帯のせいで腹を圧迫されて呼吸もし辛い。誰も見てはいないので帯を少し緩めようと指をかけた時、誰かが扉を叩いた。

 すぐさま帯に触れる指を離して、玉鈴は背筋を伸ばす。木蘭は自分の性別と性格を理解しているが彼女付きの侍女は知らない者が多いので億劫だが貴妃らしくする。


「……どうぞ」


 自前の羽扇うせんで口元を隠し、入室の許可を出すと木蘭付きの侍女頭である水蝶すいちょううやうやしい態度で入ってきた。

 訪れたのは水蝶一人だと知り、玉鈴は肩の力を抜く。長年木蘭に仕えた彼女は忠誠心の塊のような女性であり、口も固い。自分の性別を知っている理解者の一人だ。


「失礼致します。柳貴妃様におかれましてはご機嫌麗しゅう御座います」

「面を上げてください。この度は急に押し掛けてしまってご迷惑をおかけしました」

「迷惑だなんて、龍の子である貴女様に仕えることが私達の幸せです」


 水蝶は優雅に微笑する。まるでそれが本心のように。

 その微笑みに、玉鈴は居たたまれなさを感じた。自分はそのような高尚な存在ではない。中途半端な、紛い物だ。それなのに水蝶は真っ直ぐな、真摯な眼差しで己を見る。

 その視線から逃れるように玉鈴は口を開く。


「それで、僕になにかご用でしょうか?」

「王太后陛下が——」


 その先の言葉は続かない。


「会いに来たわよ」


 扉から木蘭が顔を覗かせ、手を振ったからだ。


「ああ、木蘭様」


 なんとなくいつか押し寄せてくるな、と予想していた玉鈴は手を振り返す。


娘子じょうし


 主人の登場に水蝶は目尻を吊り上げると腕を組み、手を振り続ける木蘭に近付く。鬼の形相となった侍女が近付いてきたのを見て、木蘭は心底嫌そうに顔を歪めた。


「王太后ともあろうお方が遣いの帰りも待たずに貴妃様にお会いするのはどうかと思います」

「あら、水蝶。私と玉鈴の仲よ。これぐらい、いいじゃない」

「ですが立場というものがございます」

「お前は本当にお固いわねぇ」

「娘子に使える立場ですので」


 水蝶は腕を解くと今度は腰に当てて上半身を前へ傾ける。


「いいですかっ! 柳貴妃様は龍の子、娘子がご友人で王太后といえど根本的な立場が違います。長年の付き合いだというのは私も知っていますが立場をご理解なさって適切な……って聞いているんですか!!」


 水蝶の剣幕に若干引きながら木蘭は片手でシッシッと空中を払う仕草をする。


「はいはい。お固いことはもう言わないでいいわ。玉鈴相手なんだもの」

「相手なんだもの、ではございません!!」

「あら? それなら、お前はその柳貴妃の前で王太后を叱りつけているということになるわねぇ」


 意地悪く、木蘭はにやりと笑う。

 木蘭の指摘に水蝶は顔を硬らせた。旧知の仲といえ、妃嬪の前で主人を侍女が叱責するなどあってはならない行為だ。


「申し訳ございませんっ!!」

「あ、いえ、僕は大丈夫ですから……」


 急に頭を下げられて傍観に徹していた玉鈴はびくりと肩を跳ねさせた。


「僕は気にしていませんから。木蘭様も水蝶様を揶揄からかわないであげてください」

「さすが玉鈴。懐が広いわ」


 袖で口元を隠して、ふふっと蠱惑的に笑い、水蝶に目配せをする。


「ねぇ、を持ってきてちょうだい」


 、という言葉に水蝶は「……すぐに」と答えた。


「お願いね」


 頼まれた物を取りに水蝶が退室したのを見届けて、木蘭は玉鈴の右隣に腰を下ろす。


「玉鈴」


 にんまりと紅が彩る唇が持ち上がり、もう一度、「ねえ、玉鈴」と言葉を紡ぐ。


「……なんですか」


 嫌な予感がする。昔から彼女がこう笑う時はろくな事がない。玉鈴は羽扇で引きつる唇を隠そうとするが木蘭によってその行動を制止された。


「分かっているでしょう?」


 玉鈴の右腕を掴む手が今度はするりと二の腕に絡み付く。豊かな膨らみが無遠慮に押し付けられ、玉鈴は眉をひそめた。


「いえ、分かりません。僕はそろそろ眠ろうと思いますので失礼します」


 早口で辞退を申し出る。

 しかし、これで納得するほど哀れみ深い性格を持ち合わせていない彼女は「えー」と不満を唱えた。


「呑みましょうよ」


 酒豪の彼女らしい言葉だった。嫌な予感が当たっていた玉鈴は頭を左右に振って、二の腕に絡みつく手から逃れようとする。爪飾が輝く手を掴み、剥がそうとするが握力共に腕力まで木蘭の方が上らしくビクともしない。それどころか離さないとより一層、力が籠る。

 肩を掴んで押し返そうとしても、立ち上がって逃げようとするが木蘭は難なく拘束を続けた。


「お断りします。寝ます」

「せっかくいいお酒を用意したというのに悲しいわ」

「僕はお酒が得意ではありませんので楽しくはないと思いますよ」

「あらぁ、潰れた玉鈴を眺めるのは楽しいわよ」

「本当にいい性格をしてますね」

「ふふ、お褒めに預かり光栄よ」


 しばしの格闘の末、諦めたのは玉鈴の方だった。腰を下ろし、はーはーと肩で息をして、二の腕の拘束を甘受する。

 思えば昔から木蘭の意見に逆らえたことはなかった。どんなに逆らって、嫌だと言っても最終的には木蘭の思いのままになっていた。明鳳の世話役のように。ならば、酒の席にも付き合うほかないだろう。

 息も整い初めた時、酒を取りに行った水蝶が戻ってきた。

 衣服を乱し、やや困憊こんぱいする玉鈴を見て、現状を悟ったのか申し訳なさそうな顔をしながらも手にした膳を卓の上に乗せた。

 目的な物が無事届いた木蘭はぱっと笑顔を浮かべた。


「よし、では呑みましょう」

「……お供します」

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