第1話 雀の鳴き声


 ちゅんちゅん、と可愛らしい雀の鳴き声に誘われて柳玉鈴は眠りから目覚めた。

 ゆっくりと目蓋を持ち上げると窓から差し込む朝日が目に染み、二度、三度瞬きをする。その時、ふと鉄が錆びた臭いが鼻をつき、眉間に皺を寄せた。愛用する香とはかけ離れた異臭である。なぜ臥室じしつにこのような異臭が漂っているのか不思議に思いながら臥台しんだいから身体を起こした時、目に一番に入ったのは真っ赤にそまる寝具と血の池の真ん中で自分を忌々しそうに見つめる双眸そうぼうだった。


「……」


 思わず固まった。

 首を掻っ切られた鶏が玉鈴の下半身の上へ置かれている。丁度、膝関節の上だ。皮一枚で繋がった首はこてんと傾げられているがそのつぶらな目は真っすぐに玉鈴へと向いている。


「……おやまぁ」


 である。


 玉鈴ははあ、と深く息を吐くと上半身を捻り、枕の下からむずりと麻袋を引きずりだした。こういう時のためにあらかじめ用意していたものだ。

 こうなった原因は分かっているため特に驚きはしない。原因——それは妃嬪の嫉妬である。

 後宮の半分を消失させた大火の後、玉鈴が亜王である明鳳の寵愛を得たという噂が後宮内でまことしやかに囁かれた。大火によって火傷を負った柳貴妃を心配し、時間があれば宮へと通い詰める姿は妻を見舞う夫そのもの。結婚初夜以降、他の妃嬪の宮にはまったく訪れない亜王が通い詰めるとなると口差がない者は面白おかしく話を盛り上げ、それを勘違いした妃嬪は嫌がらせを行った。

 ほとんどが悪口が大半だったがいつの時代も行動力に溢れる女性はいるもので、相談したい事があるといいながら侮辱の手紙を送ってきたり、贈り物だといいながら毒入りの白粉や呪具を送ってきた。それも手紙と白粉は焼却処分、呪具は祓うために一旦別室へと保管したので被害はでていない。

 一番、行動力がすごいと玉鈴が称賛したのは今回のように屠殺とさつした動物を宮に置く者だった。最初は夜の散策の際、入り口で音がしたので好奇心から覗いてみれば黒衣で顔を覆った女性が犬の死体を門近くへ置いていた。その次は尾が引きちぎられた狐が回路に。そのまた次は耳を切断された兎が玉鈴の臥室の前に置いてあった。

 嫌がらせを行なった張本人はきっと玉鈴を怖がらせるために行ったのだろう。普通の感性を持つ者ならばきっと恐れて泣いてしまう。

 けれど、先王の御代、刃物を手に後宮に押し寄せて来て、首に刃を当てられた経験から感覚が麻痺していた玉鈴は動物の死骸に恐れや恐怖を覚えることはなく、ただ単に抱いたのは、


「可哀想に」


 という感情だった。

 哀れむように呟くと玉鈴は赤い羽毛を優しく撫でた。ふくふく肥えているのできっと食用だったのだろう。いつかは食べられてしまう運命でも嫌がらせのために活用されるなんて……。


「ごめんなさい。後できちんと供養しますから」


 両手を合わせ、祈り終わると敷布ごと鶏を包み込み、持ち上げた。体勢が変わった事で切り口から溢れた血が袖を汚す。真っ白な夜着が赤くなったのを見て、「豹嘉に怒られてしまいますね……」と独りごちた。苛烈な豹嘉に他の妃嬪から嫌がらせを受けたと知られれば、きっと彼女のことだ。めぼしい妃嬪の元に包丁を片手に突撃するだろう。そうなる前に鶏の死体は片付けなければならない。

 敷布と夜着は血は空気に触れ黒く変色しているので洗ってもとれないだろう。しかし、処分するには理由がいる。下手な理由であれば心配性な豹嘉は詮索するだろう。


 ——どうしましょうか。


 粗相そそうしたなどは玉鈴の矜恃きょうじが許さない。水や酒を溢したのなら洗えばいいだけ。野生動物が入ってきて汚したとなれば汚れていない部分を雑巾にでもすると言い出すだろう。

 他にいい案はないかと考えながら手に持つ鶏が包まれた敷布を麻袋へ入れた時、ドタドタと忙しない足音が回廊から聞こえた。


 ——しまった。


 玉鈴は焦った。

 そういえば今日、亜王である明鳳が来宮するという伝達があったのを忘れていた。健康優良児である彼は夜早くに寝るため朝に恐ろしいほど強い。そのため乗り込んでくるのはいつも早朝だ。

 すぐさま手に持つ麻袋を家具の裏に隠そうとするが、回廊からは「柳貴妃! 早く起きてこい!」という明鳳の声と「玉鈴様の安眠を妨害しないで!!」という豹嘉の声が聞こえて来る。二人の声は扉のすぐ前で止まった。


「やめなさいって言ってるでしょう!」

「まだ寝て——」


 豹嘉の静止を振り切って、勢いよく臥室へ転がり込んだ明鳳は溌剌はつらつとした笑顔を一点させ、その場で立ち止まる。

 急に立ち止まった彼の背中に鼻先をぶつけた豹嘉は「いきなり止まらないでよ!」と文句を言いながら、じくじくと痛む鼻先をさすった。


「えっと、ですね」

「何があった」


 玉鈴の言葉を明鳳は鋭い声で遮った。真剣な眼差しで玉鈴の元へ近付くと膝まづき、赤い染みが広がる腹部に手を置く。


「刺されたのか」


 声には怒気が滲んでいた。


「……いいえ」


 小さな声で玉鈴は否定した。

 明鳳は片眉を持ち上げながら怪我の具合を観察するが、着衣に傷がないのを確認するとほっと一息つく。


「何があった」


 明鳳は立ち上がると室内を見渡した。賊が入った形跡がないのを確認しながら室内を充満する鉄臭さに鼻の下を押さえた。


「……獣臭がする」


 くん、と鼻を動かす。鉄が錆びた臭いに混じり、独特の臭いが鼻を突き、不愉快そうに顔を歪めた。

 再度、室内を見渡した明鳳は臭いの原因が家具の裏からするのを突き止めた。


「これはなんだ」


 麻袋の口を掴み持ち上げるとずしっとした重さが伝わった。見た目は小さな小袋なのに不自然な重みがあり、明鳳は目の前で持ち上げては下げ、下げては持ち上げて感覚を確かめる。


「何が入っている?」

「亜王様が知る必要はありません」

と関係あるのだろう?」


 明鳳は玉鈴の下半身を指差した。


「あっても、亜王様とは関係ないので言う必要はありません」


 かたくなに口を開かない玉鈴に痺れを切らした明鳳は舌を打つ。


「おい、無作法妹」


 豹嘉の渾名あだなである。ちなみに尭は無作法兄。翠嵐は新米侍女と呼んでいる。

 明鳳が豹嘉を呼ぶまで玉鈴は豹嘉がこの臥室へ入って来たのを忘れていた。

 過激な侍女が血塗れの主人の姿になんの反応を見せないことを不気味に思いながら恐る恐る入り口へと視線を向ける。

 人間というものは本当に驚いた時、声もでないらしい。豹嘉ははくはくと魚のように閉口を繰り返しながら、顔を真っ白にして呆然と立ち尽くしていた。


「豹嘉?」


 心配して声をかけると豹嘉は肩を跳ねさせた。衝撃で目尻に溜まった滴が頬を伝う。


「玉鈴様っ!」


 ほろほろと涙を流して豹嘉は駆け寄って来た。


「死なないでください……!」

「ぅぐッ!!」


 細腕で腰を締め上げられ、首を絞められた鶏に似た悲鳴が漏れる。


「ひょう、か。大丈夫だから、力、緩めて」


 胸に押し付けられた頭を撫で、落ち着かせようとするが混乱した侍女の耳に玉鈴の声は届かない。

 次に腕を、肩を優しく叩くが力は弱まるどころか強くなる。

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