第6章 Side-B:決断

 金曜の午前、酒井は、散発的に送られて来る、監察医務院からの北条柾木の肉体側の鑑識報告書や、所轄からの関連すると思われる目撃情報の整理を蒲田に任せ、昨夕の蘭円との面会で得た情報の整理、特に、昨日出てきた、一昨日の井ノ頭邸襲撃時に現場から立ち去った車のナンバー、現場に居合わせた円の仲間が記憶していたそれの、当該部署に対する検索依頼を最優先で進めていた。だが、同じ警察庁内の当該部署に申請する書類であっても、さすがに申請理由をそのまま書くわけにも行かず頭を悩ませたていた。


「その車の過去の行動、わかったらこっちにも教えてちょうだい」

 ナンバーを教える事と引き換えに、円は昨日、そう要求してきた。

「その車、よく似た車がここ数年で何回か目撃されてるの。勿論、こっちがらみの現場付近でね。ナンバーが押さえられたのはこれが最初だけど」

「それは、どういう……」

 好奇心半分、職業上の義務感半分で酒井が聞く。

「御神木が切られたから始まって、仏像や御神体が盗まれた、ヤバイの封じた岩やお堂が壊された運び出された、まであるわ。勿論、物損だけじゃないわよ。探せば、そっちの記録にもあるんじゃないかな」

 人的被害も出ている。言外に、円はそう言っているのだと酒井は理解した。

「なかなか尻尾が掴めなくてイライラしてたのよ。これで、とっちめてやれるかしらね……」

 円は、アイスコーヒーに手を伸ばしながら、笑った。

 その口元から、発達した犬歯が覗いた。


 とにかくNシステムの検索依頼書をやっつけた酒井は、隣でパソコンと格闘している蒲田に、悪いと思いつつ声をかける。

「蒲田君、ちょっとすまない」

「すみません、ちょっとだけまってください……はい、何でしょう?」

 作業を中断するとわけがわからなくなるのだろう、区切りのいいところまで入力を進めてから、蒲田は酒井に振り向く。

「分調班で引き取った案件の記録って、見れるかな?」

 何の気なく聞いた酒井だが、蒲田の表情が一瞬曇ったのを見逃さなかった。

「……電子版は分調班のNASに入ってますが、酒井さんはまだアクセス権を設定されてなかったでしたね、はい。紙版でよければ、あっちのスライド書庫にあります、はい」

 蒲田が、部屋の隅の書庫を指差す。そこにスライド書庫があるのは知っていたが、鍵がかかっているので中を見たことはなかった。

「鍵は鈴木班長が管理してます、はい。すみません、ちょっと手が放せないので、はい……」

 自分で鈴木から受け取れ、という事か。蒲田にしては珍しい態度に思ったが、気に留めず鈴木に申し出て、鍵を受け取って書庫に向かう。

 分調班の事務室は、そもそも書庫だった細長い部屋を整理して事務机を押し込んだものだ、と酒井は聞いていた。資料の電子化に伴ってスライド書庫の多くは廃棄されたが、それでも四分の一ほどが残され、その半分ほどが紙ファイル、最近のものから恐ろしく古そうなものまで多種多様なもので埋まっている。その中から、ごく最近のもの、この一、二ヶ月に関するものを酒井は引き出し、開く。

 盲点だった。自分の思い出せない記憶、その原因である事件の資料が、今の自分の職場に保管されているかもしれない、その可能性は考えていなかった。元の職場に記録がなかった理由は、当時はわからなかったが、今はそのカラクリがわかる。分調班の誰かが、その事件を引き取ったのだ。今は、誰が引き取ったかも確認出来る。

 その事件の記録は、あまりにもあっさりと見つかった。そもそも、分調班が引き取る事件は、多い年でも一年に二十数件、三十件を越えることはまず無いという。今年の分となればまだ数件、そこに載っているのなら、見つけられない方がおかしい。

 酒井は、スライド書庫の前で事件の記録を読み込んだ。最後まで読み、もう一度読んで、報告書の冒頭にある、引き取り確認者のサインを、もう一度、三度目の確認をする。

 巡査長:蒲田康司。そこには、そう書いてあった。

 酒井は、無言でファイルを書庫に戻し、もう一つの目的のファイルを探す。その事件の記録がここにある可能性は半々以下だと思っていたが、これまた拍子抜けするほどあっさりと見つかる。滅多に誰も開かないのだろう、鼻にツンとくる、酒井も知ってはいるが使ったことはない古い青焼きコピーの匂いの残る見取り図のついた、三十三年前の事件の記録。

 その古いファイルも読み終わった酒井は、ゆっくりと、ていねいにファイルを棚に戻す。夕べの、青葉五月の言葉がきっかけで、自分の過去を確認する為に開いたファイル。顔も見たことがない、全く記憶にない自分の両親の名前の書かれたファイル。そこに書かれた事実の多くに、酒井は感慨は抱かなかった。だが。一つだけ、酒井の心が揺れた記載があった。

 その事件の第一発見者の巡査の名前は、酒井が以前所属していた警察署の署長と同じだった。


 昼食前、昼休憩の五分前に、酒井は岩崎管理官の執務室に呼び出された。ちょうどいい、聞きたいこともある。酒井は、自分でもびっくりするほど落ち着いて、管理官の部屋の扉をノックした。

「昨日はご苦労だった」

 部屋に入るなり、岩崎が切り出す。扉を閉めた酒井は、岩崎の執務机の前に進み出て、休めの姿勢で直立不動になる。

「先ほど、蘭円女史から連絡があった。報告にあった車の行方が知れたそうだ」

「はい」

 声だけで酒井は答える。

 岩崎は、そんな酒井を見て、眼鏡を外す。

「……蒲田に口止めしたのは私だ、恨むなら蒲田でなく私にしてくれたまえ」

「恨んではおりません。ただ、理由を、お聞かせいただけますか?」

「君に分調班の一員としての適性があるかを見極める為と、君自身がここでやっていくことを望むかどうか、この二つを知る為だ。蒲田はコンパニオンとしては最適なのだ。とはいえ、一月前に自分が引き取った事件の張本人と組む事になるとは、蒲田も思っていなかっただろう。無論、私もだ」

「彼は、分調班で最古参だと聞きましたが?」

「最古参と言っても、たかだか二年余りだが、その通りだ。なので、蒲田には、班員候補者が来る度に最初の相手をしてもらっている。一番損な役回りだ、すまないとは思っているが、分調班は適性と本人の意思の両方がないととてもやっていけない部署だからな」

 その事は、今なら酒井も理解出来る。酒井は、岩崎の言葉に頷き、聞き返した。

「今の班員は、皆、自ら志願したのですね」

「志願か、そう言って良かろうな。彼らも皆、君と似たような経験の持ち主だ」

 酒井はその言葉の意味を理解するのにわずかに時間がかかった。

「……それは、つまり」

「詳しくは本人から聞くと良い。プライバシーに関わるのでな。最近はコンプライアンスが厳しくてかなわん」

 岩崎は、管理職としてのやりづらさを愚痴る。酒井は、そこはスルーして聞き返す。

「蒲田君も、ですか」

「そうだ、君がそうであるように、蒲田もああ見えて苦労人だ。仲良くしてやって欲しい。それで、君の希望を知りたいが?」

「私は、分調班の職務を志願します」

 酒井は即答する。岩崎は、念を押すように、

「……ファイルを見たから、個人的な理由から、ではないな?」

「ないとは言いません。ですが、私は、自分の能力が生かせるのはここしかなかろうと判断しました」

 自分の能力。あれを、能力と言って良いのかどうか。だが……

「……良かろう。分調班は、酒井警部を歓迎する」

 酒井に何が起こり、酒井がどういうものであるかを知っているはずの岩崎管理官は、酒井の目を二秒ほど見つめた後に、少し前に蒲田が言ったのと同じ台詞を酒井に繰返した。

「普通、ここまで来るのに早くてもひと月はかかるものなのだがな。一週間かからなかったのは最短記録だよ」

 言って、岩崎は笑う。酒井は室内の敬礼を返す。

「円女史からの連絡は、メールで君と蒲田に送ってある。本件の被害者からは、警察に対する被害届は出ていないが、民間の支援機関と協力して加害者側との交渉を持ち、示談を模索するとの事だ。被害届が出ていない以上、我々は民事不介入の原則に従わざるをえないが、一応双方の意見を聞き、協力出来る部分があれば、円満な解決の為に働くのが公務員の職務だと私は心得る」

 手を後ろに組み、胸をはって、そう建前を述べる岩崎の目は微笑んでいる。

「おっしゃるとおりです」

 酒井は即答する。

「以降は蒲田と協力して行動してくれたまえ。以上だ」

 もう一度、酒井は敬礼し、執務室を出た。


「あの、酒井さん、その……」

 酒井が岩崎管理官の執務室を出ると、そこに蒲田が居た。ある程度予想していた酒井は、蒲田が居ること自体ではなく、むしろこのタイミングで来るんだ、とその即断即決の方に少し驚いていた。

「黙っててすみませんでした!」

 蒲田は、酒井に最敬礼する。酒井は、自分が岩崎に呼び出されて分調班の事務室を出る時、蒲田がこっちを見ていたのは気付いていた。思うに、岩崎から連絡はあったのだろう。

 その蒲田の肩を、酒井は軽く叩く。

「また今度、色々教えてくれ。ここでは俺の方が新米だからな……じゃあ、メシ食いに行こう」

 酒井は、何でもないことのように、そう声をかけた。可能な限り、平静を装って。そうだ、まだ俺はこの若いのに色々教わらなければいけない。なにしろこいつは……

「……もう、気遣いはいらないよ」

 酒井は、そう付け足して歩き出す。こいつは、仲間だ。

「……はい!」

 蒲田も、一瞬遅れてから小走りに後を追った。


「そういえば」

 昼食を摂りに、中央合同庁舎第二号館十六階の事務室から降りてきた地下一階の職員食堂で、小鉢をつけたチーズインハンバーグ定食ライス大盛りを持って空席を探す蒲田は、同じく白身魚のワンコイン定食を持つ酒井に聞く。

「五月さん、あれからどうしてます?」

 蒲田はすっかり普段通りのようだ。

 その普段通りの蒲田が繰り出した直球ド真ん中の剛速球に、内心ぎくりとしながら、努めて平静を保って酒井は答える。

「毎日元気に占いの仕事行ってるよ。流石にバーには行ってないみたいだけど」

 二人分の空席を見つけた蒲田がトレーを下ろす。

「それはよかったです、はい。お茶でいいですか?」

 答えを聞かずに歩き出し、歩きならが酒井が頷いたのを確認して、蒲田は給湯器に向かう。

 まったく、アイツは勘がいいのか間が悪いのか、どうして昨日の今日でそんな事聞くかよ。酒井は、心の中で額の汗を拭く。やましいことは何一つしていないが、夕べは色々と衝撃的なことが多かった。ただまあ、今朝部屋を出る時、昨日までの少しピリピリというか、ギスギスというか、緊張感がなくなっていたのは、良かったのか悪かったのか。食堂の椅子に座って目の前の白身魚と大根の煮付けを見ながら酒井が思っていると、戻ってきた蒲田が、両手に持っていた給湯器の緑茶の片方を酒井のプレートに置く。

「……お。すまん」

「いえ。じゃあ、いただきます」

「いただきます」

 声だけでなく、きちんと手を合わせて蒲田はいただきますを言う。酒井が知る限り、毎回。育ちがいいのだろうな、今時珍しいと酒井は思う、自分でもそこまではしないから。

 魚の小骨を取りながら、蒲田の質問がきっかけで、酒井は思い出し、考える。誰でも、人の心には鬼が住む。青葉五月はそう言った。俺や青葉さんはともかく、今、この食堂でメシ食ってる人たちも、大なり小なり心に鬼が住んでいるって事なのか?酒井にはわからない。多分、わかる必要はないんだ、そう自分に言い聞かせる。俺の中には、そこそこ育ってるのがまだいるらしいが。

 他人の心に鬼がいるとして、わかってもどうにもならない。青葉さんのように、あるいは俺のように、それを誰かに告白出来て、解決出来るのは、多分、ごくまれな、幸運な例だ……

 考えながら、そんな、今までなら笑い飛ばしているような事を真剣に考えている自分に驚く。まだ本格的に分調班の仕事を始めて一週間も経っていないのに、すっかり染まっちまった。まあ仕方ないだろう、濃い出来事が色々あった、ありすぎたから。それに、ここでやって行くと決めたんだ。それにしても……

 隣で、本当に美味しそうに山盛りの白米を次々と口に運ぶ蒲田をチラリと見て、酒井は思う。

 コイツは、心じゃなくて腹に、餓鬼を飼ってるに違いない。


「あ、Nシスの検索結果も来てますね、はい」

 午後の仕事開始時、とりあえず庁内イントラネットのメールチェックをしていた蒲田が酒井に声を掛けた。

「お?おう、こっちも来てる、早いな」

 酒井も自分の庁内メールシステムをチェックし、管理官経由で蘭円のメールが転送されていることと、Nシスに関する添付ファイル付きの返信が来ている事を確認する。

「どれ……あ、これCSVファイルだ、ちょっと待って下さい、確か前にこれを地図と連携させるマクロをもらってたです、はい。どこのフォルダに置いたっけな……」

 言いながら、蒲田が自分のノートPCを操作する。酒井は、その間にとりあえず添付ファイルをそのまま開いてみる。表計算ソフトに表示されるのは、日付と位置座標を示す数字の羅列。あまりパソコン操作が得意ではない酒井は一瞬クラッとしつつ、その羅列をざーっとスクロールしてみる。が、なにしろ一ヶ月分のデータだけでも行が多すぎて何が何だか目が追いつかない。

 Nシステム、正式名称自動車ナンバー読み取り装置はその名の通り自動車のナンバーを自動的に読み取る装置であり、全国に千五百台を超える数が設置されている。装置の撮影エリアを通過する車両すべてのナンバーを二十四時間撮影し続け、指名手配車両と合致するナンバーがあれば即時に通報し、そうでなくても撮影されたすべてのデータは一定期間保存される。全国で二千近い計測点、かつ二十四時間の通過車両のデータは膨大な量になり、本来ならこんなに早く結果が帰ってくるはずはない。その事を聞くともなく呟いた酒井に、蒲田が、

「そこはそれです、はい。警察も階級社会ですし、はい」

 と、真剣にパソコンを操作しながら要点をぼかして答える。どうやら、優先して便宜を図るように、そこそこ上の方から当該部署の担当者に「請願」があった、という事のようだ、と酒井は理解する。分調班でそんな事出来るのは、そこそこ大きい警察署の署長である警視正より上の階級を持つ岩崎警視長しかあるまい。今更ながら、酒井は分調班が管理官直属であることの意味を知った気がした。

「っと、できました、はい。最近一ヶ月分だけですが。酒井さん、見ますか?」

 蒲田が、モニターを見つつマウスをぐりぐりしながら酒井に声をかける。

「ん、ありがとう」

 答えて、酒井も腰を浮かせ、蒲田のノーパソの、大きいとは言えない十四インチモニタをのぞき込む。Webの地図サイト上に重ね書されたそれは、関東地方を中心に、東北、北陸、近畿にも数本、放射状に軌跡が伸びている。軌跡上のNシス所在地のマークをマウスオーバーすると、設置地点名と通過日時が拡大表示される、なかなかよく出来たマクロだ。そう思ってみていた酒井の目が、ある一点で停まる。

「……蒲田君、ここを」

「同じ事考えてました、はい」

 酒井にみなまで言わせず、蒲田が酒井の示す地点のマークを拡大する。設置地点、紀の川市貴志川町北、通過日時は……

「……一ヶ月前の酒井さんの事件の、前日と翌日、です、はい」

 蒲田が、モニタを見つめたまま答える。

「……そうか……」

 酒井は、それしか言えなかった。

「……この車が、酒井さんの事件に関係している可能性が非常に濃くなった、って事ですね、はい」

 蒲田はそう言って酒井に振り向く。酒井は、無言で自分の事務椅子に腰を落とす。その様子を見て、蒲田は、

「これは提案ですが、この事を蘭さんに聞いてみるのはどうでしょう?どうせこのデータは渡すんだし、あっちでも何かしらの資料は持ってるかも知れません、はい」

「……そうだな、渡す用のデータのコピーは頼めるか?俺はどうもセキュリティとか苦手で……」

「慣れて下さい、はい」

 微笑んで、蒲田はデータ持ち出し用のセキュリティロック付きのUSBメモリを自分のノーパソに刺した。


「約束の三分前。さすがねぇ」

 時間は十三時五十七分。もう来慣れた感のあるファン・ゴッホ歌舞伎町前店の一番奥の席で、初めて見る若い娘を隣に座らせた蘭円は、酒井と蒲田にそう声をかけた。

 警察庁の入る中央合同庁舎二号館のもより駅である東京メトロ霞ヶ関から東銀座までは三駅、乗車時間は十分も見積もれば充分な距離だ。これで指定の時刻に遅れたら申し訳が立たない、と真面目な酒井は思う。

「お待たせしたようですみません」

 そう言って軽く頭を下げ、円の向かいのチェアに着く酒井とその隣の蒲田に、円は笑顔で答える。

「いいのよぉ、仕事中に呼び出したのはこっちだし。紹介するわ、「協会」の事務の弘美ちゃん」

 円は、隣に座る女の子の肩を抱くようにして紹介する。ちょっと迷惑そうな、困ったような感じで肩をすくめたその子は、

「酒井警部と蒲田巡査長ですね?「協会」の人事と経理をしています、笠原弘美かさはらひろみです。宜しくお願いします」

 座ったまま会釈する。あ、ども。酒井と蒲田はなんとなく挨拶を返す。注文を取りに来たウェイトレスに二人揃ってアイスコーヒーをお願いしながら、酒井は目の前の二人を観察する。ベリーショートのソバージュに抑え気味のナチュラルメイク、事務員然とした服に身を包む弘美と、しっかりしたアイラインにグロスのリップ、女物のスーツ――昨日とは違う、濃いグレーの地に明るいグレーのストライプが入るジャケット&スカートに薄ピンクのブラウス、細く、濃紺のネクタイをルピーのタイピンで留めている――を着た円が並ぶと、本当にどこかの会社の女性重役と事務員に見える。この女、一体何着スーツ持っているんだろう?酒井はそんな疑問がふと頭をよぎる。

「早速ですが円さん、まずお約束のデータをお渡しします」

 とりあえずこの場には関係ない疑問は一旦横に押し流し、蒲田を促す。

「あ、はい、これです、はい。セキュリティかかってますので……」

「あ、じゃあこちらで受け取ります、データだけ抜かせていただきます」

 弘美が、横に置いていたタブレット端末を膝の上に置き、延長ケーブル経由で蒲田が渡すUSBメモリを接続する。メモリが認識されたところで弘美はタブレットを蒲田に向け、蒲田は画面に表示されたセキュリティソフトのウィンドウに暗号解除キーを打ち込む。

 これって、警察官としては服務規程違反だよな、個人情報?捜査資料?の漏洩だよな。まあいいか、直属上司の了承は得ている、というかむしろ直属上司の暗黙の依頼なんだから。蒲田と弘美がメモリのやりとりをするのを見ながら、酒井はほけっとそんな事を思う。

「パソコン、苦手?」

 その様子を見ていた円が、酒井に声をかける。

「え?ええ、得意ではないですね、使えないことはないんですが」

 酒井は素直に答える。

「若いのに珍しいわねぇ」

「田舎者ですから」

 マグカップを――この匂いはホットココアだろう――口に運びながら、円は微笑む。円に答えながら、三十過ぎて若いなんて言われたのは初めてだ、と思う。思って、そうか、目の前に居る円は、年齢不詳だが少なくとも自分より倍は年上なんだった、と思い出す。

「……なんか失礼なこと考えたでしょ」

「いえ、そんな事は。あ、それこっちで」

 何故か女はピンポイントで鋭い。注文が来たのにかこつけて無理矢理会話をブッ千切った酒井は内心胸をなで下ろす。

「円さん、データはいただきましたから」

 USBメモリを抜いて蒲田に返しながら、弘美が円に声をかける。

「OK。じゃあ本題ね、メールしたけど、車の行方が知れたわ。逃がすわけに行かないから、今夜あたし達はちょっとをしに行くつもりなんだけど、一緒に来る?」

 円の言葉は単刀直入だ。その意味では実に男らしい。

 蒲田は、ガムシロとミルクマシマシのアイスコーヒーのストローを咥えたまま、酒井の様子をうかがっている。判断を完全に俺に任せているのか、信用されたもんだ、と酒井は思う。

「その前に、わかるなら教えて下さい」

 酒井はどうしても聞きたかったことの一つを質問してみる。

「さっきのNシスのデータですが、一ヶ月前に和歌山県の紀の川市を通ってます。そちらで、その時期と場所に該当する何かデータをお持ちじゃないですか?」

 蒲田がストローから口を離して酒井に向き、円と弘美は顔を見合わせ、円がわずかに頷くと、弘美は膝の上のタブレットの画面上で指を縦横に滑らす。

「……何かあったの?」

 円が聞く。という事は、少なくとも円には心当りは無い、まあそうか、彼女が全部の情報を把握しているはずもない。酒井はそう思い、円の質問に答える。

「俺が、何かに襲われました。いや、違うな、夜、山の中でものすごい音がしたって言うから見に行ったんだ、そうだ。そしたら、何かが居て……そこからはよく思い出せない。ひとかたまり、乗用車くらいある何かだった、と思う」

「記憶、思い出してきたんですか?」

 蒲田が聞く。酒井は、蒲田に向いて頷いて、

「ほんの少しずつだけどな。青葉さんのおかげだな、少しアドバイスしてもらった」

「青葉ってあの子でしょ?良い子じゃないの」

「いいなあ、酒井さん、やっぱ替わって下さい、はい」

「いやそういう意味じゃないし。俺みたいなのが若い子と暮らすってどんだけ大変かって蒲田君わかるか?」

 ウカツな一言から急激に話があらぬ方向へ地滑りを始めたのを感じ、酒井は軌道修正を試みるがあまり効果は無い。が、助け船は別方向から現れた。

「う~ん、すみません、「協会」の記録には該当しそうなものはないですね……」

 タブレットの操作を続けながら、弘美が呟く。改めて酒井に顔を向けて、

「こっちに話が回ってくる前に、地元警察で完結しちゃったんでしょうね」

「……そうですか……」

 てっきり資料があると思い込んでいた酒井は、落胆した声を出す。円が弘美の手元をのぞき込んで、

「和歌山のどこだっけ?」

「紀の川市、この辺ですね」

「……あ、高野山近いのね」

 タブレットに地図が表示されているのだろう、それを見つめて少しだけ考え込んだ円は、

河の市かわのいちならなんか情報持ってないかな?あいつ本拠地そこら辺だし、ここんとこは関西に入り浸ってたはずだし」

「河の市さんですか、ちょっと調べて……」

 人名だか地名だかよく分からない言葉を出した円に頷き返して、弘美の指が猛烈な勢いでタブレットの画面上を縦横無尽に走る。

「河の市、って何ですか?」

 同じ疑問を持ったのだろう、蒲田が酒井と顔を見合わせた後、弘美に聞く。

「あちこち歩き回ってるウチのネゴシエーターです……これかな?先々週の定期連絡掲示板で、龍門山付近の牛鬼の塚がちょっと前に荒らされたらしいって、高野聖同士の茶飲み話で聞いたって書き込みがあります」

「牛鬼の塚?そんなもん、あの辺にあったの?」

「京都はともかく、近畿はいろいろと縄張りが入り組んでますから……詳しい事は」

 何やら話し込み始めた円と弘美の間に、酒井が割って入る。

「その、牛鬼ってのは?」

 弘美が顔を上げ、円が酒井に向いて説明を始める。

「牛の頭に蜘蛛の体、ってのが定番のデカブツ、っていうのが一番ポピュラーなイメージかしら?西の方に多いわね、一括りに牛鬼って言っても、見た目も所以も色々あるんだけど……まあ、デカイし力強いし、たいがい話聞かないし、ヤバイ相手ってのは間違い無いわね。でも泣くまでブチのめせば一応言うこと聞くわよ」

 つまり、円は牛鬼を泣くまでぶちのめして言うことを聞かせたことがあるのか?酒井はそのわかったようなわからないような説明の中に含まれる経験者の声らしき部分は、あえて突っ込まないことにした。

「ああ、思い出しました、子供の頃アニメで見た覚えあります、はい。鋸の「鬼歯」がどうとか」

 円の体験談の部分に気付いているのかいないのか、蒲田が割と気楽な声で言う。円も同じものを知っていたのか、

「そっち?いやまあ、あれも牛鬼っちゃ牛鬼ってかそのものだけど。そういやあれ三重だっけ、近いっちゃ近いわね。まあ、ヤバイ奴には違いないから、弘美ちゃん、その話、河の市にもっと調べるように言っといて頂戴」

 円は話を弘美に振る。弘美は受け取って、

「了解です……っと」

 頷いて答え、何事かタブレットに入力し始める。

「お願い……で、ごめんね、ウチで持ってる情報ってこれくらいみたいだけど、いい?」

「構いません」

 酒井が即答する。謎が氷解したわけではないが、ヒントはもらえた、頭の隅っこの霧が少しだけ晴れた気がする。

「参考になりました。良ければそれに関連してもう一つ、今すぐでなくてもいいので、同じ所で三十三年前にも何か無かったか、わかったら後でいいので教えてもらえますか?」

「……だ、そうだけど大丈夫?」

 酒井の要求を、円は弘美に流す。

「はい」

「じゃあそういう事で。で、最初の質問だけど、来る?」

「行きます」

 これも即答する酒井に、隣の蒲田も頷く。

「OK、じゃあ、本当の本題。二人ともこれにサインして頂戴」

 円が言うと同時に、弘美がA4のコピー用紙にプリントされた「誓約書」とタイトルのある用紙を酒井と蒲田に差し出す。

「……はい?」

 酒井と蒲田の目が丸くなった。


「早速説明させていただきます。今回、酒井様と蒲田様には円さんと行動を共にしていただくと言うことなので、「協会」としてはお手数ですがスポットで「ハンター」の契約をしていただきたく、こちらにサインをお願いします」

 弘美から、いきなり意味不明な要求を出されて、酒井と蒲田がフリーズする。弘美は、どうかしましたか?位の感じでわずかに首をかしげる。

「あの、それってどういう……」

 蒲田が弘美に聞き直す。

「簡単に申し上げますと、御存知の通り「協会」は魔と人の間に起きた問題を、双方の交渉によって円満解決する事を目指す組織で、そのお手伝いをする為に「ネゴシエイター」を派遣することを主な業務とするわけですが」

 弘美が説明する。酒井は、その説明は初耳だったがとりあえず黙っていた。

「まれに、どうしてもお話を聞いていただけない方がいらっしゃいまして、暴力を振るわれたりするので、対抗措置として「ハンター」を派遣せざるを得ないことがあります。今回の案件はこれに該当し、例えばこの」

 横に座る円を弘美はチラリと見て、

「蘭円さんは当「協会」屈指の「ハンター」ですが、「ハンター」を派遣するとたいがいろくな事が起きませんので」

 もう一度、弘美は円を見る、じっとりした目線で。

 円はマグカップを口に当てたまま、虫が這ってるのを見つけたかのように天井を見つめている。

「不可抗力の物損に関しては、「協会」の出来る範囲で諸機関に働きかけて補償その他を行いますが、「ハンター」自身の怪我その他につきましては、ある程度は補償しますがどうにもならない場合には自己責任と言うことで納得していただくよう、事前に念書を取ることになってます」

 よく聞くと色々な意味で相当恐ろしい内容を、携帯電話の契約よりもありきたりなことのように説明した弘美の言葉を受けて、蒲田が呟く。

「どうにもならない、って……」

「聞くな。聞かない方が良いこともある」

 酒井も口の端っこで呟く。「協会」って、思ってたのとなんか違う。酒井は、もしかして早まったかな、と少し後悔した。


 結局のところ、円よりもむしろ弘美のプレッシャーに押し負け、誓約書にサインした酒井と蒲田は、目的の場所と集合時間、集合手順を確認の後、ファン・ゴッホを後にする。会計は「協会持ち」でいいと言った弘美は、レジでキチンと「協会」の宛名の手書き領収書を請求した。

 東銀座駅までの短い徒歩区間で、蒲田が、やや呆けたように酒井に聞いた。

「……酒井さん、僕たち、公務員ですよね……」

「……警察庁は国家公務員、地方警察は地方公務員だが、そういや俺たちはどっちなんだ?」

「それは、僕たちは出向扱いなんで地方公務員のままですが……なんか、あっちの方がずっとお役所仕事のような気がします、はい」

「……奇遇だな、俺もだ」

 顔を見合わせた二人は、ははは、と力なく笑い、同時に肩を落とした。


 一旦庁舎に戻った酒井と蒲田は、ここまでの経緯と今後の行動予定を鈴木班長に報告する。

「協会」の存在そのものは鈴木には既知であったのだが、今回のように「協会」と行動を共にする、というのは、分調班発足から日が浅いとは言え初めてのことだった。その旨を鈴木班長に報告し、こういった事例に対する公的な取り決めは存在しないし、内容から言っても公的な文章に残すのは逆に問題になりそうなので、口頭で了承を得ることでお互いの意見の一致を見た。

 続いて、岩崎管理官にも同様の報告と了承を願い出る。

「そうか……充分、気をつけてくれたまえ」

 岩崎からの指示はそれだけだった。すべて了承されたと了解し、酒井と蒲田は敬礼して部屋を出る。

 警察官としては、あまりに服務規程から逸脱した行動となることは間違い無い。班長も管理官もそれを、口頭とは言え了承済みなのだから、命令系統的にはもはや今後何が起きても自分の責任ではなく許可を与えた上司の責任、それはわかっているのだが、かれこれ十五年以上勤めた警察官としての常識やら規律に従う習慣やらが、どうしても酒井の中で、今置かれている状況との整合を取らせてくれない。

「すまない、ちょっと、一服してから戻る。西条さんに連絡を入れておいてくれないか?」

 分調班の事務室に戻る蒲田にそう言って、酒井は喫煙所に向かう。背広の内ポケットからセブンスターの箱を出す。縦に振って一本だけ出し、咥えて、百円ライターで火を点ける。肺一杯に煙とヤニを吸い込むと、なんとなく落ち着いた気がする。

 ……体に悪いことはわかっているんだが。そんな当たり前のことを考えながら、天井に向かって煙を吐き出す。何度か深く煙を吸い込みながら、これから起こるだろう事を予想しようとするが、駐在所勤めで捜査経験皆無の酒井には、どこかに突入しての強行捜査などテレビの密着ドキュメント番組以上の知識がない。考えるだけ無駄なことを自覚し、と同時に、一つ、やっておかなければならないことを思い出す。

 最後の一口を吸いきった煙草を吸い殻入れ脇の水の入った空き缶につけてから吸い殻入れに捨てる。喫煙室の中に他に誰も居ないことを確認し、煙草と反対側の内ポケットから携帯電話を取りだした酒井はアドレス帳から青葉五月のメールアドレスを検索し、要件だけを簡素にまとめたメールを出す。

 ……今夜は遅くなります、食事の支度は要りません、構わず先に休んで下さい……

 たったそれだけの文章。まるで女房に送るような内容のメールだが、考えてみたら、実際には女房に送ったことなかったな、酒井は思い出した。駐在所勤めは職場イコール自宅だから、仕事が上がって扉を開ければそこに食事が用意されているのが当たり前、そんな生活に疑問を持っていなかった。色々と、俺は至らなかった、相手に負担をかけていたんだな。今頃になって酒井は反省、いや後悔した。これでは、あんな事がなくても、どっちにしろいずれ離婚を切り出されていたに違いない……

 酒井は頭を振り、掌で強く顔を叩いて気合いを入れ直す。そんな事を考えている場合じゃない、そんな事を考えるのは多分、これから何が起こるか不安だからだ。だからこそ、未経験で不安だからこそ、慎重に、冷静に行かなければいけない。

 酒井は、無理矢理雑念を払って、払おうとしながら、喫煙室を出た。


 分調班の事務室に帰ると、蒲田が奥のロッカーから何やら引きずり出してるところだった。

「あ、酒井さん。酒井さんもこれ、合わせてみて下さい、はい」

 言いながら、両手に、今ロッカーから引きずり出したもの、制服警官の防刃ベストを持った蒲田が小走りに近づいてくる。

「……防刃ベストもあったのか」

 酒井は蒲田から渡されたベストを手に持って言う。

「どこかの所轄のお下がりですが、耐用年数はまだ大丈夫の奴です、はい」

 言いながら蒲田はベストに袖を通す。それを見て蒲田もベストをつけてみる。制服警官用のそれは何度も使っているから違和感は感じない。ただ……

「……これ着てると、ショルダーホルスターは使えないな」

「……ですね、はい」

 蒲田が残念そうに答える。

「だったら、帯革使った方が早いな……」

 酒井は、自分のロッカーに仕舞ってある、元の職場から送られた装備品一式を取り出し、使い慣れた、制服警官用の、帯革たいかくと呼ばれるいわゆるガンベルト相当の太い革ベルトに、ホルスター、手錠ケース、警棒吊りだけ残して他の装備品を取り外す。

「僕は、これで行きます」

 言って、蒲田はズボンのベルトを一部外し、机の一番下の引き出しから出したナイロン製のヒップホルスターを右の腰につける。

「……それも……?」

 酒井は、目で謎の押収品の入ったロッカーを示しつつ聞く。

「はい、酒井さんもこっちにします?」

「……いや、俺はいいや。こっちの方が慣れてるし」

 十日ぶりくらいに腰に感じる帯革の重さは、酒井に仕事の重要さを感じさせるのに充分だった。


「お、準備万端かね、ん?」

 鈴木班長が、装備の確認をしている酒井と蒲田の元にやってきた。

「はい……と言っても大した準備はないですが、はい」

 まあ、カメラとかボイスレコーダーとか証拠を入れる箱とかその手の用意はないけれど。銃をもっていくのは充分大したことだと思うが?酒井はそう突っ込みたかったが、取り合えず控えた。

「じゃあ、ついでにこれを持っていきたまえ」

 言って、鈴木は蒲田にナイロンのマグポーチに入った予備のマガジンを、酒井にビアンキの専用ポーチに入れたスピードローダー2個を渡す。どちらも装弾されている。

「関係が複雑だが、例の射殺死体、北条柾木の件が絡んでいるなら、射殺した側が出てくるかも知れんからな。一発も撃たないで終わるのが一番なのだが、そうなるとそうも行くまいしな、うん」

 酒井もその可能性を考えていた。あの件の射手の手がかりは全く掴めていない。

「班長も、出てくると考えますか?」

「なんとも言えんが。敵に回したくないことだけは確かな腕のようだな、うん」

 酒井の質問に、考えないようにしていた仮定を声に出して鈴木が答えた。

「班長、それ、シャレになってないです、はい……」

 蒲田が不平を述べる。その声は、イマイチ、いつもの軽さがなかった。

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