第6章 Side-A:決心

 金曜日。

 いつも通り、柾木は営業所の掃除や開店準備をする為に始業前に出社し、出社してくる他の社員に新人らしく元気よく挨拶し、始業直前にトイレの鏡で身だしなみを整え直して自分の席につく。むしろ、いつもより元気いっぱいの様子で。

 この体は、事務仕事も正確にこなす。のだが、しかし同時に、この体には精神状態の影響も正確に反映される。

 この日の柾木の精神状態は、強い焦燥感にさいなまれ、最悪と言っても良い状態、空元気はその反動だった。


 胃のあたりがムズムズする。何をしても落ち着かない。貧乏揺すりが停まらない。柾木は、自分の心と体を押さえつけるのに精一杯で、まさに仕事が手に着かない、そんな状態だった。

 モップを持って床掃除するような、体を動かす仕事をしていればまだマシだったが、自席に座って伝票を入力する、手書きの請求書を書くなどという事務仕事をしていると、イライラする、と言うのとは少し違うのだが、すぐに心が限界に達してしまう。

 年配の社員のように、煙草でも吸えれば少しは落ち着くのかも知れないが、今時の青年である柾木に喫煙の習慣はない。出身地では年長者が煙草を吸っているのは当たり前の光景だったから、隣で煙草を吸われても別に文句は言わないが、言えば、玲子からもらったこのスーツに煙草の臭いをつけたくはないな、とは思う。

 そんな事を考えていると、データ入力の手が止まる。一般的な自動車販売店では、金曜はどちらかというと週末に備えたフェアの準備等で雑用に追われるものなのだが、法人営業主体のこの営業所ではフェアにかける比重は低いので、用意があると言ってもそれほど物量的に大したことは無い。それでも、事務仕事が手に着かない柾木はむしろ率先して体を動かすことを選んでいた。

 焦燥感の原因はわかっていた。玲子だ。最初は、彼女の目を一瞬でも見てしまった事が今頃影響して来たかと思った。だが、冷静に考えるとどうも違う。彼女の、昨日の別れ際の態度が引っかかって仕方がないのだ。

「それでは、また……また、お会いしましょう」

 そう言って、昨夜遅く、玲子はセンチュリーの車窓から伸ばした手で握った柾木の手を、黙ってそっと離すと窓を閉め、そして二度と振り向かず井ノ頭邸から去って行った。同じタイミングで井ノ頭邸を出て、徒歩で東京メトロ八丁堀駅に向かった柾木は、その時から、玲子が何かを言おうとして、言えずに飲み込んでいたような気がしてずっと引っかかっているのだった。


 昼休み。柾木は、機械的に自分の席でコンビニ弁当を胃の中に流し込んでいた。

 食欲があるかないのか良くわからないが、有り難い事にこの体は食欲に関係なく、一定量の食事を詰め込めるようだ。だが、その姿は隣の席でスマホ片手に愛妻弁当を頬張っていた下山には、「何か心配事があって食事が喉を通らないのを無理矢理流し込んでいる」ように見えたらしく、自分の弁当が一段落したところで柾木に声をかけてきた。

「……どうかしたのか?」

「え?あ、下山さん、いえ、別に」

 声をかけられ、慌てて柾木は対応する。

「まあ、配属になって疲れも出てくる頃だから、無理はしなくていいぞ、大丈夫か?」

 近頃の若者は根性がない。それは根性が無いのではなく、ある程度の苦労は乗り越えなければ何も出来はしない、何かしたければ相応の苦労は乗り越えて然るべきという事を教わっていない、教わる機会を与えられなかったからであるのだが、原因はともかく新人が配属になった現場としては、そう簡単に挫折して会社を辞められては大損失なので、OJT担当の先輩である下山としては非常に気を使わざるを得ない。

「あ、いえ、本当に大丈夫です」

 柾木は下山を見て、大丈夫だという意味で微笑んだ、つもりだったが、それは下山の顔を曇らせただけだった。どうやら、無理をしている印象を強くさせただけだったらしい。

「……明日の土曜は北条君は休日のローテだよな、何なら日曜も休んでも構わないぞ?」

 甘やかすわけではないが、辞められても困る。業務上、下山は綱渡りの境界線を探っているのだが、柾木にはそれは単純に優しさに見えた。

 なので、ふと、下山さんには悪いがその優しさに甘えてしまおうと考えてしまった。

「……下山さん、すみません、実は身近な者に緊急事態がありまして、突然で申し訳ないのですが、今日の午後、半休をいただいても大丈夫でしょうか?」

「お?おお、急ぎの仕事とか入ってないなら、まあ大丈夫だと思うけど」

 突然の部下の申し出に下山も少し慌てる。嘘は言ってない。柾木は自分の心に言い聞かせる。嘘じゃないから、引け目は感じなくていい。

「ホントすみません、それじゃあ、今日、午後、半休いただきます!」


 大急ぎで残りのコンビニ弁当を掻き込んだ柾木は、パソコンの電子就業管理ソフトで午後の半休を申請すると、脱兎の如くに営業所を飛び出した。西武新宿線野方駅から各駅停車に乗り、高田馬場で東京メトロ東西線に乗り換え、茅場町に向かう。日比谷線で八丁堀に行くより、こっちの方が早くて近いのは昨日の帰りに確認している。

 日中の東西線は、探せば座れる程度には空いている。後ろから二両目の車両に空席を見つけ、とりあえず座って落ち着いた柾木は、夕べの事を思い出す。


「……柾木様、お腹が空いてはいらっしゃいませんか?」

 玲子がそう聞いてきたのは、夜の十時に近くなってのことだった。

「え?ああ、そうですね、空いてます」

「実は私もさっきからずっと空いておりましたの。時田、ここでお食事の用意は出来ますか?」

「はい、ここで、というのは難しいかと。井ノ頭様の冷蔵庫を漁るのは心苦しゅうございますし、第一、ろくな食材がございません」

 既にそのあたりは確認済みなのだろう時田が、よどみなく答える。

「ですので、付近のどこかに食事出来るところを探すか、仕出しを頼むことになるかと存じます。ご希望はございますか?」

「そうですね……研究員の皆さまにもご用意して差し上げませんと申し訳が有りませんし……柾木様?柾木様は何かご希望はございまして?」

「え、俺ですか?そうだな……」

 柾木は、この周辺でテイクアウトが出来そうな店を思い出そうとする。最初に井ノ頭邸に納車出来た時、帰りがけに何軒かそれっぽい店を見た、何があったっけ……

「……カレー、かなあ。カレーならあんまり好き嫌いなさそうだし、皆さん食べられるんじゃないですかね?」

 八丁堀と、隣の茅場町にまたがる新大橋通りに面して、インドカレーの店があったのを思いだした柾木は、スマホで店を検索しながら言った。

「カレー!よろしゅうございますわ、そう致しましょう。時田、早速……」

「あ、俺が行ってきます、スマホで注文出来るみたいですから、今人数分オーダーして」

 検索してヒットしたその店の、オーダーのページを操作しながら柾木が言いながら立ち上がる。それを見た玲子は、

「それは申し訳ございませんわ」

「いやいや、俺、ここに居てもすることないし。使いっぱでもなんかしないと」

「……そうですの?それでは、私もご一緒させて下さいまし?」

「え?」

「私も、ここでは役立たずでございますのよ?働いて下さる社員の皆さまの為に、少しでも骨を折りませんと申し訳が立ちませんわ」

 そう言って、玲子は椅子から腰を浮かす。

お姫さまおひいさま……」

「よいのです時田、少しは私も働かせて下さいましな」

「……じゃあ、皆さんチキンカレー弁当でいいですかね?」

 深窓の令嬢にカレー弁当ってどうよ?と思いながら柾木は確認する。玲子は、笑顔で頷く。後ろに控える時田の顔は複雑だ。

 柾木はスマホの画面を操作し、チキンカレー弁当7人分、自分と玲子、時田と袴田、地下室に居る研究員三人分の注文確定ボタンをポチる。

「おっと、オーダーストップギリだった。じゃあ、行ってきます」

 スマホで店の位置を再確認し、柾木が台所を出ようとする。

「では、ご一緒させて下さいまし」

 玲子も立ち上がる。即座に椅子を引く時田の反射神経は、いつ見ても見事だ。

「柾木様、お姫さまを宜しくお願いいたします」

 本来なら玲子に付き従うのが時田の役目なのだろうが、言外に玲子がついてくるなと言っているのを察したのだろう、時田が柾木に言う。

「はい、行ってきます」

 柾木は、時田が投げた責任の重さには全く気付かず、時田に振り向いて軽く手を上げ、玲子と一緒に台所を出た。


「柾木様、私、こうして夜の街を歩くなんて、すごく久しぶりでございますの」

 両手で持った、カレー弁当が三つ入ったコンビニ袋を体の前に下げて、玲子が言う。

「つい最近まで、あまり体が丈夫ではございませんでしたし、夜出歩く用事などもございませんでしたから。凄く、新鮮です」

 楽しげに言って玲子が振り返る。白いボンネットに黒いベールで顔を隠した、白いゴシック調の、ロングのエプロンドレスとパフスリーブの長袖ブラウスに身を包んだ少女が、人通りの絶えた夜のビジネス街の街灯に照らし出される光景は、アンバランスであり、妖しくもあり、美しくもある。

 そんな、怠惰で廃退的な美しさを醸し出す光景をぶち壊しにするカレーの匂いに軽く苦笑しつつ、柾木が答える。

「楽しんでいただけて光栄の極みです、お嬢様」

「いやですわ、止めて下さいまし、お嬢様なんて」

 それでも嬉しそうな声で、もう一度振りむいて玲子は言い、また前を向く。体の動きに一拍遅れて青のフリルとリボンで飾られたスカートが回り、停まり、また回る。

「……私、今、とても楽しいのです、柾木様」

 前を向いたまま、玲子が言う。

「この数日、酷いことがいくつもございました。けれど、柾木様にお会い出来て、お友達になっていただけて、こうして一緒に夜の街を歩いていただいている。酷いことがあった換わりに、今まで出来なかった事がいくつも出来ている。それが、楽しいのです」

 赤信号で立ち止まり、玲子が振り向く。

「酷い子でございましょう?でも、楽しいと思う事を止められないのです。ですから」

 赤信号に薄赤く照らされていた玲子が、青く染まる。

「酷かったことを、無しにしてしまいたいのです。そうすれば、楽しいことだけが残りますでしょう?」

 前に振り返り、玲子はまた歩き出す。

「ですから、一所懸命、何が出来るかを考えておりますの。これは」

 玲子は、小走りに近づいて自分の横に並んだ柾木に、カレー弁当の入ったコンビニ袋を少し持ち上げて見せる。

「その一つ。今私に出来る事の一つ。でも、自分にも何かが出来る、という事そのものが、やはり嬉しいのです」

 柾木は、何と言って良いかわからず、ただ玲子を見ていた。玲子は、そんな柾木に向き、見上げて、

「……柾木様、ありがとうございました」

「いえ、そんな……」

 唐突に礼を言われた柾木は少し慌てる。

 柾木は、何に対して礼を言われたのか、見当がつかなかった。


 高田馬場から十五分ほどで、地下鉄東西線は茅場町に到着する。電車を降り、改札を抜けて地上に出た柾木はスマホで位置と行き先を確認する。地方出身者の柾木にとって、東京の地下鉄は、便利だと皆言うがまだよく慣れない。

 目指す井ノ頭邸はすぐ近く、歩いて三分もかからない。茅場町と言えば証券取引の中心である兜町の隣、その茅場町に隣接する八丁堀も、柾木からすると一つの巨大なビジネス街の一部でしかない。その中に、井ノ頭邸のような古い屋敷が点在する。新しい街は新しいビルだけ、古い町は古い家だけの地方都市を見慣れている柾木には、何度来てもそれが不思議でならない。

 井ノ頭邸では、工務店の職人が玄関と客間の内外装を治している最中だった。邪魔にならないように挨拶して玄関をくぐる。一瞬、また防壁に穴を開けたのかな、と思うが、だとしても柾木には何も打つ手が無い。

 入った玄関には人気がない。いつもなら、昨日までなら、応接間か台所には誰か居て、声をかけるまでもなく誰か出てきたのだが。

「おじゃまします、西条さん、いらっしゃいますか?」

 みんな地下室に居るのかも知れない。柾木は玄関から声をかけてから、地下室に繋がる階段に向かう。

 地下の緒方の研究室では、昨日と同じ顔ぶれの研究員がそれぞれ、何をやっているのか柾木には良くわからないが、一生懸命何かを調べていた。その中で、柾木は昨日玲子が声をかけていた研究員を探し出し、声をかける。

「あの、すみません、西条さんはどちらですか?」

 緒方のコンピューターらしきものと格闘していたその研究員は、声をかけられて初めて柾木の存在に気付いたようで、やや驚いて振り向く。

「え?ああ北条さんですか。何か御用ですか?」

「西条さんは、どこに居るか御存知ですか?」

「お嬢様ですか?さっきまでそこら辺に居て……ああそうだ、確か家に戻られたはずですよ」

「家、ですか?」

「誰かから電話が来たって時田さんが取り次いで。電話の後で、急用が入ったので一旦帰ります、ここは任せますって行って出て行ったんだ、うん。確かそうだったはず、なあ?」

 目の前の研究者は、奥の他の研究者に声をかける。奥の研究者は、こちらに振り向かず、自分の仕事を続けたまま首だけ頷く。

「電話、ですか?」

「話の中身はわからないですけどね、でも警察からの電話でしたよ」

 柾木はハッとする。警察からの電話なら、先日の刑事達以外にあり得ない。あり得ないと思い込む。だとしたら。

「ありがとうございます。ところで、西条さんのお宅って、どちらでしたっけ?」


「本当に、楽しいお食事でした」

 茅場町から東京メトロ日比谷線で中目黒、そのまま東急東横線に乗り換え、さらに自由が丘で東急大井町線に乗り換えて等々力に向かう電車の中で、柾木は再び昨夜のことを思い出していた。

「私、会社の方と一緒にお食事したのも、テイクアウトのお弁当を戴いたのも、初めてです」

 そう言って、玲子はセンチュリーの車窓で、本当に楽しげに微笑んだ。仮にも会社の創業者一族の令嬢である事、心臓の事、何よりも、玲子の目の事。本当に近しい者以外と、おいそれと会食など出来そうにないネガティブな理由なら事欠かないだろう玲子は、会社の社員と食事をした事などなかったろうし、ましてやテイクアウトのカレー弁当など口にする機会は本来無かっただろう。だからこそ、連れてきている社員、研究者は、色々な秘密を知るかなり会社でも中枢に近い者達のはずだが、彼らも同じ食卓で、玲子が買ってきた弁当を食べると聞いて目を丸くしていた。その食事中の様子を思い出して、柾木は少し暖かい物を感じる。食事中の玲子は本当に楽しそうだった。そして、玲子が、社員達から慕われていることも良くわかった。最初は近寄りづらい雰囲気こそあるものの、偉ぶることもなく、知識は豊富で、それでいて知らないこと、わからないことは素直に質問し、受け入れる度量もある。何より、人を使う才がある。喜んで使われようと思わせる、これはカリスマと呼んで良いものを持ち合わせている。自分でも本能的にそれを知っているのだろう、だからこそ、あえて最初は近寄りづらい雰囲気を自ら作っている、柾木は玲子をそう評価していた。よほどのことがない限り、西条精機の次世代は彼女に任せて全く問題無いだろう、そういう人物だと。

 だからこそ、柾木は気になっていた。

「柾木様、今日は、私のわがままにお付き合いいただいて、本当にありがとうございました」

 別れ際、玲子はそういって柾木の手を握った。

 玲子の目は、もう、臆することなくまっすぐに柾木の目を見ていた。柾木には、それがわかる。

「それでは、また……また、お会いしましょう」

 ほんの少しだけ言い淀み、そして玲子は振り向かず去った。手も振らず、窓を閉めて。

 最初にあった日も、偶然再会した日も、別れ際には必ず玲子は車窓から手を振っていた。

 昨日は、振らなかった。

 それが、柾木の胸の中に、重く、どうしても取り除けない石くれのように引っかかっていた。胸の中がムズムズしてどうしようもなかった。この体は、オートマータのはずなのにな。柾木は、不思議に思った。文系の自分には良くわからないが、それくらい、緒方の作ったこの体は精密、精巧に出来ている、という事だろう。その程度の理解しか、柾木には出来なかった。そして、そう理解することも、胸のムズムズを抑える足しにはならなかった。

 だから、来てしまった。西条玲子の自宅、世田谷区等々力の高級マンションの玄関前に。


 なんか、手土産にお菓子でも買ってきた方が良かったのだろうか……

 東急大井町線等々力駅から教えられた住所にあるマンション前まで歩く途中、数軒見かけたおしゃれで美味しそうで、ついでに高そうなお菓子屋さんを思い出しながら、柾木はマンションのエントランスで怖じ気づいていた。

 なんとなく、深窓の令嬢、業界屈指の企業の社長御息女の御自宅といえば塀に囲まれた洋風のお屋敷だろう、という安直なイメージを持っていた柾木は、まず聞いていた住所にあるのが高級マンションであったという事実に衝撃を受け、同時にそのマンションが自分のワンルームと同じ材料で作られているとは思えない高級っぷりである事に追加ダメージを受けていた。もしかして、材料のコンクリと鉄筋鉄骨だってウチのボロワンルームとは質が違うんじゃねぇの?位思ったところで、オートロック付きの上に受付の警備員からエントランスが丸見えであり、いかん、このままでは不審者か、よくて怪しい飛び込みセールスの鉄砲玉にしか見えない、と言う事に気付く。

 うわしまった考え無しで来ちまったけどどうしよう、柾木は、訪問セールスなどを生業とせざるを得ない業種に就職した、同期の新人の気持ちが理解出来た気がした。その時。

 エントランスから少し離れた所にある、車道に面した、地下駐車場に繋がるグリル形式のパイプシャッターが開く音がした。わずかに軋むシャッターの音に紛れ、微かに聞こえる、何度か聞いたV型十二気筒エンジンの囁くような排気音。同じ車が複数台この駐車場にある可能性など一顧だにせず、柾木は確信して駐車場入り口に走る。

 シャッターの脇に隠れるようにして、スロープを徐行で上がってくるセンチュリーのナンバーを確認する。やはり間違い無い。こういう状況から車道に出る前、ほんの少しだけ鼻面を歩道に出し、安全確認の為に必ず一旦停止する事を、最初に載った時の袴田の運転で気付いていた柾木は、今回もそうしたまさにその瞬間に、センチュリーの前に立ち塞がった。

 道交法上遮光フィルムを貼ることが許されないフロントウィンドウ越しに、時田と袴田の驚く顔が見える。後席に居るに違いない玲子の姿は、前席の影になり見ることが出来ない。柾木は、下腹に力を入れて袴田と、そして時田の目を見る。その目を数瞬見つめた時田が、後席を振り返り何事か呟き、返事を待ち、頷いて、柾木に向き直って目で合図した。柾木は、ゆっくりと左後席に近づく。

「柾木様、何の御用でしょう?」

 スムーズに下がったパワーウィンドウの向こうで、玲子が、低い声で冷静に聞いた。

「井ノ頭さんの屋敷に居る方から、玲子さんがこちらに帰ったことを聞いて来ました。刑事さんから電話があったんですか?」

「……ございました、しかし……」

「警察の方から、先日菊子様と緒方様を連れ去った車を見つけたと連絡がございました」

 玲子が言い淀んだその時、左前席の時田が口を挟んだ。常に飄々としている時田には珍しい、固い声だ。

「時田!」

「お許しを。差し出がましい事ではございますが、北条様には、すべてをお話になって納得していただいた方が良いかと」

 玲子が珍しく声を荒げたのを、時田は当然のこと、わかっていたかのように受け流す。実際、叱責されるだろう事は承知の上なのだろう。時田の表情には迷いが見えない。

「……刑事様方から、車を発見したので、今日これから現場に踏み込みますと御連絡を戴きました。私どもにも、同行しますか?と。勿論、私はご一緒させて下さいとお願いいたしました」

「じゃあ俺も一緒に……」

「ですが!これは危険を伴います。柾木様をそのような場所にお連れするわけには参りません!」

「危険って……」

 柾木の脳裏に、先日の井ノ頭邸での出来事がよぎる。

「でもそれなら、玲子さんだって危険じゃ……」

「お姫さまは、我々がお護りいたします」

 時田が、柾木の言葉を切って割り込む。

「ですが、北条様の御身までは保証出来かねます。お姫さまは、それをご心配されているのです。北条様には、お察しいただきたく」

 時田が、冷たく言い放つ。

 柾木は、井上邸で見た時田と袴田の様子を思い出していた。盛り上がった筋肉。鬼の形相。角こそ見えなかったが、最初に会った時に玲子が「この者達は鬼になった」と言ったのは誇張ではないと、その時に思った。そして、菊子に手を延ばし、結果、弾き飛ばされた。自分の役に立たなさ具合も良くわかった。役に立たないと、その時は思っていた。だが。

「時田さん、違います、俺も、玲子さんを護る側です」

 柾木は言い切る。

「柾木様?何をおっしゃって……」

「俺はケンカは出来ませんが、この体は力とスピードは人よりかなり上のようです。戦えなくても、玲子さんを抱えて逃げる事は出来ます、多分、誰よりも速く」

 玲子の抗議を遮った柾木の意見に、時田は一瞬言葉を失っていた。

「ははは、そりゃ正しい。時田さん、北条様の意見も一理あります、そうでしょう?」

 その時まで、ハンドルを握って前を向いて沈黙を保っていた袴田が破顔し、時田と柾木を見ながら言う。

「袴田!」

「我々がお姫さまを御守りする間に、誰かがお姫さまを連れて逃げてくれれば、我々も安心です」

 たしなめる玲子の声を無視し、袴田が続ける。

「確かに、それはそうで御座いますな」

 いつの間にか、いつもの飄々とした表情と口ぶりに戻った時田が同意する。

「時田、袴田、あなたたち……」

 玲子の声は固い。

「それに、車の行方がわかったなら、そこに俺の体があるかも知れない。俺が一緒に行く理由は、それだけでも十分だと思います。違いますか?」

「……お姫さま、どうやら我々の負けのようで御座いますぞ」

 愉快そうに、時田が玲子に進言する。

「……お好きになさいまし。私はもう存じません」

 玲子はそう言ってパワーウィンドウを閉じてしまう。ちょっと困って時田を見た柾木に、時田は頷いて、センターコンソールにあるドアロックスイッチを解除する。自分で乗れ、という事か。そう理解して、柾木は右後席に自分で乗り込む。左隣の玲子は目を逸らしている。

 袴田が改めて車を出す。センチュリーは住宅地を抜け、環状八号線の内回りに合流する。

「……玲子さん、心配してくれてありがとう」

 走り出してしばらくしてから、柾木はまだそっぽを向いている玲子に、思い切ってそう声をかけた。かなり気合いが要った。多分、テストで零点取ったのを親に言うよりも、ずっと。

「でも、友達なら、俺も玲子さんの心配させて下さい」

「……知りません!」

 膝の上に硬く指を組んだ手を置き、玲子はぷい、と顔を背けた。

……ああ怖い、早めにご機嫌治してもらわないと……

 柾木が、どうしたものか考えあぐねていた時。

「……北条様、くれぐれも、末永くお姫さまをよろしくお願いいたします」

 可笑しそうに時田が言う。

「あ、いえ、こちらこそ」

 時田が言外に含んだ意味に気付かず、柾木はなんとなく返事を返す。

 普段無口な袴田が、面白そうに含み笑いするのが、柾木にも聞こえた。

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