第5章 Side-B:おあいこ

「大丈夫ですか?お疲れみたいですけど……」

 寝不足気味の顔で髭を剃り、仕事に行く支度を整える酒井を、五月は気遣う。自分がベッドを占領している為、連日ソファで寝ている酒井に気兼ねしているのかも知れない。

「まあ、仕事ですから。警察官なんてこんなもんです。青葉さんは、今日も仕事行かれるんですか?」

「はい、夜のバイトを入れられない分、昼間の占いの仕事を入れられるだけ入れさせてもらいました。仕事ない時もなるべく仕事場にいるようにしようかと」

 人混みに身を置いている方が安全だ、青葉五月がそう考えているのが酒井に理解出来た。同時に、昨日合った狼女、蘭円あららぎまどかの様子を思い出す。あの話しぶり、あの雰囲気からは、再び青葉五月を襲いに来るような感じは受けなかった。そのあたりをキチンと聞き出せなかったのが悔やまれる。

 そんな事を考えていると、何かしらの気配を感じたのか、五月が酒井の顔をのぞき込む。

「どうかしたんですか?」

「いや、何でもありません」

 五月の首を斬った狼女、蘭円と接触した事はまだ五月には話していない。まだ話す時期ではないと、酒井は判断している。

「行ってきます、鍵をお願いします」

「はい、行ってらっしゃい」


 昨夜、井ノ頭邸から庁舎に戻り、情報を整理し終えて帰宅したのは終電ギリギリの事だった。蒲田はちゃんと帰れただろうか、酒井はまだ慣れない通勤電車の中で同僚を心配する。町田の方に住んでいると言っていたが、一人暮らしだ、もし寝坊しても多少は大目に見るべきだろう、そんな事を考えつつ、酒井はラッシュの東武東上線に揺られていた。


「おはようございます、はい」

 そんな酒井の予想を裏切り、定時十五分前に庁舎の事務室に到着した酒井を、蒲田は既に捜査方針打ち合わせの準備を整えた状態で待ち構えていた。

「……早いな、おはよう」

 完全に虚を突かれてそれだけ言うのが精一杯だった酒井は、自分の席について引き出しの鍵を開け、ノーパソを取り出す。

「僕が一番下ですから、はい。でも酒井さんも早いです、みんな大体ギリアウトくらいで来ますから、はい」

 それは警官としてどうだろう?酒井は素直に疑問に思うが、班長も管理官も問題にしていないのなら俺が考える事でもあるまい、そうも思う。

「それで、今日なんですが」

「うん?管理官はいらしてるのかな?」

「はい、あの人はいつも早いです、はい」

「じゃあ、朝礼終わったらすぐ行こう」

「はい」


「管理官、ちょっとよろしいでしょうか?」

 定時に始業、朝礼での班長からの本日の連絡事項申し送りの後、酒井と蒲田は岩崎管理官のオフィスを訪ねた。

「入りたまえ」

 管理官、階級で言えば警視長ともなると個別の執務室になる。少しだけ緊張して酒井は入室する。窓を背にし、パソコンを操作中の岩崎管理官の表情は、逆光になり読めない。

「失礼します。実は、現在捜査中の案件につきまして、管理官にお聞きしたい事がありまして」

「何かね?」

「……蘭円あららぎまどかというフリージャーナリスト、御存知でしょうか?」

 単刀直入に切り出した酒井の言葉を聞き、岩崎のパソコン操作の手が止まる。

 ゆっくりと、岩崎は酒井に向き直り、

「……会ったのか?」

「会いました。御存知なのですね?」

 酒井は名刺を見せる。

「……」

 堅物で切れ者、酒井は岩崎にそんな第一印象を持っていたので、目の前で今にもキーボードに突っ伏しそうにうなだれる上司の姿を見るのは意外だった。深いため息を一つついて、岩崎は、

「……蒲田君も、会ったのかね?」

「はい、会いました」

「そうか……いや、隠すような事でもないのだが。君たち以外で班員で面識があるのは鈴木君だけのはずだ。なので、私から公開するまでは他言無用に頼む」

「それは構いませんが、質問があります。東銀座で、そのあたりを嗅ぎ回るなら用心しろ、という意味の警告を受けました。詳細は管理官に聞けとも。どういう意味でしょうか、御存知なら教えていただけますか?」

「……硬いなあ、酒井君は。いや、分調班の班員はユルいのばっかりなんでね。まあ、掛けなさい、蒲田君も」

「は、失礼します」

「はい」

 執務机の脇の応接セットのソファを勧められ、酒井と蒲田は座る。岩崎は執務机から応接セットのチェアに座り直す。

「それを聞きに来たという事は、酒井君は既に色々体験したという事かな?」

 岩崎は蒲田に聞く。蒲田は頷いて、

「はい。捜査中でまだ報告書化してませんが、分調班の仕事については大体理解されたと思います、はい」

「ならばいいか。酒井君、既に君が分調班に来てから見聞きした事は、一般常識から考えてとても信じられない事ばかりだと思うが、どうかね?」

「は、確かにその通りですが、実際に見て、感じておりますから、信じるしかありません」

「硬いなあ。まあ結構な事なんだが。では、その信じられない事を専門にあつかう機関が存在すると言ったら、どうだ?」

「それは……あってもおかしくはないと、今なら思えます。お言葉からすると、あるのですね。国家機関ですか?」

「いや、うん、そうだ、ある。あるが、あくまで民間だ。民間と言って良いのなら、だが……君たちが会った女性は、その機関に属する、というか、その機関の重鎮だ。「協会」と呼ばれている」

「協会?なんの協会ですか?」

「ただの「協会」だ。いつから存在し、何をしているのか、私も詳しい事は知らない。だが、警察庁、警視庁、地方警察、自衛隊その他多くの機関に、政府機関、一般企業も含めて「協会」の関係者がいる、とは聞いている」

「……え?」

「まあ、その意味では私も関係者なのだろうがな。「協会」の事を知っており、大なり小なり何かしら「協会」に協力した事がある、という意味だ」

「協力、ですか?」

「詳細は言えない。私も職を失いたくはないからな、そういう事だ。だが、断じて人の道に外れた事はしていないとは言える」

「はあ……」

「……いずれ君にもわかる。あの人が名刺渡した相手を利用しないわけがないからな。まあそれはともかく」

 岩崎は気になる事をさらっと流したが、酒井はそこが猛烈に気になった。

「その「協会」の本部は通称「銀座大本営」と呼ばれてる。正確な所在地や入口は私も知らない。だが、そう呼ばれるからには銀座にあるのだろう。君たちが警告されたのは、そこに近づくな、入ろうとするな、入口を探すな、と、そういう事だ」

「つまり入口は隠してある、と言う事ですか」

 酒井は、昨日の一件に合点がいった。探す気になって手で触ると気付くが目には見えない入口。恐らく、探す気にならなかったら、触っても気付かなかっただろう。そういう類いの何か「不思議な事」が起きている、酒井にはそのレベルの理解で充分だった。

「確認なのですが、その「協会」というのは、非合法活動はしていないのですか?」

 酒井のストレートな質問に、岩崎は渋い顔をする。

「そういう聞き方をするという事は、非合法活動をしている現場を見たか聞いたかしたと言う事か。いやいい、後で報告書でくれればいい。その質問の答えは、ノーでもありイエスでもある。いや、正直に言おう。道交法と銃刀法違反は茶飯事だが、殺人その他は滅多に無い」

 酒井は岩崎の言った事を額面通り理解しようとしたが、出来なかった。

「……なんですか、それは」

「つまり、刃物や銃を使うような事態は発生するが、法的に殺人となるような事件にはなっていない、という事ですか?」

 蒲田が聞き返す。

「そういう事だ。つまり、酒井君ももう気付いていると思うが、これは分調班の仕事と非常に似通った内容を扱っている。事件が発生し、一見傷害や殺人があったように見えて、よく調べると法的あるいは生物学的には傷害や殺人に問えない現象。分調班が扱う業務には、実際に「協会」が関係している案件が散見されている。まあ、着任早々「協会」がらみ、しかもあの人に出っくわしたのは酒井君、君が初めてだがな」

「はあ、恐縮です」

 この返事で合っているのかいないのか、酒井は良くわからなかったが、とりあえずそう答えた。

「それで、その蘭円とはどういう人物なのですか?」

「……口止めされている件が多いので詳しい事は教えられない。そもそも私が知っている事自体、多分一部に過ぎない。君たちはどの程度知っている?」

「容姿と、仕事と……」

 酒井は、一瞬口ごもった。

「人ではない、という事くらいですか」

「……そうだ、彼女は人ではない。どう人でないかはもう知っているのだな。本人曰く、精密検査でも人にしか見えないらしいが。戸籍、住民票、運転免許証、住基カードにマイナンバーも持っているから日本国国民には違いない、法的には。それから」

 少しだけ、岩崎は声をひそめた。

「孫が三人いる」

「……は?」

 孫?子供でなくて?そんな歳には見えなかったが……酒井は、美魔女という言葉があるのを思いだした。

「あの子達をそう呼んでいたから間違い無い。なので、彼女の前で歳の話はするな。酷い目に遭う」

 どうやら、岩崎は酷い目にあった事があるらしい。ならば、先人の轍は踏まないよう肝に銘じよう。酒井は心に誓う。

「悪い人ではないんだが、どうにも一筋縄では行かん。一度気に入ると恐ろしく面倒見はいいのだが……おまけに押しが強くてしょっちゅう無茶を押しつけてくる」

 押しつけられてるのだな。心底いやそうな岩崎の顔を見て酒井は思う。

「君たちも気をつけたまえよ……そうだな、後で私から彼女に連絡を入れておこう」

「宜しくお願いします。それから、実はその蘭さんに、可能なら本日、もう一度アポイントメントを取ろうと思っております。実は……」

 そこまで来て、酒井は昨日のいきさつをかいつまんで説明する。

「……なるほど。ならば、その八丁堀にいたのは孫の方だろう。「協会」に借りを作る事になるが、貴重な情報を得られるかも知れん。わかった、その件も頼んでみよう」

「は、宜しくお願いします」

 酒井と蒲田は立ち上がって敬礼し、管理官の執務室を出る。

 出てから、酒井は、最初の夜、蘭円が青葉五月の首を斬った件について、岩崎に話し忘れていた事に気付いた。岩崎の口ぶりからは、蘭円という狼女はむやみに人の首を斬るような人物ではなさそうに感じる。ではどうしてあんな事をしたのか。

 正直、得体の知れない相手だが、仕方ない、直接聞いてみるか。まあ、人前で首を斬られはすまい。酒井は、五月の為にも、腹を据えようと思った。


 その日の午前は、酒井は昨夜まとめた資料に先ほどの岩崎から得た情報を付け足し、これからの方針を蒲田と打ち合わせ、また、鑑識から送られてきた、東京メトロが夜間の保線作業で発見してくれた弾丸――北条柾木の肉体の方を射殺した弾丸――及び鑑定結果と、二人の北条柾木の指紋の比較結果を受け取り、捜査資料に加えた。

 昼になり、少しなじんできた食堂で昼食を摂り、帰ってくると庁内イントラシステムで岩崎からメールが酒井と蒲田に来ていた。本日午後三時に、昨日の店で蘭円が待っている、という事だった。


「待ってたわよ、ボク達ぃ」

 昨日と同じ、ファン・ゴッホ歌舞伎座前店の一番奥のテーブルに陣取った蘭円は、入ってきた酒井と蒲田にそう声をかけた。昨日とは違う、シックな黒に近い濃いブルーのジャケット&パンツに淡い水色のカットソー、細いネックレスで首筋を飾っている。

 ……ボク達?さては、岩崎が「孫がいる」と言った事をもう知っているのだな。酒井はそう直感する。岩崎が俺たちにどこまで教えたか、確認する必要はなさそうだ。

「お呼びだてして申し訳ありません」

 酒井がチェアに座る前に言う。円は妙に機嫌が良さそうだ。

「いいのよぉ、あたし、あなたたち結構気に入ったんだから。で、何が聞きたいの?お姉さん何でも教えちゃうわよ」

 言って、既に頼んでいたらしいアイスコーヒーのストローを咥える。

「……管理官から、「協会」の事は伺いました、ほんの概要だけですが。その上で、昨日の事と、日曜から月曜にかけての事を、教えていただけませんか?」

 ストローを口から離し、円は酒井を見る。


 ウェイトレスが追加注文を取りに来る。酒井はアメリカン、蒲田はアイスココアを頼む。

「そうだ、忘れないうちにこれ、渡しておくわ。あの子に還しておいて。あんたのすぐ近くにいるんでしょ?」

 言って、円は紙袋を酒井に渡す。袋の口から見えるのは、赤い生地。受け取って、酒井は円を見返す。

「あの子のドレスよ。ちゃんとクリーニングしてあるから。あと、仕込んである暗器も全部あるわよ」

「暗器?」

「知らない?隠し武器。あの子、呪術も体術もなかなかのタマよ。このあたしの腕を落とすなんてここ数年いなかったもの」

 予想外が連続する展開に、酒井は混乱した。あの子というのが青葉五月を示すのは間違いないだろうが、実は生きているとはいえ、この円が五月の首を落としたのではなかったか?いや待て。そうすると、円は五月が生きている事を知っている?

「あなたは……」

「円でいいわよ」

「……円さんは、青葉五月が生きている事を知っている、のですか?」

「敬語もいらないわよ?そう、そんな名前だったっけ?生きてるも何も、え、何よ、あたしが殺した事になってるの?やーねぇ」

 円は顔をしかめる。それにしても物騒な事を堂々と話すものだ、周りに聞かれたら……気になって辺りを見回す酒井の様子に気付いたのか、円は、

「……大丈夫よ。この席は「協会」の予約席だから、何話してもまわりは気にしないように「おまじない」がしてあるわ」

 なんともはや。酒井は舌を巻き、そしてすぐに気付く。つまり、今ここで何かされても、周りは気がつかないって事なのか?ほぼ同時に同じ事に気付いたのか、酒井には、隣の蒲田が身を固くする気配が感じられた。

「……あたしの事、怖い?」

 酒井の顔色は変わっていたのだろう。まっすぐ目を見てそう聞かれ、どう答えたものか、酒井は返答に窮した。

「……はい。怖いです」

 蒲田が素直に答える。それを聞いて、円はにまぁ、と笑う。

「正直でよろしい。取って喰やしないから安心なさい……で、何、あたしが殺したって?」

「……違うんですか?鉄扇で首を刎ねたと聞いてますが?」

「確かに首を刎ねたわよ、でもほら、不可抗力ってヤツよ……あたしも腕斬られて火に巻かれてちょっと頭に血が上ってたのよねぇ、ちょーっとキッツいお仕置きがいるかなーって、おとなしくさせてからたっぷり説教してやろうって思っちゃったのよ、うん。本当よ?……ていうかあんた!思い出した!あの時あたしに体当たりしてきたヤツじゃないの!」

 バツが悪そうにそこまで言ったところで円は酒井の顔を思い出したらしく、声をあげた。ではあの時のあれはやはりこの円だったのか。酒井の中で記憶が繋がる。

「うわ、もう、あんたが邪魔しなきゃあのまま持って帰って泣いて謝るまで説教してやったのに」

 芝居がかった動きで、ソファにもたれつつ両手で額から目のあたりを覆って、円が言う。

「あんた、この貸しは高いわよぉ?」

 指の隙間から、円の目が酒井を睨む。

「……酒井さん、何したんですか?」

 円の勢いに、蒲田が不審そうに酒井を見る。この女、勢いに任せて脅しにかかってやがる。酒井はそう思い、だがすぐに思い直す。

 違う。この女、遊んでる。こっちの反応を試してるんだ。

「……いや、円さん、あなた、あの時、面白がってたでしょう?」

 酒井は、あの時の円の顔を思い出し、冷静に言う。

「え?」

 ぎくり。指の隙間から見えていた、円のにやついが目が凍り付いた。

「こっち見て、にやにやしてたの思い出しました。……まさかと思いますが、俺に青葉さん押しつけて楽しようとか何とか、そんな事考えてたんじゃないんですか?」

「そ、そんな事、ない、わよぉ?」

 ため息をついてから、酒井は努めて冷静にそう言った。

「……まあいいです。とにかく、あなたは殺すつもりでやったわけではない、そういう事ですね?」

 酒井が矛先を収めたのを見て、もう一度、にやりとしてから、円は、

「……そうよ。本当はね、ヤバい呪符を使う不逞の輩がうろうろし始めたから、近い系統の術を使うあんたも気を付けろ、もし万が一ヤツらに関係しているなら今のうちに手を引け、何ならこっちに付け、そしたら助けてもあげられる、って言おうとしてたのよ」

 円の声のトーンが一段落ちた。さっきまでのおちゃらけた態度はこちらの反応を引き出す演技なのか、それとも素なのか、酒井は測りかねた。

「でもあの子、誰かに何かふき込まれてたみたいねぇ。最初っからケンカ腰なんだもん、あげくに路地に罠仕掛けて待ってるんだから大したもんよ?あれ、あたしが行くことを知ってたって事だもの」

「罠、ですか?」

 月曜の午後に青葉五月から聞き出した内容を思い出しつつ、酒井が聞き返す。確か、符を使って爆発を起こした、とは言っていたが。

「占い師としてもいい腕よ。あたしが来ることを知ってたのね。それに、ここに掛けられてるのと同系列の、「見えてるけど認識されない」系の術と、爆煙を生む術を仕掛けてあったもの。誰かが符を剥がしたから良かったけど、危うく蒸し焼きにされるところだったわ、誰にも知られずに、ね」

 それくらいじゃ死にゃしないけどね、言って円は笑う。笑って、アイスコーヒーを飲む。

「でも、あたしじゃなきゃ結構ヤバかったわよ?なんで、危なくて仕方ないし、誤解を解こうにも話聞きゃしないから、話聞ける状態にしようと思って強引に動けなくしたの。ただ、ちょっとやり過ぎたかな~って思ったところにあんたが飛び込んできたから、ちょっと頭冷やして貰おうと思って押しつけたの。ゴメンね?でも、あの時はあんたなら適任だと思ったのよ?こんなチャンス滅多に無い、くらいにね」

「……どういう意味です?」

「わからないの?」

 しばし、不思議そうに円は酒井の目を見、何かに気付いて一瞬鼻をひくつかせる。

「……そういう事か。分からないならいいや、ゴメン、多分これあたしの口から言って良い事じゃないんだわ、きっと。思わせぶりな言い方してゴメンだけど」

 円が体の前で開いた掌を振る。

「何の事です?」

「さあ……」

 蒲田が、酒井に聞く。だが、酒井に分かるわけがない。俺が離婚されそうな三十男だから、だろうか?そんな自虐めいた事を酒井は考える。

「とにかく、その服返すついでに、出来たらあんたの口から誤解だって言っといてくれない?恩に着るから」

「……一つ、聞いて良いですか?」

 暗黙裏に円の依頼を了承し、酒井はさっきから疑問だったことを円に聞く。

「何故、俺の近くに青葉さんが居るってわかったんですか?」

「そのシャツ、あの子が洗ったか畳んだかしたでしょ?あの子の匂いがするわよ、良い子じゃないの……あたしがどういうものだか、岩崎から聞いてるんでしょ?」

 酒井は、思い出した。目の前のこの女は、鼻の利く人狼だった。


「お帰りなさい、今日はそんなに遅くならなかったんですね……何ですかその荷物」

 午後八時過ぎ、帰宅した酒井を五月が出迎えた。怪訝な目で酒井の持つ紙袋を見る。

「ただいま。後で話します」

「?……ごはん、すぐ用意出来ますけど」

「ああ、先に風呂浴びさせて下さい」

「……はい」

 限界、かな。五月の様子に、探るような感覚を感じた酒井は、経験から、そう思った。


「お口に合いませんでした?」

 今ひとつ妙な雰囲気のまま、夕食を終えた所で、五月は酒井に聞いた。

「いや、そんな事ないです。おいしかったですよ」

「……酒井さん、やっぱり私、ご迷惑でした?ご迷惑ですよね……」

「いや、そんなことは」

「だって酒井さん、昨日から私を避けてますもの」

 やばい。思った通りだ、地雷だ。酒井は心の中で天を仰ぐ。避けているわけではない、ないのだが、円の一件があって、どう話したものか昨日から逡巡していたのは事実だ。それに、そもそも、職場の了解は取り付けているとはいえ、離婚の瀬戸際にある自分が、いや瀬戸際にあるからこそ、若い独身女性と一緒にいる事に色々と思うところがあり、つい距離を取ってしまっている事も事実だ。

 酒井は、結婚生活で似たような地雷原は幾度か経験していた。当時の既婚の同僚と話しても大抵同様の経験があったし、そして、男の側から出来る事は一つしかなく、だが悲しい事に、その成否は全くもって女性の側にかかっている事も、経験上良くわかっていた。

「……青葉さん、丁度いい、お話があります」

「……はい」

「なるべく冷静に話しますから、最期まで聞いて下さい。お願いします」

「……はい」

「まず、俺は青葉さんを迷惑だとか、避けているとか、そういうのはありません。そこは間違い無いです。ただ、そう思われる行動をしていた事は認めます。心当りはあります」

「……」

 五月は無言、無表情で聞いている。何度経験しても女性のこれが怖いのだが、酒井は既に覚悟を決めていた。

「まず、俺は警察官です。その上に、お話したとおり、離婚を持ちかけられているとはいえ、妻帯者、妻子持ちです。職場の理解があるとはいえ、緊急避難的なものだとはいえ、若い女性と一緒にいる事に、その、色々と考えてしまうわけです。倫理的な事とか」

 五月の表情は動かない、読めない。正念場だ。酒井は唇を舐めて湿らせる。

「蒲田君のような若い、独身の警官ならともかく、万が一にも間違いがあってはいけないとか」

 蒲田君、酷い例に使ってすまん。

「特にこのご時世、何も無くても、いや、青葉さんがそんな事するとは思ってないですが、万一訴えられたら俺はどうにもなりません。いやホントに青葉さんがそんな人ではないと思ってますが、下衆なマスコミとか、私なんかいいカモにされます。そうすると、周りにも迷惑を掛けてしまう。一度そんな事考えてしまったら、もうどうにも。青葉さんに親切にしていただくほど、そうです、どうしていいか、もうホントに」

 もう少し上手く話せるつもりだったが、いざとなるといつもこうだ。酒井はほぞを噛む。

「だから、すみません、余計な心配とか、悩ませてしまったなら、俺のせいです。青葉さんは悪くないんです。俺が臆病なせいで、心配掛けてすみません」

 テーブルのこちら側で頭を下げる酒井を見て、五月は深く息を吐く。

「やっぱり、私が酒井さんを困らせてるんですね……」

「いやそうじゃありません……いや」

 酒井は、逃げるのを止めた。それは、本心ではない。

「そうです、本当を言うと、困ってます」

 五月がハッと顔を上げる、腫れぼったくなった目で。

「青葉さんのような女性を、どう扱っていいか、俺はわからないんです。だから、困ってます……この際だから聞かせて下さい。なんで、俺なんですか?」

 下心、腹づもりがあるのか無いのか。どうしても疑ってしまう。なんで、自分に?腹づもりがあるにせよ、だったら独身の蒲田の方が面倒はないはず。あえて面倒を起こしたいのなら別だが……そのあたりが、自分に価値を認められないのが、三十男の酒井の悲しい自己評価だった。

「……最初に占った時」

 五月が、ぽつりと言った。

「この人は、嘘がつけない、世渡りが下手な人なんだなって。出世とかも縁遠い、ごめんなさい、ダメな人なんだなって、分かったんです」

 五月が、酒井を見る。

「奥さんは、きっと、酒井さんを嫌いになりたくなかったんです。嫌いになる前に、好きでいる間に別れようって。そういう女の人っているんです。キレイに別れたいって。男の人は違うっていいますけど。占い関係無しに、そう分かったんです」

 五月が、微笑む。腫れぼったい目で。

「最初の日、泊めていただいて、それが合ってるって再確認しました。酒井さん、やっぱりダメな人だって。てんで女の人に弱い、でも嘘もつけない、嘘ついてもすぐバレる人だって」

 五月の目尻から、一粒、涙がこぼれる。

「奥さんがうらやましいって思いました。だって、きっと、ずっと甘えさえてくれるだろう、わがまま言っても許してくれるだろうって。だから、いらないならもらっちゃえ、その時そう思いました。でも、わかりました。奥さんもきっと、それが辛くなったんです。酒井さんは酷い人です。優しくて、私みたいなバカな女、わがままな女は、それに甘えて、甘えただけ辛くなるんです」

 酒井は言葉が出なかった、何と言うべきかわからなかった。そういう時は下手な事を言うべきではない、それだけはわかっていたが、幼女のように涙をこぼす五月は、酒井の胸の奥を締め上げた。

「私、ここにいちゃいけない。わかってるんです。わかってて、でも甘えて、その分もっと辛くなって。でも、外に出るのが怖い。一人になるのが怖いんです。酒井さんが帰ってくるまで、本当に怖いんです。他のところじゃ、きっと安心出来ないと思う。だって……」

 酒井には、論理が破綻しているからこそ、五月の不安はよく理解出来た。死の恐怖。異形に殺される恐怖。それが心に染みついてしまっているのだろう。

 何か言葉をかけてあげたい。だが、何と?迷いの頂点で酒井は、目の隅に見えた紙袋を思い出した。

「……安心出来たら、怖くなくなったら、どうです?」

「え……?」

 酒井が何を言い出したかわからず、五月は泣き濡れた顔を酒井に向ける。

「落ち着いて、冷静に、良く聞いて下さい」

 今しか無い。こっちが本物の正念場だ。酒井は、覚悟を新たにした。

「俺は、青葉さんの首を斬った狼女に、会いました」

「……え?」

 その言葉の意味するところが理解出来ず、五月は酒井を見つめる。

「名前は蘭円。これを返してくれと頼まれました」

 言いながら、紙袋を渡す。受け取った五月の表情が硬くなる。

「良く聞いて下さい。彼女は、青葉さんを殺すつもりなど最初からなかったと言いました。ただ、青葉さんが話を聞いてくれないから、仕方なく動けないようにしたと」

「……嘘!あいつは!」

「落ち着いて最後まで聞いて下さい。今、俺は、別件で彼女の協力を得なければならない立場に居ます。その別件は、北条柾木という男性が関係してます」

 一瞬、聞き覚えのあるその名前を思い出そうとしたのだろう、わずかに眉根を寄せた五月は、すぐに目を見開いた。

「そうです。青葉さんが首を斬られた時、側にいた男性です。もう一度言います。最期まで落ち着いて聞いて下さい」

 そして、酒井は五月に、かいつまんだ状況を話した。捜査中の状況を一般人に話すのは御法度だが、五月は関係者中の関係者だ。円が何を追っていたか、五月の元に円が来た理由、北条柾木のその後、北条柾木に関係する井ノ頭菊子、緒方いおりが拉致された件。そして、「協会」の存在。

「細かい事は省きましたが、概要はこんなところです。話のつじつまから、我々は蘭円とその関係者は、悪意を持って殺人をするようなものではないと判断しています。むしろ、井ノ頭菊子、緒方いおりを営利誘拐した犯人グループを追っている、そのグループに接触されないように、青葉さんに警告あるいは保護しに来た、そう考えてます。ただ、何らかの不幸な行き違いで青葉さんは現状に至っている、その事については、蘭円からは、俺から代わって詫びて欲しいと頼まれました」

 理解が追いつかないのか、頑張って咀嚼しているのか、泣きはらした目の五月は、やや俯いたままだ。ややあって、

「……酒井さんは、西条玲子さんとはお話になりましたか?」

「西条精機の御令嬢ですね、事情についてお互いに説明しあいました」

「では、玲子さんは私が生きている事を知っているのですね?」

「……すみません、それ、俺も蒲田も言い忘れてました……」

「酷い……」

「本当にすみません。その時もう色々あっていっぱいいっぱいで、いや言い訳です、すみません」

「……本当に、酷いです……これじゃ、私がもう、わがまま言ってここに居られないじゃないですか……」

「……え?」

「酒井さん、本当に酷い人です……その狼女は凶悪な悪魔だって私に教えてくれたのは玲子さんです。だから、玲子さんが私に嘘を教えたって事ですよね?」

 一度は停まっていた五月の涙が、またこぼれそうになっている。

「そうなんですか?いや、西条玲子さんも「協会」とそれ以外のグループを混同している可能性が高いと思います。端から見たら区別つかないでしょうし、むしろ、遠距離から呪いだ何だを使うグループより、目の前で爪と牙で戦う方が疑われても仕方ないでしょう」

 これは、実は円から指摘された事だ。昨日、彼女の孫が西条玲子にものすごい剣幕で罵られた、心当りは無いが、思い当たる事はある。多分、いくつかの現場で、あたし達は目撃され、誤解されている、と。出来ればその誤解も解いてくれ、やりにくくてしょうがない、と頼まれたのだ。

「だから、西条玲子さんにも悪意があったとは思えません。実際、お会いしてもそういう感じのお嬢さんではなかったですし」

「……本当は、分かってたんです……」

 唐突に、五月が呟く。ぼろぼろと涙をこぼしながら。

「あの女も、私の首を斬った時、言ったんです。誤解だって。玲子さんだって、私に嘘をつく人じゃないし……だから、本当に、私はここに居る意味ないですね……」

「いやまあ、蘭円さんの件についてはそうなりますけど、青葉さんが何者かに狙われているというのはまだ確かなんだと思えますから、保護という意味ではまだ、その……」

「……でも、酒井さんは迷惑だって……」

「……迷惑だなんて言ってない!」

 酒井の中で何かが切れた。つい語気が荒くなった。まったく、女ってのはどうしてこう、言ってもいない事を脳内補完して事実のように。違うって何度言っても言っても同じ事を。過去に幾度かそれで嫌な思いをしている酒井は、うっかり語気を強めてしまい、ビクッとしている五月を見て、しまったと思う。

「あ、すみません、つい……とにかく、迷惑だとは言っていないはずです。ただ、若い女性の扱い方がわからなくて、困ってるとは言いましたが」

 まだ目を丸くしている五月に、酒井は、頭をかきながら、

「……正直言うと、帰ってきた時、お帰りなさいって言ってもらえるのが、俺は凄く嬉しかったです」

 本音を言う。

「……私、ご迷惑じゃないんですか……?」

 濡れた目が酒井を見つめる。

「迷惑だとは言ってないですって」

 慎重に、酒井は言葉を選ぶ。

「まだ、ここに居てもいいんですか?」

 居て欲しいか欲しくないかで言えば、居て欲しい。だが、それは言ってはいけない台詞である事を、酒井は承知していた。

「……危険からの保護、と言う意味では、まだ事態は進行中です……俺は、甘やかしてるつもりはなかったんですが……わがまま言わないでくれるなら。ただし、一段落するまでですよ?」

 酒井は、イエスかノーかで答えるのを避けた。

「……酒井さん……本当に酷い人……」

 酒井の心情を理解したのかしていないのか。五月は笑った。泣きながら。

 酒井も苦笑する。可愛い笑顔、泣き顔だと思ってしまう。やはり、青葉さんはずるい女だ。酒井は思う。素なのか芝居なのか、そんな顔で泣かれたら、放り出せる男がいるわけ無い。素でも芝居でもどっちでもいい、俺が独身だったら……そう思ってしまう、思わせてしまうところが、怖い。

 意気地がねぇなあ、飛び越えちまえよ。悪魔の囁きにいつまで耐えられるか、酒井は自信がなくなってきた。


「……やだ、私、酷い顔してますよね、恥ずかしい、ちょっとごめんなさい」

 言って、五月はぱたぱたと洗面所に駆け込んだ。その後ろ姿を見送って、それにしても、と酒井は思う。女性って、あんなにくるくる表情が変わるものなんだ。酒井は、記憶の中の女房の顔を思い出そうとする、が、薄ぼんやりとしか思い出せない。その事実に酒井は愕然とした。妻だけでなく、子供の顔も、いや、住み慣れていたはずの家、駐在所すら薄いもやがかかったようだった。それはまるで、酒井自身が、思い出したくない事であると思っているかのようだ、酒井はそう感じた。きっと事件の影響に違いない。そうに決まってる……

 ややあって、顔を洗ったらしいスッピンのままで、五月が洗面所から出てきた。何か言おうとして、やや腑抜けている酒井を見て、怪訝そうに首を軽く傾げた。

 酒井は、曇った頭で、その顔を見て思う。最初に会った時の、夜の仕事用メイクだろうその顔。今見ている、スッピンの顔。ある意味一番見慣れた、部屋の中用の、薄化粧の顔。どれもが青葉五月であり、でも、どれも違う。俺は、今までそんな事を考えた事があっただろうか?女房の顔もろくに思い出せないのは、つまり、そんな事も意識せずに見ていたからじゃないのだろうか……

「やだ、そんなに見ないでください」

 洗いざらしの顔をタオルで拭きつつ洗面所を出てきた五月は、酒井に見つめられている事に気付き、顔の下半分をタオルで隠す。首の状態に相当慣れたのだろう、そうしていると、テーピングが目立つ以外はあまり不自然さは感じない。初めて見る、ヘアバンドで上げた前髪、丸出しのおでこが新鮮だ。

「あ、いや、すまん」

「……どうかしました?お疲れなんじゃ……私が疲れさせちゃいました?」

 さっきまでの事を言っているのだ、酒井は気付く。

「いや、そうじゃないんだ。ただ、ちょっと」

「ちょっと、何です?」

 五月がたたみ込む。ひと泣きして、顔を洗って、少し気が晴れたのかも知れない。さっきのは、緊張が、ストレスが限界に来ていたのかも知れない。酒井はそう感じた。そして、多分、自分もそうだったのだ、それに気付いた。

「……思い出せなかったんです、女房の顔を」

 五月の顔が曇る。

「他の女性に言う事じゃないんで。それはわかってます。だけど、申し訳ないんですが、さっき青葉さんを見てて、ああ、女性ってあんなに表情が豊かなんだな、って初めて気が付いた気がしたんですよ。で、女房はどうだったっけ、って思ったら、思い出せないんです」

「それは、記憶が……」

「子供の顔もはっきりしないんですよ。俺はきっと、その程度にしか女房も子供も見てなかったんですよ。それに、気が付いたんです」

 五月が言葉を探しているのが表情からわかる。酒井は、部屋に備え付けの金属製マグカップを両手で包むように握り、自嘲的に、かすかに笑う。

「俺にとって家族ってそんな程度だったって事で。情けない話です。そりゃ離婚もされて当然だ」

 酒井は見合い結婚だった。五年前、上司のすすめで見合いをし、結婚し、駐在所勤務になった。警察官としても、夫としても、模範的にあろうとしていた、円満であったつもりだったのだが。

 男としては、中身が無かったのかも知れない。唐突に、酒井は、そう思えてしまった。そう思ったら、突然、自分のすべてがくだらないものに思えてしまった。疲れているんだ、新しい環境、わけのわからない仕事。俺もストレスが限界に来ているんだ。頭ではわかるが、わかったからと言って気持ちが切替えられない。さっきまで五月の感情の高ぶりをなんとかしようとしていた自分がおこがましいとさえ感じる。

「俺は……くだらないヤツなんです……」

 情けない。五月が聞いている事を知っていて、弱音を吐いている。慰めて欲しい、助けて欲しいくせに、そう言わず、かっこつけて、向こうから手を差し伸べてくれるのを待っている。気持ちがどんどん沈み込み、体の奥、胃の裏あたりがドス黒く染まっていくような気がする。

「酒井さん!」

 突然、五月の鋭い声が、衝撃を伴って酒井の心胆を貫いた。ハッと我に返った酒井は、五月に背中をどやしつけられたのだと気付く。だが、衝撃は感じたが痛みは無い。酒井は顔を上げ、すぐ左に片膝をつき、右の掌底を酒井の背中に当て、まなじりをつり上げて酒井をにらむ五月を見た。

「正気を、取り戻しました?」

「……え……?」

 表情を緩めた五月を、酒井は腑抜けた目で見る。

「とりあえず、力を抜いて、ゆっくり立って下さい」

 言われるままに、酒井は立とうとする……立てない。全身の筋肉がコチコチにこわばっている。両手をテーブルに突こうとして、酒井は驚愕した。

 両掌の間で、マグカップがぺしゃんこになっていた。


 修験道の技です、私のは生半可ですが。そう言って、五月は、えい、えい、と酒井の全身を叩くようにして気合いを入れていく。程なく、酒井は体を動かせるようになった。が、手の中でくしゃくしゃのぺしゃんこになったマグカップを見て、

「俺が……やったんだよな……」

 驚きを隠せない。それを見た五月は、

「お風呂、入れさせてもらいます」

 唐突に言いだし、酒井を残して小走りに浴室に向かい、ユニットバスの湯船に湯を張りだした。そして、戻って来るなり、

「酒井さん、お話があります。それが終わったら、お風呂に入って下さい」

「どういう……」

「酒井さんの体に、悪いものが付いてます。清めた方が良いです」

 酒井が見た事がない、恐らくこれが本来の拝み屋としての青葉五月、いやあおい五月なのだろう、そう思わせる強い意志のこもった眼差しで酒井に言った五月は、続けて、

「……私も、酒井さんに言っていなかった事があります。それをお話します」

 意を決した瞳で、そう言った。


「私が何故首を斬られても生きているのか、ずっと考えてました」

 湯は自動で停まるから、もしかしたら話が長くなるかもなので、お茶を入れましょう、そう言って五月は日本茶を――五月が買ってきたティーバッグだ――入れ、ローテーブルの自分と酒井の前に置く。

「それは、蘭円がそうしたからでは?」

 床に置いたクッションの上に横座りする五月を見ながら、酒井が聞く。

「それはそうなんですが。私がそれを聞いたのはさっきですから。それまでずっと考えてました、いえ、考えてたのは短くて、結論を認めるのが怖くてずっと悩んでたんです」

 対面にあぐらをかく酒井を見ながら五月が言う。湯飲みに手を伸ばすが、軽く触れるだけだ。

「これを言ったら絶対に酒井さんに嫌われる、少なくとも避けられると思って。そしたら、ここに居られなくなるって。それが嫌で、怖くって黙ってたんです。でも、やっぱり、言っておかないとダメだって、決心しました」

 湯飲みに触れた自分の指を見ながらしゃべっていた五月は、テーブルの上で両手の指を組み、顔を上げて酒井を正面から見つめた。

「酒井さん、私……鬼に、なってしまっているようです」

 呪いの言葉を吐くように、苦しげに五月は言う。酒井は、その言葉の意味がよくわからなかった。だから、返事も相槌も出来なかった。

「あの女に言われて、初めて気付きました。首を斬られた時、あの女に「恨み辛みで鬼になったのか?」って言われて、その時見えたんです、自分の顔が。鏡に映って」

 五月が顔を伏せる。組んだ指が震えている。

「二度と見たくない、あんな顔。でも、今でもたまに、鏡を見ると、その顔が映るような気がして……」

 言って、五月は顔を伏せる。

「……どういう……」

 顔が見えたんだ?酒井は聞きたい気持ちと、聞いてはいけない気持ちの狭間で揺れていたが、それだけ口から出ていた。

 少しだけ顔を上げ、五月が言う。

「般若、です。一言で言って、般若」

「……般若……」

 能面の般若の面は、ビジュアルとしても酒井も知っている。確か、女の情念が成り果てたものだとか何とか。五月の整った顔とその面とが、酒井の頭の中で結びつかなかった。いや、それ以前に、

「……ちょっと待って下さい。鬼になったって、そもそも人が鬼になるようなものなのか?」

 酒井の中で、五月に丁寧に話す余裕が失われていた。

「玲子さんのせい、と言いたくはないのですが、影響はあったと思います。私は、人外のものに対する憎悪に取り憑かれてたんでしょう。私の仕事や過去も関係しているんだと思います。あの女が言うとおり、恨み辛みで鬼に変じた、その通りで、それくらい人外のものを憎んでいたんでしょう」

 玲子というのは西条玲子か、影響とは、「協会」の事を間違って認識していた件か?玲子の邪眼を知らない酒井は、そう理解した。

「憎しみで、人が鬼になる、ようなものなのか?」

「憎しみや恨み、苦しみ、それらが心に鬼を住まわせる……さっき、理解出来ました。酒井さんの前で泣いて、かっこ悪いところ見られて、もうどうでもいいやって開き直って鏡を見たら、平気だったんです。酒井さんの事だけじゃ無くて、多分、あの女の事が誤解だって分かったから、だと思います……私、今でもあの女は嫌い、仕返ししたいけど、前みたいに憎いとか、殺してやるとかは今は思ってないのがわかったんです」

 なかなか物騒な事を五月は言う。それはそれで問題だが、なら、とりあえず蘭円に頼まれた件は解決だな。酒井は目の前の話と違うところでほっとした。だが、次の五月の言葉で、肝が凍る。

「……酒井さんも同じです、同じだと思う。さっき、酒井さんの心にも、鬼が居るのが見えました」

「……うあちっ!」

 どきりとして、酒井は思わず湯飲みを両手で握りしめ、まだかなり熱いそれから慌てて手を離す。

「大丈夫ですか?」

「ああ、大丈夫大丈夫。けど、俺に、鬼?」

「そうです。それが証拠です」

 言って、五月は潰れたマグカップを目で示す。

「普通は握力だけで潰せるものじゃ無いと思います、けど、あの時の酒井さんは、心の闇に引き込まれて、鬼になりかけていたから。体も鬼になりかけてたから、その後すぐに立てなかったんです」

 だから、話が終わったらお風呂入って清めてきて下さい。五月はそう言って一口茶をすする。湯飲みを置き、その湯飲みに視線を落としたまま、五月は、

「……酒井さんは、失礼だけど何かそれくらい酷い心の闇を持っている、そういう事です。その原因は、私は知りません。けど、心当りはあります。最初に会った晩、お店で占った時、私、ケルト十字の過去の事は言いませんでした。大過去に悪魔、小過去に塔、両方正位置。怖くて言えなかったんです」

 五月が視線を上げ、言葉を切る。

「それって、悪いんですか」

 聞かずもがなの事を、酒井は聞く。声がうわずっているのが自分でもわかる。

 五月は、ゆっくり頷く。

「大変悪いです。後でご両親が亡くなっていると聞いて本当に怖くなりました」

「それは……」

 やや身を乗り出した酒井だが、最後まで言葉を繋げなかった。それは、自然死ではないと言う事か。そう聞きたかったのだが。

 だが、五月は酒井が聞きたかった事を理解していたように頷く。それを見て、前のめりに少し浮いていた酒井の腰が座布団の上に落ちる。

「そうか……俺の親は……」

「記憶としては覚えてないって言ってましたが、心には闇、というか傷が残っているんだと思います。警察官になったのも、酒井さんが真面目なのも、多分そのせい。これは占いじゃなくて、私がそう思うんですけど。それで、こっちは占い、カードからのインスピレーションなのですが、多分、ご両親の件と、ひと月前に酒井さんが大怪我された件は関係しているんだと思います」

 酒井は目を見開いた。五月を凝視する。

「あの晩は、簡単にしか占っていないので、証拠とか言われると困るんですが。それで、酒井さんは自分で心を閉ざされて、それの影響で記憶が一部おかしくなっている、その事を、酒井さんに近しい人は、多分、気付いてます」

 酒井は体が不安定に沈み込むような、渦巻きに巻き込まれるような気がした。そうだ、だから署長は何も言わなかったのだ。自分でたどり着けとは、こういう事か。

「すみません、酒井さんの近しい人に対して、知った風な事を言いました。けど、これが、あの時酒井さんに言わなかった、占いの過去の部分です。で、さっき、それが大体合ってたって確信しました、出来れば確信したくなかったんですけど……」

「……いや、いいんだ。多分、青葉さんの指摘は合ってる。辻褄は合うんだ」

 酒井は、自分の手を見る。

「俺の親は、誰かに殺された、ひと月前、俺はその犯人に出くわし、大怪我をした。多分、そういう事なんだろう」

 酒井は五月に目を戻す。五月が、悲痛な目で自分を見ているのを知る。

 唐突に記憶が、ごく一部が、フラッシュバックする。見覚えのある夜の林、銃を構える自分の手。蜘蛛に似た,、得体の知れない大きな影と、その周りの人に似た何か。怒号と銃声。破壊されたミニパト。そして、うすぼんやりした家族の顔の、ただそこだけくっきりと見える、恐怖に開いた目。

「署長達はそれを知っていた、だが、下手にそれを教えると俺が精神的におかしくなると思って隠した……それくらい、その時の俺はおかしかったって事か……だから、女房子供は俺から離れた……はは、なんだ、簡単な事じゃないか」

 酒井は、嗤った。こんなわかりやすい事が分からなかったなんて。愚かな自分を、嗤った。嗤って、泣いた。あぐらをかいた両膝に、両の拳を叩きつける。嗚咽が、食いしばった歯の間から漏れた。

「酒井さん……あの」

「すまなかった……怖い思いさせちまったんだろうなぁ……こんな、俺の為に……」

 五月は、もう一度酒井の左脇に座り、酒井の背中を、今度は優しく撫でた。


 お風呂を浴びてきて下さい、漬かるだけで構いません。ただ、頭から水かお湯をかぶってきて下さい。そう五月に言われ、ひとしきり涙を零した後、酒井はバスタブに浸かった。

 浴室を出ると、五月がコップ一杯の水を渡し、飲めと言う。なんだか少し放心してしまった酒井は、言われるままにその水を飲み干す。五月は、符を焼いた灰を溶かした水です、念には念をです、と言った。

「なんか、かっこ悪いな」

 少し落ち着いて、ローテーブル前にあぐらをかきなおした酒井が言う。

「お互い様です。さっき私も、凄くかっこ悪いとこ見られちゃったんですから」

 コップを洗いながら五月が返す。返して、振り向いて微笑む。

「かっこ悪い同士、おあいこです」

「そう、だな」

「気は、楽になりました?」

「おかげさまで」

「男の人も、泣いていいんですよ?占いも、お酒の店も、そういう人いっぱい居ます」

 洗い終わったコップを食器かごに入れ、手を拭いた五月が冷蔵庫から何かを出しながら言う。

「そりゃまあ、そうだろうけど」

「我慢は良くないんです。心の鬼は、人は誰でも持ってるけど、過ぎた我慢や悲しみ憎しみ、そういうもので成長するんだって師匠に教わりました」

 呑みますでしょ?そう言って、缶チューハイ二本とチョコレート菓子を持ってきた五月は酒井の斜め向かいに腰を下ろし、持ってきたチョコレート菓子を開け、自分の口に一欠け放り込む。今日か昨日か、自分で買ってきていたのだろう。五月自身はもうすっかりリラックスしているようだ。

「まあ、まさか自分で思い知るとは思ってませんでしたけど。でもなんか、私、酒井さんには申し訳ないですけど、色々吐き出したみたいですっきりしました。酒井さんも、さっき吐き出したから、かなりマシになってるはずですよ」

 五月はチョコレート菓子を酒井に差し出す。

「マシ、か」

 一欠け受け取って、酒井は口に放り込む。

「はっきり言って、酒井さんのは私より根が深そうなんで、まだ出し切ってないと思います。出し切ったら記憶も戻ると思います」

 五月は二欠け目を口に入れる。

「いざとなったら、私に吐き出して下さい。私なら、さっきみたいに何とか出来ます」

 三口目を手に取って、五月は微笑み、

「そのかわり、私も他人事じゃないんで、もし何かあったら、酒井さんを頼らせて下さいね?」

「……まあそれは仕方ないか。他の人には言えないものな」

 酒井は缶チューハイのプルタブを開ける。そして、自分の言った言葉がきっかけで、唐突に昼間の蘭円の言葉を思い出す。

「……?」

 缶チューハイを持ったまま停まってしまった酒井を見て、五月が小首を傾げた。

「いや、蘭円さんに言われたのを思い出したんだ。金曜の夜の事、俺が適任だと思ったから君をおしつけた、って」

「それって……じゃあ、あの女は、酒井さんのこと、気付いていた……?」

 少し険しい顔で、五月が言う。

「そういう事になるな……まいったな、掌で転がされてるみたいだ」

 ふう。ため息をつき、五月は肩の力を抜いた。

「本当。歯が立たなくて当たり前だわ……もう、やっぱり悔しい」

「あ、でも円さんは青葉さんを褒めてたぞ、あそこまで追い込まれたのは久しぶりだとかなんとか」

 もう一つ思い出したことを酒井は口にした。チューハイを一口飲んだ五月は、

「……複雑だな、それ。完全に上から目線で言ってますよね」

「まあ、そうだな」

 酒井は素直に同意する。もう一口チューハイを飲んで、五月は、

「ホント悔しい。絶対いつかキャン言わせてやる。酒井さんも、あの女にさん付けなんてしないで下さいね!」

 酒井を睨みながら言う。

「……気をつけます」

 明後日の方向を見てチューハイを流し込みながら、酒井は答えた。

 五月は、頬杖をついて、とぼけている酒井を見ながら言う。

「……酒井さん、さっきの事、二人だけの秘密、って言ったらどうします?」

 酒井は、盛大にむせた。


「もう、お休みになります?」

 ベッドサイドの目覚まし時計を見ながら五月が言う。なんだかんだで日付が替わりかけている。

「そうさせてもらうかな……すぐには寝ないと思うけど」

「ベッド、お使いになってもいいんですよ?」

「いや、ソファでいいよ。もう慣れたし」

「……やっぱり、その方が良いです」

「?、何が?」

「言葉遣い。敬語だと、気を使われているみたいで」

「あ、すまない、すみません、つい……」

「そのままにして下さいっ」

 酒井の言葉を、語気強めに五月が遮る。

「……それくらい、わがまま言わせて下さい」

 言って、五月は少し俯く。

「……じゃあ、お言葉に甘えて」

「はい、甘えて下さい」

 五月は笑顔で答える。うわ怖い。うっかり甘えたら、絡め取られそうだ。酒井は緩んでいた警戒を新たにする。

 私は脱衣所で、返してもらった服を確認して、そしたらお風呂いただきます、そう言ってリビングを出る五月を見ながら、警戒心は解かぬようにしながら、ソファに横になった酒井が呟く。

「……おあいこ、か」

 それで心が安らぐなら、今は、それはそれでいい、と酒井は思った。

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