第5章 Side-A:おあいこ

 木曜。北条柾木はがんばって出勤し、いつも通り定時前の掃除から仕事を開始していた。

 この体は、疲れを知らない。

 だが、精神は疲労する。

 本来は睡眠など必要ないオートマータの体だが、北条柾木が毎晩眠るのは、精神が、魂が疲労する為だ、昨日、北条柾木は菊子から、オートマータのボディについて、そのような内容のレクチャーを受けていた。

 その菊子が、拉致された。

 掃除をしながら、昨日の事を北条柾木は思い出す。菊子を救おうとし、救えなかったあの瞬間。この体は、自分の想像をはるかに超える速度で動いた。あれが、この体の性能なのか。ならば。もし、もっと早く、この体の性能を引き出せていたなら。北条柾木の心が後悔の色に染まってゆく。胸から腹にかけて、タオルを絞るような鈍い痛みが疼く。

 北条柾木は、あやうくモップの柄を握りつぶしそうになっている事に気付き、力を緩めた。

 この体は、心の動きに、正確に反応する。


 昼休み、北条柾木は営業所の近くの妙正寺川にかかる環状七号線の新昭栄橋のたもとで、腰丈ほどの柵によりかかり、缶コーヒーとあんパンをチビチビやりながら色々考えていた。

 この体は食事を必要としない、が、この精神は、やはり三度の食事を要求する。精神の安定には、食事と睡眠、生活リズムは不可欠なのだと北条柾木は痛感していた。

 あんパンを囓りながら、北条柾木は昨日の一件と、その後の刑事達との話しを思い出し、整理しようとする。

 持ってきた手帳――仕事用の大型のもの――に、わかっている事を書き出す。

 自分の体を奪い、部品もあらかた持ち出し、緒方を拉致した犯人がいる事。そして、自分の生の方の体は、何らかの事件に関係しており、それを追っている刑事がいる事。

 菊子を拉致した犯人がいる事。その菊子を拉致した犯人と、敵対関係にあるらしい狼女とその関係者がいる事。その狼女は、少なくとも二人いて、一人は昨日の少女、もう一人は大人で青葉五月の首を斬った女である事。

 そして、昨日会った刑事と大人の方の狼女は接触を持っている、それもどうやら友好的であるらしい事。その名は、蘭円。

 ここまで書き出して、北条柾木は思う。どれも、どれかと関係している。関係する内容を線で繋ごうとしても直線で繋げない、どう並べ替えても、どこかで必ず線が交錯する。

 自分の体や緒方を拉致した犯人と、菊子を拉致した犯人は、どうやら繋がっているらしい事を書き足す。これは、玲子の推測だ。玲子によれば、異形を含む三体のマネキンは緒方の作った部品を一部に利用して組み立てられている、何故なら、緒方に部品や材料を提供しているのは西条精機だから、部品の刻印を見ればすぐ分かる、のだそうだ。

 それらが繋がっていることは、もっと早く気付けたはずなのに。北条柾木はそう思う。早く気付いたからといって結果が変ったかどうかはわからないが、菊子自身、自分の体、そして玲子の心臓、これらが同じ技術の線上に並んでいる事に言われるまで気付かなかったのが、なにか悔しい。聞けば、菊子を探し当てて以降、まだ始まったばかりだが西条精機は社外相談役として緒方と契約しており、研究の為の資材を供給し、その代償として、まだ大きな成果は上げていなものの、研究成果の提供を受ける関係にあるのだという。

「緒方さんにお渡しする部品や資材は、材料も製法も流通経路も非常に特殊です。ですから、よからぬ輩がその流通ルートに気付き、何事か企んだ、確証はございませんが、私にはそう思えてなりません」

 昨日、井ノ頭邸の台所で、すっかり冷めてしまったジャスミンティーの茶碗を手の中でもてあそびながら、玲子は言った。

「そして、その輩は、狼女達のグループと敵対している?」

 テーブルの対面に座る北条柾木が聞き返す。

「そう思えますわね。こうして堂々と名刺まで配るような女ですもの、警察にも取り入って上手い事やっているようですわ」

 井上邸の台所のテーブルに置かれた、蘭円の名刺を忌々しそうに見ながら玲子が言う。

 やはり西条さんは、嫌いな相手には手厳しい。北条柾木は心の中で首をすくめる。彼女の中では、狼女は「敵の敵」ではあっても、「敵の敵は味方」までは行っていないらしい。

「……残念ですが、私の、いえ西条の家の力では菊子さんの行方を捜すのもおぼつきません。悔しいですが、ここは警察の方を通じて、狼どもからの情報を待つしかありませんわ」

 ため息をつき、両手をスカートの上、両足の間に押し込むようにしながら、本当に悔しそうな口調で玲子が言う。北条柾木は、不謹慎だが、その様子を見て少し可笑しくなった。

「……北条様、何ですの?」

 そんな北条柾木の気配に気付いたのか、玲子が唇を尖らせて、やや俯いたまま、上目遣いで北条を睨めつける。ベールの奥で見えないが、睨めつけられたような気がした。

「いや、すみません。でも本当に西条さんは嫌いな人に厳しいなって」

 玲子の視線を受け、北条柾木は何気なく普通に答える、その様子を何気なく見た袴田が、突如、血相を変えて叫ぶ。

「お姫さま!お控え下さい!」

 応接間から台所に運び込んだソファに横になって養生している時田の様子を見ていた為、袴田はその事、玲子と北条柾木の視線が合ってしまった事に気付くのが遅れた。袴田にたしなめられた玲子は、あ、と小さく声をあげるないなや視線を下げ、北条柾木が初めて見る、おそろしく動揺した様子で身を小さくする。

「す、すみません北条様、私とした事が……不覚です、気が緩んでいました……」

「え?」

 ちょっと考えて、北条柾木は気がついた。自分は、ベール越しとは言え、「邪眼」で睨みつけられていたのだ、と。だが。

「ああ、大丈夫ですよ?別になんともないですよ?だから気にしないで下さい」

 胸の前で両手を振って、北条柾木は大丈夫をアピールする。

 袴田も玲子の斜め後ろに飛んできて、北条柾木に声を掛ける。

「北条様、本当に大丈夫ですか?」

「申し訳ありません北条様、本当に私とした事が、つい気が緩んでしまいました……本当にお変わりございませんの?」

 「邪眼」の威力を良く知っているだろう二人が慌てるのを見て、しかし北条柾木は、何を慌てているのだろう大げさな、程度の感想しか持たなかった。

「いや本当に大丈夫ですよ?」

「……お姫さま、これは……」

「まさかとは思いますが……北条様には、効かない……?」

「?」

 顔を――多少目線を逸らせて――見合わせる主従を、北条柾木は不思議そうに見た。


 そこまで思い出して、北条柾木は考える。

 この体は人のそれより高性能らしい。なおかつ、多分だけれど、人の体ではないから、邪眼が影響なかったのではないか。ならば、それ以外の魔法とかその類いはどうなのか。確かあの時、時田の胸の蛇を抜く時、あの狼少女は「アンタが一番適任」と言ってた。それは、つまりあの場の全員の中で、蛇の毒、蛇の呪いが一番効きづらいのが俺の体って事じゃないのか?いやいや、早合点は、都合よく考えるのは危険だ。だが、確認はしておいた方が良い。もしそうなら、この体はこの先何かの役に立つかも知れない。だがどうやって、誰に確認するか……

 体の機能性能を再確認する。そうメモ帳に書き足し、缶コーヒーを飲み干すと北条柾木は仕事に戻った。


「お待ちしておりました、北条様。こちらへ」

 北条柾木が井ノ頭邸に着くなり、驚いたことに西条玲子自身が玄関に出迎えに来た。今日のお召し物は白がベースだ。青いリボンが可愛らしい。

 この日の午後、可能な限り残業を早く切り上げて、北条柾木は井ノ頭邸に向かっていた。

 勿論、昨日と違い、今日は先に連絡を入れている。と言っても家主である井ノ頭菊子は拉致されて不在である為、北条柾木は、拉致実行犯の手がかりを探す為に西条精機の研究員を引き連れて井ノ頭邸に入り、家宅捜査を行っているはずの西条玲子に連絡を入れていた。

 玲子に案内されて、北条柾木は短い廊下を台所へ向かう。北条柾木をかいがいしく出迎え案内する玲子の様子は、深窓の令嬢には似つかわしい行動には見えず、北条柾木は軽い疑問を感じた。その事をストレートに問うと、玲子は、やや照れながら、

「皆が働いてくれているのですから、私も、私にもできる事をいたしませんと」

 と言って、台所で茶器の用意を始めた。

「まずはお茶を召し上がって一息入れてくださいまし。私でもお茶くらい入れられましてよ?」

「はは、そりゃ有り難い、光栄です。いただきます」

 勧められた椅子に座って居住まいを正しつつ言って、北条柾木は辺りを見渡す。玄関を入るときに見たが、破壊された玄関と応接間の窓にはどこかの工務店の防音作業シートが貼られており、もう遅い時間なので作業員こそいないが今日一日で残骸の片付けと破損部分の復旧準備がかなり進んだことが見受けられる。

「会社に出入りの工務店に無理を言って作業していただきました。菊子さんは不在、幸庵様も眠ったままでいらっしゃいますが、緊急事態ですから御容赦いただけると思います」

 北条柾木の様子を見て、茶器を運びながら玲子が言う。今日は紅茶ではなく中国茶のようだ、恐らく台所にあった茶器と茶葉をそのまま使っているのだろう。

「幸庵……」

 聞き覚えのある名前を思い出そうと、北条柾木は記憶の中を引っかき回す。茶器をテーブルに置きながら、玲子は言葉を続ける。

「菊子さんのお父様です」

 北条柾木は、納車したグロリアの所有者の名前を思い出した。

「地下で眠っていらっしゃるはずです、扉が内側からしか開けられませんのでお会いする事は適いませんが……相当なご高齢だと伺ってておりますが、私も実は面識はございませんの……北条様」

 立ったまま茶を注いでいた玲子は言葉を切って、真剣な顔で北条柾木に向き直ってから、やや身を乗り出して言葉を続けた。

「昨日は本当に失礼をいたしました。私、どうかしておりました。北条様を、その、まっすぐ見てしまうなんて」

 言って、玲子は視線を逸らす。いや、そもそも最初から目を合わせてはいない、ベールの奥で見えないが、その目線は常に北条柾木の目のわずかに下に向いているのは気配で分かっていた。

「いや本当に平気ですから。気にしないでください。むしろそれでお話ししたいことが……」

 少し引き気味に、北条柾木が答える。

「本当に大丈夫なんですの?」

 北条柾木の言葉を遮って、玲子が割り込む。その視線は北条柾木の視線のわずかに下、だがさっきよりもかなり近い。

 北条柾木は、玲子の態度に違和感を感じた。少なくとも、最初に会った時の玲子は、尊大というわけではないが、もっと毅然とした、感情を滅多に露わにするタイプではない、そう感じていたが、今の玲子は溢れようとする感情を抑えきれていないようにも感じる。

「……私、北条様のことが心配でたまりませんの。この目のせいで、遅れて影響が出てくる方もいらっしゃいましたから。ですから」

 玲子が相当気にしているのは、その語調と態度、スカートの前で組んだ両手の指、それを腕ごと内側にひねり、わずかに背を丸め、まるで小さく、消え入ってしまいたそうにしつつ顔を右下に逸らしたその仕草からも北条柾木にも伝わった。だが、北条柾木自身は、本当に何の変化も感じていない。

「大丈夫ですって。伊達にオートマータの体じゃないって事だと思います」

 安心させようと、北条柾木は努めて明るく言った。

「……私、学校に行ったことがありませんの」

「?」

 急に話題が変り、北条柾木は一瞬ついて行けなかった。顔を少し横に向けたまま、玲子が続ける。

「ですから、お友達もございませんし、若い方、同じような年頃の方とお話ししたことが殆どございませんの。特に男性は。家の者はよくしてくれております。私のようなやっかいな娘でも、尽くしてくれて、本当に大変ありがたく思っております。ですが、そうではない、何のゆかりもない方と、それも若い男性とお話しすることなど今まで殆どございませんでした。ですから、今自分がこうして北条様とお話しできていることに、大変驚いておりますの。その、こんな私と、お話ししていただける北条様にはご迷惑をおかけしたくありませんし、絶対にかけてはいけませんのに……あのような……」

 玲子がさらに俯く。わずかに見えている口元が、きつく結ばれている。

「だから、大丈夫ですって。まったく頑固なお嬢様だなっ」

 北条柾木は、ちょっとだけ語気を強めて、それでも努めておどけたような口調で言ってみせる、あまり上手く行った気はしていないが。

 びくりとして、玲子が顔を上げ、北条柾木に向く。驚いたのか、ぞんざいな言い方をされてしゃくに障ったのか、ベールの奥の表情は読めない。だが、北条柾木は感じた。今、確かに視線が合った。

「……ね?大丈夫でしょう?」

「……」

 ほんの数瞬、玲子はそのまま視線を絡め続け、不意に振り向くと、小声で、お茶を、入れなおします、と言ってコンロに向かう。

「お姫さま、言っていただければお茶の用意などいたしますのに」

 頃合いを見計らっていたがごとくのタイミングで、時田が台所に顔を出す。うわ、北条柾木は小さくうめいて、ヤバい、聞かれてたか、やっちまったか?ちょっと焦り、胃の裏あたりがムズムズするのを感じる。

「……よいのです。私が、やりたいのです」

 言って、玲子はガスコンロに火を付けた。


「時田さんはもう大丈夫なんですか?」

 照れ隠しに、北条柾木は時田に話しかける。

「は、ご心配いただき恐縮です。その節は大変ご迷惑をおかけいたしました。もうこの通りでございます」

 時田は両腕に力こぶをつくって見せ、言葉を続ける。

「あの娘、ただ者ではございませんな。正直、私めも死を覚悟しておりましたが」

「時田、滅多なことを言うものではありません」

 再び盆に載せた茶器を運びながら、玲子がたしなめる。

「時田には、まだまだ私のわがままを聞いて貰わなければならないのですから」

「は、肝に銘じてございます」

 少し芝居がかって返す時田と、口元を緩ませつつ時田の分も茶を注ぐ玲子。芳醇な茉莉花ジャスミンの香り。いい主従関係なのだろうな、と北条柾木は思う。

「それはともかく、あの娘がただ者でないことは確かです」

 時田が引いた椅子に腰を下ろし、玲子が言う。

「私は魔法ですとか呪術ですとか、心得はありませんが、あの娘が時田の手当を行う際、魔法陣が見えました」

「魔法陣?」

 北条柾木が聞き返す。あの時、怒りにまかせてあの娘、狼女をなじっていた玲子が息を呑んで言葉を失ったのは、原因はそれか。

 玲子は頷いて言葉を続ける。

「心得がないので意味は存じません。けれど、魔法陣だけでなく、あの娘自身が大変強い光を放っておりました……まるで……」

「まるで、何です?」

 北条柾木が、言葉が詰まってしまった玲子を促す。

「いえ……特に背中から強い光が出ていたように見えました」

「背中、ですか。俺には、何も見えませんでしたが……」

「時田はどうでしたか?」

「何分意識が朦朧としておりましたから、はて……ただ、胸の中が腐り落ちるように感じておりましたが、それが急に楽に、暖かくなったのは覚えております……失礼致します」

 立ったまま答える時田に、座るように促した玲子は軽く頷き、

「あくまで緒方さんからの受け売りなのですが、魔法陣、あるいは呪符の類いは大きく二種類あるそうです。一つは、宗派に寄りますが特殊な材料を用いて、術者が念を込めて描かれる物で、寺社仏閣で頂くお札やお守り、あるいは教会などのアミュレットなどがこれに相当するそうです。これに対し、術者がイメージだけで描く物、魔法使いたるものはこれが出来なければモグリだと緒方さんはおっしゃってましたが、あの娘があの時行ったのは恐らくこちらでしょう」

 ジャスミンティーを一口含んで、玲子は続ける。

「物理的に描かれた魔法陣、護符の類いは、誰でも見ることが出来ますし、存在し続ける限り何らかの効力を持ちます。これに対し、イメージで描かれるそれは、術者がイメージし続けなければ効果を持ちませんし、普通はそういった「目」を持たない者、訓練していない者には見えない、と緒方さんはおっしゃってました。複合的に、あるいは練習として、物理的に描いた魔法陣にイメージの念を載せる事もするそうですが。いずれにしろ、あの娘があの時行ったのは明らかに魔法による治療、緒方さんの言う「奉仕の御業みわざ」であったと思います。であれば、あの娘は人狼であると同時に魔法使いである、という事になります。そんなの、聞いた事もございません」

 北条柾木は、青葉五月が首を斬られたときの事を思い出す。五月が使ったお札は、つまりそういうことか。最後に使った物は、咄嗟にあり合わせで作ったからそれ自体では十分な効果がなく、だから五月は自分のイメージでお札の力を補強した、いや、むしろお札はイメージを集中する為の目印でしかなかったかも知れない。だから、力をそっちに集中したから、自分ではもう銃を撃つ事も出来ず、北条柾木の助けを必要とした。そういうことか。

 同時に、北条柾木はもう一つ思い出す。血涙を流す五月の首を黙らせるため、何か呪文めいた物を呟いてから、狼女、蘭円はその扇子で五月をはたいた。

 その事を玲子に告げると、玲子はゆっくり頷き、

「五月様については、その通りだと思います。しかし……「栗色の狼」が恐れられている理由が見えた気がいたしますわね……狼は複数いて、しかもどれもただの人狼ではない、という事でしょう。あの身体能力、変身能力に加えて、魔法の類いも使うとなると……」

「……どんなチートキャラだよ、って感じだな……っとすみません」

 北条柾木は、頬杖をつき、あきれたような声を出す。すぐに、玲子の前で行儀が悪かったなと気付き、姿勢を正す。だが玲子は、優しく微笑んで、

「お気になさらないで下さいまし……北条様、私は、五月様の事で、あの狼どもを許す気はございません」

 言って、玲子は言葉を切り、茶器に両手を添える。北条柾木は、その玲子のベールの奥に、ほの暗く燃える、赤い双眸を見た気がした。

「……でも、相手が悪すぎる、今はそう感じて、いえ理解しております……」

 このお嬢さんが頑固で一途な事は、既に北条柾木にも良くわかっていた。復讐、とは言わないが、敵討ち、せめて一太刀、そんな気持ちを捨てられないのだろうな、そう思う。だが。

「許せないからって、何もそんなに敵視しなくてもいいんじゃないかな?」

「え……?」

 あらぬ方向からの、のほほんと指摘した北条柾木の言葉に、玲子は隙を突かれる。椅子によりかかり、わざと横柄に見える態度で、北条柾木は、

「そこは我慢で、顔は笑って、心の中でベロ出してりゃ良いんじゃないですかね。いや、俺は新入社員でまだそんな経験ないですけど、営業ってそんな事ばっかりだって先輩からしょっちゅう言われてますし。あ、営業とこれと一緒にしちゃいけないかもですけど」

「北条様……」

 茶器に手を添えたまま、玲子が北条柾木を見つめる。ほんのわずかだけ、視線をずらせて。

「まあ、バイトでも嫌な経験した事ありますけど、別にその店長と一生付き合うわけでもないし、客じゃなくてお金だって思ってやってましたし。あれ、これ、俺って実は酷いヤツだって自白してるのかな?」

 玲子の表情が少し緩んだ、ように北条柾木には見えた。

「……そんな事、ございませんわ」

「だから、別に狼女と友達になろうってわけじゃないし、今はとにかく共通の敵がいるみたいだし、そこはドライに割り切っちゃったほうが良いと思いますよ、うん。割り切って利用しちゃいましょう。利用されてやんの、ダッセー、って思ってりゃ良いじゃないですか」

 玲子がクスリと笑った。小首を軽く傾げ、握った右手を口元に当てて。

「……そうですわね。その通りですわ。ありがとうございます、北条様」

「すみません、こんなしがない新入社員の経験でも、お役に立ちました?」

 前に重心を移して、北条柾木が聞く。

「はい、とっても」

 玲子の明るい返事。玲子は、胸の前で両の掌を合わせる。

「やはりお仕事されている方は違いますのね。私、世間知らずでお恥ずかしい限りですわ……でも、ちょっとすっきりしました。そうですわね。利用してやれば良いんですわ」

 ちょっと、変な方にドライブかけちゃったかな?北条柾木は、茶をすすりながら、明るさを取り戻した玲子に安心すると同時に、そのまま暴走はしてくれるなよ、と思わずにはいられなかった。

「お友達とか、そういうことじゃありませんものね……ね、北条様」

 玲子が、少し身を乗り出す。

「北条様は、こんな、その、嫌な娘でしょうけれど、こんな私でも、あの、お友達に、なっていただけます?」

 やや俯いて、視線をそらせて、唐突に、言いにくそうに玲子が言う。頬を紅潮させて。勢いで言ってしまって、でも内心相当な葛藤が今現在でもある、うわ、言っちゃった、みたいな感じなのだろう、北条柾木はそう感じる。感じると同時に、反射的に、椅子の上で後ろに上体を引いてしまう。

「とんでもない!俺なんか田舎者の小市民の小心者の新入社員の平社員で!お友達なんて!そんなもったいない!」

 玲子の内心はなんとなく分かるものの、小市民であるが故に、北条柾木は自分と玲子の立場の違い、格の違いを真っ先に考えてしまう、気にしてしまう。

 開いた両手を体の前でぶんぶん横に振る北条柾木を見た玲子の、合わせていた両の掌が、左拳を右掌が包む形に変わる。

「……なって、いただけませんの?……」

 いとけない声と仕草。無意識だろうと思う、思うのだが、白いドレスが青のフリルとリボンに包まれ、それが絶妙に愛らしいから、北条柾木は困る。

「いや、そういうわけでは……ただ、ほら、俺なんか、体がオートマータだし」

「狼女より遙かにマシですわ」

 即座に玲子が返す。ああ、そこはまだこだわるんだ。北条柾木の頭の中の覚めている部分が突っ込む。

「そりゃそう、なのか?いやしかし、その……俺みたいな平民で良いんですか」

「平民だなんて。ご謙遜なさらないで下さいましな。それをおっしゃるなら、私など、成金の娘、こんな嫌な娘ですのよ?。おあいこですわ」

 言って、玲子は微笑む。

 頃合いを見計らったかのようなタイミングで、時田が声をかけた。

「お茶のおかわりは、如何ですかな?」


「それはそうと、西条さん」

 注ぎ直されたジャスミンティーを一口すすってから、北条柾木が切り出す。

「玲子、と呼んで下さいまし」

「……はい?」

「お友達は、お名前呼びするものでございましょう?ですから、私も柾木様、とお呼びさせていただきますわ、柾木様」

「……あ、はい、そうですか……じゃあ、えと、玲子さん」

「はい」

 嬉しそうに玲子は答える。そこはあえて突っ込まず、柾木は、

「俺の事なんですけど。この体、魔法とかそういうものが効きづらいような気がするんですが、確かめる方法ってないですかね?」

「魔法とか、効きづらい、ですか?」

 少しだけ、きょとんとして、玲子が聞き直す。

「そうです、あの、ちょっと言いづらいですが、玲子さんの目、それもそういうことじゃないかと」

 ちょっとだけ玲子は顔を曇らせる、曇らせたように、ベール越しに感じる。ああ、やはりその事に触れるのはタブーではあるんだな、今回は仕方ないけど、以降は気を付けるようにしよう。柾木はその事を肝に銘じる。

 それでも、柾木の告白の方に興味を持ったのか、玲子は顎に手を置いて考え込み、

「……オートマータに魔法が効きづらい、というのはどうでしょう、そもそもオートマータが魔法物理科学の結晶ですから、確かに作動を妨げるようなものには耐性があって当たり前ではございますわね。ただ、逆に影響されやすい事も考えられますから、私にはなんとも……時田?」

 研究員の様子を把握しているであろう時田に話を振る。

「はい。緒方様がいらっしゃれば良かったのですが。我が社の研究員でも、そこはしかとは分かりかねましょうな。ただ、先ほどのお話によりますならば、件の狼娘は北条様が耐性をお持ちである事を一目で見抜いた、という事でございますかな?」

「そういう事になりますわね。……癪ですが、ここは機会があれば聞き出してみるべきですわね……」

「玲子さん、利用、利用」

 ああ、癪に障る。そんな様子で爪を噛みそうな雰囲気の玲子に、柾木が声を掛ける。

「……そうでしたわ。せいぜい利用させていただきましょう……いえ、柾木様、お待ちになって下さいまし、そういえば……時田、この屋敷の防犯システムは誰か操作できまして?」

 何かに気付いた玲子は、椅子から腰を浮かせて時田に聞く。

「さて、朝から地下で研究員達が悪戦苦闘しておりましたが、そろそろなにがしかの成果が出ているやも知れませんな。それが、如何いたしましたか?」

「気になる事を見た覚えがあります。柾木様、一緒においで願えますでしょうか?」

 時田から柾木に視線を移した玲子に、柾木が答える。

「地下の研究室ですね?」


「全ての解析はまだまだ先になりますが、とりあえず最低限の操作程度はなんとか出来る、と思います」

 白衣を着た、やや年かさで下フレームの洒落た眼鏡をかけた研究員が、緒方の研究室で請け合う。緒方が使っていたメインフレームらしきものに接続されたパソコンらしき端末と自分のノーパソを有線ネットワークして何か作業しているところを、玲子に呼び止められたのだ。

「基本はUnix系のプロトコルですが、要所要所を独自のコードでに書き換えて使っているようで。文字コードがラテン語とヘブライ語のちゃんぽんで、それの解析に昼までかかりました。今は、基本画面のインターフェイスのトランスレートは出来てます、一応ですが」

 研究員が差し出すノーパソの画面は、緒方のコンピュータらしきものの画面とそっくりだが、文字は日本語になっている、一部まだ文字化けしているが。

「それで、何を?」

 研究員が、最低限の語彙で聞く。

「今日と昨日と、四日前ですか、柾木様が玄関を通られた際の映像と、防犯システムの作動状況、防壁の状態を重ねて表示できますか?」

「重ねるのは、個別になら」

「お願いします」

 研究員の、いかにも研究員らしい最低限の情報によるコミニュケーションに対し、玲子も必要最低限のワードで明確に指示を出す。どうやら、玲子はこういうやりとりに慣れているらしい。さすがは精密機器製造メーカの社長御令嬢、というべきか。柾木は、自分よりはるかに有能かつ理数系らしい玲子を見ながら、ホントに俺、こんなお嬢様と「お友達」になっていいの?と自問する。

 しばらく、研究員の斜め後ろに立って、明滅する画面を見つめていた玲子は、身を乗り出し画面を指さして、椅子に座って操作する研究員の肩越しに何か指示する。研究者がそれに答えて何か操作し、また画面が変化し、また指示し、それが数回続いた。

「……柾木様、見ていただけますか?」

 玲子が、画面を見たまま柾木を呼ぶ。

「……お分かり頂けますか?動画で表示出来ないので、一枚絵に合成してもらいました。これは、昨日、柾木様がこの屋敷にいらした時の玄関のカメラ映像です。隣は、防壁の状態です」

 映像は、柾木が玄関をまさに通り抜ける、敷居をまたぐ瞬間を表示している。その隣は、この屋敷の霊的な防壁――勿論それがどんな理屈でどうなっているのか、柾木にわかるはずがない――の状態だという事だが、以前見たキルリアン・トモグラフィーとか言うものに似ている。違うのは、以前のは人を中心に山形に表示されていたが、こちらはそれを画面全体に広げたような映像だ。よく見ると、その表示、虹の壁のようなそれの一部が欠けている。それに気付いて、柾木は玲子を見る。

「そうです、そこは、柾木様が玄関をくぐっている、その場所になります。次の画像を」

 研究者が何か操作すると、表示が似たような画像に切り替わる。今度は、一部赤くなっているが、欠けている部分はない。

「これは、昨日の昼過ぎ、私が玄関を通る瞬間です。赤いのは、私、つまり異物が防壁を通過したという事で、このように、防壁は正常に作動しております」

 つまり、虹色の壁がその防壁で、綺麗に屋敷の四方を取り囲んでいる状態が正常である、誰かがが通ると赤くなるという事か。柾木はそう理解する。そうすると……

「次を。これは、柾木様が通られた後、侵入者が来る直前のものです」

 柾木はぎくりとした。欠けている部分が、そのままだ。いや、少し小さくはなっているが……

「先に申し上げておきます、これは柾木様が気に病まれる筋合いのお話しではないと存じます。ただ、事実として、柾木様が通り抜けられると、一定時間、この屋敷の防壁の一部が機能しなくなっております」

「……それって……」

「それがそのオートマータの体によるものかどうかなのですが。お気を確かにお持ちになって下さいまし。次を……これは、四日前、柾木様が緒方さんに呼ばれて屋敷に二度目にいらした時のものです」

 その時は、まだ生身の体だったはずだ。だが。

 防壁とやらは、さっきの画像ほどではないが、やはり欠けている。

 柾木は、嫌な汗が脇を伝うのを感じる。玲子に向けた顔は、引きつっていたに違いない。

「……詳細に調べませんと断言はいたしかねますが、柾木様は、本質的に、防壁の類いが効きづらい気質をお持ちのようです。ですね?」

 玲子が言い、斜め前に座る研究員に確認する。研究員は、振り向かずに頷く。

「……それじゃあ、ここに誰かが入って来れたのは、俺のせい……」

「お気にやまないで下さいまし。昨日、襲撃があった瞬間は、屋敷の防壁すべてがダウンさせられた事も確認出来ております。昨日の侵入者がやったように、その気になれば、あの者達は柾木様に関係なく力業で押し入る事も可能だったという事です。それに、ご自分では御存知なかったのでございましょう?そのような気質の方は、まれにいるのだと伺っております。五月様からそう伺いました、そのような方は、拝み屋、祟られ屋に多いと」

「……祟られ屋?」

「祟りや呪いを身代わりに受ける事を生業とする方の事だそうです。祟られようが呪われようが、多少の事では動じない、と」

 五月の名前に引きずられ、だしぬけに、柾木は思い出した。あの夜、五月と円が取っ組み合っている場所に出くわしたあの時。俺は、五月さんの貼った札を知らずに剥がしていた……

「……じゃあ、やっぱり俺のせいだ」

「だから、お気にやまないで下さいまし。緒方さんなり菊子さんなりが気付かれて、防壁のパラメータを調整されていれば済んでいた話なのですから。気質や体質は誰のせいでもございません……そう、誰のせいでも」

 途中まで、柾木をただ慰めるだけの口調だった玲子だが、急に、口調が変わった。言葉に迷いが消えた。

「しかし……」

「……柾木様?それでもとおっしゃるなら、それは私の目と同じ事でございましてよ?」

 玲子にしては珍しい、攻めるような強い口調。柾木は少し怯む。

「そうです、誰のせいでもありませんの、誰のせいでも……」

「……」

 その玲子の口調は、柾木に強く言い聞かせているようでありつつ、自分にも言い聞かせているのだと、柾木も気付いた。

「……私の目も、柾木様の気質も。これこそ、おあいこでございましてよ?。むしろ、そうと分かれば、もっと上手く使える、そういうものではございませんこと?柾木様が、私にそう教えて下さったのでしてよ?」

「……そうだね、そうだ」

 既に起きた事を悔やんでも仕方ない。会社の新人研修で教わった事だ。失敗した事自体は、それ自体は問題だが、過度に責任を感じる必要はない。ただ、なぜ失敗したかを分析、理解し繰り返さない事、失敗による損失をリカバリーする事、失敗により迷惑をかけた相手に謝罪する事。必要なのはそれであり、また、立場が逆であれば過度に責める事はしてはならず、一緒に失敗の原因を考え、繰り返さないようアドバイスし、謝罪を受け入れる事。それが職場を円滑にし、事業を正しく回す秘訣だと教えられた。そうだ、そもそも、それを上手く使えないか、それを相談しに来たんじゃなかったのか、俺は。

「そうだ、上手く使えばいいんだ。ありがとう、玲子さん」

 玲子は無言で頷いた。その玲子の口元は微笑んでいる。

……この微笑みが怖いなんて、あり得ない……

 柾木は、その時初めて、ベール越しのその素顔を見たい、その微笑みの全部を見たいと思っている自分に気付いた。

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