第4章 Side-B:情報源確保

 その男は、黒のリクルートスーツの裾ををはためかせつつ、必死に走っていた。

 早朝、東京メトロの始発が動き出す時間。

 男は、地下鉄丸ノ内線大手町駅の改札に向かって、走った。

 酔漢をかき分け、徹夜明けのサラリーマンの怒号を浴びつつ、必死に、走った。

 走って、駅員が止める暇もあればこそ、自動改札を飛び越え、新宿発池袋行き始発電車の待つプラットホームに駆け下りる。

 駆け下りつつ、後ろを振り向く男の血走った目が、驚愕に見開かれる。

 そこには、撒いたと思っていた追跡者の姿があった。

 揃いのサングラスにトレンチコートを纏った二人。まるで時代遅れの映画から抜け出してきたスパイか私立探偵のようなその出で立ちは、まるっきり大手町の地下道の雰囲気になじまない。その二人が、律儀に交通系ICカードを使って自動改札を通り、自分を追って来る。

 改札を飛び越えた男を追って、数名の駅員が階段を駆け下りてくるのだが、それは既に男の視覚には認識されていない。ありったけの力を振り絞って階段を駆け下り、発車寸前の電車の閉まりかけたドアに飛び込む。

 週明け月曜の始発の新宿発池袋行き地下鉄丸ノ内線は、これも仕事明けの水商売従事者と、その客であったろう酔漢と、有意義な一夜をどこかで過ごしただろうカップルで、意外なほど席が埋まっている。その最後尾列車の最後尾ドアから駆け込み乗車し、そのまま床に転げ込んだ男は、周囲の奇異の視線を集める中、安堵の表情で今閉まったドアの外を振り向き、そしてまたしても驚愕の表情を浮かべた。

 無賃乗車犯を取り押さえるべく、駅員が車掌に発車の一時中断を要請し、今まさにドアを再度開こうとしているところだが、それは男の驚愕の直接の原因ではない。

 男は、駅員の後ろからトレンチコートの二人組が来るのを見た。男には、それだけで充分だった。

 男は、奇声を上げて転げるように走り出す。連結部のドアを勢い任せにこじ開け、こけつまろびつしながら最先頭車両を目指す。

 その様子を見て、一人の駅員が車内から、二人の駅員がプラットホームから男を追う。突然の捕り物に騒然となる発車前の始発電車の車内。そこに、トレンチコートの二人が追いつき、最後尾車両の車内に入った。

 見れば、二人は見事なほどに凸凹コンビであった。小さい方は栗色の髪をおかっぱ頭にした、まるで小学生か、せいぜい中学生程度の体格だが、もう一人はそこそこ上背のある立派な体躯に何やら細長いバッグを担いでいる。二人は、短く二言三言打ち合わせると、大柄な方は片膝をついてバッグを肩から降ろし、小柄な方がその前に立って、男の逃げた方向を見つめた。

 男は、最先頭車両の最先端、運転台扉の前で駅員に包囲されていた。怯えきった男の表情は、駅員達には、自分達に捕縛されて公安に突き出され、社会的身分を失う事を恐れているのだと受け取れた。

 だが、男の視覚には駅員は写っていても、男の脳裏の認識には駅員は存在していなかった。

 男の認識に存在するのは、最後尾車両にいる二人の追跡者だけだった。

 その時、男の周りの空気が、歪み始めた。


 最後尾車両のトレンチコートの二人も、奇妙な行動を始めていた。

 小柄な方が懐から、小さく質素だが、手の込んだ細工の施された両刃のナイフ――テクナの両刃のダイビングナイフに似せて作られた、鎬の部分の銀の象嵌が目を引く、黒染めのダマスカス鋼のダガー ――を取り出し、何事か呟きながら四方にかざす。その後ろで、大柄な方が細長いバッグから物騒なもの――素人目にも分かる、明らかに狙撃用であろうライフル銃――を取り出し、床に片膝をついて構える。

 え、何?映画?ゲリラ撮影?何これ?マジ?

 車内が一斉にざわつく。後部運転台からガラス越しにそれを見た車掌が、会社無線に向かって何かを叫ぶ。

 その時。

 先頭車両から始まった空気の歪みが、最後尾車両に届いた。


 男は、引き絞った弓矢の弦を弾くがごとくに、練り貯めた力を放った。その力は、男の周りの駅員を吹き飛ばし、連結部扉のガラスをことごとく叩き割りながら、カマイタチのごとくに、いや、カマイタチそのものとなって列車の中を駆け抜ける。吹き抜けるつむじ風と飛び散るガラス片に乗客の悲鳴が重なる。

 カマイタチが最後尾車両前端の連結部扉ガラスを叩き割り、最後端に達する、まさにその瞬間、

「……遅れる事なく現れ出でて、我に徒なす力の盾となれ!」

 小柄な方のトレンチコートが、詠唱の最後の一節を振動させる。間髪入れず突き出したダガーの先端が、襲い来るカマイタチを切り裂き、八つ裂きにした端から霧散させる。栗色のおかっぱの髪をなぶる暴風にまゆ一つ動かさず耐えた小柄なトレンチコートは、風が収まるやいなやその場から、踊るように左に身を翻す。

 大柄な方のトレンチコートが、シッティングで構えたPSG-1のトリガーを引いたのは、その直後であった。


 音速の三倍に手が届く程の初速で放たれた七・六二ミリNATO弾規格の銀の弾頭は、男のカマイタチが突き破ったガラスを逆に辿るようにしておよそ1/10秒ほど飛翔し、正確に男の眉間を貫き、後頭部に拳骨ほどの穴を開けてから頭蓋骨を跳び出して運転台扉のガラスに衝突、貫通痕を残した後に同様に運転台貫通扉のガラスをも貫通し、地下鉄丸ノ内線大手町駅から淡路町駅方面に飛び去った。

 暴風に続く銃声、砕け散るガラス片。何が起きているのか正確に把握出来た乗客は皆無であったが、取った行動はほぼ全員で一致し、すべての乗客が悲鳴を上げてその場を逃げ出した。後に残ったのは、吹き飛ばされた勢いで気を失っている駅員と、逃げ出すわけに行かない運転手と車掌、そして、へちゃりと崩れ落ちている、さっきまで男だったもの・・。トレンチコートの二人は、見事なほどあっさりと姿を消していた。


「それでは、改めて紹介する。酒井源三郎警部だ」

 班長、と呼ばれる鈴木警部が、分調班の面々の前で酒井を紹介する。

 酒井です、よろしくお願いします。そう、定型文の一言を述べ、酒井は室内の敬礼をする。目の前に居る、木村、藤城の両警部補、増山、吉川の両巡査部長、そして蒲田巡査長が答礼し、拍手で迎える。

「慣れない職場で戸惑うこともあろうから、何かあったら遠慮なく鈴木君か私に相談してくれたまえ。日常業務に関しては蒲田君に任せてあるが、問題ないかね?」

「は、蒲田巡査長には色々教えてもらっております。問題ありません」

「よろしい。では、鈴木君、あとは任せる」

「は、失礼します」

 岩崎管理官、階級は警視長、五十五歳、浅黒い肌の痩せ型長身で、染めている風ではない黒髪をぴたりと七三になでつけ、やや面長に丸眼鏡を載せた、温厚な紳士風だが底冷えのする眼光を持つ分調班の元締めが、分調班の詰め所である事務室を出てゆく。一礼してそれを見送った分調班班長、鈴木警部、三十五歳独身、恰幅のよい中背でやはり髪を七三に分けた偉丈夫は、笑顔で酒井に振り向く。

「ま、そういうわけだ。先週末は失礼した、何しろ皆出払ってしまってね」

「問題ありません」

「ん?そうしゃちほこばらなくてもいいぞ、ここはアットホームな職場だからな」

 周りの面子から苦笑がこぼれる。堅苦しい職場でないことは確かなようだ。

「はあ、しかし、そう言われましても」

「まあ、いずれ慣れるだろう。それより、君の古巣から荷物が届いている」

 言って、部屋の隅の鍵付きロッカーから鈴木はなにやら取り出す。色気のない茶色の大きな紙袋に包まれたそれを受け取った酒井は、見かけによらない重量感に少し驚く。鈴木の笑顔に促され、自席に戻って――既に専用のノートPCが置いてある――包みを開けてみる。

 入っていたのは、新品の警察官の制服だった。酒井はすぐに気づいた。肩章が警部のものに付け替えられている。

 入っていたのは制服だけではない。装具一式に靴。重いわけだ。さらに、元の職場の同僚からの寄せ書きまで。

「こっちは別便で来た。さすがに紙袋で一緒というわけには行かないものだからな」

 そう言って鈴木が渡したのは、ちょっとした大きさの丈夫なアタッシュケース。受け取った鍵で錠を開けると、入っていたのは、警棒と手錠と拳銃、そして署長からの手紙だった。簡素な文章のその手紙は、新天地での酒井の活躍を祈る言葉とともに、事情を明かせず送り出す事を詫びる言葉が綴られていた。近い将来、話せる時が着たら、その時は古巣を訪ねてほしい、とも。

 酒井は目頭が熱くなった。


「酒井さん、その銃で大丈夫かね?」

 鈴木が、分調班の仕事でも、使い慣れたこのM60ニューナンブを使いたいと言う酒井に尋ねる。

「大丈夫です。問題ありません」

 実際問題、この銃しか使ったことがないから、よくわからないというのが実際のところだが、任官以来ずっと使い続けている、訓練以外で撃った事はないが、だからこそ愛着がある、自分の今までの仕事、撃たずにやって来れた証でもあるこの銃が手になじんでいる、というのは否定できない。

 そう、酒井が鈴木に正直に言うと、まあ、そりゃわかる、と言って、

「だが、ホルスターは帯革で腰ってわけには行かないから、ありものでよければ適当に選んでくれ」

 と言って部屋の奥のロッカーを示す。

 そのロッカーの中には、押収品らしき有象無象がごちゃまんと積み上げられている。

「……いいんですか?これ、官給品じゃないですよね?」

「かといって厳密な意味で押収品、証拠品というわけでもなくてね。業務であちこち回っている時に、「押収したが事件そのものが存在しない証拠品」の扱いに困った所轄から預かっているうちにこの始末だ、今まで返してくれって言われたことはないから、うん、まあ大丈夫だろう、わっはっは」

 どうやら、鈴木班長は細かいことは気にしないタイプらしい。そう思いながら、アタッシュケースのニューナンブに手を伸ばし、ふとおかしな事に気付く。

――装薬されたままだ――

 あり得ない事だった。銃器を運搬中は薬室は空にするのが基本中の基本であり、また、シリンダー後面がカウンタードボアになっていないニューナンブは、装薬していれば、薬莢の後端が外から見える。見落とすとは思えない。シリンダーの前面側から見てみる。弾頭は見えない。つまり、こういうことだ。空薬莢が装填されている。

 銃を持った体の前面を人のいない方に向け、銃口を下に向けてシリンダーをスイングアウトする。やや軽い手応え。左手に持った銃を逆さにし、エジェクターロッドを左親指で押す。排莢されたから薬莢を右手で受ける。鼻を近づける。微かに火薬の、硝煙の匂い。銃口も嗅いでみる。ここにも硝煙の匂い。つまり、この銃は匂いが残る程度に最近、発砲している。

 だとすれば、きっと俺だ。酒井は思う。記憶はない、思い出せないが、その記憶を無くすきっかけの事件で、俺が発砲していたとしか考えられない。

「どうかしたかね?ん?やはり違うのにするかね?」

「あ、いえ、そうではなく」

 酒井は考えを中断した。俺が撃ったのなら、撃つべき理由があったに違いない。ならば、それでいい。

 酒井は、空のシリンダーを戻した。


「ところで鈴木警部、いや、班長と呼んだ方が?」

「どっちでも構わんよ」

「では班長、実は相談があります」

 その余剰品だか拾得物だかの山を漁りながら、意を決して酒井は、一緒に隣で押収品だか遺失物だかの山を掘っている鈴木に切り出す。

「実は……信じてもらえないかも知れませんが」

 金曜の夜から土曜の昼までの出来事を、かいつまんで、正直に話す。

 鈴木は、顔を上げて無言で蒲田を見る。即座に蒲田は頷く。

「酒井さんの部屋を出るまでの事については、補足する事は特にありません、はい。それ以降については、青葉五月さんをご自宅まで送り、名刺を渡して失礼しました、はい」

「それだけ?」

「それだけですが?」

「いやね、蒲田君にしてはあっさりしてるなと思ってね」

「やだな班長、僕だって脈のあるなしはわきまえますよ、はい」

 酒井はちょっと虚を突かれていた。あんな馬鹿げた話を一笑に付すでもなく、鈴木は裏取りに行った。

「それで?」

 鈴木が酒井に向き直り、先を促す。

「青葉五月ですが、昨日、保護を求めて再度私の部屋に来まして、むげにする事も出来ず一泊させました」

 後ろで聞いていた各員に軽いどよめきが起こる。まあ、聞かせる為にここで話したんだがな。酒井は思いつつも、脇にいやな汗をかくのを感じる。

「一警察官、それも妻帯者が、保護を求めているとは言え若い女性を泊めるというのはいささか倫理上問題があると承知しておりますが、だからといって状況から放置も出来ません。そこで、本官としては上司の判断を仰ぎたく」

「……硬いなあ、酒井さんは。後ろ暗いところがないなら、当面は保護してあげて問題ないと判断するから、しばらく泊めてあげれば?お、これなんか良いんじゃないかな?」

 ……軽いなあ、この人。差し出されたホルスターを受け取りながら、酒井は思う。まあ、案ずるより産むが易し、だったか。後ろの他の班員がニヤニヤしているのがちょっと気になるが、まあ良かったと思う事にしよう。

 それはそれで、荷が重いのだが。

 鈴木が探し出した、割と真新しいナイロン製のショルダーホルスターを合わせてみながら、周りにわからないように小さくため息をつきつつ、今朝のやりとりを思い出していた。


「……ん……あれ……え?あれ?」

 酒井が寝覚めの運動とシャワーを終え、ネクタイを締める手前まで着替え、過剰な音と光りを出さないように用心しつつ、マーガリンを塗った食パンに薄切りハムとスライスチーズと刻みレタスを載せ、ケチャップをまぶしてさらに上から食パンで挟んだ超簡単サンドイッチと、電気ケトルで沸かした湯を注いだインスタントコーヒーを片手に、部屋の契約にセットで含まれていた新聞を半分ほど読み進めた頃、青葉五月は目を開け、自分の居場所がどこだかわからない様子で素っ頓狂な声をあげた。

「……おはようございます」

 ベッドの上で両手を口に当てて目をまん丸にして固まっている五月に、酒井は声をかける。どうやら五月は、状況を把握出来たものの、出来てしまったが故に思考停止してしまったらしい。

「……よく眠れましたか?」

「……すみませ~ん……私、うわぁ、やっちゃった……」

「とりあえず、顔を洗われた方が良いと思います。化粧、落としてないでしょう?」

 妻帯者であるが故の経験による酒井の指摘に、聞こえるか聞こえないかの小さな声で、うわ、とか言った五月は、

「そうします……すみません……」

 消え入りそうな声でそういって、そそくさと洗面所に消えていった。


「本当にすみません……怒ってらっしゃいます、よね……」

 洗面所から出てきて、スッピンの五月が申し訳なさそうに言う。五月の前には、さっき沸かした湯の残りで入れた、ミルクと砂糖入りインスタントコーヒーが置いてある。

「怒ってます。そりゃ勿論」

 あえて横を向いて新聞を読みつつ、酒井が答える。五月は、それを聞いて俯く。

「予想すべきだったんですよ。予想出来たはずなんです。俺がうかつでした。そもそも、部屋出る時にテーブルの上見ておけばよかった」

 五月が顔を上げる。眉根を寄せ、涙目のその顔からは、呑んで寝込んでしまった失敗を悔やんでいるようにも、責められていると感じて悲しんでいるようにも、自分の行為全般をあざといと言われて後悔しているようにも見える。

「本当にうっかり携帯を忘れて、疲れと安心から酔って寝てしまったんだと思ってます。が、別にそれはどっちでも良いです」

 あえて何がどっちなのかは言わない。

「要するに、助けを求めてる人を助けられて、世間体とかも問題無ければ良かったんです。そういう方法を考えれば良かった」

 うるんだ目で五月は酒井を見る。

「なので、今日、これから同僚に相談して了解を取ってみます。もし、それは倫理的にどうよ、って意見の方が多かったら、その時は諦めてください。了解が得られれば、ここでしばらくは青葉さんを警察官として保護出来ます。それで、いいですか?」

 五月は、赤くなった目で酒井を見つめ、ゆっくり頷いた。

「じゃあ、これを」

 酒井は、ポケットから部屋の合い鍵を出す。

「渡しておきます。この部屋は土曜日まで借りてますから、もしその先が必要なら、昨日のあの部屋で。あとで店に電話しておきます」

「酒井さん、あの」

「だから、なんて言いますか、俺が疑っちまうような事はしないでください。それだけ、お願いします」

「……はい」

 複雑そうな顔で五月は頷く。言いたい事は伝わったみたいだ、と酒井は思う。こんな人を疑いたくはない、疑って嫌いになりたくはない、そう思った事は口に出さなかった。


「ところで、酒井さん、早速だが、丸ノ内線の小石川車両基地に行って来て欲しいんだが」

 いくつか試した後、多分S&W M36用と思われる、そこそこ使い込まれて革がしなやかになっているショルダーとパンケーキのヒップ――本来制服警官用の三インチ銃身のニューナンブM60はS&W M36よりわずかに大きく、長いが、革が使い込まれているせいか思いのほか具合が良い――ホルスターがしっくりきた酒井に、鈴木が言う。

「小石川、ですか?」

 東京の地理がピンとこない酒井が聞き返す。

「うむ、分調班の業務について実地で経験してもらう良い機会だと思う。蒲田君、酒井さんのフォローをよろしく」

「了解です、はい。車、使います」

「うむ、よろしく」

 既に話を振られていたのか、蒲田が立ち上がって用意を始める。つられて、酒井もニューナンブを入れたショルダーホルスターを付けたままスーツに袖を通す。


「どうかしましたか?」

 キザシの助手席で、居心地悪そうな身じろぎを繰返す酒井に、蒲田が聞く。

「いや、これ、ショルダーホルスター?付け慣れなくてな」

「はは、僕も最初はそんな感じでした、はい。ニューナンブより新型のオートの方が小さくて楽ですけど、いいんですか?」

「これしか使った事ないし、滅多に使うものでもないだろ?」

「だといいんですけど、はい」

 さらっと、蒲田は気になる事を言う。

「それはそうと、五月さん、酒井さんのところに泊まってたんですか?」

「昨日押しかけられてね……最初は断わったけど、事情が事情だから結局泊めざるを得なかった。それより、あんな話をよく鈴木班長が信じたな?」

「それはまあ、はい。追々分かると思います、はい。で、五月さんなんですけど」

「食い下がるね」

「だって、うらやましいですから、はい。分調班は酒井さん以外みんな独身なんで、みんなで歯軋りしてます、はい」

「はは、そりゃおっかないな」

「なので、次の本チャン歓迎会、二次会は酒井さんの奢りにしようって」

「……そりゃマジで勘弁してくれ」

 離婚されかけのオヤジだぜ、一番安パイに見えたんじゃないの?そんな事を話しながら、車は白山通りから春日通りへと左折、茗荷谷方面へと向かう。


「射殺?ですか?」

 酒井は、運転台扉付近の白い人型のマーキングを見下ろしつつ、思わず聞き返した。東京メトロの制服を着た、初老の大手町駅駅長は重々しく頷く。後ろに控えた駅員、乗務員らしき数名もそれに続く。酒井と蒲田は、弾丸の貫通痕のある運転席側ガラスと、粉々に砕け散っている連結側扉の窓ガラスを交互に見比べた。

 駅長及び駅員乗務員の話をまとめると、「改札を突破して無賃乗車しようとした男を捕らえようとしたら、この場所で、凄い力で駅員がはねのけれらた。直後にトレンチコートにサングラスの二人組が最後尾車両から鉄砲で撃った」となる。

 警視庁の鑑識課員が忙しく動き回る車内をもう一度見回してから、酒井は、

「トレンチコートにサングラス、ですか」

 駅長以下も再度頷く。狙ってやったんだろうな、酒井は考える。あまりにビジュアルのインパクトが強すぎて、駅員も乗客も、それ以外の外見的特徴を覚えていないらしい。

 今朝の始発で起こったこの事件の為、丸ノ内線は始発から運転中止、運転再開したのは午前七時過ぎだったという。酒井は、今朝、池袋から霞ヶ関まで乗った丸ノ内線の状態を思い出す。東京の通勤事情を全く知らなかったから、あんなもんだと思っていたが、あれは混んでいたのか。

「鑑識さんから現場のポラを少し借りてきました、はい。あまり参考にはならないですが、見ます?」

 蒲田が数枚のインスタント写真を差し出す。電車の床に倒れている男の頭から大量の出血、運転席側のガラスに大量の血痕と肉片。男の遺体がないのと、血痕が乾いている以外は、今の現場も大して違いがない。だが。

「銃で撃たれたにしては、ガラスが割れすぎじゃないか?」

「そう思います、はい」

 鑑識の邪魔にならないように注意しながら、酒井と蒲田は先頭車両から最後尾車両まで歩く。

「ガラス、後ろ向きに吹き飛ばされてないか?」

 尋ねる目で、酒井は蒲田を見る。

 蒲田は、肩をすくめた。


「なあ、これは所轄の仕事じゃないのか?分調班の事はまだ分からないが、横から首突っ込んでいい話なのか?」

 一通りの聞き込みを終えて車に乗り込み、シートベルトを締めながら酒井は蒲田に聞く。

「結論から言いますと、これは分調班の仕事になります、はい。ご指摘の通り、本当ならこれは所轄の仕事になります、はい。ただし」

 前を向いたままシートベルトを締めつつ答えていた蒲田は、蒲田の方を向くと、にやりと笑って、

「これが、普通の事件なら、です、はい」

「……普通じゃない、ってのか?」

「はい。酒井さんもお気付きの通り、今回の殺され方はまともじゃないです、はい。100メートル先の被害者の頭を一発必中、少なくとも暴力団関係の事件では聞いた事ないですし、こんな人前で堂々と、ってのもまともじゃないです、はい。他にもまともじゃない点はありますが、最大の問題はこれから向かう監察医務院にあるはずです、はい」

「監察医務院?あるはず?」

「ありていに言えば、司法解剖の結果に問題があって、所轄では手に負えそうにないので分調班にぶん投げてきた、そんなところです、はい。いつものことなので、はい。じゃ、行きます」

 蒲田は、小石川車両基地から車で五分少々の東京都監察医務院に向けて車を発進させた。


 今までの警察官としての職務において、検視や司法解剖はほとんど経験した事はないが、それでも、酒井の知識としては、今朝の六時前に発生した殺人事件で、その日の午前中に司法解剖の報告書が出てくるというのは聞いた事がない。監察医のオフィスで報告書の概要を読みながら、酒井はそのスピードに舌を巻いたが、同時に、報告書の内容を見てさもありなんとも思う。

「現時点で検出出来る薬物は無し、アルコールも無し、胃の内容物無し、その他気になる病変無し、ですか」

 蒲田が報告書の草稿をめくりながら監察医に聞く。

「肉体的には、ごく普通の健康体の二十代前半の男性、という事になるかと思います」

 難しい表情の監察医が答える。

「……健康体の男性、じゃないんですか?」

 蒲田が重ねて聞く。

「何というか……私が聞くのも何ですが」

 額の汗を拭きながら、監察医が言う。

「これ、本当に死体ですか?」


 心停止、呼吸停止、瞳孔反応無し。脳波に至っては、そもそも脳が吹っ飛んでるから計測のしようがない。医学的には死体と判断出来る。なのに、死斑、体温低下、その他の死後変化が何一つ表れていない。司法解剖しているから呼吸器、循環器が停止している事は明確なのに。

 頭部の銃創を別にすれば――司法解剖の痕跡もだが――これは死体ではなく、生命活動を一次停止している生体、と言ったほうが表現としては正しい。

 そのような事を酒井と蒲田に説明した監察医は、逆に二人に質問した。

「これ、報告書になんて書けば良いんでしょうか?」


「結論として、撃った銃は特定できてない?」

 淡々と蒲田が聞く。空薬莢は未回収、これは射撃した当人が回収した可能性や、そもそも銃によっては排出されないから仕方ない部分があるとして、明らかに現場に残るはずの弾頭も未回収だった。ただし、これは営業運転再開を急ぐ東京メトロ側の事情もあり、トンネル内を飛び去った弾頭の捜索回収をこの日の営業運転終了後とした事情もある事は既に聞いている。頷いた監察医からその後ろに居る丸の内警察署の複数の警察官に目を移し、

「そして、似たようなリクルートスーツの男性による障害未遂事件が警視庁管内で報告されている、という事ですね?」

「築地署から報告がありました、現場は東銀座だそうです」

「了解しました。以降本件は捜査支援分析管理官付調査班で引き取ります。正式な手続きについては本日中に別途御連絡差し上げます。酒井警部、よろしいですね?」

 事前の打ち合わせ通り、酒井は鷹揚に頷いてみせる。明らかにほっとした様子の所轄の各員を見ながら酒井は思う。なるほど、所轄が扱いたくない面倒な仕事、明らかに面倒ばかりで得るものは少なく、容易に迷宮入りしそうな事件を集めて回る部署、その為の、現場を納得させる為の比較的高めの階級、それが「分調班」の正体か。


 酒井は、その事を、帰りの車でストレートに蒲田に聞く。

「概ねその通りです、はい」

 何事でもないように蒲田が答える。

「だが、それでは集めた事件はどうなる?この調子で全国から事件を集めているのだろう?手数は班員だけで足りているのか?」

 酒井の感覚では、今回のこの事件だけでも、人数的に分調班全員が貼り付いても足りない程度のボリュームになる。

「酒井さんは真面目な方なんで、こういう言い方をするのは心苦しいのですが、分調班が引き取った段階で、大半の事件は迷宮入りが確定します、はい」

 前を向いたまま、少し言いにくそうに蒲田が言う。

「理由は色々ありますが、最も多いのは、被害者も加害者も身元が特定出来ず、場合によっては被害者そのものが存在しなくなってしまう事です、はい」

「身元が特定出来ないって、死体遺棄事件なんて最初はみんなそうじゃないのか?」

「その通りですが……そうですね、例えば今回の事件ですが、過去の例から見て、被害者は存在していなかった事になる可能性が高いです、はい。社会的に、あるいは法的に、と言う意味です、はい」

「……本来居るはずのない人間、戸籍を持たない人間、という事か?」

「ほぼ正解です、はい。付け加えるなら、生物学的に人間ではなかった場合も含まれます、はい」

「人間ではない?どういう事だ?」

「五月さんの件で考えると分かりやすいと思います、はい。被害者が存在しなくなる例は、つまり五月さんの事です、はい。」

「被害者が存在しなくなる?……あ!」

「そうです、常識では死んだはずの被害者が実はピンピンしている例です、はい。さらに、五月さんの件では、加害者側はさっきの「人間ではない」に相当します、はい」

「……」

 酒井は考え込んでしまった。何を馬鹿な。普通ならそう笑い飛ばす話、いやそれ以前の与太話だ。だが、今朝実際にその「死んでいるはず」の被害者にお説教してから仕事に来た身としては、笑い話ではない。

「これが、分調班の仕事、なんだな?」

 赤信号で停まった車内で、改めて聞いた酒井に、蒲田はほんのわずかに微笑んで答える。

「引き取ったからには、解決出来る事件は解決します、はい。ただし、解決しても書類上は迷宮入り、あるいは差し戻して事件化されずの扱いになる事も多々あります。解決しても自己満足しか得られない、それが、分調班の仕事です、はい」


 酒井達が庁舎に戻ったのは、警察庁の入る霞ヶ関中央合同庁舎2号館の一般的な昼食時間を少し過ぎた頃だった。

 遅い昼食を摂ろうと職員食堂に入り、張り込んでスペシャル定食を堪能している蒲田に、とりあえず外れがないだろうカツカレーで初めての食堂の様子を見る事にした酒井が、

「聞いて良いかな、さっきの話しの続きだけど、手が足りてない問題は解決してないんじゃないか?」

「確かに、手は足りてないです、はい」

 大盛りのどんぶり飯を味噌汁で流し込みつつ、蒲田が答える。

「ですが、そこはそれでして、はい。すぐに酒井さんも実感されると思いますが、その手の事件を調査してると、その筋の情報網が充実してくるんです、はい」

「その筋の、情報網?」

 カツをカレーに浸しながら、酒井は眉をひそめる。食堂のカツにしては肉厚なのがちょっと嬉しい。

「反社、って意味ではないです、はい。いや、そっちに関係する輩もいるのかも知れませんが、「生物学的に」ってヤツの事です、はい」

「……蛇の道は蛇、ってヤツか……」

「はい。で、そっちの情報に強い情報屋が数人居まして、はい」

「……ギブ&テイク?」

「さいです、はい。あっちも商売なんでそれなりの見返りを要求されますが、内容によりますが管理官が交際費か補助費で落としてくれる事が多いです、はい」

「なるほどね……」

 こりゃ、駐在所勤めとは全く別の世界だな。いや、まっとうな警察の業務とは別、と言うべきか。酒井は腹をくくらないといけないと思い、同時に、どうして自分がそんな部署に放り込まれたのか、その疑問はまだ答えを得ていない事を思い出した。


 その日の午後は、酒井は五月雨式に送られてくる関連所轄からの情報と監察医務院の監察医からの司法解剖の詳細情報の処理、及びそこから得た情報を元にした今後の捜査方針の打ち合わせに忙殺された。そのほとんどは、慣れない事務仕事であるが故に、いちいち蒲田のサポートを頼まなければならないものであった事によるのだが、結果として、昨夕に東銀座の地下鉄構内で傷害未遂事件があり、被害者からの被害届が出ていないので事件化出来ていないが、周囲の目撃情報からそちらの加害者とこっちの射殺死体はほぼ間違いなく同一人物である、と言う図式が出来上がる。おかしな点ばかりだが、そこから捜査方針として、まずはとにかく身元不明の死体が纏っていた衣類の出所から持ち主を探ってみる方向が決まった。実際の服その他の物証は別途輸送中で恐らく明日以降到着予定、まずは服の縫い取りの名前「北条」を当ってみる事になるわけだが、問題はこの背広がどこで販売されたかだった。ブランド名はタグに書いてあるので、そこから製造元をたぐるのはさほど難しくないが、どこに卸されてどこで販売されたかは……

 そう言ってため息をつく酒井に、蒲田は、

「まあ、こんなもんです、はい。いつもの事です」

 そう、何でもない事のような口調で言いつつ、その目は、うんざりしていた。


 その日、酒井はすっかり遅くなってからウィークリーマンションの部屋に帰った。事実上の初出勤で即座に残業、まあ、警察官とはいえサラリーマン、仕事とはそういうものだろう。そう納得し、違和感を感じない程度には酒井は社会人であり大人だった。

 駅を下り、徒歩で部屋に向かう途中のコンビニで缶の発泡酒を二本とつまみのチキン南蛮弁当、米は明日の朝食に回す、そしたら米のお相手に納豆とインスタント味噌汁くらい欲しい、そう思ってそこそこ色々買い込み、ちょっとだけ楽しくなってマンション玄関のオートロックを開ける。

 そして、部屋の扉が見えるあたりまで来た時点で部屋に明かりがついているのを発見、電気消し忘れたかと思った次の瞬間に、仕事に集中してすっかり忘れていた朝の一件を思い出し、心の中で頭を抱えた。

 深いため息をついて、この後の事態の推移を予想した酒井は、意を決してドアを開ける。部屋の中を覗く以前に、流れてきた匂いで自分の予想の正しさを確信した酒井は、努めて冷静にドアを開ける。

「……ただいま」

「お帰りなさい。遅かったですね?」

 長袖Tシャツにカーゴパンツという予想外にラフな格好の五月が玄関に振り返る。

「……部屋着、取りに帰ったんですか?」

 靴を脱ぎながら、言葉を選んだ酒井が聞く。

「身の回りのものだけ少し、持ってきました。一度部屋に帰ってから、今日は占いの仕事に行って来たんです」

「仕事?大丈夫だったんですか?その……」

 酒井が聞こうとした聞きづらい事を、五月は察して答える。

「首ですか?酷く寝違えたって言って、湿布貼ってごまかしました。割とこれで首動かないのごまかせました。流石にこれで夜のバイトは出来ませんけど……いえ、人の多いところの方が安全だと思ったんです。それで、あの、今後の事なんですけど……」

「職場の了解は取れました。安心してください」

「良かった……一人で居るともう、不安で不安で。あの、それでですね、不安紛らわす意味もあってですね、お夕飯作ってみたんですけど、酒井さん、済ませて来ちゃいましたか?」

 来た。予想通りの、回避してはいけない攻撃。

「いえ、まだです、けど、先に風呂浴びさせてください。多分、汗臭いですから」

「はい、どうぞ」

 微妙にテンションの高い五月を見て、不安の裏返しなんだろうな、と酒井は思う。思う事にする。五月が少し浮かれているように見えるのは、そうしていないと不安でしょうがないからだろう。自惚れてはいけないし、五月の不安を煽ってもいけない。こりゃしばらくは家に帰っても気を使わなきゃならないけれど、これも警察官の仕事のうちだ。

 そう思って、部屋着と換えの下着とタオルを持って脱衣所に向かう酒井に、五月が声をかける。

「あ、酒井さん、先に教えて下さい。酒井さんは、シチューはご飯にかけちゃう派ですか?別によそる派ですか?」


 翌日、酒井と蒲田は、午前中一杯を物証の受け取りと検品、及びスーツの販売先のリストアップに費やした。酒井にいろいろ教えながらでなければ、蒲田一人なら多分もっとさっさと仕事が進むのだろうな、と思い、酒井は蒲田に申し訳ない気持ちを持ったが、だからといって誰かに教えてもらわなければ定型の書類作業もままならない。それでも、頭を下げる事に抵抗がない酒井の真面目な性格もあって、午前中に該当するブランドのスーツが某大手スーツ量販店に卸されている事と、販売店のリストは手に入れた。午後は手分けしてリストをしらみつぶしにあたり、該当する縫い取りを入れた客、関東圏でその数三人まで絞り込んだのは午後八時を過ぎた頃だった。

「販売店の閉店時間過ぎましたし、今日はもう電話繋がらないでしょうね、はい」

 う~ん、と、伸びをしながら蒲田が言う

「今日はここまで、かな?」

 肩をもみながら酒井が答える。

 昨日も今日も班員の大半は外回り、唯一、酒井達同様に事務仕事をしていた吉川巡査部長は先に上がっている。

「ですね、はい。で、明日ですが、早速この三人に当ってみますか?」

「構わないが、根拠は?」

 同じ事を考えてはいたものの、酒井は蒲田の意見を確認してみる。

「いい加減座り仕事に飽きたってのが本音です、はい。あと、これ、リクルートスーツですから、恐らく持ち主は上京してきた新入社員、東北や中部の可能性もありますが、まずは関東圏と見てそれほど間違ってないと思います、はい」

「蒲田君、ずっと思ってたんだが、君、やっぱり刑事向きなんじゃないか?」

「いやいや。で、酒井さんはどう考えます?」

「君の見立てと同意見だ。持ち主は新入社員なのは多分間違い無い、発見現場と時間帯から現住所は都心に近いところだろうとは思う」

「なら、これからいきますか?」

 蒲田が示したリスト上の名前は、「北条柾木 連絡先:東京都田無市」と書かれていた。

 酒井は、その名前をどこかで聞いた気がしたが、目の前の調書を見直しても発見出来ず、とりあえず保留する事にした。


「それでは木村さん藤城さん、少しだけ待機をお願いします」

 田無駅から少し入った裏通りに停めたキザシの後席右側座席から降りた蒲田が、同じく運転席を降りる木村警部補、助手席を降りる藤城警部補に声をかける。目上の者が運転するというのも珍しいが、任意同行の際に万が一の車からの逃亡を避ける為、後席左右に人が必要、となると誰か最低もう一人応援を頼む必要があり、そう言ったら木村と藤城両警部補が手を上げた、のみならず、さっさと木村が自分から運転席に、藤城が助手席に収まったのだ。

 両警部補は、蒲田に一言返事をしてうなずき返すと、それぞれ煙草、木村はセブンスター・メンソール、藤城は酒井が見たこともない輸入品、聞くとインドのロイヤルビディというらしい癖の強いのを取り出す。

 案外、こいつら、外で煙草吸いたくて同行したのかもしれない。同様に煙草吸いである酒井は、車を降りながらそう直感した。

「いかにも、って感じですね、はい」

 築十年は優に超す、二十年でも驚かないだろうワンルームマンションを見上げて蒲田が言う。

「どこに勤めてるのかは知らないが、まあ、新人の一人暮らしならこんなもんか?」

「そんなとこです、はい」

 オートロックの付かない玄関を入り、部屋番号を確かめつつ階段を上る。部屋番号、表札を確認し、酒井はドアの影になる位置に移動して、蒲田が呼び鈴を押す……返事がない。

「居ないんですかねぇ」

「まあ、平日だしな、仕事行ってるかもな」

「居ないなら仕方ないです、はい。隣近所に聞いて回ってみますかねぇ」

 受け答えしながら、蒲田は呼び鈴を一定間隔で押し続ける。と。

「……はい……」

「ああ、北条さん、ご在宅でしたか、はい」

 ちらりと酒井に目配せした蒲田は、

「警察です。少々お話を伺いたいのですが、よろしいでしょうか、はい」


 ドアロックを解除する音がする。蒲田はドアに当らないよう一歩下がり、酒井は、ドアを開けたら中が見えるか見えないかのギリギリの位置に移動する。

 ドアが開く。恐る恐る出てきた若い男の顔を見て、蒲田は、

「北条さん……」

 一瞬言葉が途切れた。努めて顔に出ないようにしてはいるが、酒井には、蒲田が動揺したのが解った。だが、何に動揺したのかまでは解らない。北条という人物の顔が、そんなに驚くようなものなのか?まだドアの影でその男が見えていない酒井はいぶかしむ。

「……ですよね?大丈夫ですか?」

「あ、ええ、はい、まあ……」

 歯切れの良くない返事と共に、声の主の血色の良くない顔が、酒井にも見える位置まで出てきた。

 思わず酒井も息を呑む。北条というその若い男の顔は、昨日、監察医務院で見た射殺死体のそれに瓜二つだった。


「あ……これ、確かにボクの背広です」

 そうだろうな、無理を言って借りた田無警察署の取調室の壁にもたれ、酒井は思う。

 分調班は、いやそもそも警察庁には取調室はない。警察庁が捜査を行う機関ではないからで、従って事務室のある霞ヶ関の合同庁舎に戻っても何の意味もない。そこで、事前に話しを通し、調査対象であるこの北条という男の最寄りである田無署の取調室の借用申請をしておいたのだ。証拠品やら取り調べセット一式やらを持ってくるのは大した苦労ではなかったが、部屋の借用申請は手間と、普段使わない神経を猛烈に消費させてくれた。しかしまあ、どうやら証拠品の出所は掴めそうだ。酒井は、調査対象の対応は蒲田に任せ、対象の表情その他の観察に全神経を集中していた。

「これ、どこでどうやって無くされたかなんかされました?」

 あくまでソフトに蒲田が聞く。その瞬間、明らかに北条は動揺した。これは何か隠しているな。そう思って酒井はもう少し深く北条の心理を読もうとした。


「何か隠しているとは思うんですがねぇ、はい」

 蒲田が、書き終えた借用終了の確認書類一式を確かめながら言う。

「最初の一発目は確かに動揺してたが、汗、かかなかったな」

「ですね。瞬きも多かった気がしますが、すぐに普通になりましたね、はい」

 よほど自制心が強いのか、それとも単にドキッとしただけだったのか、北条の受け答えと対緒はそれ以上の詮索は必要ないと、普通なら判断してしまうくらい自然だった。

 北条を送り返すのを木村と藤城に依頼し、借用関連書類及び関連部署への挨拶という大仕事をこなす為、蒲田と酒井は田無署に残っていた。

「だからって、とてもシロとは思えないよなぁ……」

「ですねぇ、はい」

 射殺死体と顔がそっくり、というだけでなく、持ち帰って詳しく診なければ断言は出来ないが、今採った北条の指紋は、監察医から送られた死体の指紋とぱっと見で瓜二つだった。

「顔はともかく、指紋って双子でも違うんじゃなかったっけ?」

「そう聞いてますけどねぇ、はい」

「どうなってんだ?」

「さあ……」


 庁舎に戻り、かなり遅い昼食を食堂で摂りながら、酒井は思いついて言う。

「……足取り、辿ってみるか?」

「被害者の、ですか?」

 小鉢をつけたA定食をつつく手を一瞬止めて、蒲田が聞く。

「被害者なんだか加害者なんだかよく分からんがな。断片的だが、目撃証言あったよな?」

 卵を落としたラーメンをすすりつつ、酒井が聞き返す。

「辿ると言うほどは。東銀座で奇行が目撃されていたはずです、はい」

「正直言うと、何が何だかさっぱりわからなくなった、ってのがホントのとこなんだけどな。だが、さっきの北条と死体の関係はともかく、何がしたかったのかは押さえておいた方が良いだろう」

 黄身だけをキレイに残して麺と具を片付けた酒井が言う。

「ですね、はい」

 小鉢の冷や奴を片付け、レバニラの最後の一口で茶碗の米をやっつけにかかった蒲田が答える。

「よし、じゃあ、調書を再確認したら行ってみるか」

 スープの最後の一口と一緒に卵の黄身を飲み込んだ酒井が、勢いよく立ち上がった。


「築地署から回ってきた調書によると、ここらへんの壁を手探りで何か探してる風で居た時に、急に暴れ出したとか」

 周囲の一般人に迷惑にならないように気をつけながら、蒲田はバインダーに挟んだ調書のコピーを確認する。

「この辺を、か?」

 何の変哲もない壁。都営地下鉄と東京メトロ双方が乗り入れる東銀座駅から東京メトロ銀座駅間は、地下通廊が続いている。銀座四丁目交差点の地下を中心に、その地下通廊は西は数寄屋橋を通り越して日比谷公園まで、東は歌舞伎座の先、今は首都高が通る築地川跡地にかかる万年橋まで続いている。酒井と蒲田は、その地下通廊の、東銀座駅のある三原橋交差点と銀座四丁目交差点の中間あたりに居た。このあたりは、四丁目交差点以西に比べると人通りがかなり少ない。

「顔にお札を貼った、リクルートスーツの変人は、ここから八丁堀の間でいくつか目撃情報があります、はい。このお札ですね」

 蒲田が、バインダーを開いてビニール袋に入った長細い札を見せる。部分的に読める漢字もあるが、意味は全くわからない。ただ、

「……なんか、映画かなんかで見た事あるな」

 酒井は、記憶の隅っこを引っかき回しながら言う。

「道教とか、そっちで使うお札らしいです、はい。マンガとか映画とか、オカルトでは割とよく見ますね、はい。これは本物みたいですが……」

「本物?」

「偽物なら、ハロウィンの頃になるとあっちこっちで売ってますよ、コスプレ用に、はい」

「なるほど……なあ、俺の記憶だと、映画に出てくるこれって、こう、死体が顔に貼ってぴょんぴょん跳びはねてる、アレなんだが」

「多分それです、はい。ボクも詳しくはないですが」

「それの、本物?」

「はい」

「……マジかよ……」

「嫌になりました?」

 壁に手をついた酒井に蒲田が聞く。

「いや、まあ、正直ホントかよとは思うが、乗りかかった船だし、これが仕事だって言うならまあ、信じるしかないわな」

「そうして頂けると助かります。まあ、そのうち慣れますよ、はい」

「……いいんだか悪いんだか……」

「で、話を戻しますが、不審者がいるって駅員に通報があって、はい。その時はなんかぼーっと突っ立ってたという事ですが」

 その調書は酒井もざーっと見ている。その時、男の足下に落ちていたのがそのお札だったはず。

「駅員が声をかけたら、急に暴れ出して走り去って、その際に駅員二人と、一般人が二人突き飛ばされて、一応銀座四丁目交番に連絡があって調書が残っている、と、こういうわけですね、はい」

「ますます解らんな……ん?」

 蒲田に相槌を打ちながら、さっき手をついた壁をなんとなく指でなでていた酒井は、ふと、手触りに違和感を感じた。なんてことのない、ただの壁のはずだが、ここだけ何か凹凸がある、ように感じた。改めて目をこらしてみる。と、そこには、さっきまで無かったはずのドアが見える。飾り気の全くない、機械室に通じるようなドア。

「なあ、こんなドアあったか?」

「はい?ドア?ですか?どこに……あれ?」

 言われて、寄って来て壁を凝視した蒲田が軽く驚愕の声をあげる。さっきまで何も無かった、いや、何も無いと思っていたところに、今はドアがあるのが見える。が、試しに一度目を離すと見失う。今は触っているから再認識出来るが……

「はいそこまで。動かない声出さない」

 突然、後ろから声がした。と同時に、酒井は背中に、何か細くて硬いものが押しつけられているのを感じる。横目で蒲田を見る。蒲田も引きつった目でこちらを見ている。脇の下と背中にいやな汗がどっと出る。

「壁から手を離して。こっち向いていいけどゆっくりね」

 背中から硬いものが離れるのを感じ、酒井は――蒲田も――ゆっくりと振り向く。

 そこには、赤と黒の畳んだ鉄扇を持ったまま腕を組み、軽く首を傾げ、口元をわずかににやつかせた、栗色のショートボブカットの女がいた。

「ちょぉーっと、お話聞かせてもらえるかなぁ?」


 ……逃げられない、逃げたらまずい……

 酒井は、女の目を見て直感する。地方の駐在所勤めとはいえ、むしろだからこそ、地元の有力者、要はそっち関係と繋がりがあったり、そっち関係そのものだったりするわけだが、それらと上手く折り合いを付ける必要があり、カタギではない目をした輩も何度も見てきた。だが、目の前の女のこの目は格が違う。相手は一人、こっちは二人だから、同時に逃げれば最悪でもどちらかは逃げ切れる、ように思うが、この目は、逃げ出す気配を見せた瞬間に文字通り首を捩じ切る、人前でも容赦なくやる、そういう目だ、そう感じる。蒲田も同じ事を思っている、そう蒲田の目が語っている。

「そっちの出口出たとこに喫茶店ファン・ゴッホがあるの。お茶しながら話さない?」

 明るい水色の地に白に近いもっと明るい水色のチェックのスーツ、胸元が大きく開いたブラウスという、ビジネスウェアとしてはかなり攻めた服を粋に着こなしたその女は、とびきりの笑顔とややハスキーな声でそう誘う。

 酒井にも蒲田にも選択の余地はない。大人しく言うとおりに、女に言われるとおりに前を歩く。酒井はその短い道中、必死に記憶をまさぐる。どこかで、この女を見た覚えがある。どこだ……

 言われるままにファン・ゴッホ歌舞伎座前店に入り、示されるままに一番奥のテーブルにつく。周りは男女ともにスーツ姿が多い。これなら酒井達も悪目立ちはしない。

 酒井達を壁側のソファに座らせ、女は通路側のチェアに座り、即座に表れたウェイトレスにウィンナーコーヒーを頼み、酒井と蒲田に目配せする。酒井はアメリカン、蒲田はホットココアを頼み、ウェイトレスが離れると、

「さて、あなた達は一体どこのだあれ?」

 足を組みながら、今風の丈の短いビジネススーツにパンツ姿の女が尋ねた。

 酒井は腹を決める。

「我々は、警察庁刑事局捜査支援分析管理官付調査班の、酒井警部と蒲田巡査長です」

 自分でも舌を噛みそうな長い肩書きを正直に言う。女は、一瞬、怪訝そうな顔をし、すぐに、

「あら、それって、岩崎のところ?」

 一瞬、酒井と蒲田は誰の事か分からなかったが、すぐに自分たちのボスの名字を思い出し、酒井が聞き返す。

「岩崎管理官を御存知で?」

「御存知も何も。なんだ、早く言ってよ。つかあんにゃろ、部下よこすんなら先に言っとけって……」

「いや、管理官は我々がここに来た事は多分まだご存じないと。失礼ですが、あなたは?」

「あたし?こういうものよ」

 女はハンドバッグ――革製の、相当使い込まれているが大きめで丈夫そうなもの――から名刺を出して酒井と蒲田の前に置く。

「……フリージャーナリスト、ら……」

 名前を読もうとして蒲田が詰まる。

「あららぎまどか、よ。読みづらくてごめんなさいね」

 そう言って、蘭円はウェイトレスが持ってきたウィンナーコーヒーを飲む。一瞬中国人名かと思った酒井は、口を出さないでよかったと心の中で胸をなで下ろす。

「それで、あんた達、あそこで何してたのよ?」

 若干砕けた口調になって、円が聞く。

 蒲田が訪ねる視線で酒井を見る。酒井は、頷き返すと、

「我々は、一昨日に発見された変死体の足取りを捜査中です」

 最低限の事実だけを述べる。その態度に何か感じるものがあったのか、円は、ふうん、と数瞬だけ酒井を見つめ、

「……まあいいわ。で、何か解ったの?」

「捜査中です。それに、捜査情報を漏らす事は出来ません」

「……硬いわねぇ。好きよ、そういうの」

 円の微笑みを見て、酒井の背中にぞくりとするものが走る。一見、円は酒井と同年代くらいに見えるが、この背筋が凍るほどの色気と、その奥の底冷えする凄みはどうしたことだ。

「そうよね、岩崎の知り合いなんて、トップ屋の言う事信じてたら警察やってられないわよね。じゃあ、ギブ&テイクでどう?」

「トップ屋?」

 蒲田が聞き直す。広義ではフリーランスであちこちに記事を書くジャーナリストの事だが、狭義では特ダネを集めて回り高く売りつける業界のアウトロー、として使われる事もある。警察官の知識としてその存在は知っていても、実際に出くわすのは初めてなのかも知れない。実際酒井は初めてだった。

「そうよぉ。だから、知ってる事なら教えてあげるわ。代わりに、その調書を少し見せてくれたら、ね」

 蒲田の持つバインダーを見て、にやにやしながら円が言う。もしかしたら、そこにかかれている事の半分くらいは、既にこの女は知っているのかもしれない。酒井は、根拠無くそう思った。

「……一昨日の変死体の事は御存知という前提で聞きます。我々は変死体の身元を調べてます。何か御存知なら教えていただきたい」

「身元はあたしも調査中、一昨日の夕方に八丁堀からここまで来て、ここからあちこち逃げ回って、最終的に大手町で射殺された、ってところで合ってるかしら?」

「逃げ回った?」

「追っかけ回したのが居るからね。って言うか、コイツにしてみれば、藪をつついたら蛇の巣だったって感じかしら?ホントの事言うと、ホントに鉄砲玉のつもりだったのか、単なる偶然だったのか、まだよく分かってないのよ。けど、二日続けておんなじようなのが来たから、あんた達もその一味かと思ったから、このあたしが出張ってきたのよ?」

「?」

「帰ったら岩崎に良く聞きときなさい?この界隈でむやみに見えないものを見ようとすると怖い人が出てくるわよ?」

「それは、どういう……」

「だから、岩崎に聞いて」

「……それじゃあ、急に暴れ出したってのは、誰かに追われたから?」

 蒲田が話しを引き取る。円は蒲田に向き直り、

「逆。暴れ出したから追っかけたの」

「?」

「原因はそこにあるわ。持ってるんでしょ?お札」

 蒲田がココアをこぼしそうになる。

「何故……」

「匂うのよ。見せて」

 蒲田が酒井を見る。酒井は、頷いてみせる。これは、見せて助言を得た方が良い。

 蒲田がバインダーを開いて円に渡す。円は、受け取ったバインダーの当該ページを汚いものを見るような目で見つつ、

「やっぱし。これの意味、知ってる?」

「……映画とかでよく見るヤツ、としか、はい」

「まあそんなとこでしょうね。これは道士が死体を操る時によく使う符、だけど操るの自体は実は符は関係なくて、これはむしろ死体が暴れるのを抑える為にあるの。と言ってもあたしもそんなに詳しくは無いんだけどね」

「え、ええと……」

「死体が動くようになるのと、それをコントロールするのは別だって事だって理解すればいいわ。で、一昨日のはこの札が剥がれたんで暴れ出した、って事。その程度の道士だったって事ね」

 酒井は、理解がついてこないのを感じていた。だから、つい、思いついた事が口から出てしまった。

「そんな簡単に剥がれて良いものなのか?それ……」

「普通は剥がれないわよ?剥がれないように念じて貼っ付けるんだから。でもこれ、見て」

 円が札の裏を示す。

「両面テープで貼ってあるもの。汗かいたら剥がれるわよ」

 両面テープって。目が点になってる蒲田を見て、酒井も自分もきっと同じような顔をしているんだろうなと思う。そして、またしても思った事が考える前に口をつく。

「……汗?」

「だってこれ、死体じゃなくて生きてる体に貼ってあったんでしょ?汗の匂いも残ってるわよ?」

 匂い。酒井の頭の中で何かが繋がった。どこでこの女、蘭円を見たのかを思いだして、背筋が凍る。

「要するに、半端な道士が腑抜けになった生の体を操ろうとして、途中で暴走したって事かしらね。想像だけど、動かすのに低級霊でも憑依させたんじゃないかしらね。あいつら、よくやるのよ。で、危なくてしょうが無いから然るべき組織が始末したって事ね」

「然るべき組織?」

「それは岩崎に聞いて。あんた達の元締めはアイツなんでしょ?どこまで情報出して良いかはアイツの判断でよろしくって言っといて……ちょっとごめんなさいね」

 言って、円は尻ポケットからスマホを取り出して通話を始める。電話の相手は若い女の子のようだ。

「はい、どうした……え、マジか、……OK、そこ撤収して戻っといで、詳しい事こっちで聞くわ、うん、じゃあ」

 電話を切って、円は、

「ごめん、話し途中だけど急用が入ったわ。ここ払っとくから。あと」

 ハンドバッグからペンとメモ帳を取り出し、何かしら書き付け、千切って酒井に渡す。

「飲み終わったらそこ行ってご覧。きっと面白いから。じゃあね。岩崎によろしくね」

 言って、レシートを持って円は返事も聞かずにさっさとレジに向かう。残された酒井と蒲田はあっけにとられ、顔を見合わせた。

 すっかりペースに呑まれたな……酒井は思う。得たものがそれほどあったわけでもない、いやあったと言えばあったが報告書に書けそうもない。だが、この先重要な情報源と繋がったらしい事はわかる、本物なら。蘭円の名刺を見ながら、酒井は、とにかく岩崎管理官に確認してみよう、色々と、と決心し、そして、

「……とりあえず、ダメ元でこの住所行ってみるか……」

「……ですね、はい」

 八丁堀二丁目、井ノ頭屋敷。

 メモには、そう書いてあった。

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