第7章:突入!

「おう、来たわね」

 午後六時三十分、若洲海浜公園の駐車場の片隅で待つ蘭円あららぎまどかは、駐車場に入ってきた銀色のスズキ・キザシの車内に酒井と蒲田の顔を認めて、かけていたサングラスを外して額の上に上げ、乗っていた白のスズキ・ジムニーSJ30の運転席で腰を浮かせて手を振る。

「ああ、あれ蘭さんですね、はい。うわ、めっちゃ手振ってる」

 オープンの二代目ジムニーから身を乗り出して酒井達に向けてぶんぶん手を振る、ピッタリ目のスーツに膝丈のタイトスカートを着こなす栗毛ボブカットの大柄美女は、いやでも周りの目を引く。

「……わかってんのかあの人……蒲田君、ちょっと離して車置こう」

「はいです、はい……」

 

 金曜の夕方、平日と言えば平日だが週末に備えて夜釣りなどの客も多く、ガラガラと言うほどには空いているわけではない駐車場で、酒井達はジムニーから二台空けてキザシをバックで駐車する。二人してなんかため息ついてしまってから、酒井と蒲田は車を降り、ニコニコ顔で待っている円と、その助手席でやや仏頂面の笠原弘美かさはらひろみに挨拶する。

「お待たせしました」

「ううん、今来たとこ。って言いたいけど、ちょっと早く来過ぎちゃったわね」

「早すぎます。あんなに飛ばすんだもん、この車風は酷いし煙は凄いしうるさいし乗り心地悪いしCDもナビもないし……」

 弘美の仏頂面の原因はそれらしい。とはいえ、事務屋だと言っていた笠原弘美が何故ここに居るのか、酒井は気になった。

「笠原さんも一緒に行くのですか?」

「……私はお目付役です、それと、何かあった時の連絡役です。現場には同行しません」

 酒井達には努めて普通に答えようとするが、弘美の言葉の端にまだ若干のトゲがある。

「円さんとかじかさんが一緒に行動して只で済むはずが無いからどうにかして来いって上からの指示です。私一人で、しかも現場に行かないのにどうにか出来るわけないじゃないですか」

「じゃあ一緒に来る?」

「絶対いやです!」

 無関係の酒井と蒲田に不満をぶちまける弘美を、わかっていて円はからかう。やっぱこの女絶対Sだ、酒井はそう認識した。

「鰍さんというのは?」

「あたしの孫よ。もうすぐ来るはずなんだけどねぇ」

「はあ、お孫さん、ですか、はい」

 聞き覚えのない名前が出てきたのでとりあえず確認した蒲田に、さらりと信じがたい答えを円は返す。酒井も、岩崎から聞いてはいたが、見た目三十台にしか見えない本人の口から聞くとやはり若干の衝撃がある。

「そういえば、青葉五月だっけ、あの子は連れて来なかったの?」

 思い出したように、円が聞いた。

「青葉さんにはこの件は伝えてません。伝える必要もないと判断しました」

 事務的に酒井が答える。ふうん?思うところありそうに円が受け取る。

「替わりと言っては何ですが、西条精機の令嬢が是非同行させて欲しいということだったので、声はかけてあります。先日誘拐された井ノ頭菊子、緒方いおり両名の関係者なので、私と蒲田は本件に同行する資格があると判断しました」

「西条精機の令嬢?」

 円が弘美に聞く。

「一昨日、鰍さん達が八丁堀で接触した、井ノ頭さんの関係者ですね」

 仕事モードに頭を切替えたのか、機嫌を直したらしい弘美が答える。

「……ああ、あの話か。なら大丈夫じゃない?一緒に来ても」

「まあ、円さんがそう言うならいいですけど。その人達、まだ念書もらってないですから、もらっておかないと」

 ああ、何が何でももらうのね。酒井は、弘美のプロ根性に、あきれるを通り越してちょと感心した。


「あそこに居るの、刑事さん達じゃないですか?」

 センチュリーの右後席から身を乗り出すようにして、柾木がフロントガラス越しに前方を指差す。

「そのようですな。では袴田、刑事さん達の車の隣につけましょう。お姫さまおひいさま、よろしゅう御座いますな?」

「……好きになさいましな」

 袴田に出す指示を、蒲田は玲子に確認するが、玲子には珍しく、返事が非常にぞんざいだった。どうやら玲子はまだヘソを曲げているようだ。このお嬢さんは、一度機嫌損ねると結構後引くんだよな……柾木は、少し前に、軽くヘソを曲げた玲子に弁明するのに相当苦労したことを思い出し、やれやれ、と思って玲子越しの窓の外に目をやる。その目が、古いジムニーの横に立って刑事達と談笑している、さっきまで背を向けていたが今はセンチュリーが移動しているので顔が見える角度になった、派手目のスーツをビシッと着こなす大柄の女性の栗色のボブカットに釘付けになる。

「ぅあっ!」

 唐突に、自分の方向に大声を出した柾木に、流石に玲子もびっくりして目を向ける。時田も振り返り、袴田でさえ肩がビクッとしたのが見えた。

「如何されました、北条様?」

 時田が声をかける。袴田は、それでも何事もなかったようにセンチュリーをキザシの隣に車庫入れしようと切り返しを始める。

 円を目で追って、今はほぼ真後ろを向いている柾木は、体を左に百八十度ひねった姿勢のまま、絞り出すように呟いた。

「……あそこに居るの、例の狼女です……」

「!」

 柾木以外の全員が息を呑み、玲子と時田が柾木の視線の先を見る。車庫入れ中の袴田は流石に視線を逸らすことはなかったが、その袴田にしては珍しく、車止めに後輪を当てるショックが車内に伝わった。


「あれ?北条柾木さん、ですよね?」

 キザシのすぐ左に停まったセンチュリーの右後席から飛び出してきた北条柾木に気付いて、蒲田が声をかける。

「……ああ、あの車、西条さんの車だったのか」

 柾木に少し遅れて車を降りた時田、時田が開けたドアから降りてくる西条玲子を見て、酒井が言う。

「あら、あの時の坊やじゃないの」

 円も柾木に気付く。

「えと、こんにちは」

 小走りに酒井達の近くに来た柾木は、何と言って良いかわからず、とにかく挨拶をする。

「君も、来たのか」

 酒井が柾木に聞く。

「はい、まあ……」

「……もう、こっちに近づくなって言ったのに。君、なんかエラいことになってない?」

 円が柾木に声をかける。

「……わかっちゃいます?」

「君の体がまともじゃない、って事くらいはね」

「すみません!忠告いただいてたのに。でも俺も努力したんです。したんですけど、気がついたら……」

「あなたが、青葉五月さんを殺した狼女ですのね……」

 時田と袴田を引き連れた玲子の冷たい声が、柾木の台詞を遮った。

「……悪いけど、どちら様?」

「お初にお目にかかります、西条玲子と申します。この度は、井ノ頭菊子さんと緒方いおりさんを救出するのにお力添えを頂けると伺っております」

 しまった。酒井、蒲田、柾木の三人の顔に、同じ表情が浮かぶ。酒井と蒲田は五月が生きていることを玲子に言い忘れていたという失態を思い出し、柾木は思いのほか玲子が来るのが早く、あと数秒はあると思っていたが甘かった、狼女に事情を説明しそこなった、と思った。

「その件に関しましては、ご尽力頂けますことに感謝を申し上げます。ですが」

 一旦は頭を下げた玲子が、キッと顔を上げて円に正対する。玲子が、円を睨みつけたのが柾木にはわかる。玲子は初対面の相手の目を見ることはまずしない、その事は、柾木にも良くわかっている。

「私は、あなたを許せません」

 玲子は、円にそう言い切る。雰囲気が一気に剣呑になる。

「……あなた、その目はどうしたの?」

 いつものアルカイックスマイルを引っ込め、妙に真剣な表情で円が言う。玲子が、びくりと身を固くした。

 円は、玲子の言葉には全く動じず、まっすぐに玲子の視線を受け止めたまま、言う。

「あたしの事嫌いなのはどうでも良いけど。あなた、分かってると思うけど、誰かをそんなに強い気持ちで見つめちゃダメよ。それより」

 円は酒井と蒲田を見る。やや吊り気味の目を少し細め、口角をきゅっと吊り上げて。

「あんた達、あたしは殺してないって言っといてくれたんじゃなかったの?」

「すいません!色々あって混乱してて、西条さん達に言うの忘れてました!はいぃ!」

 蒲田が速攻で詫びを入れた。蛇に睨まれた蛙、いや狼に睨まれた、か?酒井がそんな事をふと考えた時、ん?と円は蒲田から酒井に、弁慶でも射すくめられそうな視線を移す。

「青葉五月さんには言ってあります、それは昨日言ったとおりです。本人も一応納得してくれてます」

 とっさに、酒井も背中に冷や汗かきながら、それでも冷静を装って答える。

 ひとしきり酒井と蒲田を睨みつけていた円は、視線を玲子に戻す。

「……まあいいでしょ。お嬢ちゃん、誤解してるみたいだから言っておくけど、あたしはその青葉五月って子を、殺してはいないわよ。お仕置はしたけどね」

 腰に手を置いて、やや胸を張って円が言う。

「嘘だと思うならそこの刑事さんに聞いてみて。一緒に暮らしてるみたいだから」

 円は酒井を顎で示す。酒井は、え?俺?みたいな顔になる。

「あたしが嫌いってのはどうでも良いけど、誤解されたままってのは気に入らないから。そこんとこは分けといてね」

 大柄な円が小柄な玲子に、腰を曲げて顔を近づける。食ってかかった玲子が気圧されている。細めた目、少し持ち上げた口角。凄みのある笑顔、有無を言わせない貫禄とはこの事だと、酒井は思った。

「五月さん、生きてるんですか?」

 やっと話に割り込む隙を見つけた柾木が、勢い込んで四人の間に割り込む。

「だから、あたしは殺ってないし、そこの刑事さんとよろしくやってるんでしょ?」

 背筋を戻して円が抗議する。

「よろしくやってるって、人聞きの悪い、当初、円さんがまた来ると怖いというので保護しているだけです!」

 慌てて酒井が訂正する。ニヤニヤしている円、何か言いたそうな蒲田を放っておいて、柾木は玲子の肩に手を置く。

「良かったじゃないですか!五月さん無事みたいです!よかった!」

「え、ええ……」

 無事ではないけどな。酒井が心の中で呟く。

「玲子さん、五月さんの連絡先わかります?連絡取ってみましょうよ」

「……はい、そうですね……」

 柾木は玲子と円の間に自分を入れるようにして、玲子をせかし、円から少し距離を取らせる。あ、そういう事か。酒井は気付いた。柾木は、この場のとげとげしい雰囲気を無理矢理変えようとしている。この男は、若いのになかなか状況を見ている。酒井は感心すると共に、柾木を若いの呼ばわりする自分が、オッサンの領域に片足入れつつある事を自覚せざるを得なかった。

 玲子は、スカートのポケットからスマホを取り出し、数回画面上で指を滑らせてから耳に当てた。

 柾木は、やれやれ、とりあえず目先を変えることには成功したかな?と思う。本当に、世話の焼けるお嬢さんだよ。ふと、少し離れたところでこちらを見ている時田と袴田と目が合う。二人は、柾木と目が合うと、ふっと表情を和らげた。釣られて、柾木も肩の力を抜く。

「……繋がりませんわ」

 玲子が、スマホを耳から離し、落胆したような、不安が戻ってきたような声で柾木に言う。

「きっと、仕事に行ってるんだと思いますよ」

 柾木が何か丁度いい台詞を思いつくより早く、酒井が、玲子の様子に気付いて声をかける。

「この時間なら、まだ占いの仕事に行ってるはずです、携帯切ってるんでしょう」

「……そうですわね、きっとそうです」

 酒井の言葉を自分に言い聞かせるように、玲子が呟く。

「お話は一段落しましたでしょうか?ちょっとお時間よろしいですか?」

 タイミングを見計らっていた弘美が、いつの間にか玲子達に近づいていた。

「「協会」の渉外担当の笠原弘美と言います。この度は……」

 弘美の説明が進むにつれ、柾木、時田、袴田は勿論の事、ベールの奥の玲子の目も点になる気配が、周囲にはありありと感じられた。


「……お、やっと来たわね」

 玲子達の様子を見ていた円が、近づいてくる野太い排気音に気付き、音のする方へ振り返った。

「うわ……」

 ジムニーの隣にバックで入ってきた、赤い四角い乗用車を見て、柾木は小さくうなった。柾木の地元でも滅多に見なくなった、古い日産ブルーバード。ブルーバード史上最大の販売台数を誇る910型のSSS四ドアセダンである事は、販社の新入社員である柾木も知っていた。

 エンジンを切らずに降りてきた運転手の男とと、助手席から出てきた娘を見て柾木は二度驚く。それは、一昨昨日に突然現れた、狼少女とその片割れの男だった。

「遅いじゃないの、何してたの?」

 円が声をかける。

「いやー、銀座出るのちょっと遅れたら晴海通りめっちゃ混んじゃって。どうもすみません」

 黒のカーゴパンツにカーキ色のTシャツという、かなり端っこに寄った格好の男の方が頭をかきながら円に詫びる。

「なーによばーちゃん、スカートなんか履いて、今日仕事しない気?」

 助手席から下りてきた、白のロング丈の薄手のパーカーを羽織り、その下はグレーのタンクトップにデニムのショートパンツの小柄な少女が円に非難の声をあげる。少女のおかっぱ頭の栗毛は、円のショートボブのそれと色合いがそっくりだ。

「酒井さん、あれって……」

「ああ、あれが例のお孫さん、か……」

 蒲田の耳打ちに、酒井が答える。

 ひとしきり、栗毛の二人は口調はキツいが顔は笑いながらのやりとりをした後、円はまだ軽いショック覚めやらぬ体の玲子達及び酒井達に振り向き、少し離れた手洗い場を指差して、言った。

「これで揃ったわね。じゃあ、まずおまじないするから、あそこで手と口を清めて来てくれる?」


 円は、ハンドバッグから筆箱のような入れ物を取り出す。開けると、そこには小さな祓串。

「かけまくもかしこき おおくちのまかみ かむやしろのおおまえをおがみたてまつりて かしこみかしこみ……」

 集めた皆に向かい、円は祝詞を唱え、祓串を優しく振る。

 軽く俯いてお祓いを受ける柾木は、こんな神社でもないところで、神主でも巫女でもない人がこんなことをして、果たして御利益があるのだろうかと不審に思う。だが同時に、一昨日玲子が言った「魔法陣はイメージで描くもの」という言葉も思い出す。だとしたら、例えば円がものすごく力の強い魔法使いとかそういうものであれば、これは効果があることなのか?あの時、鰍という狼少女が時田の毒を中和したように?

 柾木にはわからない。なにしろ、柾木には何も見えず、何も感じられないのだ。だが、隣で同じようにしてお祓いを受けている玲子の肩は細かく震え、時折びくりと大きく動く。玲子には、玲子の目には、何かが見えている、らしい。

「……つくさしたまえと かしこみかしこみももうす……」

 さらり、円が祓串を収めた。

「……顔を上げて良いわ。これで、よっぽど大きな音を立てたり、直接触られたりしない限り、あんた達は周りからは「見えてるけど気付かない」状態が保てるはずよ。ただし」

 祓串を仕舞いながら、円が警告する。

「目が良い奴なら、見抜かれるから。あと機械には通じないから気を抜いたらダメだからね……じゃあ、準備出来次第行くから、用意して」

 いつの間にか、なし崩しに円が仕切っていることに何の疑問も抱かず、柾木は一旦場を離れ……ようとして、玲子が自分自身を抱くようにしている事に気付く。

「玲子さん、どうかしましたか?」

「柾木様……私は、あの女が仕切っていることが気に入りません。それは、もう隠し立ては致しません。ですが」

 俯いて震えていた玲子の両手が、柾木の両の二の腕を掴んだ。

「あれは、とても私がかなうような代物ではありませんでした……柾木様にはお見えになりませんでしたでしょうが、私には……」

 やはり、玲子には何かが見えていたのだ。だが、だとしたら。

「だったら、それがわかったってのは、良い事なんじゃないですかね?」

「え……?」

 玲子が、顔を上げる。

「だって、それがわからなかったら、きっと玲子さん、向こう見ずに突っ込んでたんじゃないですか?」

「そんな……それは」

「だから、それがわかって、むやみにケンカ売らなくて良かったって事ですよ、きっと」

「……もう、私、そんな事致しません」

 掴んでいた柾木の腕を柾木に押し戻すようにして放し、玲子が柾木に背を向けた。

「少しだけ、車で休んで参ります」

 そう言って、玲子はそそくさとセンチュリーに向かう。

「やれやれ……」

 ため息をついて、柾木は玲子を見送り、そして周りを見渡す。どうやら、それぞれがそれぞれの車で、なにやら用意をしているようだ。その周りに関係のない人たち、これから夜釣りを始めようという人だったり、公園で遊び終わって帰ろうとする人たちだったりが三々五々通り過ぎるが、誰一人としてこちらを気にしている様子はない。なるほど、円のおまじないは確かに効いているようだ。柾木は感心する。どのみち、柾木には何かを用意すると言う事はない。正直手持ち無沙汰なので、さっき少し気になったブルーバードを見に行くことにする。


 ジムニーの向こう側、ブルーバードの後部左ドア付近では、鰍が連れの男がトランクから出したボストンバッグを受け取り、見るなよ、見ねぇよ、といったやりとりの後で車の中に入ってドアを閉めたところだった。

「ども、キレイにしてますね、この車。ええと……」

 こういう場合は軽く車を褒めてから会話を繋ぐべし。仕事よりむしろ出身地での経験をベースに、柾木はトランクを開けて中の荷物を取り出そうとしている男に声をかけた。

「あ、北条柾木さん、でしたか?初めまして、じゃないですよね。滝波信仁たきなみしんじです、宜しくお願いします」

 思ったよりも普通、というか丁寧な返事が返ってきた。柾木は、脳の中の営業マンの部分をフル回転させる。

「こちらこそ。これ、ターボタイマーつけてますよね?」

 さっき、信仁と名乗った男が降りる時はエンジンがかかったままだったが、1分ほどしてからエンジンが切れたのを、わりと近所に「走り屋の聖地」と呼ばれる場所があった柾木は聞き逃していなかった。

「あ、わかりますか?コイツ、オヤジから譲ってもらったんですけど、エンジンだけZ18EからETに載せ替えたんで。ちょっと大事にしてあげないとと思って」

 ああ、この人はそっち系か。ざっと見た限りでも、派手さはないがあちこち手が入っているし、多分塗装もやり直している。柾木は地元に似たような人がいっぱい居たなと思い出す。

「申し遅れました、私、こういう者で」

 柾木は名刺を渡す。

「あ、プリンスの」

「はい、何か御用の節は是非。ところで……」

 ずっと気になっていたことを、柾木は聞いてみた。

「あの人、彼女さんですか?」

 開いたトランクリッドとリヤガラスの向こうの車内を指差して聞く柾木に、信仁は首を横に振って、

「あー、違います、鰍ちゃんは、俺の彼女さんの妹です」

 黒いジャケットに袖を通しながら、臆面なく信仁が答える。答えながら、慣れた手際で、柾木が名前も知らないような装備を次々につけていく。

「それって……」

 聞きたいことが一気に増えて、柾木は言葉が詰まる。あんな狼娘が他にもいるのか?何人いるんだ?そして、あの狼娘の姉を彼女と言い切る、君は、いろんな意味で人間なのか?

 張り出したリヤバンパーに腰を預けてコンバットブーツを履こうとしていた信仁は、言葉に詰まった柾木を見上げ、その心を読んだかのようにニヤリとすると、

「……考えてること、わかります。よく聞かれますから。俺は、ただの人間です、多分。まあ、誰でも少し遡ると結構何か混ざってるらしいから、その辺は良くわからないんですけどね」

 片方の靴を履き終え、反対側に取りかかった信仁は、言葉を続ける。

あねさん、あ、俺の彼女さんは、ご想像通りの人狼ひとおおかみです。人と人狼がなんで、って思うんでしょうけど、俺にとってはそこはあんまり問題じゃないんです。惚れた相手が、たまたまそうだった、それだけですよ」

 照れるでもなくごく普通に言い切り、靴を履き終わった信仁は、トランクの奥から長細いケースを手元に寄せ、開く。中に入っていたのは、柾木が見たこともないような変な形をした、それでも明らかにライフル銃とわかる物体。

 あまりにもあっさり答えられて、柾木は唖然とする。唖然として、聞き直す。

「そんなもんなんですか?」

「そんなもんですよ?」

 柾木の疑問を、信仁は軽く流す。

「何人か知り合うとわかります。みんな、中身は大して変わりゃしません。目の色肌の色の違いと大して変わらない、と俺は思ってます」

信仁兄しんじにい、アタシのデト子出して……あれ、FA-MAS持ってきたの?」

 そうなのかな……と考え込んでしまった柾木の横から、着替えが終わったらしい、小柄な体に各所にプロテクターの付いたセパレートの黒いライダースーツ――カドヤのバトルスーツ、なんてのは柾木は知る由もない――を着込んだ鰍がひょいと顔を出した。まるで、実の兄妹のような気安い会話。

「はいよ。今回インドアだって聞いたから」

 まるでサバイバルゲームでもしに来たように答えて、ライフルケースから出したブルパップ式のアサルトライフルをトランクの床に置くと、信仁はゴテゴテと色々付いたガンベルトを鰍に渡し、自分もジャケットの上にタクティカルベストを着込み、ガンベルトを巻く。鰍がガンベルトを巻き終わった頃を見計らって拳銃――ステンレスフレームにスチールスライド、所謂フレームシルバーのデトニクス――を渡し、自分も拳銃――STIストライクガン、ただしスパイクは外され、口径は38SuoerComp――をレッグホルスターに収める。

 思ってもみなかった価値観に触れて、柾木は戸惑う。人と人以外が、そんなに気安く付き合えるものなのか……柾木にはよく分からない。柾木の知っている範囲で、もっとも人から遠いのは多分井ノ頭菊子だが、言われてみれば柾木の認識では彼女は「ちょっと変わった人」程度の扱いに思える……答えが出ない問題を考え込む柾木は、公共の面前で、鰍と信仁が堂々と武装と装備を身につけるあり得ない行動をしている事に気付いてドン引きになる。

 次々とマガジンをあちこちのマグポーチに収めながら、そんな柾木に気付いた信仁が聞く。

「北条さんもなんか持って行きます?」

「貸せるの、なんか持ってきてるの?」

 こちらも装備が終わったのか、鰍が信仁に聞く。

「俺の93Rか鰍ちゃんのMAC10なら」

「……んな危ないの素人に貸せるわけないじゃん」

「そこはほら、初心者は巻き添え射撃ルールで」

「味方巻き添えにするから止めなさい」

 黒光りする、異様な風体の大型拳銃と、パイプと角材が合体したような小型機関銃を見て、柾木は即答する。

「いえ、結構です、ありがとうございます」


 キザシのトランクを開け、持ってきた装備を出そうとしたところで、酒井と蒲田の手が止まり、どちらともなく顔を見合わせる。ああ、蒲田も恐らく同じ事を考えている、と酒井は感じた。

 こんな公衆の面前で、拳銃その他をおおっぴらに持ち出していいものだろうか……

 普通なら、答えは絶対にノーだ。だが。

 ちょっと首を伸ばすと、ジムニーの向こうに、ブルーバードのトランクから何の躊躇も無く色々なものを取り出して、次々と手際よく装備している、円の孫と、その連れの男が見える。

「大丈夫、みたいだな?」

「……ですね、はい」

 二人で同じ事を確認して、意を決して酒井と蒲田はそれぞれのアタッシュケースを開き、中に入れてある装備を取り出す。酒井の大型のアタッシュケースには拳銃入れ、警棒吊り、手錠ケースを取り付けた帯革と、別置きにしておいた銃と警棒と手錠、及び執行実包。蒲田の小型のアタッシュケースには蒲田の拳銃と弾倉。二人は、キザシの後席に置いておいた防刃ベストを着込むと、それぞれの装備を点検し、つける。制服の上に帯革を巻く、かつては当たり前だった着方とは違い、酒井は、初めて背広の上に巻く帯革に妙な感じがした。

 帯革に通した拳銃紐を拳銃に繋ぎ、拳銃をホルスターに収めようとして、酒井はしばし、右手に持った3インチ銃身のニューナンブ――酒井の年代だと新規で受領するのは2インチ銃身らしいが、これは駐在所の前任者から受け継いだ年代物だ――を見つめる。これを、今回は撃つことなるのだろうか……いや、撃つ必要が発生したとして、果たして撃てるのか。的に当てる練習こそしてはいるものの、銃を撃つシチュエーション、撃つことの可否判断については酒井は全く自信がない。撃ったことは、あるらしいんだがな……酒井が、思い出せない自分の記憶の事を考えた時、

「お、ニューナンブですか、渋いですね」

 急に、お気楽な声が、酒井のシリアスで重い雰囲気を吹き飛ばした。

 顔を上げた酒井は、そのままどう反応すべきかわからなくてフリーズする。目の前には、SWATもかくやという装備の男と、マッドマックスの舞台から飛び出してきたような装備の少女がいた。後ろで蒲田が「うわぁ……」と小声で言ってやはりフリーズしているのが、振り向かなくてもわかる。

「……凄いな、それ……」

 酒井は、やっと絞り出して、それだけ言った。

「やー、生身でこの人達について行こうとするともうね、これくらいしないと。や、そちらはP230JPですか、これはまた」

 大げさに頭の後ろをかきながら、ハンドガード下にフラッシュライト付きのバーティカルフォアグリップを、キャリングハンドル上に固定四倍のスコープとチューブタイプのダットサイトを重ねて装備し、マガジンは抜いてあるFA-MASをツーポイントスリングで体の前に密着させた男が、ニコニコしながら緊張感ゼロの声で答える。

「……警察庁の酒井警部です。あちらは蒲田巡査長です」

 こいつ、きっと重度の銃オタクだ。酒井はその醸し出す瘴気から即座にそう判断する。とりあえず、話の接ぎ穂を求めて酒井は自己紹介した。

「滝波信仁、大学生です。こっちは蘭鰍あららぎかじかちゃん、あそこの」

 目で円を示して、

「円さんのお孫さんです。宜しくお願いします……警部さんでしたか、警察庁?警視庁ではなくて?」

 そこに気付いたか。酒井は、マニアの目の付け所に、感心すべきかあきれるべきか迷う。

 酒井は、よろしく、と可愛らしく会釈した小柄の少女に向かい、

「警察庁です、こちらこそ。失礼ですが、あの、本当にお孫さんで?」

 鰍は、ケロッとして答える。

「そうですよぉ。ばーちゃん、若作りでしょ?」

 あ、こりゃ確かに血縁者だ。髪型と髪の色以外は正反対みたいな二人だが、酒井は、その声、その口調、その面白がるような目つきにデジャブを感じる。

「……用意出来たみたいね、じゃあ」

 センチュリーのトランクから取り出した、身の丈程もある長い棒、柄頭にささやかな遊輪ゆうかんの付いた質素な鉄の錫杖をそれぞれ持った時田と袴田を引き連れて玲子が近づいてくるのを見て、円が言う。

「そろそろ、行きますか」


 いやちょっと待って、私ここで待つんですか?一人でこんなとこでこんなオープンカーで?と言い出した弘美を、円に替わって信仁が自分の車の鍵を渡してなんとかなだめ、一同は駐車場の出口に向かって歩き出した。

「……失敗しました、はい」

 若洲海浜公園の駐車場から国道375号線を渡って若洲内貿埠頭へ歩いて向かう途中、蒲田がぼそりと愚痴った。

「何か忘れ物か?」

 酒井が、心配して聞く。

「いや、自分の車持ってくれば良かったと、そうすれば笠原さんに車貸せたなと、はい」

「あー……」

 独身警官の婚活事情は厳しい。

「……蒲田君、車持ってたんだ?」

「はい、軽ですが」

「そうか……俺も車、買おうかな」

「都内に住むなら要らないですよ、僕は町田のはずれなんで、はい」

 話ながら、酒井は先頭を歩く円と、その横に並ぶ、円に並ばされた北条柾木、剣呑な雰囲気を振りまきながら柾木の斜め後ろにいる西条玲子とそのお付き、そしてさっき先頭から自分たちの後ろに移動して来た鰍と信仁をチラリと見る。前の方はともかく、人目が無いわけではないのに最後尾が人目を引かないのは、やはり例のおまじないが効いているということか。

 酒井は、先頭を雑談しながら歩く円に目を戻す。やはり、あの女は只者ではないらしい。


 君はあたしの隣にいなさい、歩き出す直前、円はそう言って柾木の腕を取った。

「もぉ。ばーちゃん、そういうの趣味悪いって」

 どぎまぎしている柾木と、それを見た玲子が総毛立つのを敏感に感じた鰍があきれて箴言するが、円はしれっと返す。

「あんたもまだまだねぇ。そういうのじゃなくて、この子、あたしのおまじないが効いてないのよ」

「え?」

「だから、あたしと一緒の方が周りからは自然に見えるでしょ?」

 確かに、この距離なら女社長とそのお付きの若造という感じだが、半端に一定の距離を開けて歩いているのは不自然かも知れない。柾木も一応納得する。

「……それで、君、その体どうしたの?」

 歩き出しつつ、円が柾木に聞く。

「いえあの、ちょっと行き違いがあって。ちょっとこの体に乗り移ってみてくれないかって言われて、実験のつもりだったんですが。そしたら体、誰かに持って行かれちゃって」

「だーから言ったでしょ、そういうの近づくなって。で、体は?」

「まだ見つかってないんです。持っていったのが、これから行く所の人達らしいんですが」

「ですって。あんたたち、探してあげてね」

 柾木の告白を受けて、円がすぐ後ろを歩く信仁と鰍に指示する。

「体っすか……」

「へーい」

 だらけた返事をする二人。大丈夫なのかな、と柾木は思う。と、何に疑問を感じたのか、ちょっと考え込んでいた信仁が、あ、と小さく声をあげて鰍に何か耳打ちをした。げ。耳打ちされた鰍が変な声を出す。

「……なによあんた達、何か知ってるの?」

 円が振り向き、じっとりとした目で二人を見る。

「いやあの、体っすよね、全力で探します!」

「うんうん、だからそっちは任せて!」

 言いながら、装備を点検するフリをして、歩きながら後ろに下がる二人。

「……あいつら、なーんか隠してやがる……まあいいわ、後でキッチリ聞きだしとくから」

「……宜しくお願いします」

 柾木は、可能性があるなら何にでも頼りたかった。この体は便利は便利だが、やはり生身の体がないのは落ち着かない、生身の体が恋しい。今になって、思い出したようにそれを痛感していた。


 その船、多目的セミコンテナ船というその船種は、ばら積み船、車載船、コンテナ船の三つの機能を一つにまとめる為に独特の形状をしていた。

 船体の形状は一般的な船首楼型、だが船体の船尾側三分の一程度は大きな四角い箱が載ったような形をしており、その箱の中程よりやや後ろに船橋と居住区画、さらにその後ろに右舷にオフセットした煙突があり、右舷側船尾には車両を上げ下ろしする為のランプもあり、つまり箱の部分はカーフェリー同様の使い方をする車載甲板であった。車載甲板から前の部分は20フィートあるいは40フィートの規格型コンテナ、いわゆる海コンを積載する部分であり、実際、船首側には横から見て二列、高さ方向には三段ほどのコンテナが積んである。そのコンテナの大きさから推し量れば、コンテナ甲板には長手方向に六列の40フィートコンテナが並ぶようであり、さらに船橋の前、車載甲板の上にも40フィートコンテナが二段積まれていた。コンテナ甲板にはさらに二本のデリッククレーンが設置されており、これはコンテナの荷役だけでなく、コンテナ甲板の下にあるばら積み船倉の荷役にも使うもののようだ。実際、車載甲板直前の部分のコンテナ甲板は、二ヶ所で蓋が開いたようになっており、そこから考えれば、この船はばら積み船倉もコンテナと同じ長さで六つ持っているようであった。

 東南アジアを二月ほどで一回りし、港湾施設が整っていない、大型船が寄せられない地域でも自力で荷役し、多彩な貨物を扱う為に用いられるその船の名前は「ノーザン・ハイランダー」、積載量を示す単位である総トン数は約二万トン、全長約百六十メートル、全幅約二十五メートルの、パナマ船籍の外洋航路の貨物船だった。

「とまあ、そこまではネットで簡単に調べがつくんですが、船内見取り図はちょっと調べがつきませんでした。まあ、常識的に船首は雑用倉庫、船体中央は船倉と燃料とバラストタンク、船尾は機関室、船橋の下側が船員の船室ってとこだと思いますけど」

 若狭内貿埠頭に右舷を着け、右船尾の車載ランプと右舷中央やや後ろの乗員用タラップを下ろしているノーザン・ハイランダーは、豊海のウォーターフロントの照り返しを背景に静かに佇んでいる。

「商船の船員は基本四交代だそうで、今は四直の時間らしいですけど、停泊中で休日前だし、荷役している様子もないし、起きている船員はそれほど多くないかも知れませんね」

「船員は何人居るの?」

 手元の紙メモを見ながら、攻略目標である船の説明をする信仁に、円が聞く。

「船内配置とか荷物の内容とか船員とか、そのあたりは荷主の関係で極秘事項みたいで調べきれてないんですが、あの手の船なら大体二、三十人ってとこらしいです。あと、来る時反対側から見たんですが、吃水がそこそこ浅いんで、多分船倉も空に近いと思います」

「なら調べるのは楽かしら?」

「まあ、満載のトウモロコシを掘り返すよりは。あの船ドライカーゴなんで船倉の積み荷は多分穀物かそこら辺です」

「OK。じゃあ手順を確認するわよ」

 信仁の手元をのぞき込んでいた円は、体を起こして皆を見渡す。船から百五十メートルほど離れた、埠頭に並べておいてある海コンの影に身を潜め、船の様子をうかがっていた一同は軽く頷く。

 この船に、信仁が聖銀弾を撃ち込んだ車が入った事を突き止めたのは今日の未明の事だという。聖銀弾は、その名の通り聖別の儀式により特定の術者の念を封じ込んだ銀の弾丸であり、万能とまでは言わないが、特に不浄のものに効果的なので「協会」のハンターには一律に六発が無料支給され、追加分は自費購入とされている。適度に柔らかい為ソフトターゲットに対しては普通に弾丸としても有能だが、微弱ではあるが常に念を発しているので、その念に感応する事が出来れば撃ち込まれた追跡したり、位置が特定出来たりする、そういうものなのだと先に鰍から説明があった。ご丁寧に鰍は、自分の銃の弾倉から聖銀弾の実物を一発取り出して皆に見せ、ホントに死んじゃうからこれでアタシ達撃たないでね、と付け加えた。

 柾木はそれを聞いて、ああ、一応この人達も死ぬのね、弱点あるのね、と頭の片隅で冷静に納得し、でもそもそも当んないよな、俺の時もはじき返されたよな、あれ当ってたらやっぱヤバかったんかなと、円を見ながら思い出す。

 その聖銀弾だが、念の追跡は可能だがそれは本来の使い方ではない為実際にはなかなか難しく、結果として昨夜からここで動きが止まったおかげで位置の特定が出来たのだという。

「Nシスの履歴でも、近くの道を通った事は記録されていたが、流石に今いる場所までは特定できないからな……」

「組み合わせられれば、交通課あたりが大喜びしそうですけどね、はい」

 酒井は、両者を組み合わせれば相当に車両の特定を高速化できそうなのにな、と残念に思う。蒲田も同意見のようだ。

「とにかく、今現在、そのワンボックスがあの船の中にいる事は間違いないという事よ。そこで、まず、あたしと刑事さん達がブリッジに行って直接船長に会って、捜査協力を依頼するわ。書類は持ってきた?」

 言われて、蒲田が背広の内ポケットから畳んだ紙を取り出す。

「はい、これですね」

「でも、これは正式な礼状ではなくて、それっぽい偽物ですが、大丈夫ですか?」

「そこはほら、本物なんて見た事ある人多くないから。大丈夫大丈夫」

 公文書偽造とかその方面も含めて心配する酒井に、円はお気楽に手をパタパタさせて答える。

「要は時間稼ぎが出来れば良いのよ。あたし達がブリッジに入ったら、お嬢さん達は後ろから入って車を探して頂戴。鰍と信仁君は船員を抑えて。あたしはブリッジに入って五分くらいしたら、船全体に「おまじない」を掛けるから」

 さっき皆に掛けたような「おまじない」を、今度は船全体を対象に掛け、船の中で多少の騒ぎが起きても外から気付かれないようにする、さっきより広い範囲に、強力に。円はそう説明し、さらに一言付け加える。多分、あたしはそれを維持するのに手一杯になる。

「その間に、みんなで家捜しして頂戴。ただし、何かあったら、ヤバイと思ったらあんた達は基本、逃げて。火消しはこの子達かあたしがやるから。OK?」

 そう言って円は酒井達、柾木達が頷くのを確認し、皆に背を向け、船に向き直る。

「じゃあ、行こうか」


 警察官二人を従えて先頭を切って円は船のタラップに向かう。事情を知らなければ、女社長が部下を連れて船の視察にでも行くような感じだ。柾木はその堂々とした態度に度胸と経験の違いを痛感しつつ、痛感したからこそ、傍らの玲子に、ちょっとだけ意地悪く聞いてみる気になった。

「仕切られるの、まだ嫌ですか?」

 聞かれて、玲子は、無表情に円の背中を見つめたまま答える。

「……愉快ではありませんわ。でも」

 玲子は柾木に向き直る。

「菊子さんと緒方さんを助け出す為に、利用してやるんですの。そうでございましょう?」

 玲子は柾木に微笑む。調子が戻ってきているようだ。


 船体後部、車載甲板の前端あたりに作り付けられているタラップから円、酒井、蒲田が船内に入る。一度その姿が車載甲板の奥に消え、少しして車載甲板天井から外階段を通って船橋に向かうのが見えた。

「問題なさそうだな」

「じゃあ、こっちもそろそろ」

 鰍と信仁が自分たちの銃に弾倉を込め、スライドを引く。デトニクスが45オートを、ストライクガンが45ではなく38スーパーコンプを飲み込み、薬室を閉塞する金属音が小さく響いた。それぞれハンドガンにセイフティをかけ、コック&ロックでレッグホルスターに戻す。信仁はさらにFA-MASにマガジンを叩き込み、5.56ミリNATO弾をチャンバーに送り、セイフティを解除してローレディに構えてダットサイトのスイッチを入れる。鰍は、ガンベルトの後ろに横向きにつけたシースから、刃渡りが40センチ近いナイフ、マチェットとククリナイフの相の子のようなブラックジャクナイブズのマルーダーマーク2を右手で抜き、後ろ手に構える。

 柾木は、さっきまでの軽い、お気楽な感じから一変した二人の雰囲気、押し殺された、底冷えのする何かを感じ取る。すぐ隣の玲子、後ろに控える時田と袴田も息を呑んだ気配が伝わる。踏んでいる場数が違う。最初に会った時、円が言った言葉だ。多分、この二人も、そうなのだ。

 円、酒井、蒲田の順で、その姿が船橋の右扉から中に入り、見えなくなる。

「……GO!」

 鰍が呟くと同時に飛び出す。遮蔽物のない、今いるコンテナの影からタラップまでの約百五十メートルを一気に駆け抜け、タラップの下に取り付く。その間、シッティングでタラップ上部付近を狙っていた信仁が、鰍のハンドサインを見て走り出す。タラップ上部を銃でポイントしたまま。

「お姫さま、我々も、参りましょう」

 その動きに思わず目を奪われていた柾木と、恐らく同様であったらしい玲子に、時田が声をかけた。


「……誰も居ませんね……」

 右舷後部の車載ランプから車載甲板に入った柾木は、誰に言うともなく呟いた。

 外見から見て車載甲板は外寸が長さ約六十メートル、高さが約十二メートル、多分中は三層、もしかしたら上甲板より下にもう一層小さめの車載船倉があるかも知れません、信仁はさっきそう言っていた。柾木はそれを思い出しながら周りを見渡す。なるほど中央にスロープがあり、下はないが上にはもう一、二層同じような甲板があるようだ。この甲板には主に大型トラックを停めるようだが、今ここに停まっている大型トラックの数は数えるほどで、普通トラックやワゴン車を含めても半分に満たない。柾木は思いつきで飛び出してきたために用意らしいものは何も持っておらず、センチュリーの車載工具から懐中電灯を借りていたが、ナトリウム灯のオレンジの光りで照らされたカーキャリアデッキは懐中電灯無しでも不都合はない。

 閉めきられてこそいないが、それに近い構造の車載甲板の中は風が通らず、真下の機関室の熱が上がってくるのか、外より明らかに蒸して、充満した潮風がベタベタと肌にまとわりつく。

「手分けして探しましょう。北条様、お姫さまをお願いいたします」

 時田がそう言って右舷前方へ歩き出し、袴田も左舷方向に離れていく。

「……よし、じゃあ、真ん中辺を調べてみましょう」

 柾木は決意を声に出す。玲子は無言で頷いて同意する。その様子を見た柾木は、大した肝っ玉だと感心すると同時に、腕にしがみついてくれるかな、と少し邪に期待していた当てが外れ、寂しくもあった。


「こんばんは。船長さんを呼んでくれない?」

 船橋の右ウィング側扉から無断で中に入るなり、円はそこに居た船員に声をかける。明らかに日本人でない船員に、日本語で。

 びっくりしている船員を尻目に、余裕綽々で手を腰に当て、

「船長よ、せ、ん、ちょ、う」

 と、繰返す。

 その度胸の入りっぷりに感嘆しつつ、後ろに続いた酒井は、自然に船橋内を見回しているように見える円の目が、船内各所にある監視カメラの映像が集中して表示されているモニターと、肉眼でも見える埠頭の様子をちらりと確認した事に気付いた。自分も不自然にならないように右端の窓に寄って埠頭を見下ろしてみる。船橋の高さは水面からおよそ三十メートル、丁度、先ほどまで自分たちがいたコンテナの影から、人影がタラップに走って近づいてくるのが見える。監視カメラには、タラップの下端、影になる部分に誰か居るような居ないような。一定のリズムでカメラが切り替わると、今度は車両専用のランプから四人の人影が乗船してくるのが映る。勿論、何が起こったか分からず、外国語で何か言い合っている船員達は、それらに気付く余裕は無さそうだ。

「蘭さん、彼らはなんて言っているんでしょう?」

 英語らしき単語が時たま聞こえるが、大部分は酒井には聞き取れない。蒲田もそうだったらしく、円に聞く。

「タガログ語、じゃなくてフィリピノ語っていうんだっけ?船長を呼ぶかどうするかもめてるのくらいしかわかんない」

 余裕の笑顔を浮かべつつ、円は船員達を見たまま答える。そのうち、一人の船員が船橋の後ろの扉から出て行き、他の一人が円に何か話しかける。英語だ、というくらいは酒井にも分かる。

「お前達は誰だ、何の用だ、ですって」

「まあ、そう言いますよね」

 酒井は頭をかく。英語なんてどんだけ振りだ。必死にこの場に必要な単語と文法を思い出そうとする。

「あい、じゃなくてうい……」

 酒井より先に口を開こうとした蒲田を円は軽く手を上げて止め、日本語で船員に答える。

「警察よ。この船を調べさせて頂戴」

 なるほど、時間稼ぎか。酒井は納得する。さっきの様子だと、円は英語だけでなくフィリピン人らしき船員の言っている現地語もある程度理解出来ているようだが、あえて日本語だけで対応する事で混乱を引き延ばそうとしているのだ。関心して見ている酒井に、円が振り返る。

「この調子で、ちょっとだけ、お願い」

 円は酒井と蒲田にそう囁いて、船橋の右扉から右ウィングに出る。例のおまじないだな、酒井は直感する。

 円と入れ替わるようにして船橋の後ろの扉から入ってきた、やや恰幅の良い中年の男に、要領を心得た酒井は日本語で繰り返した。

「警察だ。この船の捜査に協力頂きたい」


「このフロアには、無いようですな」

 右舷側を一通り見てきた時田が、船体中央を長手方向に走るスロープの入口にいる柾木と玲子に言う。

「こちらも同様です」

 袴田もほぼ同時に戻って来る。

「そうすると、とりあえずは上の階ですか」

 柾木がスロープの上を見上げて言う。スロープは右舷後部の車両ランプから入ってきた車が曲がりやすいよう、船首方向が下層階、船尾方向が上層階に繋がり、見上げれば同じ構造がもう一段ある事が分かる。つまり、車載甲板は今居るここを含めて三層あると言う事か。柾木はそう理解する。下層に向かうスロープは無いようだ、この階から上に向かうスロープの下は、幾本もの柱で支えられ、資材置き場に使われているのか一部シートで仕切られている。

「……上に、行ってみましょう」

 柾木が上層階を見ながら提案する。無言で頷いた時田が、前に立ってスロープを上り始め、柾木と玲子が続き、袴田が殿を抑える。

 二層目は大型トラックはほとんど無く、小型トラックやワンボックスで面積の大半が埋まっていた。その数は、百台ほどもあるだろうか。隙間無くぎっしりと詰め込まれたそれら車を手分けしてチェックして回ると、特徴が該当する「黒いハイエース」は数台あった。だが、皆ナンバーが外されており特定が出来ない。

「……そうか、輸出用の中古車だからナンバーがついてないのか」

 今頃になって柾木はその事に気付く。下の階層にあった車のほとんどは国内ナンバーがあったから気付かなかったが、それらは輸出中古車ではなく現役の配送車であり、この船がここ、東京湾の若狭埠頭の後に寄港する神戸や福岡に向かうと考えれば一応の整合がとれる。

「ナンバーが無いんじゃなぁ……聖銀弾でしたっけ、ここにある事は間違いないはずですよね……」

 誰に言うともなく、柾木が独りごちる。

「そのはずでございますが。弾の痕がある車を探すしかなさそうですな」

 時田が周囲を見回しながら柾木に答える。

「そのような車がこの階に無いことは分かりましたわ。上の階に参りましょう」

 玲子が、スロープの上を見ながら言って、歩き出す。錫杖の遊輪を鳴らしながら小走りでとって返してきた時田が、玲子を追抜き前に出る。

「……時田さん、関係ないですが、その錫杖?って言うんでしたっけ、それは……」

 柾木は、さっきから気にはなっていたことを、丁度良さそうな機会なので聞いてみる。

「これでございますか、これは銘を「日輪」と申しまして、お姫さまを御守りする為にさる高僧から承ったものでございましてな、袴田が持つものが「月輪」、一対の宝珠だそうでございます」

「なるほど……」

 時田はさらりと説明する。なるほど、それなりにそれなりの武器というか道具があってこその、というわけか。時田も袴田も、それなりにこのような経験はあるに違いなく、それなりの高僧とやらとの伝手も当然あるのだ、と柾木は思う。

 三階層目はほとんど車は置かれておらず、がらんとしていた。見るからに目的の車は無さそうであった。車載甲板としての構造は三階層とも基本的に同じ、違うのは、三階層目から上に行くスロープが無い事くらいで、どの階層も船首側の左右の端に前に出れるのだろう扉と、船首側と船尾側の両方の隔壁に、隔壁を斜めに横切って上層階に繋がる階段があった。

「ここにも無さそうですね」

「これは困りましたな」

 見渡すなり言った柾木に、時田が答える。船に入ってから三十分ほど経過している事を、腕時計を見て柾木は確認する。

「……あの狼女達が嘘を言う理由はございませんから、必ず車はここにある、少なくとも聖銀弾とやらの痕跡は残っているはずです……」

 自分の中の不安といらだちを押し殺そうとしているかのように、玲子が言う。

 柾木は、雰囲気を変えたいと思い、何でもないことのように装って、言った。

「こういう時は、面倒でも急がば回れです。もう一度、上から下に探しながら降りましょう」


 円が船橋内に戻って来るまで、出て行ってから一分も経ってはいなかっただろう。だが、酒井には永遠のような時間に感じられた。船長らしき人物が表れてから、船橋の雰囲気は一気に悪化した。船内において絶対的権力者である船長は、この場を仕切り、収める全責任を持つ。演技なのか元々そういう気質なのかはわからないが、尊大で威圧的な態度でまくし立てる船長に、酒井は押し負けるのも時間の問題と感じ始めていた。

「おまちどおさま……潮時みたいね」

 扉を開けて入ってきた円は、状況を見るなりそう言って酒井の前に出る。視線だけを蒲田に向け、

「例の紙を頂戴」

 と手を延ばす。

「は、はい」

 ほっとした表情で、蒲田は背広の内ポケットから偽の捜査令状を取り出し、円に渡す。軽く頷いて受け取った円は、紙を広げて船長船員に示すと、流暢な英語で話し始めた。

 円が何を言っているか、流暢すぎて酒井は聴き取れない。だが、船長船員の様子が沈静化するところを見ると、ハッタリが覿面に効いていると見てよいようだ。と、語調から何事か尋ねたらしい円に船長が頷いた、それを待っていたかのように、円が指を鳴らした。

 どさり。いくつかの重いものが倒れる音が船橋に響き、そこにいた複数名の船員と船長が床に倒れる。

「な?何を……」

「睡魔よ。体も命も別状ないわ。これで、この人達は、警察を騙る何者かに捜査令状らしきものを見せられた直後、何らかの方法で眠らされた、不可抗力だって法廷で言い訳出来るって事。どう?お優しいでしょ?」

 振り向いた円は、何事もないように言う。

「ここはこれでいいわ。あたしはここに残るから、あなた達は下で家捜しして頂戴」

 円が目で示す。さっき通った船橋の外階段から車載甲板の天井に出れば、車載甲板前端から梯子でコンテナ甲板に降りられる。開いている船倉を含めて、そこを調べて来いということだ、酒井はそう理解する。

「睡魔……?」

「行こう、蒲田君」

 唖然としている同僚の背中を軽く叩き、酒井は振り返ろうとし、だが思いとどまって、前々からずっと疑問だった事をこの機会に聞いてみようと決心する。

「……円さん、一つ聞かせて下さい。どうして我々を連れてきたんですか?」

 円は、酒井の質問の意味を理解出来ていない様子で小首を傾げる。

「俺には、この事件、この船程度なら、あなたたち三人、いや、もしかしたらあなた一人でも充分どうにか出来るように思えます。本来なら必要ない我々を、どうして?」

「……さあ、どうしてかしらね……」

 円は、アルカイックスマイルを浮かべたまま、舵輪のついたコンソールに寄りかかって腕を組んだ。

「あたしもね、実は良くわからないの。単なる気まぐれ、って思ってて欲しかったんだけど……そうね、仲間の世話を焼きたかったのかもね」

「仲間の世話、ですか?」

 意外な理由を聞いた気がして、酒井は聞き返す。

「自慢じゃないけど、あたしは本当の意味での仲間って、あんまりいないのよ。仕事の同僚はいるけどね……同族にも、友達っていないの。あたしが、混血だから」

「……」

 酒井は、どう相槌を打ったものかわからない。蒲田も同様らしい。

「あなたたち、気に入ったから特別よ、言いふらさないでよね……あたしと鰍は、半分は人の血が入ってる、だから術が使える、けれどそれが故に同族からは距離を置かれる。あたし達は特にその傾向が強いけど、どの種族でも、よそ者、異質なものを嫌う、そういうものなのよ。だから、あなたたちとは気が合いそうに思えたから、面倒を見て、可愛がってあげて、その分頼って欲しかった。そんなところかしら」

 そうされる理由はよく理解出来ない。だが、自分が異質であるが故に、同族から否定されるというのは、孤立するというのは、どれほど哀しいだろうか。それが、少しだけだが身をもって分かる気がする酒井には、船橋のガラス越しに、夜の海をバックに立つ円が、歳を経ているが故に、儚い、哀しい存在に思えた。

「そんな……理由?」

「そんな理由よ。知ってる?狼って群れで暮らすのよ?群れてないと、寂しいの。一匹狼って、あたし達には差別用語なんだから」

「……」

「さ、お喋りはおしまい。家捜しにいってきて頂戴。あたしはここでおまじないをかけ続けなきゃだから……こんな恥ずかしい事言わせたんだから、何か見つけてこなかったら許さないわよ?」

 半分は自分から言ったくせに。酒井は、円という「年上の女性」の本質が、少し見えた気がした。

「……分かりました。行ってきます」

「それじゃあ」

 酒井と蒲田は、船橋の扉をくぐり出る。


「とりあえず、ここは何も無さそうですね、はい」

 車載甲板の天井からその前面にある垂直の梯子を十メートルほど降りてコンテナ甲板、同時に船倉の蓋でもある露天甲板、上甲板とか第一甲板とか呼ばれもするそこに降りた酒井と蒲田は、持ってきた懐中電灯で船倉の中を照らす。船倉の深さは十メートル程もあり、持ってきた懐中電灯では照らしきれない。

「そのようだな、隣も蓋が開いているから良いが……その向こうは蓋開いてないぞ?」

 酒井が、船首側を見ながら言う。船尾側から見て二つ目までの船倉はポンツーンタイプという頑丈な取り外し式の蓋、ハッチカバーが、船首に向かって右側が取り外されて左に寄せてあるが、三つ目と四つ目は蓋が載ったままであり、五つ目と六つ目に至っては上に少数だがコンテナが載ったままだ。そのハッチカバーの前後左右には、各々三メートル程度の甲板が露出している。つまり、船倉の入口は船の幅より左右それぞれ三メートル小さく、船倉同士も三メートル間隔で縦に並んでいる、という事になる。

「多分、この小さいハッチから出入り出来るんじゃないですかね、はい」

 蒲田が、足下のアクセスハッチを軽く蹴飛ばしながら答える。よく見れば、確かに各船倉毎に、右舷船首側と左舷船尾側に一メートル四方より少し小さめのハッチがある。その裏をのぞき込むと、甲板はオーバーハングしており、ハッチから船倉の壁沿いに梯子が設置してあるのが見える。

「なるほどな……よし、じゃあ次行くか」

「はい」

 酒井は、一旦船橋を振り返って振り仰いでから、後ろから二番目の船倉を確認しに移動する。十メートル強上の車載甲板天井の、さらに十メートル強上にあるはずの船橋は、車載甲板天井及びその上のコンテナの影でここからは見えなかった。


「うわ」

 後ろから三番目、閉まっているハッチカバーの右舷船首側のアクセスハッチを開いて下を覗いた蒲田が声をあげる。

 中には、懐中電灯で照らせる範囲一杯に、護岸工事などで見かける、巨人が持つトートバッグのようなフレコンバッグが水平方向にも垂直方向にもぎっしりと並んでいた。

「どうした……うわ」

 蒲田と換わってのぞき込んだ酒井も同じ声をあげる。横二十五メートル、縦十二メートル、深さ十メートルに縦横一メートル強のフレコンバッグがいくつ詰め込まれているのか、考えただけで頭がクラクラする。いや、頭がクラクラするのは、船倉に充満した、むせかえるような穀物の匂いを吸い込んだせいかもしれない。

「こりゃあ……この奥に何か隠されていたとしても、全部引っ張り出さないとどうにもならんぞ」

 通常なら、フレコンバッグは二段程度毎に仕切りの天井を設置し、下層が重さで潰れるのを防ぐ工夫をして積み込む。とはいえ、その事を酒井や蒲田が知っているわけもなく、知っていたとしても探す手間が半分になるというものでもない。

「……とりあえず、ここはこのまま後回しにして、次行きませんか?」

「……そうしよう」

 酒井はアクセスハッチを閉じて次の船倉、後ろから四番目に移動し、蒲田もそれに続く。

 穀物の呼吸で酸欠になっている船倉にうかつに踏み込む危険を避けられたことを、彼らはやはり知る由もない。


「やはり、どこにもありませんな」

 再度、一層目の車載甲板を見渡して、時田が言った。袴田も不満げに周囲を見回している。

「何かを、見落としているのでしょう、何かを……」

 玲子が顎に手を当てて考え込む。何かを見落としている、それは柾木も同意する。では、何を見落としているのか。スロープの下端付近で考え込んでいる三人を置いて、柾木はたまたま目についた、先ほど資材置き場だと思った、シートで囲われたスロープ下の一角に向かう。幅五メートル弱、長さ十メートル弱の空間が、スロープを支える柱の下、工事現場の防音シートのようなもので囲われ、スロープの上端の真下に当る場所、長方形の空間の短辺側は、赤い三角コーンに横棒が渡されて閉じられている。

 まさか、こんな所になぁ。柾木はそう思いつつ、最初にこの車載甲板に入った時は、この空間を資材置き場だと思って全く疑問を持たず、この中を見てみようと思いもしなかった事を思い出す。もしかしたら。

 重く、硬いシートを左手で掴み、まくる。一瞬、左手に弱い電気が走ったような感覚があった。

「ぁ痛!」

「……柾木様?如何されました?」

 柾木の小さな悲鳴にに気付いた玲子が、心配そうな声をあげる。柾木は、玲子達から自分が死角の位置に居ることに気付き、シートの影から顔を出して、言う。

「……見つけました、多分」

 言って、柾木は足下に落ちた、以前、青葉五月が使ったものによく似た、しかしもっと凝った模様だか文字だかがかかれた細長い呪符を見下ろす。

 柾木のまくったシートの中には、下の階層に繋がる、荷役用の大型エレベーターがあった。


「こんな所に……全く気付きませんでした」

 玲子が驚愕している。柾木は、エレベータを見たまま、

「俺も、最初は気付かなかったんです。ただの資材置き場だと思ってました」

「いえ、こんな場所があること自体、気付いていなかったのです。恐らく……」

 柾木同様にエレベーターを見ていた玲子が、柾木に振り向く。

「そう、だと思います。ここには、封印とか、防壁とか言うんですか?それの、そこそこ強いのがあったんだと思います」

 普通なら気付かない、気付いても、偽装でごまかされる。そんな、二重の予防策。さらに、物理的な防衛さえ。柾木は左手を見る。

「シートをまくったら、手が痺れました。こんなの、初めてだ……けど、多分、俺が役に立ったって事ですよね?」

「そのようで御座いますな。さすがは北条様、この調子で、お姫さまを護ってもっと役に立って頂きませんと」

 時田がおどける。そこに、わずかにたしなめる意図を柾木は感じ取る。この人は、そのあたりの塩梅が上手い。柾木は、緩みかけていた気持ちを引き締めつつそう思う。

「恐らくは、柾木様が本来持っている気質、封印の類いをものともしない性質が、そのオートマータの体と相まって強化されているのではないかと存じます。そのあたりを調べて頂く為にも、是非とも緒方さんと菊子さんを助け出さねばなりません。行きましょう」

 強い決意を言葉に込めて、玲子は言う。柾木は、エレベータの開扉ボタンを押した。


 荷役用の油圧エレベーターが、ゆっくりと、しかし静かにスムーズに降下する。スロープの下に設置されている関係上、エレベーター上層階では船尾側、下層階では船首側が開くようになっており、人や荷がすり抜けて落ちる程の隙間は無いとはいえ、周壁がなく安全バーのみ、開閉部は格子状の伸縮扉という人間を乗せた昇降を考慮していない構造をしている。十分な床面積があるとは言え慣れない者は不安を感じる作りだが、だが、周壁がない故に、柾木も、その他の者も、エレベータが半分程降りた時点で既に、下層の小さな車両甲板に目的の車らしき黒いワンボックスが有るのを発見していた。

「……あれですかな?」

「の、ようですね」

 時田の問いかけに、柾木は答えながら、下層甲板の大きさを目測する。エレベーターの床を左右に一つずつ、さらに前に横向きに二つ程追加した程度の、真四角ではなく、複雑な面取りになっている床。真四角でないのは、足下から聞こえる音からして、本来ここにある機関室の余剰空間を無理矢理確保して作った船倉であるからに違いない。そこに、フォークリフトで運んだのだろういくつものパレット貨物が船首に向かってエレベータの左側に、目的のものらしい黒いものを含むワンボックス車が右側に三台。

 エレベーターが下層階に着床し、格子扉がじゃらじゃらと独特の音を立てて開く。数秒様子を見てから、まず錫杖を構えた時田が、次に柾木と玲子、殿を袴田の順でエレベーターを降りる。船首方向に向けて降りて、右に百八十度曲がり、目的の車を目指す。

「……間違いありませんな」

 先頭の時田が呟いた。彼の視線は、教えられた番号と一致するナンバープレートと、そこに開いた直径一センチほどの二つの穴に注がれている。

「……これで、最初の目的は確認出来た、って事ですね」

 柾木も、ナンバープレートの弾痕を見つめながら言う。

「次は、菊子さんと緒方さんを探す番ですわね」

 同じようにナンバープレートを見つめていた玲子が、皆を振り返って言う。

「一言、車見つけたってみんなに連絡したいところですけどね……電波繋がんないんだよな」

 柾木が自分のスマホを見ながら言う。

「鉄の箱の中でございますからな、致し方無しという所でございましょう」

 時田も残念そうに言う。その時。

 ぐう。

 柾木の腹が鳴った。

「……ぅえ?」

「あら」

「……これは、北条様、このような状況で、何と剛気な」

 自分の腹が鳴った柾木が一番驚き、玲子は目を丸くし(たようなリアクションをし)て口元を手で押さえ、時田が軽く茶化す。袴田は錫杖ごと腕組みしてニヤリとしている。

「いやあの、すいません、こんな時に」

「よろしいですのよ、柾木様。無理もございませんわ、お夕食の時間はとっくに過ぎておりますもの。さあ、この調子で菊子さんと緒方さんを探し出して、皆でお夕食に致しましょう」

 玲子が愉快そうに言う。

「いやなんかホントすいません……」

 玲子の気分転換にはなったようだ、柾木は思う。しかし……

 この体は空腹を感じない。事実、今も空腹感はない。では何故腹が鳴ったのか。

 柾木は、これは何らかの身体の異常を示すサインではないかと、心の片隅に不安の芽が生えたのを感じる。

「とにかく、手がかりを探してみませんとな」

 言いながら、時田が車に近づこうとした、その時だった。


 誰も触れていない、まだ触れられる距離にないその車の左右のスライドドアの、ロックが外れる音が、広いとは言えない船倉に響いた。

 びくりとし、次いで身構える柾木達の耳に、スライドドアが自動で開く電子音が複数、聞こえる。見れば、ドアが開いていくのは目の前の車だけでなく、そこにある三台のワンボックスのドアが、スライドドアだけでなく、次々とすべてのドアと言うドアが開いてゆく。

「……やはり、と言うべきですかな」

 時田が前を見たまま独りごちる。目はドアをすべて開放した三台のワンボックス車、そして、そこから降りてこようとする無数のマネキンから離さない。

「柾木様、お姫さまをお願いいたします。袴田、ここは私めが支えます」

「時田さん!」

「時田!」

 袴田は無言で頷く。時田の言わんとする事は柾木にも玲子にも即座に理解出来た。だが、決心は即座には出来ない。

 車のサスペンションが、車を降りるマネキンの動きにつれて軋む音が船倉に響く。マネキン自体はほとんど音を出さず、しかし着実に車から降り、ゆっくり近づいてくる。

「お姫さま、一時、御側を離れることをご容赦下さい。すぐに戻りますので」

 時田が、軽く体を沈めながら、後ろを見ずに言う。

「……必ず戻ると約束なさい」

「はい、必ず」

 食いしばった歯の奥からそれだけ言った玲子に、一瞥だけ返した時田が短く答えた。

「お姫さま、こちらへ!」

「玲子さん、早く!」

 袴田がエレベータの乗り口方向から呼ぶ。先に決心を固めていた柾木は、まだ後ろ髪を引かれる玲子の手を引く。こういう使い方を想定して作られているのだろう、筋肉が膨れるのに合わせて、時田の仕立ての良さそうなスーツも広がる。その様子から目を逸らした玲子が駆け出す、その背中越しに、時田の決意の口上が響く。

「世の為人の為、お姫さまの為に魑魅魍魎を打ち砕くはこのビル・ガリクソン・時田!我が錫杖「日輪」を恐れぬのなら、かかって参られい!」


 背後の喧噪を耳に入れぬ振りをして、柾木と玲子はエレベーターに駆け込む。続いて乗り込もうとした袴田が、左手のパレットの貨物に目を留めた。釣られてそちらを見た柾木の目に、パレットに積まれた段ボール箱を内側から突き破っていくつもの手足が飛び出し、崩れ、這いうねりながら近づいてくる光景が映った。それは、まだ人型に組み上げられていないマネキンの部品、腕だけであったり、足だけであったりもするが、ある程度組み上がっているもの、人型に組んではあるが左右の手足の大きさ長さがまるで合っていない、人になり損なった出来損ないのような姿もあった。さらには、部品同士がでたらめな接合をして、まるで人体を冒涜するかのようなオブジェと化しつつ近づいてくるものまであった。

「柾木様、お姫さまをお願いいたします」

 袴田がそう言って、扉の外から閉扉ボタンと上床ボタンを押した。

「袴田!」

「袴田さん!……わかりました!」

 柾木は、無理矢理に決断を早めた。ここで迷い、時間を無駄にすることだけは避けなければならない。だから、閉じた格子扉越しにそう言うのが精一杯だった。

 上昇し始めたエレベータを背に、錫杖を斜に構えた袴田が吠えた。

「さあ来いモンキー野郎共!人間一度は死ぬものだ!」


「このハッチ、封印されてますね、はい」

 足下の、後ろから五番目、前から二番目にあたる船倉に繋がる左舷後ろ側のアクセスハッチの側にしゃがみ込んだ蒲田が、ハッチを封印する南京錠をいじりながら言う。

「まあ、貨物船だからな、荷物いじられちゃ困るだろうから、そういうもんなんだろう」

 貨物船の商習慣に明るくない酒井も、そう答えるしか無い。前から二つ分の船倉は、ハッチカバーの上に横八列にコンテナが並び、そのいずれもが扉は鍵やタイラップで封印されている。

「なんか工具持って来りゃ良かったですね、はい」

「鍵ぶち壊せる工具なんて持ってないけどな……入れませんでした、じゃ済まないしな」

 半分あきらめ顔で立ち上がる蒲田に替わって、酒井が片膝をつきながら言って、右手を右の腰に回す。

「……これしかないか……」

 言いながら、酒井はニューナンブを抜く。少し周りを見回し、左手で触れる範囲のポケットを改め、最終的に携帯電話を取り出す。

「……何をするんですか?」

「いや、映画なんかでよく見るヤツをしようかと思ったんだが。南京錠が寝たままだとダメだろ?かといって手で持ったまま撃ったら怪我するから何か無いかと思って」

 携帯のストラップを南京錠に通し、上に吊り上げるようにして南京錠を浮かせる。ニューナンブを横倒しにして、銃口を掛金に押しつけるギリギリまで近づける。

「こんな銃の使い方するの、ドラマの中だけで、自分がするとは思ってなかったけどな」

 酒井はため息をつき、銃口が海の方を向いているのを確認して、撃鉄を親指で起こす。

「行くぞ」

 蒲田に言って、酒井は引き金に人差し指をかける。蒲田は両手で耳を塞ぐ、酒井は両手が塞がっていて耳が塞げない。大きな音を出すと俺たちにかけたおまじないはダメになる、円はそう言っていた。でもまあ、今更だし、この船自体にもおまじないかけてるって言ってるんだから、銃声がしても大丈夫だろう。酒井はそう自分に言い聞かせてから、引き金を引く。

 右手首を蹴飛ばすような衝撃と、鼓膜を叩く撃発音。南京錠は上手いこと壊れてくれたようだ。携帯のストラップも焦げて切れてしまったが。

「やー、銃声ってこんなうるさかったんでしたっけ?」

「あ?ああ、訓練では耳栓してたからなぁ……」

 ニューナンブをホルスターに戻し、右手を振りながら、耳鳴りでよく聞こえない酒井は蒲田に答えた。


「よく見えないですね、空っぽのような、そうでないような、はい」

「入ってみるしかないか……」

 アクセスハッチから懐中電灯で照らす船倉内部は、先ほどまでの空っぽの最初の二つの船倉とも、穀物満載の次の二つの船倉とも違っていた。床は金属の波板のよう、先ほどの空の船倉より浅く見える。その波板の床の端に、ハッチカバー上にあるようなコンテナがいくつか見える。虎穴に入らずんばとは言うが……酒井は、なんとも気乗りしない自分をやっとの思いで鼓舞し、先にハッチをくぐり、垂直の梯子を下り始める。

 下りきってみれば、なるほど、先ほどまでと様子が違うのはこういう事か、と酒井は納得した。船倉には下一段分コンテナが敷き詰められ、その上に、左舷側にコンテナが三つ、右舷側に左右の壁も天井もないコンテナ――フラットパックあるいはフラットトラックと呼ばれる、規格に収まらない荷を運ぶ用の特殊コンテナ――が一つ置いてある。そのフラットトラックコンテナには、何か二、三メートル四方くらいありそうな塊が、シートをかけて載せられている。

 船倉の深さは九メートル程、長さはコンテナが収まる十二メートルに人が歩ける程度の余裕が前後にあり、幅はコンテナが七つ並べられる二十メートル強、船の全幅に対し若干余裕があるのは船の肋骨やバラストタンク、二重底その他の安全対策の為であり、またこの手のドライカーゴ船では、まれにばら積み船倉がコンテナ積み兼用になっている事は、やはり酒井も蒲田も知識にない。

「こんな風になってるんですねぇ、はい」

 興味深げに蒲田が言う。

「こんなとこ入った事ないからなぁ……電気のスイッチないか?」

「これですかね?」

 梯子の側にある、頑丈なカバー付きのスイッチボックスを開け、蒲田が中に入っている、一般家庭のブレーカーと良い勝負の大きさのあるスイッチを入れてみる。電源が入る音と共に、船倉最上部の水銀灯に灯が入り、ゆっくりと照度を増してゆく。

「……よし、とりあえず、調べてみるか」

 見たところ、一段目のコンテナはすべて扉が封印されている。海コンは目的地に着くまで扉の封印は解かない、という知識は酒井も蒲田もなかったが、とりあえずそこを調べるのは後回しにして、酒井は船員がかけておいたらしい梯子を使って一段目のコンテナの天井に上がり、フラットトラックコンテナのシートをかけられた荷、明らかに怪しげなそれに近づく。蒲田も少し遅れてそれに続く、が。

 酒井から離れた所から、シート全体を見ていた蒲田が、ややうわずった声で言う。

「……酒井さん、ちょっと、これ、動いた気がします、はい」

「……動いた?」

 振り向いた酒井が聞き返す。船首方向に向いていた酒井は、蒲田が見ているのが船尾方向のシートの端であり、自分の視野外であったことに気付く。

「……そういう展開は無しでお願いしたいんだが……」

 色々想像してしまった酒井は、自分を鼓舞するように独りごちながら、歩きにくいコンテナの上を蹴躓かないよう、シートに近づきすぎないよう用心して蒲田に近づく。蒲田は、シートの端まで二メートル程の所で立ち止まっている。

「……映画とかだと、大体次の展開決まってますよね……はい……」

 うわずった声で言いながら、蒲田は腰の拳銃に手を伸ばす。無意識に、同様にニューナンブの収まるホルスターに手を伸ばしながら、酒井は、さっき見た鰍と信仁の重武装――酒井から見れば。彼らに言わせれば「まだ軽装のうち」らしいが――を思い出し、そうする理由が分かった気がした。と同時に、頭の中で、色々なことが突然繋がり、手が震えだした。昼過ぎの会話で、円と弘美は何と言っていた?俺が見た、思い出せない記憶の断片のあれは何だ?目の前のこれは、ギリギリでワンボックスに詰め込めそうな大きさに見えないか?……

「……酒井さん?」

 酒井の様子がおかしいことに気付いた蒲田が振り向いた、まさにその時。

 フラットトラックコンテナにかけてあったシートが、弾け飛んだ。


 エレベーターが上層、最初に入った車載甲板に着床すると、扉が開ききるのを待たず、柾木は玲子の手を引いてエレベーターから飛び出す。階下からは喧噪が途切れることなく聞こえてくる。柾木は、次にどちらに行くべきか、一旦立ち止まって左右を見る。その時、柾木の背後から、誰かが鉄の階段を上がってくる音がする。時田か袴田の足音かと期待して振り向いた二人が見たのは、エレベーターの横、左舷側に設置された簡素な階段を上って今まさにこの階層に顔を出した、目鼻のないマネキンの顔。

「うわ!」

 叫ぶなり、柾木は玲子の手を離して階段に駆け寄り、その顔を思い切り蹴飛ばして階下に落とす。階段の開口部の向こう側に、デッキの床に一体化したように開け放たれたハッチがある事に気付いた柾木は、最近閉めたことの無さそうなその錆びて重いハッチを渾身の力で引き起こし、自重では閉まることもしないそれを数回蹴飛ばして閉め、ご丁寧に上に載って飛び跳ねて完璧に密閉しようとする。防水性を持たず、むしろ安全の為鍵すら持たないハッチだが、これだけ渋くて重ければそう簡単に開きはすまい。少しだけ安心した柾木は、玲子の所にとって返すと、

「とにかく、上に行きましょう」

 そう言って玲子の手を取る。一瞬だけエレベーターの床越しに階下の喧噪に顔を向けた玲子だが、

「……はい」

 未練を断ち切り、柾木と一緒にスロープを駆け上がり始めた。


 二階層分のスロープを駆け上がり、玲子は、上がりきったところで柾木の手を掴んでいた手を自分の膝の上に置き、大きく肩を上下させてあえぎつつ呼吸を整えようとする。

「大丈夫ですか?」

 この体は疲れを知らない。その事と、そもそも玲子はごく最近まで心臓が悪かったのだということを思い出した柾木は、慌てて玲子に聞く。

「大、丈夫、です。ですが、少し、運動不足、みたいです。申し訳、あり、ません」

 ベールの奥の額に汗し、肩で息をしつつ、途切れ途切れに玲子が答える。玲子の膝が、柾木にも分かる程笑っている。その玲子の肩を抱くようにしながら、柾木が玲子を支えてゆっくり歩き出す。

「もう少し行けば、ブリッジに蘭さんが居るはずです。一旦そこまで行きましょう」

「いえ、時間が、ございません。我々が、来たことが、知られていると、いうことでしょう。はやく、菊子さんと、緒方さんを、探さないと」

 少しだけ整ってきたが、まだ切れ切れの息の下で玲子がそう言った時。

 たまたま、近くを通り抜けようとした輸出中古車、既に甲板にガッチリとロープで固定されている、二世代前の日産キャラバンの開きっぱなしの助手席窓から、何かが飛び出してくるのが柾木の視界の隅に映った。

 咄嗟に、肩を抱いた玲子もろとものけぞって、柾木はその何かを避けようとした。この体は、常人を遙かに上回る速度で北条柾木の指令に応じた。だが、その何かが玲子の頭があった空間を駆け抜けた時、ベールのついたボンネットと、その下にあったはずの黒髪が宙を舞ったのが、柾木の視野の隅に映った。。

 一瞬、柾木は玲子の首が刈られ、飛んだと思った。脳裏に、青葉五月の、斬られた首が床に横たわる光景が甦る。その柾木の目の前に、ナトリウム灯の光を受けて濃い金色の光りを返す、白銀の何かが広がる。

 二、三歩、たたらを踏んで自分と玲子の体を支えた柾木は、すぐ側にベールのついたボンネットと、黒髪のウィッグがぱさりと落ちたのを見た。

「だ、大丈夫、です、か……」

 あわてて柾木は腕の中の玲子を見る。見て、言葉が途中で詰まる。そこには。

 驚きで声も出せず、泣き出しそうな目元と口元、紅潮した頬、そして。

 ウィッグの下に幽閉されていた、やっと開放されたのを誇示するかのように広がる、強めのウェーブのかかったミディアムレングスの白銀の髪。その髪と同じ色の眉と睫毛に彩られた、吸い込まれそうに黒い瞳孔、琥珀色の虹彩。そして、燃えるようなルビーの色をした強膜――白目。

 その時初めて、北条柾木は玲子の素顔を見て、息を呑んだ。まっすぐに目を合わせ、目を逸らせなくなった。

 離れた所に何か硬いものが落着した音が、車載甲板に響く。それをきっかけに、あちこちから何かをひっかき、引きずる音が聞こえ始める。

 ここもか。我に返った柾木は、心の中で舌打ちをした。柾木は、玲子を中心とした視界の右奥に上層、車載甲板の天井に続く階段を、それ以外のあちこちに蠢き、這いうねる何かを確認する。あそこしかない。

「走ります。しっかり掴まってて下さい」

「え?」

 言うなり、ベール付ボンネットを右手を延ばして掴んだ柾木は、その勢いで玲子を抱え上げ、玲子が返事をするのも待たずに走り出す。この体は疲れを知らず、力も速度も常人のそれを上回る。見た目以上に軽い玲子の体を抱え、常人を上回る速さで走ることくらい造作もない。そのまま視野を這いずる不完全なマネキン共には目もくれずに階段に取り付き、右手で玲子を横抱きに抱えたまま、左手で手すりを掴んで一気に階段を駆け上る。必至に柾木の首根っこにしがみつく玲子の、白銀の髪が柾木の頬をくすぐる。

 階段を上がりきったところで、柾木は回し蹴り気味に扉を閉め、左手で扉のロックを閉める。ロックと言っても鍵がかかるわけではなく、流用品の規格品の水密扉だから内側からでも開けられるはずだが、不完全なマネキン共では水密扉の重いロックを外すのは至難の業だろう。

 そのまま、柾木は玲子を抱えたままで再び走り出す。車載甲板の天井の最後尾から、船首方向に十五メートル程進んで目の前の水密扉のロックを左手で開け、体全体を使って引き開ける。狭い入口に玲子が当らないように体を回して中に入り、もう一度体全体を使って扉を引き寄せて閉める。

 入ったここは、船員居住区にあたる船室区画、ここの水密扉もロックする。人気のない船室区画を駆け抜ける柾木は、半開きの船室の扉の奥で、船員が倒れているのを見る。生きているのか死んでいるのか、そもそも何故倒れているのか。円は鰍と信仁に「船室を抑えろ」と言った、それか?血は流れていないようだが……確かめている余裕は無い、そのまま二十メートル程度の船室区画を駆け抜け、表に出る水密扉のロックを左手で開放、背中から体当たりするようにして扉を押し開け、体を返して背中で押し閉める。再び左手で扉を外からロックし、ここでやっと、抱えていた玲子を静かに、丁重に床に降ろす。船室区画を出た先のここは、車載甲板の天井の前部にある小さなコンテナ搭載スペースとの間の、幅二メートルに満たない、左右方向への露天通廊。目の前にはコンテナが横に七列、縦二段に積まれていた。

「……大丈夫でしたか?」

 ほんのわずか放心し、柾木の首に硬くしがみついていた玲子だが、柾木に声をかけられ、すぐに我を取り戻すと、

「……!いけません!見ないで下さいまし!」

 声をあげ、突き飛ばすように柾木から二歩後じさり、背を向ける。

「玲子さん?」

「……いえ、ご覧になりましたでしょう?ご覧になってしまったのでしょう、私の顔を」

 自分の腕を抱くようにして、玲子は背を丸める。柾木は気付いた。玲子は、白子、アルビノなのだ。手足のベールは肌を護る為、ボンネットもベールも邪眼を隠すだけのものではなく、肌そのものを日差しから護る為、髪もわざわざ黒いウィッグで上から抑えつけて隠す、それほどまでに、玲子は自分の姿を……

「……醜いとお思いでしょう……」

 白子で、邪眼。玲子は、自分の容姿を憎んでいるのだ、柾木は、今、それを知った。だが。

「……そんな事、ないです」

 柾木は言う。

「初めて、玲子さんの素顔を見ましたが、綺麗だと思いました」

「嘘をおつきにならないで!」

「嘘じゃないです!」

 柾木は玲子に近づき、肩を掴んで強引に振り向かせる。思っていたよりはるかに小さく、華奢な肩。

 驚いた玲子は一瞬まっすぐに柾木を見て、すぐに顔をそらす。その玲子に、柾木は、

「綺麗です。少なくとも、怖いとは感じません。びっくりはしました……女神かと思った」

 柾木の手に、玲子の体がぎくり、と動くのが感じられた。

「そんな、見え透いた嘘を、おっしゃらないで……」

「嘘じゃないです。だって、俺は玲子さんの邪眼が効かないんでしょ?だから嘘はつけません」

 呟くように反論する玲子に、柾木は即座に反論し返す。自分で言っていて、若干論理が破綻している気はしたが、本心なのだからしょうがない。柾木は思ったままを口に出していた。体の芯が火照るのを感じながら。

 玲子が、ゆっくりと顔を柾木に向ける。紅い瞳が潤む。

「……私が、怖くありませんの?」

 玲子が、聞く。

「怖くなんかないです」

「……私が、醜くは思われませんの?」

 玲子が、重ねて聞く。

「綺麗ですよ、俺は綺麗だと思います」

「……本当、ですの……?」

 玲子が、わずかに顔を右に背けた。

「本当です」

 暫し、そのまま震えていた玲子は、自分と柾木の間で行き場なくためらっていた両腕をゆっくり下ろすと、そのまま柾木の背中に腕を回す。左の頬を押しつけるようにして、玲子は柾木に、はじめは恐る恐る、次第にきつく抱きつく。

「……男性に、綺麗だと言っていただいたのは、初めてです……」

 柾木は、自分の心臓の位置ほどの高さにある玲子の頭を、月明かりに控えめに輝く白銀の髪を見た。触れる事が許されない神聖なもののようなその髪に、柾木は壊れ物に触れるように、手を置く。その瞬間、ぴくりと硬くなった玲子の体の緊張が解けるのに合わせ、軽く、優しく髪をなでながら、胸の奥から体の芯にかけて、熱湯を流し込まれたような熱さを感じながら、柾木は思う。

 やばい、何かフラグ立てちまった気がする、玲子さんにも、俺自身にも……でも、まあいいか。良い匂いがする、悪い気はしない……

 この体は、玲子の体温と、自分の体内の高まりを、正確に伝える。もう少しだけ、こうしていたい。柾木は、その誘惑に負けてしまいたかった、

 だが、そうも言っていられない。その程度には、柾木は冷静な部分を残していた。

「……さあ、菊子さんと緒方さんを探しましょう」


 言って、三割は玲子に対して、七割は自分に対して心を鬼にしながら、玲子の両肩に手を置き、体を離す。

「……はい」

 柾木に目を合わせず、玲子は答える。その玲子に、右手で持っていたボンネットを渡し、柾木は歩き出そうとする。

 その時、柾木は突然、足に力が入らないことに気付き、よろけた。

「柾木様!」

 ボンネットを被り直していた玲子が慌てて駆け寄り、支えようと手を伸ばすが間に合わず、柾木は船首側にあるコンテナの扉に右肩からもたれかかり、左手で扉のロックのレバーを掴んで体を支える。

「いや大丈夫、大丈夫です。なんだろう、流石に足に来たのかな……」

 言いながら、そんなはずはない、と柾木は思う。この体は、疲れを知らない、はずだ。故障?試作品だから長持ちしない?長持ち……柾木は、さっき腹が鳴ったのを思い出し、気付く。まさか、燃料切れ、マナとかいうのが切れかけてるのか?

 だとしたらヤバイ、まだ動けるうちに……そう思い、とにかくキチンと立ち上がらないと、そう思ってコンテナの扉を押し返そうと突いた右の掌が、くしゃり、と何かに触れ、同時に痺れるような痛みが右手に走り、柾木はその何かを思わず握りつぶし、扉から剥がす。

「ぁつっ!」

「柾木様!」

 玲子の悲痛な声。柾木は、強がって答える。

「大丈夫、なんかこれが急に……」

 どうにか踏ん張って立ち直り、右手で掴み、扉から剥がして潰したそれを目の前で開く。

 それは、さっきエレベーターを見つけた時に床に落ちた細長い呪符にそっくりだった。


「酒井さん!」

 目の前のシートが弾き飛ばされ、その下から何かが飛び出してきた。酒井の様子がおかしいことに気を取られていた蒲田は反応が一瞬遅れる。その蒲田は、次の瞬間に凄い力で横に突き飛ばされる。蒲田の居た空間を黒い槍のようなものが突き通る。一拍遅れて、もう一本、黒い槍が酒井めがけて、蒲田を突き飛ばしてフラットトラックコンテナに斜めに背を向けた酒井の左脇腹めがけて伸びる。すべてをまるでスローモーションのように感じながら、蒲田は、恐るべき反射神経で振り向いた酒井が、それでも避けきれず、だが脇腹をかすめた槍を左腕で絡め取り、そのまま右手でもう一本の槍もつかみ取るのを見た。

 凸凹したコンテナの天井に足を取られ、突き飛ばされた勢いで二三歩たたらを踏んだ後に尻餅をついた蒲田は、槍と思ったものがフラットトラックコンテナ上の巨大な蜘蛛の前足であったことを知る。いや、蜘蛛と思った直後、その蜘蛛の頭が蜘蛛のそれではなく、粘土でいい加減に作ったような、グロテスクな牛の頭に似た何かである事に気付く。

「酒井さん!……!」

 わずかに視線をそらし、その蜘蛛であって蜘蛛ではない何か、そう、蒲田の記憶にある、牛鬼と呼ばれる物に似ていなくもない何かから酒井に目を移した蒲田は、そこで絶句する。

 左の脇腹を血に染めつつ、牛鬼の前足二本を掴み、抱えて抑える酒井は、今まで見たことがない程筋肉が盛り上がり、目は血走り、食いしばった口からは犬歯がはみ出し。

 その額には、親指大の突起が二つ、まるで角のように突き出していた。

 牛鬼が、その頭を、口を酒井に向けて突き出す。四対の歩脚の他の、口のすぐ脇の顎に同化した鋏角が、歩脚のすぐ前の普段は目立たない触肢が、酒井に向かって延びる。蒲田は慌てて銃を抜くが、酒井が近すぎて撃てない、酒井に当てずに撃つ自信が、引き金を引く決心がつかない。手が震える。その時。

 酒井と蒲田の隙間を何かが駆け抜ける。牛鬼の頭胸部の下に滑り込んだその何者かは、手をその足の付け根付近に当て、真言を唱えた。

オン 金剛怖畏尊バザラバイラバ 薩婆訶ソワカ!」

 凜とした女の声が響き、掌から発勁を当てたかのように牛鬼がのけぞった。蒲田は見た。牛鬼から離れた女の掌から、細長い呪符が今まさに形を失うのを。そして、その一瞬、伸ばした腕に隠れて見えない女の顔の、わずかに見えるその額にも二本の、親指大の角があるのを。

 牛鬼がのけぞるのに合わせて酒井は、抱え、掴んでいた前足を力任せに押しのける。もんどりうって仰向けに倒れる牛鬼の口から、怪鳥が叫ぶような金切り声が放たれる。

「酒井さん蒲田さん!下がって下さい!」

「五月さん?」

「な?……っ!」

 聞き覚えのある声。酒井より数歩後ろに居た蒲田は、カーキ色のカーゴパンツにスニーカー、黒のサイクリングジャージにサファリベストを羽織り、ミディアムの髪をハーフアップにまとめたその女が青葉五月であると、その時気付いた。その蒲田の声に振り向いた酒井は、その時になって初めて脇腹の痛みに顔をしかめる。

「私が抑えます、その間に下がって!」

 言って、酒井と蒲田を手で促して十歩程後ろ、左舷側のコンテナの方に下がったところで、

「て?あれ?あれー?」

 五月は突然めまいがしたようによろめき、尻餅をつく。直後に、ごつん、スイカ程度の適度に重くて硬い何かが床に落ちる音と同時に、五月が悲鳴を上げる。

「あ痛ぁ!」

「どうした、大丈夫か?」

 左手で脇腹を押さえたままの酒井が振り向き、五月を助け起こそうとして手を伸ばした所で一瞬固まる。蒲田も駆け寄って手伝おうとして、五月の状態を見てやはり固まった。

 急に激しく動いたせいか、それともこの湿気か汗のせいか。五月の首に貼ってあったテーピングが剥がれ、尻餅をつた体から少し離れた所に五月の頭が転がっていた。


 フラットトラックコンテナを押しつぶす音と、耳障りな金切り声と共に、牛鬼が体を起こす。

「あーもう!なんでこんな時にぃ!」

「うわ青葉さん暴れないで!痛いから暴れないでって!」

「五月さん落ち、落ち着いて下さい!」

 左手で自分の脇腹を押さえつつ右手で五月の体を抱える酒井、両手で五月の頭を抱える蒲田が、しょうもないトラブルで取り乱して暴れる五月をなだめにかかる。とにかく左舷の二段目コンテナを背にするところまで後退したが、これは逆に後がない。牛鬼は、逃げ道は無いと見たのか、慌てることなく距離を詰めてくる。

 突然、銃声が続けざまに六発、鉄の船倉内に響く。わずかの間の残響の後、床に空薬莢が落ちて散らばる、乾いて澄んだ音が取って代わる。

 頭胸部の背中側に45オートの斉射を被弾した牛鬼が動きを止めた。致命傷どころかかすり傷程度らしく、それでも怒りのうなり声を上げて振り向く。

 酒井は、牛鬼の視線の先、丁度コンテナにかかる梯子を登り切った所に、黒い小さい人影を見た。その人影は、抜き身の大型ナイフを持った左手を腰に当て、伸ばした右手にはワンマガジン分撃ち尽くしてスライドがホールドオープン状態のデトニクスをまだ牛鬼にポイントし続けていた。空になったマガジンがするりと落ち、コンテナの天井に当って金属音を響かせる。

 鰍は、ナイフを持ったままの左手で器用に新しいマガジンを銃に差し込むと、スライドストップを開放してからゆっくりとデトニクスを持った腕を下げてブラックホークのCQCホルスターに戻し、嘲るような顔で、言う。

「来いよ牛鬼。かかって来い。怖いの?」

 挑発されていることを理解したのかしていないのか、より強い敵と認識したかそれとも弱い相手と認識したか。いずれにしろ牛鬼は体ごと向きを変えて鰍に向き直り、飛びかかろうと体を沈めた。

 その牛鬼の動きに合わせ、鰍が左手のナイフを見せつけるように体の前に出すと、ナイフを左に振り、次いで体をひねりつつ、踊るように回って左に一歩体を入れ替える。水銀灯の光りを反射するナイフ、挑発する鰍の動きに牛鬼も、酒井も蒲田も五月も一瞬そちらを目で追う。その瞬間、酒井は気付く。直前まで鰍が居た空間に、黒い、もう一人の影がある事を。

 その、シッティングで銃を構えた影から、鰍を目で追った皆が視線を戻すより早く、短く鋭い銃声とマズルフラッシュが三度、続けざまに響く。ほとんど同時に牛鬼の左目が消し飛ぶ。傷みを感じているのか、ものすごい金切り声を上げ、牛鬼はのけぞる。間髪置かず、そのガラ空きの腹の下に飛び込んだ鰍のナイフが一閃して牛鬼の左の足を薙ぐ。前の二本は綺麗に付け根の次の関節で切断され、後ろの二本は外骨格を半分以上切り込まれ、自重を支えられずへし折れる。バランスを失った牛鬼は左に倒れ、その顔面に、信仁は残りのワンマガジン分二十二発をフルオートで叩き込む。それでも、左半分が原型を留めない、失敗した粘土細工のようになった状態でも、牛鬼は残る右足を床に突き立てて起き上がろうともがく。

「この……うらあ!」

 その牛鬼の右足を、第二脚と第三脚をまとめて抱え込むと、酒井は渾身の力で持ち上げ、投げ飛ばす。たまらず、牛鬼は仰向けにひっくり返る。その牛鬼めがけ、酒井は落ちている牛鬼の左第一脚を掴んで駆け寄ると、

「だあっ!」

 頭胸部と首の接合部めがけて、足先の爪を突き立てる。二度、三度と突き刺し、四度目に、刺して、手前に引く。

 牛鬼の首が、体から離れた。


 酒井の荒い息が船倉にこだましている。

「……っててて……」

 思い出したように酒井は脇腹を押さえ、牛鬼の足を放り出してその場に座り込む。

「酒井さん!」

 蒲田と、蒲田が抱えた五月の頭の声がハモる。立ち上がり、マグチェンジしながら酒井に近づく信仁が聞く。

「大丈夫ですか?鰍ちゃん、手当頼める?」

「オッケー、見せて。信仁兄、そっちの始末お願い」

「あいよ」

 ナイフを血振りしてからシースに収めた鰍が酒井に近づく。信仁は牛鬼に銃口を向けたまま警戒を解かず、酒井と牛鬼の体の間に入り、

「ちょっと鳴りますけど勘弁で」

 と宣言してから、牛鬼の残る右足四本を一本ずつ、付け根の関節を狙った三点バースト射撃で切り落としていく。

 鰍は、以前に井ノ頭邸でやったのと同様に、小さいダガーを取り出すと呪文を唱え、呪文の最後の一節と共にダガーを酒井の脇腹に当てる。

 酒井の顔から眉間のしわが抜け、表情が穏やかになる。それに合わせ、膨らんだ筋肉が、額の角が元に戻る。

「酒井さん、大丈夫ですか?」

 五月の頭を抱えたまま、近寄ってきた蒲田が聞く。

「ああ、楽になった……ありがとう、鰍さん、でしたよね、助かりました」

 鰍に例を言った酒井は、蒲田に向き直り、

「蒲田君、嫌なものを見せたな。俺は、どうやらこういうものらしい……」

「正直、驚きました」

 飄々と、蒲田が言った。

「資料で知ってはいましたが、見たのは初めてですから、はい……でもこれで納得しました、はい」

「何がだ?資料が正しかった?」

 蒲田が何に納得したのか、今ひとつ分からない酒井が聞く。

「それもあると言えばそうですが。蘭円さんが、五月さんを押しつけるのに酒井さんが適任だって言った理由です、はい。ずっと考えてたんですけどわからなかったので、はい」

 蒲田は、五月の頭を酒井に向けて渡す。あぐらをかいた状態で受け取った酒井、何か言い出すタイミングを逸して黙っていた五月が顔を見合わせる。

「お二人とも鬼だったと。そりゃお似合いだって事です、はい」

 もう一度、酒井と、酒井が持つ五月の頭が顔を見合わせる。


「そりゃそうと、そちらのお姉さんは?」

 牛鬼の足を切断し、もう動きそうにない、動いてもとりあえず危険はないと判断した信仁が聞く。

「こちらは、青葉五月さん、占い師、だ」

 酒井が、五月の頭を信仁の方に向けて答える。

「……ああ、円さんの報告書で見ました、あなたが」

「……あの、酒井さん、とりあえず、首、戻してもらえませんか?」

 五月が、少し恥ずかしそうに、困ったように言う。見ると、五月の体はさっきからずっと体育座りしたままだ。

「あ、こりゃ失礼」

 酒井が立ち上がって五月の頭を体の方に持っていく。

「ごめん、ちょっと見せてもらっていい?」

 鰍が、五月の体の方に歩きながら言う。

「そのまんまだと不便でしょ?もしかしたら治せるかもだから」

「本当?」

 鰍の言葉に五月が即座に反応する。

「それ、ばーちゃんの仕業なんでしょ?だったら多分、治せると思う」

「あなた……あの女の……?」

「ごめんなさいねぇ、あのばーちゃんの不肖の孫です」

「……あなた、カバラの秘術の使い手よね?」

「あ、それ分かる人?なら話早いわ、「羅生」の影響を打ち消すから、体内の気の流れを整えておいて下さい。誰か、首をキチンと押さえてあげてもらえます?」

 成り行きで、酒井が五月の首を、なるべく正しい位置になるように支える。

「ラショウ?」

 初めて聞くその名を疑問に思った五月に、鰍が短く答える。

「ばーちゃんの鉄扇。じゃ、いきますよ」

 五月は結跏趺坐で姿勢を正し、呼吸を規則正しく鎮め、鰍は再度ダガーを片手に呪文を唱え始める。

「アテー マルクト……ヨド ヘー ヴァヴ ヘー……」

 今度の詠唱は、酒井の傷を癒やした時より長い。のみならず、明らかに鰍はさっきより詠唱、大気を振動させる事に力を余計に使っている事が、額に浮かぶ汗から見て取れる。

「オムニポテンス アエテルネ デウス……オロ ウト スピリトゥム ベニ・エロヒム デ ラファエル……」

 「眼の不自由な」酒井その他には、イメージで描かれる魔法陣は全く見えていない。

「……我は汝に請い願う、我が元に……」

 だが、見る者が見れば相当に強力に輝く魔法陣が描かれている。酒井は、その事を、目ではなく体の芯で、圧とも、熱とも言えない何かによって感じていた。

「……レ オラーム アーメン……」

 ごきっ。

「ぁ痛あっ!」

 鰍が最後の一節を唱え終わるやいなや、ちょっと嫌な音が響き、悲鳴を上げた五月が首を押さえてうずくまった。どうやら、正確に支えたつもりでもわずかにズレていらたしく、物理的生物的に首が再び繋がった瞬間、首筋を寝違えたような痛みに襲われたらしい。

「だ、大丈夫か?」

「ごめん、痛かった?」

 ちょっと酒井はうろたえ、口に手を当てた鰍が心配そうに五月をのぞき込む。

「いたたたた……うん、大丈夫、ありがとう、っててて……」

羅生らしょう羅殺らせつも、本来アタシより力の強い呪物だから、ちょっと強引に行くしかなくって。ホントごめんなさい」

「ううん、本当にありがとう、私、自力じゃどうにも出来なかったもの。あなた、すごいわよ……」

 心底すまなそうに、鰍は謝る。五月は、目の前の鰍が今やって見せた「奇跡」に感謝すると同時に、それを行った鰍の力量に舌を巻く。と同時にその鰍の力量を越えるという、首を斬られる瞬間に目にした二本の鉄扇を思い出し、

「……あの鉄扇あなたより力が強いって……そんなの二本も扱うって、どんだけよ……よく死ななかったな、私……」

 その時の自分の不明を悔いる。

「……ところで、青葉さん、どうしてここに?」

 聞くタイミングを失っていた疑問を、酒井が口にする。首筋を揉みながら、五月はちょっとバツの悪そうな顔で酒井に向き直り、

「……酒井さんからいただいたメールを見て、それまで帰る連絡なんてされたことないのにって胸騒ぎがして。それで、酒井さんの行き先を占ったんです。そしたら」

「占いって、そんなピンポイントで場所分かるものなんですか?」

「そこは腕です」

 酒井のもっともな疑問に、五月は胸を張る。

「最初は地図の上で方向を占って。大体の位置が分かったら実際にそのあたりに行って、三角測量の要領で」

「三角測量……」

 意外な回答に、酒井は軽く絶句する。

「酒井さん、あんなメールもらったら、逆に心配しちゃいますから。お気持ちは分かりますけど、私だって関係も有るし心得も少しはあるし、自分でも何とかしたいんですから、そういうのは無しにして下さいね!」

「……すみません、以後気をつけます」

 ちょっと語気を強めて叱る五月に、酒井は素直に謝る。

「じゃあ、最初からいたんですか?」

 蒲田が気を利かせて、話の矛先をずらせて助け船を出す。

「バスで来て、着いたのは皆さんより先です。最初に来たのがあの狼女、あ、ごめんなさい」

 言ってから、しまったと言う顔で五月は鰍に謝る。いえいえ、いーですいーです、鰍は笑顔で手をぱたぱたさせて答える。

「あの人だったんで、ちょっと出るに出れなくて隠れてました。そしたら出るタイミング無くしちゃって……一応隠れて様子見て、もしピンチになったら助けに入るつもりだったんですけど、もう、大失敗」

 トンビ座りで、上目遣いに五月は酒井を見て言い、両の拳を床に叩きつけるような仕草と共に、ああもう恥ずかしい、と付け加える。それを見た酒井は、ああ、この状況でこれをやる、この人のこれは、演技とかじゃなく本能的に無意識に出るヤツなんだ、と納得した。そしたら今までのアレも無意識か、その分余計にタチが悪い気もするが、それはそれとして。

「いや、あの場は助かりました」

 素直に酒井は礼を言う。それにしても、方位占いで三角測量、その手があったか。というか、メールからそこまで読まれたのか俺。酒井は、五月には今後嘘やごまかしは通用しそうにない、いろんな意味で女の本能は怖いなと思った。


「さて。これからどうします?」

 話が一段落したのを見計らって、信仁が酒井と蒲田に聞く。

「とりあえず、まだ調べてない船倉が一つ残ってますよね?」

「そうだな……それに、どうもコイツは、俺が襲われた牛鬼とは違う気がする」

 五月を鰍に任せてこっちに来て、意見を述べた酒井に蒲田が聞き返す。

「酒井さん、何か思い出したんですか?」

「まだ全然断片的だが、少なくともあんな金切り声は聞いた覚えがないのは確かだし、顔というか全体的に違う気がするんだ。もっと、なんて言うか、コイツは動物というか知性が感じられないが、俺の記憶にある牛鬼はもっと強い意志のようなものをもって襲いかかってきた気がするんだ」

「知性、ですか……確かに伝承の牛鬼は人語を解しますね……」

 信仁が考え込む。蒲田も首をひねり、

「そのへんはよくわからないですが……あれ?」

「どうしました?」

 何かに気付いたらしい蒲田に、信仁が聞く。

「いや、僕の記憶では、牛鬼って角、あったと思ったんですけど、はい」

「牛ってくらいだから、あると思いますけど、見たことないけど」

 蒲田が、半分崩壊した牛鬼の頭を指差す。

「こいつ、角、ないです、はい」

「え?……ありゃ、本当だ」

 歪んだ、幼稚園児が作りかけで放り出した粘土細工のような牛鬼の頭には、角と言える程の明確な突起はない。信仁は、蒲田と顔を見合わせた。

「……角がないってことはですよ?これはアレですね、はい」

 蒲田の言わんとすることを、同じ匂いを嗅ぎ取った信仁が引き継ぐ。

「S型じゃなくて量産型?って事ですか?」

「止めなさい、そういうの」

 あきれた鰍が止めに入り、そのまま言葉を続ける。

「……でも、あながち間違ってはいないかも。こいつ、ちょっと歯ごたえなさ過ぎだったもの」

 あれで、歯ごたえがないって。今度は酒井があきれる番だ。

「ばーちゃんから聞いてた話と違うとは思ったのよ。足四本いっぺんに斬れるなんて、もっと硬くて疾いって聞いてたから」

 ああ、それではやはり蘭さんは以前、牛鬼とやりあった、泣くまでブチのめした事があったんだ。酒井は昼間の疑問の回答を得た。

「じゃあ、これは量産型というか複製品、偽物って事なの?」

 まだ首をさすりながら、近寄ってきた五月がつま先で軽く牛鬼の胴を小突きながら聞く。

「そういや、体液的なものが一つも流れてねぇな、こいつ。血の匂いも何もしないし」

 物騒な項目を確認した信仁も同意する。

「……これ、ちょおーっと、話、根が深そうね……」

 鰍の声は、困惑しているようでもあり、ほんのわずかに面白がってるようでもある。

「……よし。とにかく、次の船倉も調べよう。その後、西条さん達と合流しよう」

 酒井の提案に、一同は頷く。


 最後の船倉、一番船首側のそれも、アクセスハッチは南京錠で封印されていた。先ほど同様に酒井が銃で南京錠を破壊し、鰍、信仁、酒井、蒲田、五月の順で梯子を下る。

「この船倉は、コンテナがぎっしりですね、はい」

 明かりのついた船倉を梯子で下りながら、蒲田が言う。船倉の照明は、あると思って探すとあっさり梯子の上端付近にスイッチボックスがあるのが発見された。考えてみれば当たり前で、ハッチカバーの閉まった暗い船倉に降りるのに、足下のおぼつかない梯子を下りきってから照明を点けるわけがなく、入口にスイッチがあって当然、階段の上下にあるスイッチのようなもので、むしろ下にあったスイッチの方が非常用、だからこそ満載したドライカーゴの圧力に負けないような頑丈な箱の中に収めてあったのだと、酒井は妙にすっきりした気持ちで納得していた。降りきって見上げれば、コンテナが三段積み上げられる構造の船倉の、二段目までぎっしりコンテナが詰められ、三段目はわずかに中央に一つだけコンテナが置いてある。

「やっぱ、全部封印されてますね、はい」

 船倉を左右に小走りに往復して、二段目も仰ぎ見て確認した蒲田が報告する。

「三段目も、扉は、封印されてますね……」

 FA-MASに載せたスコープで三段目を確認した信仁が言う。

「とすると、やっぱりあれか?」

 酒井が、三段目を見上げて言う。それは、梯子を下りる途中で全員が気付いていた。

 三段目のコンテナは、まるで鉄道のコンテナ車のように、側面にも大扉が付いていた。

「……折角降りたのに、あそこまで上がるのか……」

 コンテナにかけられた、イマイチ頼りなげな簡易梯子をげっそりした顔で見上げながら、酒井がぼやく。その高さ、およそ六メートル。

「ぼやかない。さ、行きましょ」

 有無を言わさず先頭切って登り始めた鰍を見ながら、五月が酒井の胸を手の甲で軽く叩いて言う。


 簡易梯子が落ちるとシャレにならないので、用心して一人ずつ登ったため若干時間を要して、全員がコンテナ二段目の天井に上る。さっきの牛鬼もどきを載せていたフラットトラックコンテナもそうだが、規格品に収まらない荷を運ぶための特殊形状のコンテナは色々な種類があり、今目の前にあるサイドオープン型もその一つらしい。誘うかのように、ここだけ封印が成されていない扉の前に立ち、鰍が言う。

「じゃあ、開けましょう。酒井さんと蒲田さん、お願いします。青葉さんは少し下がってて下さい」

 言いながら、シュアファイアのタクティカルライトを逆手に持った左手の手首の上に、デトニクスを握る右手首を重ねて、鰍が左扉が完全開放した位置からさらに一歩下がったところにローレディでスタンバる。信仁は、右扉側で、同様にFA-MASを左手持ちにスイッチして待機する。扉のレバーに手をかけつつ、酒井は、二人の堂に入った息の合い方と銃口管理に舌を巻く。

「開けるぞ、いいな」

「ハイです」

「せーの!」

 酒井と蒲田がレバーを引き回して扉のロックを開放、そのまま引いて扉を開ける。軽く軋む扉を勢いのままに完全開放まで開くと、入れ替わるように鰍と信仁が扉越しに開口部近くまで移動、目で合図し合った直後に同時に銃をコンテナ内の対角線方向に向け、フラッシュライトを点灯する。

 そのままスウィープした三百ルーメン級の二つのフラッシュライトが浮かび上がらせたのは、コンテナの中央で、手術台のようなものに縛り付けられ、足を捥がれ、何本ものチューブを刺された、本当の牛鬼の姿だった。


 フラッシュライトを消した鰍が、牛鬼に銃を向けたまま、あるだろうと当たりをつけて開口部内側の壁を手探りで探し、すぐに探し当てた電灯のスイッチを入れ、銃を下ろす。信仁もライトを消すが、銃口は下ろさない。

 左右から開口部に集まってきた酒井と蒲田、五月は、コンテナ内の光景を見て絶句する。手術室のような、実験室のようなそれは、素人でも一目で牛鬼の体から何かを抽出し、貯め込むための何かであり、また今現在稼働中のそれである事が分かる。

 五月は、左横にいる、牛鬼をまっすぐ見る酒井の体が強張っていくのを感じる。その酒井の右の上腕に五月の右の掌がそっと触れたことに酒井は気付き、五月に顔を向ける。緊張はしているが、憎悪や憤怒は見られないその顔を見てほっとした顔になる五月に、酒井も微笑を返す、苦労して。

 酒井は、左手を、右腕に置かれた五月の手に重ね、優しく離させ、歩き出す。五月は、手を離す一瞬に、自分の右手を軽く握った酒井の左手から、もう酒井の体に緊張がないことを知る。

「……これは……」

「うかつには手出し出来そうにねぇな……」

 鰍と、やっと銃口を下ろした信仁が、コンテナの中の実験機器を見渡して言う。その二人の間を、酒井は牛鬼に近づく。

「酒井さん……」

 心配そうな声をあげた蒲田に振り向き、酒井は軽く左手を挙げる。すぐに牛鬼に向き直り、その頭に手が届く程まで近づき、じっと見る。

 牛鬼の顎の下と首の付け根あたりに、数発の弾痕らしき傷、真新しいものではないが、古傷と言う程古くもないそれが見える。

「……これは、俺が撃った傷だな……」

 誰に言うともなく酒井が独りごちた。

 それが聞こえたのか。閉じていた牛鬼の目が開き、その瞳に、酒井が映る。

 咄嗟に緊張が走る周囲をよそに、酒井はもう一歩近づき、牛鬼の首筋に手を置く。

「……俺は、勘違いしていたらしい……済まなかった……」

 酒井が呟いた。牛鬼が呻く。その呻きは、そこにいる皆の耳には、人語であるかのように聞こえた。

 ……オレモ、ダ……


「柾木様、その札は……」

「……大当たり、かも知れません」

 ふらついている事を玲子に悟られないように苦労して立ち上がった柾木は、目の前のコンテナの、封印されていない扉のロックバーに手をかけた。

「もう、出たとこ勝負です、そっちの扉の影へ」

 頷いた玲子を左扉の方に下がらせ、柾木は右扉のロックバーを水平から反時計に九十度回してロックを開放し、そのままバーごと手前に引いて扉を引き開ける。開いた扉の向こうは真昼のように明るく、柾木は目がくらむ。

 幅二メートル強、高さ三メートル弱、奥行き十二メートル程の四十フィート海上コンテナの内部は、手前半分の左右の壁はオートマータの部品や工具などがぎっしりと詰まった棚で覆い尽くされ、人が通るのがやっとの隙間しか無い。奥の半分には左右の壁に沿って野戦病院風のパイプベッドが二つ並び、その奥の向かって左側は何やらよくわからないが禍々しさを感じる機械、高さは天井まで、幅はコンテナ内の半分程を、奥行きは残りの全部を占めるそれが置いてあり、奥の右の壁にはいくつものモニタ画面が設置されている。残念ながら、この距離では何が映っているか分からない。

 そのベッドの、向かって左にはこちらに足を向け、状態をやや起こした体勢にセットされたベッドマットに仰向けに横たわる菊子が、向かって右には、ベッドに腰掛け、うなだれる緒方が、そしてそのベッドの間には、見覚えのない男が立っている。緒方の服は、柾木が最後に見た時の白衣とスラックス、タートルネックのニットのままだが、菊子は手術衣のような、いや手術衣そのものの白い羽織物に着替えさせられ、あまつさえ体の各所からケーブルが数本、奥の機械と繋がれている。同じようなケーブルは中央の男にも数本繋がっており、咄嗟に柾木は、菊子が井ノ頭邸の緒方の研究室で、緒方のコンピュータらしき機械に自分をケーブルで接続していた事を思い出した。

 扉を開けたきり、動きが止まってしまった柾木の脇から顔を覗かせた玲子が、コンテナ内の様子を一目見て小さく息を呑む。玲子が顔を出すの待っていたのか、奥の男、麻のライトベージュのスーツにごく薄い紫のシャツ、白いエナメルの靴を合わせた、やや小柄とも言える体格の男は、妙に不協和音の混ざる声で、言った。

「ようこそ、待ってました」


 知識も経験もないから考えたって分からない。人並み程度の警戒はするが、この体がいつまで動くかも分からないから時間もない。今、自分に出来るのは出たとこ勝負のみ。

 柾木は決心し、コンテナの中に入る。可能なら、有無を言わさず力任せに菊子と緒方を抱えて走って逃げ出すつもりだった。

「あなたが、緒方氏の試作品をお持ちの北条さん、ですね?」

 柾木の足が停まる。冷たい手で心臓を握られたような感触。

「申し遅れました、私、こういうものです」

 バカ丁寧に、男はスーツの懐から革の名刺入れを取り出す、丁重に、凝ったデザインの名刺を丁重に柾木に渡す。反射的に両手で受け取って、柾木は表書きを読む。東華貿易代表取締役専務、東大。

「あずままさる、と読みます。とるにたらない貿易商社を経営しております、お見知りおきを」

「……ご丁寧にありがとうございます。生憎ですが名刺は切らしておりまして」

 慇懃無礼の見本のような東の物言いに、いらつきを隠さず柾木が答える。会社の名刺は内ポケットに入っているが、こんな奴に渡すわけには行かない。

「いえいえ構いません。早速ですが北条柾木さん、商売、取引のお話をさせていただきたく」

「柾木様……」

 居ても立ってもいられなかったのだろう、おっかなびっくり入って来た玲子が、柾木の後ろに隠れるようにしながら、不安そうな、心配そうな声をかける。玲子の右手が、柾木の右の上腕を強く握る。

「あなたと取引するような案件を、自分は持っていないと思うのですが?」

 柾木は鎌をかける。東の狙いは間違いなく、このオートマータの体だ。それは、今までの出来事を積み上げれば自明というものだ。目的が見えなかったが、この東の商いの業種と、名刺に書かれている本社所在地が海外、某国の著名な自由貿易都市である事を見れば、新人教育を終えたばかりの新入社員の柾木にだって、この東が武器商人よりも下衆な商人の類いであろう事は想像出来た。商売は、倫理に勝るのだ。

「いけません……」

 それまで魂が抜けたように動かなかった緒方から、かすれきった声がした。

「錬金術は、魔導は、奉仕の御業です……取引の……商売の道具ではありません……」

「生身のお体を用意する、と言ったら?」

 緒方の言葉を遮るように、東が柾木に提案した。

 柾木の体がピクリ、と動いたのが玲子には分かった。

「生身のお体をご用意いたしますので、そのオートマータをお譲りいただければ、適当な対価でお引き取りいたします」

「柾木様……」

 柾木は、自分の右上腕を握る玲子の手に、さらに力が入ったことを感じる。緒方が、憔悴しきった目で柾木を見た。

 柾木は、生身の体と聞いて、心が動いたことを自分で認めた。だが、東の言い方に、ほんのちょっとだが引っかかる部分もあった。

「いい取引条件だと思います、俺が今一番欲しいものを知ってるんですね……という事は、あなたは俺の体は持っていないのですね?」

 東の顔がわずかに曇ったのを、柾木は見逃さなかった。

「持っているなら、返すとか、あなたの体をとか言って、もっと値をつり上げる気がしたんですが。よかった、あなたは思ったより正直な人のようだ。俺もこれなら営業でやっていけそうですね」

 博打だったが、当ったらしい。ならば、ハッタリを重ねなければならない。

「……いや、おみそれしました。あなた自身もスカウトしたいですね。それで、お返事は」

「お断りします」

 柾木は即答する。もし生身の体だったら、柾木の心臓はバクバクだったろう。この体は、それに似た感触さえ感じさせてくれている。相手はどう見ても百戦錬磨のやり手の商人、新人営業マンがいつまでも口先で対抗しきれるとはとても思っていない。望外に上手くいった先手を元に、先行逃げ切りを狙うしかない。

「お話が終りなら、これで失礼します。菊子さんと緒方さんも返していただきます。では」

 言って、玲子の右手を左手で優しくほどき、菊子と緒方を抱えようとベッドの間に進み出ようとした柾木の足首を、何かが掴んだ。

「な?」

「柾木様!」

 柾木の後ろで玲子の悲鳴が上がる。振り向いた柾木は、棚に置かれたオートマータの部品、何本かの手が、玲子の腕を掴んでいるのを見る。見下ろせば、自分の足首も手だけの部品が掴んでいる。

「そちらは西条精機のお嬢様とお見受けします。如何でしょう、お嬢さんからも一つ、北条さんにお願いしていただけませんか?なんとなれは、弊社は御社とお取引させて頂けますと幸甚ですが」

「何を……西条精機は、あなたのような、誘拐や強盗を働くような企業と取引など致しません!緒方さんは西条精機と契約されていらっしゃいます。お身柄はお返しいただきます!」

「それは困ります。緒方氏にはまだお手伝いいただかないと。なにしろ、緒方氏に動くようにしていただいたこの体のおかげで、これだけ大量のオートマータを一度に動かす事が出来るようになりましたが、まだまだやることが一杯残っておりまして」

「……緒方さんに、何をしたんですか?」

 同じ事を聞こうとしたのだろう玲子より、柾木の方が少しだけ、言葉にするのが早かった。

「装置の調整をお願いしただけです。緒方氏は凄い方だ、弊社の関係者がひと月かかって調整出来なかった設備を、たった二日で動くようにしていただけました。ただ、相当お疲れのようなので、相応のお食事とお薬は用意させていただきました」

 何の設備だ、薬って、緒方の様子は尋常ではない、オートマータを大量に動かすと言ったな、俺のように誰かが入ってるならともかく、手足だけのものをどうやって?柾木は、東が口を開く度に疑問が増えるのを感じた。

「……おっと」

 警告音と共に小さな赤いランプの点いた、左後ろのモニタ画面の一つを振り返り、東が言う。

「こちらも、時間切れのようです。一度おいとまさせていただきます。船の中の弊社名義の荷物は持ち出さないようにお願いいたします、後ほど訴訟問題にするのは面倒ですので」

 柾木は、東の言葉を聞きながら、ランプの付いたモニタに目をこらす。ここからなら、何とか見える。広角の白黒カメラで、何かの長細い実験室を角の天井から移していた映像は、赤ランプが付いたのはまさにその瞬間、急にハレーションを起こし、すぐに明るさを調整されたカラー映像になる。その変化は、先ほど柾木も目の隅に捕えていた。そして今、その画面には、見覚えのある数名が、その実験室の中に居るのが映っている。

 柾木がその映像の、ベッドの上にあるもの、酒井らしき人影が触れている何かの正体を見極めようと、つい注目してしまった時、東は菊子の体に手を伸ばす。それを見た玲子が声をあげる。

「待ちなさい!あっ!」

「玲子さん!」

 言いながら、玲子が前に進もうともがき、足を捕まれて転びかける。柾木は玲子の悲鳴に振り向き、玲子を支える。玲子を支えた柾木の体を、さらに数本の腕が棚から伸び、掴む。その柾木の目が、コンテナの入口の向こう、船員区画の閉めたはずの水密扉のロックがゆっくりと解除方向に回るのを見る。最悪の結果を予想した柾木が、息を呑んだ後に、静かに聞いた。

「東さん、出来たら教えて下さい。何故菊子さんを連れて行くんです?それと、俺の体は誰が、どうやって、どこに持っていったんです?あなたがやったんですか?」

「……北条さんの体は、持ち出したのは私ではありません、私の取引先です。行きがけの駄賃だと言っていましたね。なので、今どこにあるかは知りません。警察にお聞きになる方が良いでしょう」

 だらりとしている菊子の体を抱えようと、東は少々苦労しつつ、柾木の質問に答える。回答に余裕が見えるのは、柾木と玲子をオートマータの部品で拘束出来ているからか。

「私の商売は人形の売買です。生身の体は扱いません。私は生モノは、汚れるので嫌いなんです……この、井ノ頭菊子という存在はオートマータである、それは御存知ですよね?」

 やっとのことで菊子を抱きかかえ、次に左手で、力なく嫌がる緒方を抱えようと手を伸ばしつつ、東が答える。

「私の知る限り、このボディは唯一マナを自力で生成出来る、ずっと前にその事を教えてくれた取引先が、ガードが堅くて手が出せなかった井ノ頭さんのお屋敷が、ここ数日、ほんのわずかですがそのガードに穴が空くことがあると教えてくれたのです。このチャンスを見逃す商人は居ませんよ。そう言うことです」

 ぺらぺらよくしゃべるな、と柾木は思う。それはつまり、知られても問題無い、後から充分フォローなりリカバリーなり出来る手段を持っている、自信があると言うことだろう。

 東は緒方を捕まえようと、話しながら手を伸ばす。菊子や東に繋がったケーブルが引っ張られ、抜ける。東に背を向けたまま、視線だけ東に向けて聞く柾木は、急に自分の足を掴むオートマータの握力が緩んだのを感じる。これは、そう言うことか?

「マナの自力生成が出来れば、薄汚いバケモノを捕まえてマナを吸い出すなんて面倒はしなくて済みます。仕事場も汚れませんし、生成装置も売れるでしょう。楽しみです。それでは、失礼いたしま……」

「玲子さん伏せて!」

 東が、左手で緒方の右手を掴み、引きずって船首側の扉に近づこうとしたその時。

 東の言葉を遮って、柾木は叫び、拘束を渾身の力で振り切って玲子を自分の方に引き倒し、その上に覆い被さる。

「りゃあ!」

 その柾木の頭上空間を、コンテナの入口から飛び込んできた袴田が飛び越え、錫杖で東の左手をしたたかに打つ。

 何かが折れる嫌な音。ベッドの隙間に着地した袴田は、咄嗟に東が、自分の左前腕の切れ端ごと蹴り飛ばした緒方を受け止め損ね、緒方を抱えて右舷側ベッドに倒れ込む。

 右手に菊子を抱え込む東は、左肩から体当たりするようにしてコンテナの船首側扉を押し開け、隙間から表、車載甲板天井のコンテナ小デッキの前端部のキャットウォークに抜け出す。

「菊子さん!」

 袴田は緒方が邪魔で立ち上がるのに苦労している。体の大きさの都合で袴田の後からコンテナに入って来た時田に玲子を預け、柾木は東を追う、最後のマナを振り絞って。


 コンテナ内側から見て右、船首側から見て左の扉を体当たりで三分の一程開けて、東は右手で、全く体に力の入っていない菊子を引きずるように抱えたままキャットウォークに出た。

 このコンテナは、横に七つ並ぶ小コンテナデッキの丁度中央にある。周りを見回し、扉が邪魔で右舷側に行くのは困難と判断し、左舷側に行こうと、菊子を抱え、引き摺りつつ小走りに三歩程走り出した、その時。

 東の鼻面の先五十センチ程の所に、火花を散らして直径六ミリ弱の穴が三つ、穿たれる。銃声は、弾着の音と火花にコンマ一秒ほど遅れて、船首方向から聞こえた。

 驚いて立ち止まり、東は反射的に銃声の方向を向く。体が開き、船首方向に体の真正面を向ける形になった東の目に、一番船首寄りのコンテナの上で小さな光が三度、正確に半秒に一回ずつきらめくのが見え、その度にその東の頭の上、右、左と、十五センチずつ離して着弾音を伴って火花が散り、穴が穿たれる。思わず菊子を抱える右腕の力が抜け、菊子の体がのけぞり、ずり落ちかけた時、突然、東の目の前に、栗色の髪を持つ服を着た獣が、金属がへしゃげる音と共に出現する。

 舷側で助走をつけて、一番手前の船倉を飛び越した勢いを使って車載甲板の船首側の壁、約十メートルを三角飛びの要領で蹴り上がった鰍は、上昇の勢いを足の甲をキャットウォークの手すりに引っかける事で殺し、両手で下段に構えたナイフを下から縦に一閃する。

 振り切ったナイフの反動で鰍は後ろ、船首側に傾ぎ、傾ぐ途中で手すりを蹴る。空中でトンボを切り、十二メートルを跳躍して手前の船倉の向こうの甲板に着地する。

 何が起きたか理解が追いつかない東は、切り離された自分の右腕と一緒に、のけぞり気味の菊子が倒れ込んでいくのを、そしてその向こうで、半開きのコンテナの扉から柾木が飛び出してくるのを見る。

 逃げる。只それだけを思い出した東は、肘から先の無い右肩で菊子に体当たりして柾木ごと弾き飛ばし、きびすを返してキャットウォークを左舷に向けて走る。


「菊子さん!」

 コンテナを飛び出した柾木は、飛び出した瞬間に倒れ込んできた菊子と、そこに体当たりで勢いを加えた東の攻撃を食らい、キャットウォークに尻餅をつきそうになる。かろうじて右手で手すりを掴んで体を支え、顔を上げた柾木は、今まさに、突き飛ばされ、自分にぶつかり、跳ね返った菊子が、キャットウォークの手すりを乗り越えて甲板へ落ちる、その瞬間を見た。

 柾木の脳裏をデジャブが走る。あの時、井ノ頭邸が襲撃された時、俺が、手を掴めてさえいれば。その思いに、この体は、率直に、常人を越える反射速度で応じた。

 崩れた姿勢から、右手が力任せに手すりを引き寄せて体を前に出し、体の重心が足の推力線に載ったところで両足がキャットウォークを蹴る。既に伸びている左手が、落ちかけている菊子の腰を掴み、抱え込む。菊子のほぼ全身が空中に出たところで、腰から上を空中に出した柾木がかろうじて菊子を捕まえた。

 今度は、捕まえた。柾木は安堵する。安堵し、体から力が抜けるのを感じる。一瞬安心しかけた柾木は、足が床を離れ、手すりを支点に体が回転し始めるのを感じる。足が、キャットウォークの手すりの上を滑る。つま先を引っかけて止められないか、柾木は試すが、一瞬引っかけたつま先が、直後にだらしなく二人分の重さに負ける。柾木は、もう、体を無理にでも支えるだけの力が残っていないことに気付いた。これはまずい、落ちる、というか落ちた。上下ひっくり返ったキャットウォークが目の前を通過するのを、柾木は思ったより冷静に見ていた。

 自由落下中は無重量状態になる。ほとんど力の入らない体で、柾木は何とか菊子の頭を胸元に抱きかかえ、自分が下になるように、出来れば自分は足から落ちて、菊子は横抱きにして自分の体をクッションに出来るように体勢を入れ替えようと空中でもがいた。そのかいあって落ち始めてから半秒程で理想とする体勢を整えたものの、その反動か、落ちる時の勢いか、柾木はこのままでは甲板上ではなく、口を開ける船倉の方に、キャットウォークより十メートル下の甲板ではなく、さらに十メートル程下の船倉に落ちる事に気付いた。

 こりゃ、流石にヤバイかも。冷静に柾木は思う。十メートルなら何とかなりそう、最悪体の下半分を壊しても、と思ったが、二十メートルはどう考えてもキツそう、下半分どころか全身バラバラになりそうだ。せめて、菊子だけでも。柾木は流石に目をつぶり、全身を硬くした。

 次の瞬間、柾木はものすごい勢いで横っ飛びの加速度を感じ、直後に逆方向の横加速度を感じる。体を硬くしておかなければ首でも折れてたんじゃないかという勢い。何が起きたか全く分からず、しかし、いくら待っても船倉の床に墜落する衝撃が来ない。

「大丈夫か?」

 聞き覚えのある声に、柾木は恐る恐る目を開け、自分をのぞき込む酒井の目、酒井なのだろう、見覚えのある顔より若干精悍で、額に親指大の角のあるその顔を見る。

「酒井さん、です?」

 酒井は頷く。周囲を見回した柾木は、ここが上甲板の上、車載甲板の壁に両足をついてスライディングの勢いを殺した酒井に抱え込まれている事を理解した。

「今度は、ちゃんと受け止めたぜ……」

 何が今度なのか柾木には分からなかったが、妙に嬉しそうに、酒井が言った。

「俺も、今度は、ちゃんと掴めました」

 何が今度なのか酒井には分からなかったが、柾木も、そう言って、嬉しそうに笑った。


 逃げなければ。

 東の頭にはそれしか無かった。

 車載甲板のオートマータが全滅したのも、牛鬼もどきが倒されたのも、損失は大きいが一応は最悪を想定した場合の範疇ではあった。この船は自分の会社と契約しており、荷の安全は本来船会社が保証する。だから、損失は、常識の範囲のものは船会社に請求出来る。輸出の手続きそのものに違法なことは何一つしていないから、荷物の持ち出しも法的に差し止め出来る。オートマータは壊されても部品レベルでまだ無価値ではない、牛鬼もどきも同様。今後のビジネス次第で、取引先とのやりとり次第で、まだまだいくらでもやりようはある。

 だが。

 殺しにきてる奴がいる、殺されないまでも、手足をもがれて監禁尋問くらいはするだろう、それは困る。取引出来る相手ならどうにでもする自信はあるが、話を聞かない相手とはビジネスが続けられない。

 一刻も早く逃げる。舷側から海に飛び込むか?両手のない今それはリスクが高い。このまま走って埠頭に降りるか?どこでまた待ち伏せを受けるか分からない。どうするか……

 キャットウォークの真ん中から左舷舷側に出て、四十フィートコンテナの脇を通ってとにかく船員居住区画に逃げ込もうとした東は、逃げ道を考えるのに頭がいっぱいで、その声の主のパーソナルデータは頭に入れていたのに、つい、声に反応してしまった。

「どこへ、おいでになりますの?」

 反射的に声の方を向いてしまった東の脳裏から、怒りに燃える紅い双眸以外のものが消え去った。


「そうだ、菊子さん、大丈夫ですか?」

 ほとんど燃料切れらしいが、この体はギリギリ座ってしゃべって手を動かすくらいはまだ出来るらしい。本当に燃料計か、せめて残量警告灯くらい付けておけよ。柾木はそう思いつつ、酒井に手伝ってもらって壁を背中に座り込み、すぐ横に寝かされた菊子に声をかけ、軽く頬を叩いてみる。

 と、すぐに菊子はパチリと目を開け、起き上がり、柾木に微笑む。

「北条さん、ご無沙汰しております」

「ご無沙汰って……大丈夫ですか?」

「はい、正常に再起動しました、機能に問題はございません。先日は大変失礼しました。あのような方法で家から持ち出される事は想定されていませんでしたので」

 なんかズレてるんだよなこの人。いや人じゃないけど。柾木はなんか脱力する。それは気持ちだけでなく、ホントのホントに燃料切れなのかも知れない。

「緊急時の対応で、機密保護のためのディープスリープモードに移行して、再起動キーは北条さんか西条さんのお声と接触の二段認証を設定したのですが、その事をお伝え出来ませんでした。上手く再起動していただいて、ありがとうございます」

 なんだか、柾木にはよく分からない事を菊子は言う。柾木は、曖昧に返事するしかない。

「あー、うん。いや、どういたしまして」

「よくわからないが、とりあえず、気がついてよかった、って君の方は大丈夫か?」

 既に人の姿に戻っている酒井が、起き上がって柾木の隣に横座りになる菊子を見てほっとした息を吐き、次いで柾木の体調を心配する。いつの間にか、蒲田、五月、信仁、鰍も側まで来ている。

「あー、大丈夫というか何というか、電池切れです」

 ははは、笑いながら柾木が答える。

「あら本当、まあ、大変ですわ、北条さん、少しマナを補充しましょう。失礼いたします」

 菊子には柾木の体のマナの残量が分かるのだろう、慌てているようなそうでないような、不思議なタイミング感覚で言った菊子は、何を失礼するのかな?と柾木が思う間もなく、柾木の頬を両手で支えると、予備動作無しで唇を重ねる。

「お」

「うわ」

「まぁ」

「ありゃ」

「あっらー」

 十人十色の感嘆がこぼれた。


「ちゃんと手加減してくれた?」

 突然後ろから声をかけられ、時田を従えた玲子は飛び上がる程びっくりし、ベールを戻してゆっくりと振り向いた。

「折角捕まえても、廃人じゃ意味ないから」

 円が、口元に笑みを浮かべて歩いてくる。

「……手加減はしたつもりです。慣れておりませんから、上手くいったかは自信がございませんが……」

 玲子は、デッキに膝をついて動かない東に視線を戻して言う。円も、近づいて東を見る。

「……上等よ。お疲れ様……コイツ、体の大半が作り物なのね」

「緒方さんの研究室から持ち出された、オートマータの試作品を利用したのでございましょう。首から上は生身に見えますが……緒方さんは、この首のすげ替えをやらさせていたのかも知れません」

 玲子の目は、東の首筋に見える接合痕や、腕の断面から見える部品の刻印などを注視している。

「あなたの目のおかげで、こいつを抑えられたわね。ありがとう」

 東に注視していた玲子は、円の言葉を背中で聞いて再びびくりとする。驚いて振り向いた玲子の目を、円の笑顔が迎える。

「伊達に長生きしてないから、あたしはそういうの、何人か見てきたわ。あなたのそれは、その中でもとびきり強い。苦労したでしょう」

「あなたに言われる筋合いでは……」

 ありません、玲子はそう言おうとしたのだろうが、少し言葉を切り、そして、言葉を変えた。

「……周りのものには、大変迷惑をかけました。きっと、これからも……」

 時田の眉が動く。意地っ張りの玲子が、何故ここで意地を張るのを止めたのか、不思議に思ったのだろう。

「……ま、治す方法はあたしも知らないけど。ケンカの相手にはなってあげるから、気が向いたらいつでもおいで。お姉さんがこーってり揉んであげるわよ」

 いつものアルカイックスマイルに戻った円が軽口を叩く。それに合わせて、玲子はスカートを摘まんで会釈し、満面の笑みで答えた。

「こちらこそ、せいぜい利用させていただきますわ……時田」

 は。玲子に呼ばれた時田が姿勢を正す。

「この者をお願いします。私は、柾木様が心配ですので、様子を見て参ります」

「ああ、そういや北条君、上から見てたけど、なんか女の子抱えて甲板に落っこちたからねぇ」

「何ですって!何故それを早く言って下さらないのです!」

 血相を変えて、再びスカートをつまんで玲子が駆け出す。

「いや、警察の旦那が受け止めたよって、おーい」

 一拍遅れて追いかけながら円が言うが、とっくに舷側通廊からキャットウォークに入った玲子の耳には届かない。

 円がキャットウォークに入った時、既に玲子はキャットウォークの真ん中辺から下を見下ろしていた。

 白銀の髪を総毛立たせ、その全身からただならぬ雰囲気を放射しながら。

 思わず下をのぞき込んだ円は、状況を理解して、つぶやいた。

「あっらー」

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