第3章 Side-B:ずるい女

 きんこ~ん。

 爽やかなチャイムの音。酒井源三郎は、非番の日曜の朝、習慣で早起きした後に軽く体操して体を目覚めさせた後に小一時間ほどウィークリーマンション付近をジョギングし、部屋に戻ってシャワーを浴びた後に自分で作った六枚切りトースト二枚にとハムエッグとインスタントコーヒーの朝食を済ませ、さて今日は一日何をしようか、とりあえず足りない生活用品をもう少し揃え、いつまでもここを借りているのは不経済だから腰を据えるところを探さないと、けどなぁ……とか思案しつつ、地上波テレビでどうでも良いような朝の情報番組をザッピングしていた所で、そのチャイムのした玄関方向を振り向いた。

「はい?」

 ドアののぞき穴に目を近づけつつ、答える。

「あの、おはようございます」

 聞き覚えのある声。見やすいように、ホンのわずかにのぞき穴の対物魚眼レンズから距離を取ってそこに立っているのは、間違いない、青葉五月――葵五月と呼ぶべきか、であった。

 一瞬、面倒ごとの予感を強く感じた酒井だったが、自分の気持ちは脇に置いて、強く歪んだのぞき穴の視野を可能な限り隅まで観察しつつ、

「青葉さん、ですか?どうしました?こんな朝早く」

「あのですね、これを、お返しに」

 五月は、抱えていた、紙袋に入った何かをレンズに近づける。酒井は、すぐにその正体にピンと来た。レンズから見える範囲には不審者はいないことが確認出来たので、ドアのチェーンロックとサムターンロックを外し、薄くドアが開いたところで一度停めてから、ゆっくりドアを九十度まで開く。

 そこに立っていたのは、昨日別れた時に見たのとも、一昨日の夜に店で見たのとも違う、私服の五月だった。


 まあ、とりあえずどうぞ。昨日の今日でもあるし、酒井は五月を部屋に招き入れる。立ち話も何だし、女性を立たせておくのも何だし、何より、それこそ昨日の今日で、放っておくとあまり人聞きのよい話にならない可能性もある。

「お邪魔します。すみません、朝早くに」

「いや、別にそれはいいんですが。何もこんなに急いでそれ、返しに来られなくても……髪、切ったんですか?」

 袋の中身は昨日五月が来て帰った酒井のスウェット、見なくても間違いない。だが、返すだけならこんな日曜のまだ朝方とギリギリ言えそうな時間帯に来なくても良いはず。酒井は、面倒ごとの予感が強くなるのを感じつつ、五月の見た目の変化を口にする。

「変じゃありません?自分で切ったんですけど……昨日、家に帰ってから気がついたんです。首と一緒に髪も斬られてたんだって。もう、気がついたらものすごくかっこ悪くって。頑張って自分でやってみたんですけど……」

 言いながら、五月は両手でシャギーを入れたミディアムの髪をさらりと払う。白いハイネックのニットに丈の短いデニムのジャケット、暖色のロングスカートから覗く紺のスニーカー。鎖の細い小さなブローチが胸元で揺れる。なるほど、これならブローチに目が行くし、首筋も不自然なく隠れる。そして正直、お店で見た印象よりかなり若々しく見える。いや実際、こっちの方が実年齢なりの装いなのだろう。髪を切ったこともあり、昨日までの印象より数段、可愛らしく見える。酒井が素直にそれを伝えると、あら、そうですか、やだ、お上手、とか何とか言って五月は素直に喜ぶ。女性が見た目を変えたらまず褒めろ。それが酒井が結婚生活で得た教訓であり、自分は割とそういうのを見落としがちだからこそ、気付けたら必ずそうするよう心掛けている事だった。


「それで、これを届ける為にわざわざこんな早くにここまで?」

 昨日と同じように五月にはベッドに腰掛けてもらい、酒井はとりあえずコーヒーでも飲みますか?とポットを火にかけ、受け取った、スウェットの入った紙袋――酒井は良く知らないが、なにがしかのブランド者の紙袋だ――をトランクに仕舞う。紙袋の隙間から漏れる、わずかに甘い柔軟剤の匂い。

「はい、いえ、あの、それなんですけど……」

 少しもじもじして、五月は、

「はっきり言います、お願いします!今日だけでも良いですから、しばらく一緒にいてもらえませんか!」

 思いのほか強い口調で、酒井をまっすぐ見つめて五月が言う。

「昨日、家に帰って一人になったら、急に不安になっちゃって、眠れなくて。蒲田さんには、何かあったら連絡するようにって、名刺と、スマホの番号をもらいましたけど、もしあの女がまた来たら、絶対間に合わないと思ったらもう、怖くなっちゃって。ごめんなさい、お休みの日に、ご迷惑なのはわかってるんです。けど、今、頼れるのって酒井さんか蒲田さんしか思いつかなくて」

「野暮を聞きますけど、なんで蒲田君に連絡しなかったんです?」

 湧いたポットの湯をカップに注ぎつつ、あえて酒井が聞く。

「それは、その、服返す口実でお願いした方がいいかなって。あと、なんとなく、酒井さんの方が頼れそうで……すみません」

 可哀想な蒲田君。それにしても、両手を膝の間に挟んで肩を丸めながら、上目遣いに五月が言う、こういうポーズ、こういう言い方は、これは芝居か本心か。酒井は、野暮な勘ぐりはしない事にして、カップの中に砂糖をすり切り一杯。少なくとも、昨日よりは五月の首の座りは良いようだ、少しくらいなら背中を丸めても、首が落っこちる心配はなさそうだ。五月の前のローテーブル――という名の小さなちゃぶ台――に、砂糖入り、ミルク割りのコーヒーカップを置きながら、酒井は、

「まあ、とりあえず今日は俺は構わないです。今日は何かしなきゃいけないって事はなかったので。ただ、明日以降は仕事ありますから。あと、夜は流石にダメですよ、気持ちはわかりますけど。夕べはともかく。何なら、所轄に話を通しておきますから」

「……そうですよね……はい、それでも良いです。少しだけでも、一緒にいてもらえれば」

 両手で持ったコーヒーカップで顔を隠すようにしながら、五月は答えた。


「ところで、酒井さんは今日、本当に何もすることはなかったんですか?いえ、押しかけた私が聞く事じゃないんですけど……」

 コーヒーを二すすりほどしたあとで、五月が聞く。

「いや、まあ、生活品とか足りない物の買い出しは行こうと思ってました。あと、本腰据えて住むところを探さないといけないんですが……」

 半分ほどになった自分のブラックをカップの中で回しながら、酒井が答える。

「それじゃあ、私、お手伝いしましょうか?自分で占っておいて何ですけど、東京の東の方だったら多少土地勘ありますから。」

「それは有り難い、んですが……」

 酒井は、少し言い淀む。

「何か……?もしかして、お邪魔ですか?」

「いや、そうではなくて。……そうだな。お話ししましたけど、俺、離婚を持ちかけられてるじゃないですか。離婚するとしないとで、住むとこ替わるなと思って」

「……ああ……」

 複雑な顔で、五月は当たり障りのない相槌を打つ。

「田舎暮らしだったもんで、東京の相場って本当に全然わからないから、ちょっと腰が引けてるってのもあります。でもまあ、そうですね、青葉さんが手伝ってくれるなら、良い機会だから、相場を見に行くだけでも、行ってみますか」

「行ってみましょう、ね?」


 大山駅から東武東上線で池袋へ。そこから、「折角ですから、東京を見ながら行きませんか?」

 という五月に促され、地下鉄ではなく山手線で時計回りに秋葉原へ、総武線に乗り換えて新小岩で下車。そこから都バスで西葛西へ、東京の町並みを見つつ、若干遠回りしながら移動する。

「東京って言っても、大きさはともかく、あんまり見た目は他の地方都市と変らないですね……」

 酒井が呟く。

「渋谷とか新宿とか、あっちの方は凄いですけど、隅田川から東側の、特に海側はいわゆる下町で古いんだって聞きました、私も出身は東京じゃないんですけどね」

 体ごと外を見ながら、五月が答える。

「青葉さんはどちらの出身なんですか?」

「祖母は青森だって聞いてます。ただ、ほら、私、アレだって言いましたでしょう?母の代くらいからあちこち転々としていて、私も生まれは富山だって聞いてますけど、一つ所に長く居た事ってほとんどなかったですね。あ、でも、修行の関係で京都と熊野にはちょっと長く居たか。酒井さんは?」

「俺は、和歌山の紀の川市です。生まれたのもそこらしいですが良く知らなくて」

「?」

 並んで座る都バスの最後部座席で、首が回らないから上半身ごと軽く酒井の方に向けて、五月が目で聞く。

「俺、養子なんです。今のオヤジは、本当の親の弟だって、聞いたのは高校二年の時だったかな?」

「まあ……」

「俺が生まれてすぐの事らしくて、本当の親の事なんか、全然覚えてないから、実感ないんですけどね。オヤジは、アニキ達と俺と、全く分け隔てなく育ててくれたし。ただ、なんで俺が養子に入ったのかは、教えてくれなかったな」

「ごめんなさい、無神経な事聞いちゃった」

「別に構いませんよ、戸籍にもキッチリ書いてあるし、本当に実感ないんですから。ただ、そうですね、警察官になったのは、確かに影響はあったかも」

 五月から目を離し、少し遠くを見て、酒井が続ける。

「どうも、本当の親は死んだ、というか殺されたらしいんです。オヤジは教えてくれなかったけど、お袋がぽろっとそんな事を言った事があって。まあ、何があったか、それ以上は何もわからないんですけどね」

「……」

 五月の、膝の上に置いたこぶしが震えているように見える。酒井から目を逸らした五月は、何かを言いたげに一度口を開きかけ、すぐに閉じた。


「満足していただけました?」

 昼食を摂った、西葛西の駅から少しだけ離れたイタリアンのレストランを出て、五月が聞く。

「すみません、本当に良いんですか?ごちそうになって」

「いいんです、ほんの恩返し、受け取って下さい」

 先に立って、後ろを向いて歩きながら、五月が微笑む。

「さて、腹ごしらえしたから、頑張って酒井さんのお眼鏡に適う物件探さなきゃ」

 妙に機嫌が良いな、酒井は五月を見てそう思う。こうして明るい日の下で見る彼女は、ほの暗いバーの店内で見たのとはまるで印象が違う。いや、聡明で利発なところは変らないが、肩の力が抜けている、構えていない、自然体なのだろう。それに引き換え、自分はどうしても一線引いてしまう。それは仕方ない、自分は仮にも妻帯者なのだから――離婚の瀬戸際にはあるが。前に向き直って歩く五月に、酒井は今の苦笑が見えていないことを祈った。


「西葛西で探しても良いんですけど」

 東京メトロ東西線で一駅。葛西駅で降りて、五月は言う。

「葛西の方が街としては古くて大きいですから、不動産屋も物件も良いのがあるはずです」

「そういえば、青葉さんは西葛西に……」

「はい。酒井さん、私、ずるい女なんです」

 にやりとして、上目遣いに酒井を見て、五月が続ける。

「酒井さんがうちの近くに越してきてくれると安心できるな~って。ね?」

 それが本心なら、男冥利に尽きるというものだ。いや、利用されているだけだとしても、そう言われるのは気持ちが良いものだ。

「そりゃ光栄です。本官も職務に励まないとなりませんな」

 おどけた風で答えた酒井に、五月が微笑む。


 このあたりに住んでいると言うだけあって、五月は流石に周辺の住宅事情に明るかった。そして、不動産屋の窓広告を見て回り、場所と相場を確認していると、いくつ目かの店で、試しに話聞いてみませんか?と店員に声をかけられ、なし崩しに店内に拉致される。話を聞くだけだぞ、と自分に言い聞かせた酒井であったが、うっかり間取りで迷っているとポロリと言ってしまったのを店員は聞き逃さず、烈火のごとき勢いで、あの手この手、いやあの物件この物件で責め立てられ、あげく、「こんな若くて綺麗な奥さんでうらやましい」と常套句でおだてられた五月が軽く陥落する。いや違うだろ、あらいやだお上手とか言ってないでそこは即座に否定してくれよと心の中で――声に出す勇気は無い――猛烈に突っ込む酒井の抵抗も空しく、当人そっちのけで盛り上がり始めた店員と五月を、酒井は呆然と眺めているしかなくなってしまい、気がついたら仮押さえの約束をしてしまうハメになってしまっていた。


「ご迷惑、でした?」

「いえ、あんまりにも話が急展開で、あと店の人と青葉さんのやりとりについて行けなくて……」

 店を出て、正直なところを酒井は告白する。

「東京って、怖いですね……不動産屋って、あんな怖いところだって初めて知りました」

「え、ご自分で探されたこと、無かったんですか?」

「警察学校に入るまでずっと実家でしたし、その後は独身寮、結婚してしばらくは官舎でしたが、その後駐在所に配置になりましたから」

「あら……でも、結構良い条件で仮押さえ出来たと思いますよ?」

 店員との丁々発止のやりとりの途中、酒井が口を挟めなくなったあたりで、一瞬、五月は店員の隙を見て酒井に向けてウィンクした。それを見て、酒井は理解した。五月は、おだてられていい気になっている振りをして、店員から良い条件を引き出す為の芝居をしているのだと。そのかいあって、葛西駅から徒歩15分程度で築十五年の2DK、四階建ての四階で管理費込み家賃八万円はどうやらかなりお買い得だったらしい、酒井にはピンとこないのだが。

「そうなんですか、いや、店員の態度から、かなり青葉さんが頑張ってくれたのはわかるんですが、どうも相場とかピンとこなくて」

「仕方ありませんわ。私も東京出てきて初めてお部屋借りる時、高くってびっくりしましたもの。ね、ちょっとだけお祝いしません?池袋に美味しいカクテルのお店があるんです。池袋なら酒井さんがお帰りになるのに近いですし、私も帰りやすいし。勿論、私がごちそうします」

「いや、お昼も払っていただいて、それは」

「いいんです、ごちそうさせて下さい。私、酒井さんに命を救ってもらったようなものですから。お礼がしたいんです」

「……それじゃあ、まあ……」

「じゃあ、お店に予約……あ!」

 ハンドバッグからスマホを出そうとしたのだろう五月が、小さく声を上げ、それから申し訳なさそうな、笑ってごまかす笑顔で酒井を見た。

「……携帯、置いて来ちゃった……」

 酒井は、朝のいやな予感が甦るのを感じた。

「……どこに?」

「……多分、酒井さんのお部屋……」

 ……やられた。酒井は、悪い予感が的中したのを確信した。


 結局、飛び込みでも大丈夫かも知れませんからと強弁する五月に押し負け、池袋で予定通りに軽い食事とカクテルを味わい、それでも深酒にならないように気をつけて、遅くならないうちに酒井と五月は一度酒井の部屋に戻った。戻ろうとした。

 だが、前夜寝てなかったという五月は、満腹とアルコールと東武東上線の揺れが効いたのか、池袋を出てすぐに、酒井の肩に頭を預けて――酒井としては首が心配で本当に動くに動けない――寝息を立て始めた。

「……青葉さん、あなたは本当にずるい人ですよ……」

 駅で五月を支え歩きながらタクシーを拾い、やっとの事で部屋に戻った酒井は、どうにも起きない五月をベッドの上に寝かしつけ、椅子に腰掛けたところで目に入ったローテーブルの上の五月のスマホを見ながら呟く。こうなってしまえば、今夜は五月をここに泊めざるを得ない。スマホを置き忘れた、たったそれだけのきっかけで。それが偶然か故意か、好意があるのか利用しているだけか。利用されているのならちょっと悲しいが、でもそれだけの価値があるということだから、まあ悪くはないと言えるだろうし、好意を持ってくれているなら、それは男として単純に嬉しい事だ。けどなぁ……酒井はちょっと悩む。妻子持ちの三十三歳としては、どうしても素直に向かい合えない、一歩引いてしまう。こういう時、他の人はどうするんだろな?酒井にはわからない。わかっているのは、五月は今、とにもかくにも安心して眠っているらしいという事、それと。

「……今夜も、ソファで寝るのか……」

 酒井は、ため息をついた。

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