第3章 Side-A:復帰出来なかった日常

 日曜日。販社系新人社員の朝は早い。

 一般的に販売店の開店は午前十時、それまでに店内清掃、来店予約の確認、整備予約がある場合はテクニカルスタッフへの業務依頼と部品等の納品確認、その他準備を怠りなく済ませ、従って事務系社員は一般的な定時の九時より以前に出社して置く事が必要、となると北条柾木の場合は通勤時間に若干の余裕を見込んで遅くとも六時半にはマンションを出る必要があった。それは、一般企業は休業となる本日、日曜日であっても変わりはなかった。


 北条柾木の勤める中野店の顧客は、個人三割法人七割で法人比率が高い。一般的な販社であれば土日は個人顧客向けのキャンペーンで大忙しになるが、その意味ではこの営業所は他の営業所に比べると、若干ではあるが土日の忙しさはフロントマンにとっては少しはマシであり、だが整備担当のテクニカルスタッフにとってはほとんど変わりがなく、その為、北条柾木は古い顧客への挨拶を兼ね、先輩販売員と共に車検整備の終了した車両の回送を、手の空かないテクニカルスタッフの代わりに任されることになった。

 というのも、北条柾木は一家に一台はおろか、一人に一台車が無いと生きていけないとも言われる北関東の出身で、特に実家が自営の修理販売店、それこそ家電農機具から二トントラック程度まで手広く扱っていた、地域の農家をお得意様に持つ自動車屋であり、ちょいちょい実家の手伝いで付近の農家の古い自家用車の引き取り・納車を手伝わされてた為、それらの運転に抵抗がないどころか出来るのが当たり前だと思っており、本人は知る由もなかったがそこを見込んで現配属先の中野店の店長に引き抜かれた経緯を持っていた。AT限定免許の新入社員が当たり前の昨今、コラムシフトのマニュアル車の運転経験がある新人は、この営業所の顧客の関係上、どうしても必要だったと後に店長が語る、その大事な顧客の元に、その顧客のお車を運転して、北条柾木は休日の昼下がりの東京をひた走っていた。


「日曜日にご苦労様です」

 日本人形が動いたら斯くや、そんな事を考えざるを得ない程の和服美女が目の前で微笑んでいる。北条柾木は、車をガレージに入れた後に通された玄関脇の応接間で、先輩販売員の下山と並んで長椅子に腰を下ろし、勧められる日本茶をすすりながら、思わず目の前の一人掛けソファに腰掛ける、顧客の娘だという美女、井ノ頭菊子に見とれていた。

「とんでもありません、こちらこそお休みのところ納車でお騒がせしまして申し訳ないです」

 下山が答える。

 ここは中央区八丁堀、この界隈は証券街として有名な兜町の近隣でありながら、ちょっと裏通りに入れば古めかしいお屋敷が残っていたりする不思議な街であり、そんなお屋敷の一つ、こんなところに?と思うようなその屋敷のガレージに顧客の車、いわゆる「縦目のグロリア」と呼ばれる昭和四十二年式の三代目グロリアを納車に持ってきた北条柾木と下山は、こうして応接間でねぎらいを受けていた。

「井ノ頭さん、こっちは弊社の新人の北条君です。北条君、ご挨拶」

「あ、はい、新入社員の北条です、今後とも宜しくお願いいたします」

 しないように心掛けたつもりでもついキョロキョロ部屋の中を見回してしまっていた北条柾木は、言われてバネ仕掛けのように立ち上がり、形式通りに挨拶して名刺を差し出す。受け取って、井ノ頭菊子は、

「宜しくお願いします。すみません、古い家でお見苦しくて」

 口に手を当てて、ころころと微笑む。

「い、いえ、大変ご立派で……」

 確かに古いが掃除も手入れも行き届き、調度品も良くわからないが一流品に違いない。古いだけなら北条柾木の実家も古いが、農村の古民家と比べたら申し訳が無い。

「ここに印鑑を押せばよろしいのですか?」

「あ、はい、ここと、ここにお願いします」

 着物の袖を抑えて印鑑を押そうとする菊子を、北条柾木がサポートする。それを見ながら、下山が事務的事項を伝える。

「お車は、消耗品は交換して、ブレーキ関係のシールも変えておきました。あまり走っていらっしゃらないようですが」

「すみません、父は長患いで臥せっておりまして。父以外に運転する者が居ないものですから」

「そうでしたか……」

 応接間のドアをノックする音。小柄な若者がドアの隙間から顔を出す。

「菊子さん、荷物が届きました、運んでおきましょうか?」

「ああ、緒方さん、よろしくお願いします」

「はい。……あれ?」

 緒方と呼ばれた、セミロングの髪を無造作に後ろで束ね、瓜実顔にフレームレスの細めの眼鏡をかけた、スラックスにニットの上に白衣を羽織った若者は、北条柾木に目を留めると、なにやらしばらく考え込んでしまった。その様子を気に留めた菊子が、小首を傾げて尋ねる。

「お客さんがどうかしましたか?」

「いえ、ああ、井ノ頭先生の車を持ってきていただいたのですね。下山さんでしたか、ご苦労様です。そちらは?」

「北条柾木と言います、宜しくお願いします」

「緒方いおりです、こちらこそ」

 ビジネスマナーの教本そのままに気をつけの姿勢から会釈する北条柾木に合わせて、扉から二歩ほど入って、緒方は会釈を返す。

 頭を上げた北条柾木は、初仕事の緊張で、興味深げに自分を見る緒方の視線に気付かなかった。


「綺麗な人だったろ?」

 都営バス八丁堀二丁目バス停でバスを待ちつつ、下山が北条柾木に話しかける。

「いや、居るんスねぇ、あんな人」

「いるんですよ、これが」

 勿論、井ノ頭菊子のことだ。面倒見のよい先輩の下山も上機嫌だ。美人で人当たりも良く、声も艶めいて、非の打ち所が無い。

「車の所有者は井ノ頭幸庵さんでしたっけ、娘さんですよね、いくつなんでしょう?」

「さあ、聞いたことないけど、学生ではないみたいだし、二十代前半?」

「お父さんが病気だって」

「そこそこ高齢だったはずだよ?」

「したら、歳、結構離れてますよね……おっと」

 北条柾木のブリーフケースの中で、スマホが振動している。失礼、と断わってから北条柾木はスマホを取り出す。

「……メール、誰からだ?i-ogata?あ、さっきの緒方さんか。忘れ物?……あ!」

「どしたの?」

「財布、井ノ頭さんのところに忘れてるって、緒方さんがメールで」

「おい……いいよ、取り行っといで」

 バスが来る。下山は、財布から交通系ICカードを取り出しながら、

「ついでに、今日はそのまま帰って良いから。タイムカードは俺が押しとくよ」

「いいんスか?すみません、ありがとうございます、恩に着ます、失礼します!」


「ああ、北条さん、お待ちしてました」

 呼び鈴を鳴らした北条柾木を緒方が出迎えた。ささどうぞ、と、先ほどの応接間に通される。なんの疑問も持たず、応接間に入った北条柾木は、重厚なテーブルの上に置かれた自分の財布を見て安堵する。

「あ!いやすみません、わざわざご連絡いただきまして」

「いいんですよ。むしろ有り難いくらいで」

 緒方が屈託のない、中性的な笑顔を見せる。

「はい?」

「実は、ちょっと北条さんにお話というか、お願いしたいことがありまして」

「……なんでしょう?」

 北条柾木は反射的に身構える。それはそうだ、立て続けに色々な事があったばかりだ。

「単刀直入に言います。治験に、協力してもらえませんか?」

「……はい?」


「ち、治験?」

 想定外の切り口の依頼に、北条柾木は思わず聞き返した。

「あ、手術したり投薬したりじゃないです。詳しく調べないと断言出来ないですが、北条さん、あなた、特殊な体質というか、波動を感じるので」

「は、波動?ですか?」

 北条柾木の背筋を冷や汗が垂れる。またかよカンベンしてくれよ、喉元まで出かかった台詞を飲み込めたのは奇蹟に近い。

「ボクの見立てに間違い無ければ、北条さん、ごく最近に何かいわゆる超常的な経験をしてませんか?」

「……えーっと……」

「隠さなくて大丈夫です。ボク、そういうの見えますから、って言うとおかしい人みたいに思われちゃいますか?でも、そうなんです。それに、このお屋敷入る時の北条さんを見て確信しました。北条さん、ごく最近、封印とか結界とか、そういう類いのものに触ってませんか?」

 言われて、北条柾木は考え込んだ。青葉五月が使ってた、おなじないみたいなのが書いてあった紙、アレのことか?

「心当り、あるみたいですね?」

 考え込んだ北条柾木を見て、うれしそうに緒方が言う。しまった。北条柾木は自分のうかつを呪う。

「お話だけでも、聞いてもらえませんか?」


「ボクは、人形を作ってます」

 応接間で、紅茶のティーバッグを置いたティーカップに電気ポットのお湯を注ぎながら、緒方が切り出す。

「井ノ頭先生は、天才的な人形作家なんです。先生がお元気な頃は色々教えていただきました」

「えっと、人形、ですか?」

 人形と治験が繋がらない北条柾木が聞き返す。

「人形です。オートマータ、って言った方が良いかな?」

「オート?」

「オートマータ、自動人形です。最近の人には、ロボットって言った方がわかりやすいかな?ちょっと違いますけどね」

「?」

 北条柾木はますます混乱した。

「それって、なんだろう、週間ロボットを作ろう、みたいな、あんなヤツですか?」

「興味あります?見てみます?見たいですよね?」

 満面の笑みで迫ってくる緒方に、北条柾木は何かしら空恐ろしい物を感じた。


「これです」

 断り切れず、請われるままに緒方に着いて地下室に降り、緒方が閂を外した重そうな扉の奥に入り、ぎょっとして立ち止まった。

 そこにあったのは、不思議な質感の表面を持った等身大のマネキン、そうとしか言いようのないものだった。それが、目の前のベッドを立てたようなものに寄りかかるように一体、奥の作業台に数体、さらに奥の棚には、組み立て途中らしい部品が無造作に、無数に詰め込まれている。

 北条柾木は、流石に不気味さを感じずにはいられなかった。

「これが、最新作。自信作です。北条さんにお願いしたいのは、これに乗り移って欲しいんです」

 まるでこっちが人形のように、ぎぎぎぎぎっとぎこちなく北条柾木は緒方を振り返り、聞く。

「これに、乗り移る?」

「はい。まだ完全では無いですが、人が出来る事はこれにもほとんど出来ます。完成すれば、これは物理的には人以上になります。人の限界を超えた体に、人の意識を乗り移らせれば」

 屈託の無い晴れやかな笑顔で緒方が言う。

「人は、死ななくなります」

「……はい?」

「勿論、故障したり破損したりはあるでしょうけど、それは修理可能です。肉体から解放されれば、病気からも老いからも解放されます。今の医学で病気も老化もかなり対応出来るようになってきてますが、脳の老化そのものはどうにもなりません。ですが、それらは人間が生物である故の限界です。であれば、意識人格その他をそのままオートマータに移植すれば……」

「いやいやいやいや」

 驚愕や恐怖は一旦置いて、北条柾木は突っ込まずには居られなかった。

「肉体捨てたら人間じゃなくなっちゃいませんか?つかそもそも肉体ってそんな簡単に捨てられるんですか?」

「そこなんですよね。理論は完成しているんですが、今のところ、もう一つ上手くいかないんです。賛同してくれる被験者で何度かやってみたんですが、みんな、上手くキレイに全コピー出来なかったんです。みんな、何か抵抗があってキレイに乗り移れないみたいなんですよね」

 北条柾木は、頭がクラクラするのを感じた。

「そこで、北条さん、あなたです。さっきお会いした時ピンと来たんです。あなた、結界に触れても平気だったんでしょう?このお屋敷の防壁にも気付いていなかったみたいですし、多分、北条さんはそういうのに猛烈に抵抗が低いんです。だったら、北条さんなら上手くいくかも知れない」

 目をキラキラさせて迫ってくる緒方を見て、停止しかけた脳で、北条柾木は考える。ああ、これは多分、何言っても離してくれないタイプだ。居たよ、学校にも。自分の好きなことばっか早口で話して、こっちの言うことまるで聞かないヤツ。もういい、言うこと聞いてさっさと解放してもらった方が良い。でも。

「あの、これ、引き受けたとしてですね」

「引き受けてもらえますか!じゃあ早速……」

「じゃなくて!待って!話聞いて!あのですね!俺、ちゃんと元に戻れるんですよね!」

「元……ああ、戻せます。戻りたいんですか?」

「当たり前です!」

「そうですか……まあ、確かにこれはまだ完成してませんから、ずっと使うってのもちょっとアレですけど。いや、そう簡単に壊れたりはしませんよ?ただちょっと、わかりやすく言うとエネルギーの補給が。食事からだと十分なエネルギーが転換できなくて。外部から補給しないとダメなんです。満タンで普通に使うと大体十日くらい持ちますから、週イチでボクのところ来てくれれば補給しますけど、ダメですか?」

「いやダメに決まってるでしょ!何スかそのエネルギー補給て!ロボットかなんかスか!」

「ロボット、は本来は労働者の意味ですからちょっと違いますね、もっと創造的な……」

「そうじゃなくて!オレは生身の体がいいんです!」

 ぜーぜーはーはー。思わず口調がキツくなってしまった北条柾木だったが、緒方はそこは全く意に介した様子は無く、

「そうですか……まあいいです、無理にお願いしてるのはボクの方ですから。じゃあ、すぐ戻しますから、お願い出来ます?」

「……もう、さっさとやっちゃって下さい……」


 北条柾木の目が覚めた時、最初に見えたのは、等身大の日本人形が心配ではち切れそうな目でこっちを見つめている、そんな光景だった。

「ああ、気がつかれました?ええと、北条さん、ですよね?私がわかりますか?」

 こんな美人が知り合いに居たっけ……えっと……あ。

「井ノ頭さん……」

「はい、井ノ頭菊子です。大丈夫ですか?」

「えっと……」

 そうするとここは井ノ頭邸、あれ、俺、帰ったんじゃ、いやそうか、財布取りに戻って、それから。

「緒方さん?緒方さんは、あれ、居ないんですか?」

「……やっぱり、あの人の仕業なのですね?すみません、緒方は父の弟子なのですが、何か思いつくと後先考えずに行動する癖がありまして……」

 そうか、さては緒方さんは不在か。北条柾木はよっこらしょ、と立ち上がろうとする。起き上がろうとするその過程で目に入ったモノ、自分の二の腕や下肢下腿を見て、動きが止まる。

「え……何これ、え?……鏡、鏡無いスか?」

「鏡……ですか?コンパクトでよろしければ……」

 菊子のポーチから出てきた可愛らしい化粧用のコンパクトミラーを見て、北条柾木は絶句した。

 そこには、不思議な質感の表面を持つ、目鼻の無いマネキンの顔が映っていた。

「……マジ?」


「緒方の研究については御存知ですか?」

 ここのところ、連日おかしな事が起きているせいか、自分でも思ったより取り乱す事無く、北条柾木は応接間で菊子と話をしていた。

「人形に人を乗り移らせるとか何とか聞きましたが……」

 菊子は、眉根を寄せて頷く。

「あの人は、世の為人の為に、怪我や病気を無くす為に人形を役立てる研究をしています。なのですが、何しろあの性格なので、今やっている実験の途中で次の実験を始める事がよくありまして。止めろと言ってもなかなか聞かないものですから、北条さん、無理強いはされませんでしたか?」

「まあ、無理筋のお願いはされましたが、一応は納得ずくで。実際鏡に映った顔がこれだとちょっと引きましたけど。で、実験としては成功なんですかね?だったらさっさと元に戻してもらいたいんですけど」

「それが、緒方が不在で。本当にどこに行ってしまったんでしょう……お客様を置いて、鍵もかけずに出かけるなんて」

 北条柾木が菊子に起こされたのはさっきの緒方の実験室だかなんだかの部屋の作業台の上、まだ肉体だった自分がそこに横たわった後、緒方が隣に「最新作」と称するオートマータを横たえたのは覚えている。「服は脱がなくていいですけど、磁場の影響があるかもなんで、時計とか金物は外して下さい」と言われて腕時計とスマホその他を預けた覚えもあり、それらは作業台の脇のカートに載せてあった。ブリーフケースはこの応接間に。だが、肝心の、元の肉体が、緒方同様に消えてしまっていた。考えないようにしてはいるのだが、北条柾木は、一秒毎に、ある破滅的な不安が強まるのを感じずにはいられなかった。

「井ノ頭さん、もし、もしですよ?このまま緒方さんが帰ってこなくて、俺の体も見つからなかったら……」

「まあ。それはお困りになるでしょう」

「メチャクチャ困ります。とりあえず、この顔じゃ明日会社行けません」

「お顔とかは何とかできると思いますけど」

「出来るんですか!」

「そのオートマータは、人の意識を移したあとで、外見もその人と寸分違わず同じに変形させる機能があると聞いてます。将来的には不要になるかもしれないけど、当面はその機能が無いと社会的に認めてもらえないだろうと緒方が言っていました。なので、やり方さえわかれば私にも出来ます」

「良かった……」

「エネルギーの話も、私でも何とか出来ます。その最新型の試作品は、必要ないから爪や髪が伸びる機能、あと汗をかく機能が無いくらいでそれ以外はすべての面で標準的な人の機能より上だって自慢してましたが、食事からマナ、あ、エネルギーの事です、エネルギーを転換する機能がまだ作れてないのがくやしいといつも言ってました。週に一度の充電で持つくらいには改善したけど、と」

 充電、ね。でも、そうか、これ、そんなに性能いいんだ。北条柾木は一周回って冷静になった頭でそう思った。そもそも、今現在目鼻も口も無いのに、俺、どうやって見たり聞いたり話したりしてるんだろう?

 そこに気がついた時、ふと、北条柾木の頭の中で線が一本繋がった。こんなもの、現在の科学力、技術力で作れる訳がない。だとすると……

「井ノ頭さん、つかぬ事を聞きます。このオートマータとやらですが、これって、錬金術ってヤツだったりします?」

 菊子がちょっと驚いた様子で、

「まあ、錬金術を御存知なんですか?」

 ああ、やっぱり……すみません狼女の人、俺、どうにも逃げられないみたいです。

「知ってるって程じゃないですけど、ちょっと心当りがありまして」

「なら、隠すことはありませんね。そうです、緒方は錬金術師で、三十年ほど前に父に弟子入りしたいといって押しかけてきました」

「三十年前ですか。それにしては緒方さん、若く見えますね」

「錬金術師とはそういうものらしいです」

「まいったなぁ……とりあえずその、外見を変えるのって、すぐ出来るんですか?」

「方法がわかれば可能です。私は緒方の研究は基本的にノータッチなのですが、調べれば分かると思います」

「お願い出来ませんか?」

「ご希望でしたら調べてみます、緒方の研究室に行ってみます」


 再び訪れた地下の緒方の研究室の、あちこちに散財する様々なものは、北条柾木にとっては改めて見てもほぼ全く理解不能なものだらけだった。北条柾木は自分で何か探す努力は最初から放棄したが、同時に、何かがさっきと違うのを感じた。

 井ノ頭菊子は、その雑多な様々なものの中で、コンピュータらしきものをものすごいスピードで操作し、メモ書きらしいものをものすごいスピードでめくり、そしてしばらく考え込んだ後、言った。

「……理解しました。手順はわかりました。必要なものはここに揃ってます」

「本当ですか!」

「プログラムを実施するにあたって、北条さんの体格や外見のデータ入力が必要なのですが、よほど詳細な数値データ以外は私の記憶でまかなえます」

「じゃあ早速お願い出来ますか?」

「はい。では、そこの作業台に横になって下さい。あ、うつ伏せでお願いします。首の後ろにケーブルを繋ぎますので」

「なんかまるでSF映画みたいですね」

「?、映画、ですか?」

 言いながら、菊子はテキパキと準備を進める。身長体重、その他参考となる数値データを北条柾木から聞き出してコンピュータらしきものに打ち込んだ後、北条柾木――が中に入ったオートマータという名の動くマネキン――の首の後ろにテープ状の端子らしきものを貼り付け、それをコンピュータらしきものに接続する。うつ伏せで、横目で北条柾木が見ていると、驚いたことに同じものを菊子は自分の首の後ろにも貼り付け、それを同様にコンピュータらしきものに接続する。

「それでは、処理を実行します。北条さん、いいですか?」

「はい、お願いします」

 タタン。菊子の指がキーボードを叩く。

 北条柾木は、全身が、顔の表面も含めて、電気マッサージ器にかかったように微振動を始めたのを感じ、と同時に意識が途切れた。


「北条さん、起きてみて下さい」

 菊子の声で、北条柾木は意識を取り戻す。

「終わったんですか?」

 北条柾木は、作業台の上で体を起こす。目の前に手を出してみる。その手も、手の向こうに見える足も、先ほどの妙な質感のつるりとしたそれではなく、人肌のそれであった。あったが、なんだろう?北条柾木は何か足りない違和感を感じた。

「お顔や髪型などの外見は、私の記憶ベースで調整してみました。服の下の部分等はあいにく資料がないので、一般的な男性の人体形状を北条さんの体格に調整してみました。指紋は先ほどお茶を飲まれた際のカップから、歯形は会話している時の口の映像から再現しています。光彩と網膜、それから歯の治療履歴は流石にデータが無いので再現出来ておりませんが、網膜と歯科治療履歴からの個人認証以外は問題は無いと思います。如何でしょうか?」

「いかがって、えと、割とよさげです……って、うわ、え?」

「?」

 自分が全裸であることに気付き、同時に違和感の正体に気付いた北条柾木を、どうかしましたか?菊子はそんな無邪気な顔で見る。

「そうか、いや、すみません、何か着るものってないですかね?」

「着るものですか?」

「マッパだと落ち着かなくて、はは、さっきまでは気にならなかったんですけどね」

「……あ、そうでしたね。ちょっとお待ち下さい、さっき、このあたりに白衣が……ありました」

 隅の椅子にかけてあった白衣を菊子が持ってくるまでの間に、改めて北条柾木は自分の体を見直す。一辺の贅肉もなく、割れた腹筋、カットの見事な大胸筋、ムダ毛のない手足。自分の体はこんなツルツルの細マッチョではなかったはず。これって……

「どうぞ」

「うわ!あ、ありがとうございます」

 気付かないうちに真正面に立って白衣を渡そうとしていた菊子から、ひったくるような勢いで白衣を受け取って、かろうじて北条柾木は礼を言い、ちょっと失礼、と言って後ろを向いて白衣に袖を通す。真正面から、モロに見られた。顔色一つ変えない菊子は、見慣れているのか?それとも、目に入っていないのか?

「井ノ頭さん、鏡、姿見ってありませんかね?」

「それなら、こちらに大きな鏡があります」

 言われて、菊子が示す方へ、スリッパをつっかけた北条柾木は進む。何に使う物か、二メートル四方ほどもありそうな巨大な鏡の前で白衣の前を開けて、改めて自分?の体を見てみる。

「いかがですか?」

「うわ!」

 ひょいとのぞき込む菊子に驚き、北条柾木は声を上げる。このお嬢さんは男の裸に抵抗がないのか、逆に興味があるのか?

「あの、すみません、俺、こんな体でしたっけ?」

 きょとんとして、菊子は首を傾げた。

「男性の体とは、そういう形状ではないのですか?北条さんのお体は見てませんので、彫刻を参考にしたのですが」

 それだ。そうか、それでスネ毛とかないのか。北条柾木は違和感の正体と、この体のモデルに気付いた。これはアレだ、美術の教科書に載ってた、マッパで少し横向いてる有名なヤツ。いろんなところがアレにそっくりだ。いろんなところが。

「……まあ、カッコイイからいいか」

「すみません。私、かっこいいとか良く理解できませんので。お気に召さなければ違う形状に調整しなおしますが、どうしますか?」

 北条柾木は、さっきからちょいちょい、井ノ頭菊子の言動に軽い違和感を感じていた。納車で来た時には全く感じなかったが、今のこのような会話の端々に、何か違和感がある。ひょっとして、この人、天然?そういうの、居たなあ。北条柾木は学生時代の知人を思い出す。程度の差はあるが、数人、そういうのが居た。が、井ノ頭菊子のそれは、過去の知人のそれとはちょっと違う気もする。

「ところで、北条さん、こちらをご覧下さい」

 菊子がパソコンのようなもの――三ボタントラックパッドの繋がったそれは、どちらかというと時代遅れのCAD用ワークステーションに近い――のモニタを示す。

「この部屋の防犯カメラの記録です」

 言いながら、菊子は右人差し指で指差した画面上のウィンドウを拡大する、拡大操作したのだと北条柾木は思った。

「少し巻き戻します。いいですか?」

 キュルキュルと、音こそしないが、今現在のライブ映像だった四分割の白黒画面がものすごい勢いで巻き戻され、北条柾木と緒方が扉を開けて研究室に入ってくるところが映し出される。

「少し早送りします、この方は北条さんで間違いありませんね?」

「はい、なんかこんな感じで話して、準備して、そこに寝転がったのは覚えてます」

 そして、北条柾木の記憶では、緒方に言われるままに目を閉じ、再び目を開けた時は菊子が目の前に居た。

「それで、ここです。誰かが入ってきます」

 菊子は、北条柾木が作業台に寝てからの画面を一気に飛ばし、正確に問題の場面で通常速度に戻す。

 そこには、見覚えのない、黒ずくめの人物が、急に研究室に入ってきて、緒方が制止するのを強引に払いのけ、北条柾木の体の頭部に何か短冊状の物を貼り付けてる様子が映っている。直後、北条柾木の体は跳ね起きると、黒ずくめの人物に続いて部屋を出て行く。慌てた様子で緒方がそれを追う。

 さらにしばらく見ていると、無人になった――北条柾木の意識が乗り移っているらしいオートマータはまだ寝ているが――研究室に、北条柾木の体が帰ってきは、次から次へとその他のオートマータを運び出す。途中から完成品のオートマータ数体が動き出し、みんなでそこら中の部品まで担いで持ち出して行く。北条柾木は先ほどの違和感の正体を知った。あれほどあった未完成品や部品が、殆ど無くなっていたのだ。

「……なんだこりゃ、俺、何してんだ?」

「こちら、お分かりになりますか?キルリアン・トモグラフィーの値が、エータ、あ、この試作機の事です、エータはほぼ実験開始前の北条さんのパターンと一致していますが、この、モニタ上で今動いてる北条さんの体は全く一致しません。一致しない事自体は問題は本来は問題はありません、「魂」と呼ばれる物が北条さんの体からオートマータのボディ側に移植されている状態ですので、肉体側の機能は停止し、キルリアン反応も通常は消失します」

 パソコンのモニタに、見たこともない模様や記号、意味のわからない数値の羅列のウィンドウが開いている。菊子が当たり前のように言った内容が、要するに肉体が死んだという事を意味するのではないかと柾木が気付くまでに三秒ほどを要した。

「そ……!」

 それってどういう事ですか、俺死んじゃったって事ですか、とか何とか言おうとして菊子に目を向けた北条柾木は、自分が見たものにぞっとして思わず身を引いて硬直した。

「緒方さんは手順通りに停止処理を行った事が記録されてます。従って「魂」を再移植して、再アクティベート手順を踏めば肉体は半永久的にリブート可能ですので問題はありません。問題なのは、停止しているはずの肉体から、突然全く別の種類のキルリアン反応が検出されている事です」

 井ノ頭菊子は、何処も見ずに、口だけ動かしていた。確かに声はその口から出ている。そう聞こえる。だが、その目の焦点は無限遠に結ばれ、瞳孔は開き、そして、モニタ上は様々なウィンドウが開いたり閉じたり、カーソルが行き来しているが、菊子の手は何一つ操作していなかった。ただ、声にはきちんと抑揚があるのが逆に違和感を強めていた。

 突如、菊子が無表情のまま北条柾木に向き直り、一瞬で今までの生気に満ちた表情に戻る。それを見てしまった北条柾木は、安堵するどころか肝がカチコチに冷え上がるのを感じた。

「あら、失礼しました。お客様とお話してるのですから、ちゃんとお顔を合わせてお話しないと失礼でした。有線接続したので緒方さん用の対応モードに切り替わっておりました、申し訳ありません」

「い、いえ……井ノ頭さん、お聞きしますが、あなたはもしかして」

「はい。私は、オートマータです」

 菊子の微笑みは、完璧だった。


 今更隠しても意味は無いですから、と前置きして、菊子は話し始めた。

「私は人形作家である父、井ノ頭幸庵の作品です。父からそう聞いてます。父がいつから人形を作っていたのか、私がいつ作られたのか、私は教えられていません。それらについては私の中に暗号化ファイルとして書き込んであると聞いていますが、私は暗号キーを知らないのでデコード出来ません。父によれば、それらのファイルは必要な時に自己解凍するので私は気にしなくて良い、との事でした。緒方は、その父に押しかけ弟子としていらした方で、オートマータを使って人を怪我や病気や老化から解放したいという強い意志を持ってらっしゃいます。そのような人ですので、所謂三原則に従えば私が奉仕する対象なのですが、私は便宜上、父の娘という立場なので、普段はその立場で振る舞う約束になっております。先ほども言いましたが緒方が父に弟子入りしたのは三十年ほど前で、元々オートマータ作りに秀でていたので、父の技術を吸収してそれは素晴らしいオートマータを作るようになりました。北条さんのその体は、確かに現時点で彼の最高傑作で間違いありません。ただ、私が知る範囲のオートマータには、現代科学によるロボット等の他の機械もそうなのですが、動力に未だ解決出来ない重大な問題があります」

「エネルギー補給がどうとか言ってましたが」

「そうです。生物であれば食事によってエネルギーを補給、転換できますが、機械であるオートマータはその動力源を食事から得る事がほとんど出来ません。食事そのものは出来ます。消化吸収に相当する工程も可能です。ですが、そこから必要なエネルギー、マナと呼ばれる物ですが、これをほとんど取り出せません。いえ、そもそもマナ自体がまだ未解析の部分が非常に多く、世界中の魔法使い、錬金術師が研究中だそうです。マナという名称も俗称で、人によって、宗派によって、所属機関によって呼び名が違うのですが、それらがすべて同じものを示しているのかどうかも良くわかっていないと聞きます。それらが明確になった時、恐らくマナを効率よく人工合成する方法も確立するだろう、というのが父と緒方の一致した意見でした」

「緒方さんは、ここに来れば補給出来るって」

「食事以外の方法であれば、ある程度は貯蓄出来ます。精霊から受け取るとか、草木から抽出するとか。それから、私自身は食事から合成抽出出来ますから、分けて差し上げることは可能です」

「?、まだ食事からは出来ないのでは?」

「緒方は、私の事をオーパーツだと言っていました。緒方が父に弟子入りした理由がそれです。ただ、父は、私の構造を分析してはいけないと緒方に厳命しましたし、私にもみだりに解析されてはならないと言いつけました。なので、構造以外、外部から測定出来る範囲での計測にはお付き合いしましたが、やはりそれだけではなかなか研究が進まないとよくこぼしています。それ以外の機能や制御の面では、緒方の作るオートマータはほぼ完成の域に達しています。北条さんのその体からは省かれてますが、髪や爪が伸びたり、汗をかいたり、怪我をしたら出血したり、人間ドック程度なら人と区別つかない程度までは余裕でいけると緒方が以前言ってました」

「凄いじゃないですか」

「そこまで出来ているのに、動力の問題が解決出来ないのが悔しいといつも言ってました」

「いや井ノ頭さんが」

「私には、私の機能、構造の事はよくわかりません。何故私がマナを転換合成出来るのか、恐らくそのあたりは私の中の暗号化ファイルに記載されているのだろう、と緒方が言っていました。私もその確率は非常に高いと推定ます」

「……お話は良くわかりました。で、お聞きしたいのですが」

「はい、何でしょう?」

「緒方さんと私の体はどこ行ったんでしょう?」

「はい、それですが、わかりません」

 井ノ頭菊子は、にべもなく即答する。

 握りしめていた藁しべほどの希望を豪快にへし折られた北条柾木は、愕然とした表情で菊子を見る。

「あくまで推測ですが、この、歩き出してからの北条さんの体から検知されるキルリアン・トモグラフィーのパターンは、一般に浮遊霊その他に見られるもののパターンに高確率で適合します。この屋敷は、ある程度の防壁、いわゆる霊的結界は張ってありますから、「招かれざるもの」が侵入してくる可能性は殆ど無いはずです。しかも、玄関先ならともかく、研究室まで侵入してくるとなると相応の霊力、あるいは妖力と言い換えてもいいですが、それを持っている術者が関係しているだろうと推測出来ます。つまり」

 北条柾木の様子に気付く事もなく、菊子が続ける。

「仮説として、相応に強力な霊能力者あるいは術者が、北条さんの体を何らかの符を使った術で乗っ取って連れ去った、と考えられます。恐らく、北条さんの意識が抜けて霊的に抵抗力が弱くなった肉体を狙って……」

 北条柾木は、そこから先を聞いていなかった。理解出来たのは、誰かに体を奪われた、それだけだった。


「大丈夫ですか?泊まっていかれたほうがよろしいのでは?」

「いえ、明日の会社の用意もありますので……」

 流石にショックでふらふらになりながらも、放心状態から回復した北条柾木は、既にとっぷりと日の暮れた休日の街に歩き出した。

 服は、仮にも関係者がご迷惑をおかけしたので、という事で菊子が用意してくれた。若干サイズが大きいのは、恐らく彼女の父親、井ノ頭幸庵のものを見繕ったのだろう。体についても、父の伝手があるはずだが教わっていない、しかし自分にも多少の伝手はあるから手がかりが掴め次第連絡する、可能なら取り戻せるよう手配してみる、と請け合ってはくれた。菊子は何度も何度も頭を下げて詫びるが、彼女が悪いわけではない事も重々承知している。ましてや、オートマータに謝らせるというのもどうよ、と言う気持ちもある。だが……

――あっちから寄って来て怖い思いするって、こういう事か……――

 北条柾木は、狼女の言葉を反芻していた。

 じっと手を見る。

 幸か不幸か、少なくとも自分で見る限り、この体と生身の体の見分けはつかない。

 俯いていた北条柾木は、ふと、涙がこぼれそうな気がして、慌てて上を向く。

――俺、どうなっちゃうんだろう――

 北条柾木は、都会の明るい夜空に浮かぶわずかな星を、しばらく仰ぎ見ていた。

 涙は、流れなかった。この体には、涙を流す機能は用意されていなかった。

――東京って、怖い――

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