第2章 Side-B:事情聴取

「おはようございます。本当に早いんですね」

 午前六時五分前。酒井が習慣でパッと目を開けて、まだ鳴っていない目覚ましのアラームを切るのを見て、ベッドに腰掛けた青葉五月が声をかけた。

「あ、ああ、そうか。おはようございます」

 ほんの一瞬、状況を掴み損ねた酒井だったが、すぐに夕べの記憶を取り戻し、五月に挨拶する。挨拶して、五月の頭が首の上に載っている事に気付いた。

「すみません、酒井さんの荷物からガムテープを少しもらいました」

 ちょっと恥ずかしげに微笑んで五月が言う。なるほど、よく見ると首がガムテープで「貼り付けて」ある。

「朝起きたら、体は起きたのに頭が置きっぱなしで。これしか思いつかなかったんです」

 でも、首を回せないんです。はにかんで五月が言う。首の上に頭が乗っかっているだけで、繋がっている訳ではないから、そういう事なのだろう。

「……?っと」

 自分を見つめる酒井の視線にちょっと照れたのか、五月が習慣的に首を傾げようとした、らしい。ちょっとだけ、首から上が傾いて、バランスが崩れたのか、おっとっと、と、すぐに手を添えて元に戻す。

「いや、やっぱり、頭は首の上にある方が綺麗だなと」

「あら、お上手」

 実は酒井が目覚めるまでに最低限の薄化粧はしていたので、ちょっとまんざらでも無さそうな五月だったが、酒井はそんなこと、化粧にも五月の表情変化にも気付かず、

「さて!」

 勢いをつけて、ソファから飛び起きる。体のあちこちが筋肉痛、それと擦り傷で痛むが、なに、微々たるものだ。

「顔洗って、朝飯にします……ずっと起きてたんですか?」

「いえ、目が覚めたのはそんなに前では……お恥ずかしい話ですけど、明け方に寝返りしたらしいんですけど、どうもその拍子に頭をベッドから落としてしまいまして、ゴツンって……その後しばらく横になっていたんですが、痛くて目が醒めてしまったので起きてたんです……よろしかったら、何か作りましょうか?」


 目の下に軽くクマを作った蒲田が休日の分調班の事務室に現れたのは、出勤の定刻を若干回った頃だった。

「昨夜の一件ですが、結果から言うと、事件化はされませんです、はい」

 若干血走った目で、エナジードリンクをすすりつつ蒲田は説明を始めた。

「ホテル側に確認しました、はい。確かに部屋の窓は壊され、部屋もそこそこ荒らされてるのですが、遺体はおろか被害者も加害者もなし、支払いは前払いのカード払いで延長なし、冷蔵庫の備品はその都度払いですからこれも問題無し、当たり前というかですが部屋の利用者からのクレームも無し、なので、ホテルとしては、タチの悪い利用者が部屋を荒らして行っただけ、警察の世話になるほどの事ではないという事だそうです、はい」

 その手のホテルで、利用後の部屋がとんでもない事になっているというのは、ままある事だ。その程度でいちいち警察の世話になっては、ホテルの対面的にも、恐らくはホテルのバックにいるだろう反社の団体的にも、面白い話ではないだろう。その辺の知識はこの職業の常識として持っている酒井は、それでも渋面で頷きつつ、

「蒲田君が張っていたのに、利用者を抑えられなかった?」

「ああ、それは面目ないです、はい。ホテルの記録によると、丁度僕が酒井さんのところに飛び出したタイミングでチェックアウトしたらしいです、はい」

「ああ、それはどうにもならないな……俺のせいだな、済まなかった」

「いえいえ、あれは不可抗力だと思います、はい。なので、ホテルにあった遺留品は客の遺失物という事で、こちらで預かってきました」

 こういう所が抜け目がない。酒井は、蒲田は実は刑事としてものすごく優秀なんではないかと思い始めていた。

 蒲田は大きな茶封筒を酒井の机の上に置く。

「ほとんどは五月さんの持ち物だと思います、後で五月さんに返してあげて下さい、はい。で、これなんですが」

 言いながら、蒲田は別の小さな茶封筒から、中身を酒井の机の上に出す。出てきたのは小さいチャック付きビニール袋が二つ、その中には、やや煤けた真鍮の、くびれた短いパイプ状のものと、銀で出来た小さな塊。

「薬莢と、弾頭?」

「です、はい。しかもこれ、八ミリ口径なんです、はい」

 田舎の駐在所勤めだったとはいえ、警察官として、銃に関する一応の知識は、酒井にもある。口径八ミリで、くびれた薬莢――ボトルネック形式の薬莢を持つ弾薬は、警察では使っていないし、ヤクザが使った記録もない、いや、戦後のごく短い期間のみ、警察に旧軍の二十六年式、十四年式、九四式の各拳銃が配備されていた時期がある。このうち、十四年式と九四式が口径八ミリボトルネック弾、戦後の混乱期に警察が配備していた位だから、物持ちのいいヤクザが後生大事に隠し持っていたとしてもおかしくはない。しかし……

「八ミリのボトルネックか……」

「ちなみに天井に食い込んでました、はい。どこ向けて撃ったんだか、はい」

「よく見つけたね」

「正直、踏んづけてから薬莢に気付いたんです、はい。なんで、弾頭もどっかにあると思って、天井の石膏ボードからほじくり出しました、はい。それで、一応、左右の部屋の利用者にも出てきたところで話聞いてみましたが、銃声も窓破った音も気付かなかったと、はい」

 聞いたんだ、左右の部屋の利用者に。酒井はいろんな意味で舌を巻いた。御休憩でもいつ出てくるかわからないのに、ご宿泊だったらとか、濃淡の差こそあれ反社と繋がりが無いはずが無いこの手のホテルの、利用者を出待ちして話を聞く蒲田の豪胆さというか空気読まなさというか、そうか、それで寝不足なのか。蒲田は、本当に刑事向きかも知れない。酒井はこの年下の巡査に敬意を覚えた。それにしても。

「謎だらけだな。とはいえ、その辺は、五月さんから直接聞き出せる、かな?」

「ですね……はい。五月さんは今は酒井さんの部屋ですか?」

「服もお金も無いはずだから、どっか行ってるとは思えないが」

「じゃあ、今から話聞きに行っても、大丈夫ですかね?」


「実際問題、五月さんはどんな様子です?」

 分調班で保有している二台の公用車のうちの一台、どこかの県警から入れ替えで用廃になったのを引き取ってきた、銀色のスズキ・キザシのハンドルを握りながら、蒲田が聞く。

「どうもこうも、割と普通だと思うが……」

 今は頭は肩の上に載ってるはずだし。口には出さず、酒井は、昨夜から朝方の五月の様子、特に朝方、とりあえず一昨日、部屋を借りた直後にとりあえず買い込んで冷蔵庫に放り込んでおいた卵、牛乳、安物のスライスハム、調味料一式、台所に出しっぱなしの食パンと砂糖塩コショウ、備え付けのフライパン他の食器で手早くハムエッグとフレンチトーストを作ってくれた手際を思い出す。ちゃんと油も買っておいたんですね、等と微笑みつつ料理している様は、どこにでもいそうな、普通の年頃の女性にしか見えなかったが。

「詳しい事は僕も聞いてないですけど、五月さん、あれで結構苦労して来たみたいなんです、はい。これ以上余計な苦労を背負い込むのも可哀想だなぁと、はい」

「まあ、苦労だわな、首が切れてるのは」

「普通しない苦労ですけどね、はい。つか、酒井さん、あんまり驚いてません?」

「驚いちゃいるんだけど……一度に色々起こりすぎて、理解がおっつかないというか。暗闇でいきなり首抱えて出てこられたらそりゃ腰抜かすだろうけど、その前に店で一緒に酒飲んでるからな、顔見知りだったってのが大きいのか……蒲田くんこそ」

「……まあ、正直、あれくらいなら……ってのはあります、はい」

 蒲田は若干言い淀んだ後、曖昧に返答する。おや?酒井はちょっと不思議に思った。蒲田は、割と何でもハキハキ受け答えする性質だと思っていたから。

「……後で説明しますが、こういうの、これから増えると思います、はい。詳しくは、改めて週明けに、はい」

「?……あ、そこ」

 なにやら不穏な蒲田の答えが気になった酒井だったが、それ以上に今、気にしておかなければいけない事を思い出し、

「すまない、そこのドラッグストアに寄ってくれないか?」

「?、いいですが、はい、何買うんです?」

「ちょっと、な」


 今から話を聞きにマンションに帰ると言う事は、分調班の事務所を出る時に、既に酒井から、マンション備え付けの電話を通じて五月に伝えてあった。話す事を嫌がったり、ためらう気配があれば無理強いはしないつもりだったが、

「……お二人とも、それがお仕事ですものね……お話しします、お部屋で待ってます」

 こういう場合、事前に同意していたとしても、急に不安になったり、怖くなったりして直前に逃げ出してしまう事も良くあるのだが、五月の場合、服もお金も、靴さえも持っていないのだから、その可能性は非常に低かろう。

 そう思ってはいたが、マンションのドアを開けた時、五月がリビングに座って待っていた事を確認して、酒井は流石にほっとした。若干こわばっていた五月の顔が、酒井を見てほぐれた、ように思えたのも影響したかも知れない。

「……お帰りなさい、お待ちしてました」

「……ただいま」

 思わず、酒井の口をついて、その言葉が出た。その事に、酒井自身が驚いていた。ただいま、なんて、この一ヶ月ほど、言った事が無かった、誰かがいる家に帰っていなかった、その事を急に思い出す。

「……おかえりなさい」

 少し驚いた表情を微笑みに変えて、五月がもう一度、言った。その時、酒井は突然気付いた。ああ、俺はきっと、誰かに「おかえり」と言って欲しかったんだ。ついこないだまで当たり前だったそれが、急に無くなってしまったから……

「お邪魔します、はい。あれ?首……」

 玄関で立ち止まってしまった酒井の肩越しに部屋をのぞき込んだ蒲田が、ちょっと驚いた声を上げる。

「あ、これ……」

 五月は首元、数枚のガムテープの貼られたそこに手を当てる。

「ああ、そうだ。これを」

 言いながら、靴を脱いで部屋に入ると同時に、酒井は手に持ったコンピニ袋から肌色のテーピングを取り出す。

「貼り替えた方が良いかなと思って。ガムテープよりはマシかなと」

「……ありがとうございます!」

 本当に嬉しそうに、五月が答えた。よく見ると、ガムテープ付近の皮膚が若干赤くなっている。

「自分で出来ます?」

「やってみます」

「じゃあ、これも。バスルームでどうぞ」

「?」

 ちょっとだけ視線を逸らして渡されたコンビニ袋を受け取り、中身を一瞥して、五月ははにかんだような、複雑な顔をして、

「……じゃあ、ちょっと失礼します」

 バスルームの手前の脱衣所に消えた。


 テーピングを貼り替え終えて脱衣所から出てきた五月は、微妙に上機嫌で、じゃあお茶入れますね、とか言って湯を沸かし、酒井の買い置きのインスタントコーヒーを備え付けのカップに注いだ。コーヒーシュガーなんて気の利いたものはないから、袋売りの白糖に直接ティースプーンを刺した物がローテーブルの真ん中に鎮座している。五月は自分のコーヒーは牛乳で少し割って、砂糖もスプーンすり切り一杯だけ入れる。

「それで、夕べのお話、ですよね?」

 コーヒーをひとすすりして一息入れた五月が切り出す。あれは、どこにどうやって流れていくんだろう?朝食時にも思った疑問を、酒井はもう一度考える。

「はい」

 砂糖を山盛り三つほど入れ、その代わりミルクは無しのコーヒーをすすりつつ、蒲田が答える。

「ただ、最初に言っておきますが、夕べの件は被害届とか出てませんから、事件化されてません。これは、あくまでお話を聞くだけであって、事情聴取とかそう言う事ではありません、はい。まあ、明確な犯罪行為が含まれていればその時考えますが……はい」

 酒井は口を挟まず、五月と蒲田を視界に収めたままブラックをすする。こういう事は多分、蒲田の方が上手だ。昨日の一件で、既に酒井は蒲田の能力についてかなりの信頼を置いていた。五月は、酒井がコンビニ袋ごと渡した中身を身につけている。思った通り、肌色のテーピングはガムテープよりは見た目がマシ、さらに、季節柄ちょっと不自然だが、黒のネックウォーマーで上から隠すようにしているから、首の動きが多少ぎこちないとはいえ見た目はあまり違和感がなく、やり方次第ではファッションの一環に見せかける事も可能だろう。

「あと、先にこれをお返ししておきます、はい。五月さんのですよね?」

 蒲田が大きい茶封筒を五月に渡す。ホテルで回収した遺留品だ。

「あ!……ありがとうございます!もう、お財布とか無くてどうしようかと思ってたんです。部屋の鍵も。あ!」

 茶封筒の中身を改めながら、蒲田に礼を言っていた五月は、封筒から綺麗な袱紗が出てきたのを見て声を上げた。

「よかった……」

「やっぱり、大事なものなんですね、それ」

 本当に嬉しそうに袱紗を抱く五月を見て、酒井が聞く。

「はい……師匠の、形見なんです」

「それ、初めて聞きました、はい」

「そういうの、重いでしょ?他人に言う事じゃないですから」

 言いながら、一通りの遺留品を確かめた五月は、全部あります、ありがとうございました、と、今日何度目かの礼の言葉を述べた。


「どこからどう話したらいいか……夕べですけど、お二人がお店を出てすぐです、あの女が話しかけてきて」

 コーヒーを半分ほど飲んでから、五月が話し出す。

「あの女?」

「お店に、お二人と入れ替わりくらいに、女の人が入ってきたのは覚えてらっしゃいますか?」

「割と大柄な、スーツ着た?」

 酒井が記憶を探る。

「そうです」

「僕は覚えてないですねぇ、はい」

「蒲田君からは、五月さんの影になってたかもな」

「その女ですけど、お二人がお店出るとすぐ声かけてきて。簡単に言うと、仲間になるか、死ぬか、選べ、って」

「……なんだそりゃ」

「剣呑ですね、はい」

 五月のざっくりした説明に、酒井と蒲田がざっくりした感想を述べる。

「信じられませんでしょ?でも、本当に、そういう意味の事を言われて。私、怖くて、いやだって言って、すぐお店から飛び出したんです」

「すぐ飛び出したって……」

 俺たちがエレベーターホールにいた頃か。酒井は頭の中で時間差を計算する。

「そのまんまです。咄嗟にお店から出て、外の非常階段から逃げようとしたんですけど、すぐ追いつかれて。あの女、五階から飛び降りてくるんですよ?」

 言葉を切って、五月は蒲田と、酒井の目を見た。見て、二人の目が何かを聞きたがっている、嘘や隠し事は通じそうにない、そう判断したのだろう、小さなため息を一つつくと、

「お二人とも、その時、あそこに居たんですよね?爆発がありましたでしょう?」

 酒井と蒲田は頷く。歌舞伎町の謎の爆発は、今朝のテレビのニュース番組でも、スポーツ紙の一面でも取り上げられていた。

「あれ、私がやったんです」

「……え?」

 酒井と蒲田の声がハモる。

「私、占い師って言ってましたけど、本当は、いわゆる落とし屋、拝み屋なんです」

「……」

「拝み屋とか祈祷師とか、今時うさんくさいでしょう?だから、私も、占い以外はほとんど人前でやらないようにしてたんです。ただ、小さい頃から師匠に色々教えられて。師匠は、師匠も拝み屋なんですけど、必要があって色々覚えた人で。私が小さい時、面白がってそれを見よう見まねでやったらちょっと大事になっちゃって。良くある話です」

 いや、良くは無い話だと酒井は思った。何がどう大事になったかは知らないが、どうせろくな事ではない、良くあっては困る類いには違いない。

「自慢じゃないですけど、私、才能はあるみたいなんです。ただ、師匠からも、今の時代、この能力はあまり求められてないし、公になっても面倒な事ばかりだから、なるべく隠しておけって。それで、占いだけやってて」

「ちょっと、失礼な事聞きます、はい。青葉五月って、本名ですか?」

 五月は、ちょっとだけ目を見開き、しかしすぐに微笑みを取り戻して、

「……葵です。葵五月」

 酒井は、あえて蒲田がその質問をした事を知っている。何故なら、先ほどの遺留品に、運転免許証があったからだ。

「事情があるんだろうから、まあそこはいいでしょう」

 酒井が割って入る。要するに、蒲田は、五月がそこを隠すかどうかを知りたかったのだ。地方によっては、未だに、本名と呼び名が違う事はままある事も、彼らは警察官の予備知識として知っている。

「どっちにしても五月さんだし、俺としては呼び慣れてるから青葉さんでいいです。拝み屋の事も、必要なら後で詳しく聞きます。今は、夕べ何がどうしたか、まずそこからにしましょう」

 五月は酒井を硬い視線で数瞬見つめ、ゆっくり瞬きすると、自然に入ってしまっていたらしい肩の力を抜き、元の表情に戻って話を続ける。

「私は主に符を使う術が好きで、ああいう時、よく使うんです。多分、警察の人、鑑識?って言うんですよね?だから、調べても証拠とか見つからないと思います。それで、目くらましにして逃げ切れれば、と思ったんですけど」

 よく使う、って事は、そういう荒事がそれなりにあるって事か?酒井は、話の腰を折りたいのを堪えた。

「結局追いつかれました。だって、相手は狼男、じゃない、狼女だったんですよ?笑うでしょう?」

 自嘲的な笑顔。あまり五月には似合わないな、酒井は思う。

「それで、一応罠をかけて」

「あのホテルで?」

「そうです。罠をかけておいたんですが、軽く破られました。で、返り討ちで首を斬られて」

 とん。五月は、右手の手刀を首筋に当てて、もう、やんなっちゃう。可愛く芝居してごまかそうとしているが、内心、猛烈に悔しい、文字通り歯軋りするほど悔しいが、男二人の手前、それを表に出せない。酒井には、その、悔しさの方が上回ってしまって、女の子の芝居が上手くいっていない様子が見えてしまう。自分がオッサンで、仮にも妻帯者だからか?若くて独身の蒲田はどうだろうか?この場にはあまり関係ない事を考えて、チラリとうかがう蒲田の丸眼鏡の奥は、しかしレンズが絶妙に表情を歪ませて、心の中を読ませない。それにしても、この場で感情を爆発させない五月は、別の意味でたいしたものだとも思う。だが。

「いくつか聞いて良いかな?」

「はい」

「爆発現場からホテルまで、同伴者が居たと思うんだが」

「……居ました。ただ、私、首を斬られてからお二人に会うまで、その間の記憶が無いんです。だから、あの後どうしたのかは知りません」

 五月は首を――振ろうとして振れないのに自分で気付いて苦笑する。

「その人は知り合い?」

「いえ、彼は、偶然、私とあの女がもみ合ってる現場に居合わせたんです。正直、彼がそこに居たから、あの女のふいを突いて逃げ出せたんです。でなければ、多分私はあそこで殺されてました。なので、置いては行けないからホテルまで一緒に。お願いして罠を張るのも協力してもらいました。結局失敗しましたけど」

「その彼、多分その彼ですけど、少なくとも無事にホテルを出ているのは、ホテルの記録から確認出来てます、はい」

「……よかった」

 あの女、と五月が言う女の話になってから険のあった五月の表情が緩んだ。それを見た酒井は、ちょっと気になっていた事を蒲田に聞く。

「そういえば、この件、所轄に連絡はしたの?」

「いえ、事件化してませんし、ホテル側も大事にしたくなさそうだったので、はい」

「まあ、ホテル側も警察入れたくない事情も色々あるだろうしな。確認なんだけど、その女って、栗色の髪でおかっぱ?」

 蒲田から五月に視線を移した酒井が聞く。

「おかっぱ……じゃなくて、あれショートボブって、いえ、そうです、その女」

「俺が見た時、その女は赤いドレス着てたけど、もしかしてあれは五月さんの?」

「そうです!あのドレス、気に入ってたのに……あの女狐!」

 女狐って、狼女って言ってなかったか?酒井は、あの一瞬、自分に向けて悪戯っぽく微笑んだその女の顔を思い出していた。相当に癖は強そうだが、相当に魅力的な笑顔でもあった。

「確認なんですけど、その協力いただいた人、名前とかわかります?」

 蒲田が事務的に聞く。

「名前は聞きました……あの」

「ああ、大丈夫です、そっちに話聞く事はあるかもですけど、罪に問うたりは基本、ないです、はい」

 安堵した表情で、五月は、

「名前は北条柾木さん、それ以外は本当に聞いてません」

「若い人?」

「多分、新入社員さんか、それくらいでしょうね、リクルートスーツでしたから」

「もう一つ。銃を撃ったのは、誰です?」

「それは、北条さんです。けど、それは、私がお願いして撃ってもらいました」

「北条さんが銃を持っていた?」

「いいえ、鉄砲はあの女のです。私が、あの女から奪い取りました」

 そりゃそうだ。蒲田と五月のやりとりを聞いて酒井は思う。日本国の国民が、おいそれと鉄砲持って盛り場を闊歩されても困る。酒井は、心の中でそうツッコミを入れつつ、だとしても、じゃあ、その「あの女」とやらはどうして、どうやって銃を持っていたんだ?

「その、「あの女」ってのに、何か心当りとか、思い当たる事はありますか?」

「……よく、わかりません。私なんかじゃ歯が立たないバケモノ、それくらいしか」

「なるほど……大体わかりました、はい。符術とか、そう言うのはもしかしたら日を改めて聞くかも知れませんが、僕からは今日はこんな所で結構です、はい。酒井さんは?」

 そうなのか?それでいいのか?酒井は、正直、こんな事件、というか出来事の、何をどう聞いたものか、手順の組み立てすら出来ていなかったが、まあ、自分より経験のありそうな蒲田がこれでいいと言うなら大丈夫、なのか?正直、簡単すぎないか?

「蒲田君、正直な事を言うと、俺はこういう聴取とか、あまり経験が無いんだ。この程度で良いものなのか?」

「はい、事件化するというならもっと深掘りしますが、今回はそうではない、あくまで聴取ではなく質問レベルですし、はい。万一聞き漏らしがあっても、五月さんなら改めてご協力願えると思ってます、ですよね?」

 蒲田が言外に、逃げ隠れしないですよね、と言っているのは、酒井にも、恐らく五月にも理解出来た。

「そこは、ご協力出来ると思います」

 やや緊張して、五月が堅苦しく答えた。もしかしたら、蒲田のこのような態度を見るのは初めてなのかも知れない。

「じゃあ、今日はこれくらいで、はい。で、お二人はこれからどうします?僕はこの後、車を庁舎に戻して帰りますので、都心方向に出るなら送れますが?」

「五月さんは、どちらにお住まいで?」

 蒲田の質問の後を継いで聞く酒井に、五月が答える。

「私ですか?西葛西ですが……」

 西葛西。板橋から見て都心方向とは若干ズレているが、酒井は今ひとつまだ東京の地理をわかっていない。

「じゃあ、蒲田君、五月さんを送っていってもらえないかな?」

「お安い御用です、はい。五月さんはよろしいですか?」

「え、申し訳ないです、いいんですか?」

「いいんです、はい。どうせガソリン代の出所は税金です」

 それは公僕が納税者に言って良いのか?即座に、心の中で酒井が突っ込む。

「じゃあ……お願いします」

「はい。じゃあ、酒井さん、失礼します」

「はい、お疲れ様、五月さんをよろしく」

「はい、では、月曜に庁舎で。失礼します」


「……あの、酒井さん」

 蒲田が廊下に出て、少し離れたのを見計らって、五月が、

「本当に、お世話になりました。テーピングとか、これとか、あと……」

 ネックウォーマーを引っ張ってみせた五月は、ちょっとだけ恥ずかしそうに視線をそらして、

「……下着とか」

「問題無いです」

 努めて無感情に、酒井が答える。選ぶ時、買う時に若干問題はあったが。妻子持ちの三十男の不躾さを全開にすることで乗り切ったが。

「それより、一人で大丈夫ですか?」

「それは……何とか、してみます。あ、あと、これ……」

 五月は、今着ている酒井のスウェットを軽く引っ張って示す。

「ああ、なんなら捨てちゃってもいいですよ、高くも新しくもないですから」

「そんな」

「気になさらず。蒲田君が待ってます、さあ」

「……はい、それじゃあ、本当に、ありがとうございました」

 五月は、クロックス風のサンダル――これも下着等と一緒に酒井がドラッグストアで買った物だ――をつっかけ、深々と頭を下げ、落ちそうになった頭を慌てて両手で支えながら体を起こすと、今のうっかりを取り繕うような照れ笑いを浮かべてから、じゃあ、と、一言告げて、小走りに蒲田の後を追って行った。


「……さて、昼飯、一人でどうしようか……」

 五月の後ろ姿を見送って、何か吹っ切れた、片付いたような、でもちょっとだけ寂しいような気分を感じつつ、酒井は呟いた。

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